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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


霊鬼兵の恋/後編


■オープニング

 恋した相手は霊鬼兵。
 それも…虚無の境界の。

 零が当の相手――ノインにその事実を告げられてから、今はもう数日が過ぎている。あの日、皆が零とノインの様子を確認した日、それ以来零の様子は…また、元に戻っていたように見えた。
 …それは普段通りに、ではなくそれよりもっと前――草間武彦の元に来てすぐの頃のように。

 話し掛けると笑顔を見せてはくれる。
 …けれどそれは何処か、作り物めいた表情でもあって。
 普段通り優しい言葉遣いを、態度を見せてはくれる。
 …けれど本気で行動しているが故に出てくるぎこちなさや不器用さ素直さ――好ましく微笑ましく思える姿が全然見えなくなった。
 そしてその代わり、一つ一つの行動が何処か、無機的に冷めているようにも見え。

 ――…他者の命令によってだけ、動いていた頃のように。

 あれから、ノインは。
 あれ以上――自分の素性以外の説明を何もしないまま、ただ別れを告げ、エヴァ・ペルマネントと共に当の公園から姿を消していた。
 以来、公園にも何処にも、零どころか興信所の面子の目の届くところに姿を見せてはいない。
 …きっと皆に知られたから、なのだろう。
 それは零との事、だけでは無く。
 同時に、他の事――恐らくは、霊鬼兵と言う素性の自分がそこに居た事それ自体を。
 …エヴァが出て来た事も、大きい。
 彼女がその場に現れるのなら、余計に懸念は深くなる。

 ――…ユーの仕事は姉さんと接触する事じゃなかった筈よ!?

 エヴァはノインに向けてそう言っていた。
 ノインがその場所に居る事自体に、エヴァは不審も疑問も抱いていなかった。
 ただ一つ、その傍に居た零の姿を見て目を険しくした。態度が変わった。
 そして、この科白。
 …それは、裏を返せばノインは何か『仕事』があってこの場所に居た、と言う事にはならないか。

 何か、虚無の境界製の霊鬼兵がすべき仕事を。





 今日もまた本を広げている。少年とも青年とも付かない年齢の若者に見える量産型霊鬼兵。ノイン。本を広げているのはいつも通りではあるが、彼が今居るこの場所の方はいつも通りではない。変わっている。零と逢っていた公園のベンチではなく、また別の場所――とある喫茶店。あの逢瀬がエヴァや零の関係者にバレてから、ノインが『担当』すべき場所は変更された。どうもエヴァが上に捻じ込んだらしいが…知られてしまったなら仕方の無い事だろうとノインは初めから諦めてもいた。零と逢えなくなるのが寂しくとも、元々言葉を交わす程度しか出来なかった訳で。そしてそれ以上は端から許されていない立場な訳で。
 さすがに草間興信所と関わり合うのは問題がある。虚無の境界があの場所に集う者を警戒しているのは知っている。彼女が――零が、その要注意人物に含まれている事も。
 けれど、ノインは彼女に嘘を吐きたくはなかった訳で。
 すぐに本当の事を言い出す事は出来なくとも。

 ただ、この間のその一件で。
 少し気になる事が出来た。
 エヴァの反応が、妙だった事。
 零の事を姉さんと言っていた。
 ノインは自分の処分についても変だと思う。自分は最後に零に――彼女と彼女に関わりのあるだろう草間興信所の人間に自分の素性を聞かせた。それについて何のお咎めもなかったのは何故か。…エヴァが上に言わなかった、それしか有り得ない。それで配置変えを捻じ込んだ――つまりはエヴァがノインを庇ったと言う事になる。
 何から。
 何故。
 彼女が僕を庇う必要は無い筈だ。
 彼女以上に組織に優先される霊鬼兵はいない。
 同情だろうか?
 僕如き一介の量産型に?
 と。
 そこまで考えたところで、ノインはどくんと自分の心臓が大きく脈打ったような気がした。
 違う、のだが。
 わかっていても、その感覚は――そう形容したくなる。
 同時に、悪寒。
 人間であるなら、恐らく冷汗の粒が額にびっしり浮かんでいるだろう、感覚。
 堪らず、目を閉じる。
 …落ち着いてくれ。まだ、大丈夫だ。大丈夫。まだ僕は、ここに居られる…君たちと――貴方たちと共に。
 その腕を包む服の袖。じわりと内側から黒く染まる。
 黒く染まったのが何故かの見当はついている。
 ――…腕にある、肉体の継ぎ目の一つ。
 青黒く変色した――廃油か汚泥かと見紛うような液体がそこから。
 感触でわかる。咄嗟にそこを、袖の上から、ぎゅ、ときつく押さえる。それで、黒い液体の流出は止まる。
 …怖くない。大丈夫。まだ僕は生きていられますから。大丈夫。言い聞かせるような微かな呟き。自分に何か言い聞かせていると言うより――それは自分以外の何かに向けて、励ましているような深い力のある呟き。
 そんな呟きが、何度も何度もノインの口から紡がれている。
 …この場を借りる為便宜上頼んでおいたもの。自分の着いたテーブルの前、氷はほぼ溶けておりまだ中身のある結露したグラス。濡れるのも構わずノインはその腕を――黒く染まり掛けた部位をそのグラスにさりげなく押し付けた。
 まるでこうなる事がわかっていて――そしてその為に、その良く冷えた飲み物を頼んでいたように。





