|
もうひとりの私
草間探偵事務所宇に舞い込んだ依頼は身辺警護。今時古風な着物美人、狩野百華(かのう・びゃっか)を百華本人から守る‥‥という、いかにも草間探偵事務所宇に持ち込まれる依頼らしい依頼だ。
すれ違う都バスの車内から自分を見ていたもう1人の自分。それからもう1人の自分はどんどん近づいて来るという。どうやって守れば良いのか草間自身にはさっぱり見当がつかないが、とにかく『適切』な人物を送り込む必要がありそうであった。
狩野の家は閑静な住宅街にあった。少し歩けば成城の豪邸が建ち並ぶ区画だが、この辺りはそれほど目を惹く家はない。どこも敷地は広いが落ち着いてた風情の家が続く。明治の頃からここに住む狩野家は広い庭と沢山の庭木、瓦葺きの平屋の母屋とこぢんまりした離れがあった。
「もう武彦さんも来るって言ったくせに」
1人狩野家の応接室に通されたシュライン・エマは小さな声でつぶやいた。その声が反響してしまいそうな程、この部屋の天井は高い。中央には古風でちょっとシャンデリアっぽい照明器具がつり下げられている。勿論、今は真昼なので点灯していない。
「お待たせ致しました」
部屋の出入り口である扉が開いた。地味なお仕着せ姿の使用人が扉を開き、その向こうから百華が姿を見せる。今日も着物姿であった。摺り足でしずしずと部屋に入ると、使用人が無言で扉を閉める。シュラインは立ち上がって軽くお辞儀をした。
「いえ、そのままで‥‥」
百華が制し、シュラインにもう一度腰掛けてくれるよう手で合図する。シュラインがソファに改めて腰掛けると百華も向かい側に座った。シュラインの前には先ほど出された茶と茶菓子が手を付けられないまま置かれている。百華の視線が茶と菓子に向く。
「お口に合いませんでしたでしょうか?」
「いえ‥‥」
シュラインは軽く首を横に振った。
「今日は草間も同行する筈でしたが、あいにくと急ぎの仕事が入ってしまいました。私は今回の担当をさせていただきますシュライン・エマと申します。誠心誠意務めますので、どうかご安心下さい」
草間のドタキャンは後で何百倍にも返して貰おう。どんな風に還元して貰うかはじっくりとっくり考えるとして、今は鉄壁の営業用の笑顔で切り抜けることにした。少し堅い営業用の口調で百華に挨拶をする。そして余裕の笑顔。探偵事務所にやってくる客はほぼ全員、何らかのトラブルを抱え、それを自分の力だけではどうしようも出来ずにいる。だから、こういう笑顔はとても効果的なのだ。探偵業は客商売だ。客が満足してくれなければ、依頼成功とは言えない。逆に言えば、どんな酷い結末でも客が納得すれば『処理完了』としていいのだ。
「‥‥はい、どうぞよろしくお願いします」
シュラインの笑顔が効いたのか、それとも最初からそのつもりだったのか。百華はすぐに同意を告げる。所長自らが担当してくれないとわかるとゴネる客もいるが、今日はそうではなさそうだ。
「ありがとうございます。では、具体的な事を伺ってもよろしいでしょうか?」
やはり営業用ののしゃべり方のまま、シュラインは詳しい話を聞き始めた。
2重存在が良い結果となった事例を自分は知らない。同じ様な外見を持つ存在が複数確認されること。これには様々な原因があり、それによって対処法は違う。同じ症状を持つ病気でも、原因が違えば治療法が変わるように、『何故そうなったのか』を知ること‥‥調査が大切だ。ササキビ・クミノはそう思う。納得の出来る調査結果により、過不足のない任務遂行が可能になる。本当は自分が出向き、直接依頼人である百華に話を聞きたいのだが、様々な理由により‥‥しない。
「この仕事を解決してやれば、草間は助かるだろう」
だからやり遂げたい。長く他者と接触していることが出来ないクミノだが、それだからこそ、『特別』だと認めた者を大事にしたい。手で触れることなく愛用の携帯電話を服のポケットから取り出し、耳のすぐ近くで番号を押す。味気ない電子音が小さく響き、耳に聞き慣れた呼び出し音が響く。
「はい‥‥狩野でございます」
初めて聞く女の声がした。
「私は草間探偵事務所の者です。狩野百華さんはご在宅だろうか?」
「百華でございますか? 少々お待ち下さい」
ゴトリと受話器がどこかに置かれた音がして、それから電子音のクラシック曲が流れる。ごく有名なフレーズをたっぷり聴いた後、不意に音が途切れた。
「はい、百華でございます」
先ほどの声よりもずっと若い女の声だった。
「草間探偵事務所の者だ。事件の原因究明の為、これからあなたの事をこれから調べさせて貰う。ご了承願いたい」
これはクミノにとって『筋を通す』ということだ。何より依頼人は敵ではない。守るべき者だと草間は言った。だから、敵対しそうな芽は事前に摘み取る。事前に筋を通しておけば、大概の事は通る。これも草間の受け売りだ。処世術の様なモノを習ったことはない。だから、草間の話はいつも意外性があって面白いと思う。
「あの、それは‥‥守っていただくのにどうしても‥‥あの、必要な事なのでしょうか?」
意外だった。百華は言いづらそうであったが、暗に調べてくれるな、と言っている。しかし、クミノも必要だから言っていることだ。
「必要です」
返事は簡潔簡素であった。長い長い間があく。
「わかりました。よろしくお願いします」
ガチャリと音がして電話回線が切断した。
「何を恐れている‥‥のか?」
やはり原因は百華にある。誰でも良いがたまたま百華だった‥‥ではなく、標的は百華でなくてはならなかったのだ。クミノは確信した。
悲鳴があがった。百華の悲鳴だ。応接室でぽつねんとしていたシュラインは素早く立ち上がる。扉を開くと薄暗い廊下が左右に続く。
「百華さんのお部屋はどこ?」
使用人とおぼしき女に聞く。
「こちら‥‥です」
シュラインは女が示す方角へと走る。すぐにひらけた明るい場所に出る。2階へとあがる階段があった。緩やかな螺旋階段を駆け上る。あがった先の扉を乱暴に開いた。誰も居ない。ここではないのか? その時、また悲鳴が聞こえてきた。近い!
