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<東京怪談ノベル(シングル)>


愛し娘よ

 今年の梅雨は長い。
 朝からしとしとと降り始めた雨は、夜になっても全くやむ気配もない。地面に落ちて弾けた雨粒は、霧よりもずっと細かい粒子になって空気中に漂い、それは海原みなもの部屋の中にまで満ち満ちているようだった。
「梅雨だもの、仕方ないわよね」
 独りごちながら、どこなくしっとり湿っているように感じる布団を敷く。この水の溢れる季節を、みなもの中の人魚の血は歓んでいるようだけれど、やっぱりお日様の匂いのするふかふかの布団で眠りたいのも人情。みなもは小さく溜息をついた。
 否、歓んでいるのは人魚の血だけではなくて。
 窓の外からはゲコゲコとカエルの声がひっきりなしに聞こえてくる。
「カエルさんたちには恵みの雨……かぁ」
 カエルもまた、水と陸の間に生きる生物。人魚と人の血を持つ自分とはどこか通じるところがあるのかもしれない。
 もっとも、そう考えたことを後にひどく後悔するのだが、それは今のみなものあずかり知らぬところだった。
「おやすみなさい、カエルさんたち」
 小さく呟いて部屋の電気を消し、みなもは布団に潜り込んだ。

 周囲が暗くなったせいだろうか。それともカエルたちが増えてきたのだろうか。
 夜が更けるにつれて、ゲコゲコゲコと鳴く声と、しとしとしとと雨粒が落ちる音はどんどん響き渡るように大きくなっていった。
 その2つの音は、微妙に混じり合い、溶け合って季節の音楽を奏で始める。みなもの部屋の中に響き渡るそれは、いつしかただの音ではなく、あたかも質量と体積を持つものであるかのように、部屋の中をリズミカルに飛び交い、互いにぶつかり合ってはその数を増やし、また増えたそれらは部屋の中を跳ね回る。
 そして、その部屋中を満たした「何か」としか言いようのないものの1つが、みなもの頬にぽたりと落ちた。みなもの頬はぷるぷると水面のように震え。そしてその「何か」は、みなもの中にぽたりと落ち込んで、また中で踊り始めた。
 それが合図であったかのようにいくつものそれが、次々にみなもの身体に落ちてきた。その度に、みなもの皮膚は震え、そしてその震えは頭の芯にまで染み通っていく。
 ――や……
 何とも言えない重苦しさに、みなもは身をよじろうとした。
 が、全くといって良い程、身体が動かない。それは金縛りに遭っているのともまた違って、まるで全身の運動神経が遮断されているかのような感覚だった。
 そうこうしている間にも、部屋の中に満ちあふれた「何か」は、次々とみなもの肌に落ちてきて、みなもの肌はぷるぷると震え、頭の芯はじんじんとしびれ続けた。
 逃げなければ、と半ば本能的にみなもは起き上がろうとした。が、やはり身体は動かない。その原因を不意に悟って、みなもは思わず叫び出しそうになった。
 部屋の中に満ち満ちたそれを浴び続けたみなもの皮膚は、いつしか溶け出していたのだ。まるでスライムのように形を失いつつある皮膚は、もはや部屋の中に溢れた「何か」を弾き返すこともせず、嬉々としてそれを中へと取り入れる。そして、みなもの中に入ったそれは骨にまで響き、勝手にその形を変えていく。
「いやぁぁぁ!」
 恐怖が背中から頭へと昇り、口から溢れ出た。
「いやぁ、いやぁ、やめてぇ!」
 だが、みなもの抗議など聞き入れる風もなく、部屋の中に充満した「何か」はみなもの中へと入り続け、それと混じり合ったみなもの身体は変化を続ける。
 深夜の部屋の中。電気も消して真っ暗なはずなのに、なぜかみなもの目には、異形のものへと変わって行く自分の身体がはっきり見えた。
 べたり、と布団の上に広がった手はその表面にぬめりを増し、鮮やかな緑色へと変わって行く。指の間には水かきが生え、指先には丸い吸盤ができる。
「いやぁ、何これ! ……きゃ!」
 次には、誰かに足首を強く掴んでひっぱられたかのように、足がぐんと後ろに伸び、膝を大きく開かされた。つんのめったみなもは、お腹と太ももの内側とを、したたかに布団に打ち付ける。