 草間興信所の面子の総意として。
 …さすがに、放っておく訳には行かないと思う。 
 零の事。
 今の彼女はきっと、理性の部分だけで、今まで兄の武彦はじめ興信所の皆に教わってきた事を踏まえて――自分自身に平常通りでいるよう『命令』を出している。
 だから、何事も無かったように普通に行動してはいる。
 けれどだからこそ、その行動に――彼女の本心からの感情が、全く見えない。
 まるで昔に戻ってしまったような印象を与える、姿。
 側に居る者ならその変化は、すぐにわかってしまう。

 …ここまでショックを受けているとは。
 ノインが虚無の境界の霊鬼兵であった事がか。
 勝手に別れを告げられ、姿を消してしまった事がか。
 エヴァと共に行ってしまった事が、か。
 敵であると初めから知っていて、それら隠して話していた事を裏切られたと思ったか。
 …それら全てか。

 それから。
 …あんな場所で虚無の境界が、何をしていた?
 ここのところ、付近で目立つ行動は何も無かった筈だ。
 ノインの仕事とは、入念な上に慎重な、何かの下見か――仕込みだったのだろうか。
 その、懸念もある。

 ――…ならばこれから、どう動く?



■草間興信所

 …草間興信所、この場所には人が絶える事が殆ど無い。
 それはいつもの事でもあるが、今の場合は――少し違う理由もある。…零の事が心配で。ノインの事やその行動について。エヴァの存在。虚無の境界。
 零の様子が普段と違う、恋でもしたのでは無いか――初めはそんなたった一つの微笑ましい心配だった筈なのに、その相手がわかるなり、いきなり切実な心配が増えてしまっている。
「話が拗れてしまいましたね…」
「全く。これは妙な展開になって参りましたね」
 と、計らずも殆ど同時に小さく溜息を吐いていたのは――相変わらずの無表情ながらも機嫌が頗る悪そうな黒榊魅月姫と、やれやれ…と力無く頭を振っている玲焔麒の二人。
 現在、興信所内の面子に出されているのは珈琲と紅茶が半々。供される側の好みに応じて零が淹れたもの。それら、不味いと言い切れる程悪い味と言う訳ではないが…味気無いと言うか何と言うか、普段の零が淹れたものならいつでも残り香のように感じられる筈の工夫や心遣いのようなものは何処にも無く、有り触れた廉価な市販品そのままの味しかしない。
 思わず言葉を漏らした魅月姫と焔麒の二人に、黙っていたままのセレスティ・カーニンガムとエル・レイの二人がそれぞれ、ちらと目を上げる。魅月姫や焔麒もそれに気付く。誰からとも無く目が合うと、少し辛い感のある苦笑が浮かんでしまう――但し、苦くとも笑みの形になるのは魅月姫以外と注釈は付くが。ともあれソファに座る四人とも、考えているのは同じ事。供された飲み物の――紅茶の味。そこから、今の零の心情が少なからず読み取れて。
 四人以外のそこに居る者。零から渡されたカップの中身を見詰めているCASLL・TOもまた、沈鬱そうな表情で黙り込んでいる。それは武彦から話を聞いた当初の「零さんが悪い男に引っ掛かったのでは」と言う悪い予感が的中した――と言うのとは、少々違う意味になり。何故なら判明した相手側、ノインの方もまた――直談判した興信所の身内二人や密かに黒冥月の操る影の中から様子を窺っていた皆の話を聞くに、のっぴきならない事情がありそうで…簡単に相手は悪者だった、と割り切れる話とは思えなくなっているから。
 ならば零の望むように、したいようにさせてあげたい。そうは思っても――今の零は…それは他の誰に命令された訳でも無いのだろうが、それでも『本当の意味』で自分のしたいようにしているとは思えない。今のままでは、それは本人はもっとずっとなのだろうが――見ているだけでも、とても辛い。
 零の事が気になり興信所に来訪していた風宮駿も、そんなCASLL同様皆から事情を聞きながらも黙ったまま――気遣うように零の様子を目で追っている。時々彼女自身から渡されたカップを傾けもするが、零の姿をずっと見ていると、中身の味が酷く苦く感じてしまう。本来、苦い訳ではないのに。
 今の零はちょうど、皆に飲み物を運んで来たお盆を持ったまま部屋の隅にひっそりと佇んでいる。おもてなしが一段落ついたところでさて次は何をしようかと考えている風。時々聞こえてくる、集まっている皆が気遣わしげにしている話自体――この間の出来事の事、ノインの事――は極力耳に入れないように、耳に入ってしまったなら敢えて無視するようにしているところがある。
 零のその肩には、蒼王海浬の連れている聖獣…龍の如き姿に紅毛を持つソールがちょこりと乗っている。どうやら零が心配なようで、主人から離れて今はここに居るらしい。それで首を傾げて零の顔を覗き込んだり、遠慮がちに擦り寄ってみたり、と気遣わしげに纏わり付きつつ零の様子をじっと窺っている。
 ちなみにこのソールの主人――海浬の方は今は不在。虚無の境界に於いてのノインの『仕事』と言うのは何なのか。そこが気になる…らしい事をソールを置いて興信所から離れる時に言っていたようだったが、取り敢えずは外向きで何か動くつもりのよう。詳しい事は言い残していない。
 零の目がふと時計に向く。けれど時を示す針を追うその表情もあくまで事務的。単に時間を確認した、それだけで。買い物のついでにノインとの逢瀬を楽しみにし、そわそわと時間を気にしていたあの時を知っている身にすると…その態度の違いが、また痛い。折しも今この時、時計の針が差していた時間は――少し前まで零が頻りに気にしていたその時と同じ時間帯。
 白い子犬が零の足許にてけてけと歩み寄っている――零の顔をじーっと見上げている。どうやらCASLLの連れているこちらの子犬も、ソール同様零の事が心配であるよう。そんな自らの連れの姿も見、やはり動物は敏感ですとばかりにCASLLは重々しく頷く。…何でもないように振る舞う零が痛々しく見えてしょうがない。
 それら常連組とは少し違う態度で、黒冥月もまたこの場に居る。彼女が居るのは普段草間武彦の座るデスク定位置の後方、窓際に当たるか。そこで、まるで自らの扱う影そのもののように静かに佇んでいる。何を考えているのか、黙したまま目を閉じ無表情。動きはと言えば時折カップを傾けている程度で、それ以上の反応は他の皆のようには見せていない。