「そっちか!」
シュラインは身を翻し声の方へと走る。
「百華さん!」
白くて重そうな扉を開ける。本当に重たかったが渾身の力で開け放った。
「退け」
部屋の中にはもうクミノがいた。百華に向かって言った言葉だ。狼狽した百華は着物の裾を乱してシュラインがいる扉の方へと走る。素早く身体を入れ替え、シュラインは自分の背に百華を庇った。そして周囲を見る。危険はない。
「現れた‥‥か。意外と早かったな」
クミノの目の前にもう1人の百華がいた。百華と同じ顔、そして同じ様な着物を着ている。しかし、その紋様は少しだけ違う。色違いだ。
「人‥‥ではないな」
「然り」
偽の百華は喋った。唇はゆっくりと血色に染まり、それと共に百華と同じだった風貌も変わっていく。
「さすが武彦さんのところに来る依頼。今回も人外だなんて」
シュラインは頭の中でざっと草間探偵事務所の仕事履歴を検索してみた。どう考えても、普通ではない内容の依頼ばかりだ。これはもう、所長である草間に何か理由があるのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。
「こけおどしは要らない。対峙してみればわかる。どのような顔をしてみても、本体はその古い着物」
すっとクミノの華奢な手があがり、もう今では百華と似ても似つかない女の着ている和服を示す。
「我を関知するか?」
「私にはわかる。ただそれだけだ」
「返せ!」
女は百華に手を伸ばした。
「其のこしらえは我が半身。眠りより醒めて後、我はずっと求めて彷徨ようた」
「こしらえ?」
シュラインは自分の背中に隠れるようにしている百華を振り返る。着ているのは白い着物。裾と袖に古めかしい青海波の模様が描かれている。
「百華さん、あなたがもう1人の自分と会ったとき、それはいつもこの着物を着ていました?」
「え? あ、あの‥‥そう、かもしれません」
「決まり。あの怪異は着物を欲している。渡す? それとも抗う?」
クミノは百華に決断を迫る。どちらでも良かった。
「‥‥」
百華は答えない。ただ、じっとシュラインの肩越しに人外の魔物を見つめる。
「あなたが依頼人です。あなたの望むようにしていいんですよ」
そっとシュラインが言った。
「わかりました。着物は差し上げます」
「おおっ」
女の姿をしたモノの目からどっと涙が溢れた。
百華脱いだ着物を渡すと、女はそれを抱きしめ消えた。
「消滅した」
あらゆる手段を用いても、もうその存在は感知されない。クミノは依頼は完遂されたと思った。これで草間は喜ぶだろうか。
「では私はこれで‥‥」
クミノは百華の部屋の窓を開く。洒落たバルコニーに続いている。そこから帰る。ここが2階でも特に問題はない。
「過去に何か事件にでも係わった着物‥‥なのですか?」
「わかりません。けれど、大叔母の形見だったのです」
もしかすると、何か事情があったのかもしれない。しかし、もう終わったことだ。
「では、私はこれで‥‥請求の方は後日‥‥」
「あの。実は大叔母の形見はあれだけじゃないんです」
「え?」
襦袢姿の百華はギュッとシュラインの手を握る。
「本当にもう終わったんでしょうか? もう恐ろしい目には遭わないでしょうか?」
「え? あの‥‥それは、所長ともう一度よく相談して‥‥」
宙を浮いていたクミノの携帯が勝手に二つ折りにされ、ポケットに吸い込まれる。
「キャッチホンだなんて‥‥」
草間に報告の電話をしていたのだが、百華からの電話が入ったのだ。しかし、あの様子だとまだまだこの事件は終わらないのかもしれない。草間が途方にくれているかもしれない。
「‥‥仕方ない」
泣きつくなら助けてあげないこともない。クミノは小さく笑うと、そのまますーっと移動を始めた。
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【0086 / シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/ 女性 / 26歳 /エージェント】
【1166 / ササキビ・クミノ (ささきび・くみの)/ 女性 / 13歳 /エージェント】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
草間探偵事務所に舞い込む妙な依頼はこれからも続きそうです。百華さんと草間武彦氏が困った折りには助けて頂けると幸いです。
|
|
|