 そして、足が伸びたのとは逆に、胴体は縮み、あごはぐい、と上向けられる。
「いや……」
 もはや叫ぶ気力も失ったみなもの口の中から歯が抜け落ち、大きく裂けた口は締まりなく横に広がった。いっぱいに涙をためた青い瞳はぐるりと大きく飛び出す。そこにとどまりきれなくなった涙がひと筋、ふた筋、と鮮やかな緑に変わったみなもの頬を滑り落ちた。
 そして、脳髄までもが冒されて麻痺していく。みなもの意識は遠のいて、胸の底からはえも言われぬ歓喜が湧いてきた。
 ――愛し娘よ、愛し娘よ。
 外から聞こえるカエルの声が、そう歌い始める。否、ただの音だったものが、みなもの中で意味を紡ぎ始めたのだ。
「……!」
 自分が、自分の身体だけでなく心までもが、得体の知れないものに創り変えられている。底知れぬ恐怖に身を震わせたのが、最後だった。
 血の一滴一滴が沸き立つような悦びが一気に膨れ上がって、人であったみなもの意識を完全に圧倒し、追いやってしまった。
 ――愛し娘よ、愛し娘よ。
 ――汝に冷たき血潮の祝福を。
 外からは、みなもを呼ぶいくつもの心浮き立つ声。
 ――その緑の肌の艶やかさ。
 ――その青い瞳の涼やかさ。
 ――その白い腹の清らかさ。
 みなもは、胸を高鳴らせ、ゆっくりと立ち上がった。そう、外から聞こえてくるのはみなもに愛を囁く声なのだ。
 すらりと伸びた長い長い足。大きく突き出たシミひとつない艶やかな腹。長く分かれた指に、透けるように繊細な水かき。濡れたように吸い付くまんまるの吸盤。そして、ぬらぬらと闇に煌めく緑色の素肌。
 そう、みなもはもはやこの上なく美しいカエル人だった。
 ――さあ我がもとへ。
 ――いや、我がもとへ。
 ――いやいや、この俺のもとへ。
 みなもは知っている。自分がどんなに美しいかを。
 みなもは知っている。自分がどんなに望まれているかを。
 それでもみなもは自分を誇示したりはしない。恥ずかしげにうつむきながら、皆のもとに歩み寄り、自分の手をとられるのを待つのだ。
 ――さあ早く。
 ――愛し娘よ。
 みなもは、窓の外に見える人影の方へと歩き始めた。
 が、一歩踏み出したと思ったとたん、みなもの身体は大きくバランスを崩し、畳の上に転がっていた。自分が思っていたよりも、はるかに重心が上にあったのだ。
 ――愛し娘よ。
 ――早く。
 みなもは、ふらつきながらも起き上がろうとした。が、今度は思っていたよりも長い足を持て余し、なかなか頭が持ち上がらない。
 ――早く、早く、早く!
 それでも何とかみなもは起き上がる。外からの声はさらに高いものになった。みんながみなもを待っているのだ、早く行かなければ。
 次の一歩はなんとか踏み出したものの、さらに次、と思った時、再びみなもは転んでいた。今度は足が一瞬、畳から離れなかったのだ。
 ――愛し娘よ! 早く!
 ――ああ、もう間に合わぬ、愛し娘よ……
 ふ、と身体から力が抜けた。外から聞こえていた歌が急速に遠くなった。部屋の中に満たされていた「何か」が不意に消えてなくなる。折から差し込んできた明るい光に目がくらんで、みなもは強く目を閉じた。
 
 みなもは、ゆっくりと目を開けた。
 空気は相変わらず湿っているが、窓の外からは久しぶりの朝日が差し込んできている。
「夢、かぁ……」
 みなもは呟きながら身体を起こした。思わず隅々まで自分の身体を眺めてしまうが、それはまぎれもなく人間の少女のそれだった。けれど、なぜか、異様に身体が重たくて節々が痛む気がする。
「変な夢見ちゃったからかなぁ……」
 みなもは窓を明けて朝日を浴びながら、大きく伸びをした。清浄な朝日の光が、身体に残った悪夢の残滓を洗い流してくれるような気がした。
 ころ、ころ、けろろ、と夜の雨に置いてけぼりにされたらしいカエルの小さな声が、どこからともなく聞こえてくる。
 ――イトシコヨ
 一瞬そう聞こえた気がして、みなもは思わず身体を止めた。
 が、おそるおそる耳を済ましてみても、もうカエルの声は聞こえなかった。

<了>