「…虚無の目的の一つを現況と取るのも可能」
 そんな中、ふと、ぽつりと口を開いていたのはレイベル・ラブ。…彼女もまた興信所に来ている。来客用ソファに座ってはおらず、ソファの後方に回りそこから背凭れの上に肘を置き思案げに寄り掛かっている。…彼女が零から渡されたカップは現在テーブルの上。
「…どうもあのノインとやら、虚無の境界の霊鬼兵としては些か変わっているように見受けられた。明らかに虚無の命令とは別の位置に自我がありそれを充分に自覚しながらも、その事を承知の上で命令をこなそうとしているような。…別の道がある事を知っていながら、それでも敢えて今の道を選んでいるような、な」
 兵器としての霊鬼兵ならば、選ぶ選ばない以前に別の道はまず知らなくて当然だ。…大日本帝国の幻に使役されていた過去の零のようにな。
 なのに奴の場合は、そうでないような節がある。
 別の道を知りつつも、自らが今の道に在る事を同時に望んでいるような。
 ならば…あれらの組織には絶対にわかる筈の無い、零やこの場に集う者たちの絶対的とも言える強さの秘密と、恐らく奴らには解析不能だろうノインのその性質――私の見立てでは能力の方にもそれに見合った特殊な何かがあるような気がするが――理解できずともそれらに相似を見、近い環境へ置いてみただけなのかもしれない。
 実験として、な。
 まぁ、結果として実験と言うよりも零にとって大層効果的な「攻撃」だったと言える訳だが。
 そこまで言って、レイベルはテーブルの側にまで回り込み、割り当て分のカップを取り上げると悠然と傾け中身に口を付ける。そのタイミングと同じ頃、零がまた部屋の奥へと引っ込んでいる。何か用事を思い出したのか――はたまた話を聞いていたくないと思ったか。零は嫌そうな顔はしていない。憔悴もしていない。無表情な訳でもない。浮かべられているのは何事も無いような静かな笑顔。だがそんな顔をしていても――内心はわからない。自覚は無くとも、皆に分析されている事それ自体を心の底では厭っているのかもしれない。
 そんな零の背を見送って、見ていられませんよとばかりに焔麒がまた肩を落として溜息。
「私は虚無がいかな組織なのか知りませんが…皆さんの反応からして宜しくないものなのでしょうね」
 と。
「宜しくない…どころじゃない」
 そんな焔麒の科白に答える形で、押し殺したような低い声が響く。…零と入れ替わるように応接間に戻って来たのは、席を外していた草間武彦。いつぞやの零では無いが、先程から興信所の中あちこちを忙しなく動いており、各所に分けて置いてあるらしい何かを探し掻き集めている様子ではあったのだが。
 武彦が持っていたのは、分厚く膨れた書類封筒にファイルが数冊、レポート用紙の束数枚。ぱっと見では興信所で使用している調査報告書等と変わらないように見えるが――内、やけに古めかしい紙や、色褪せた写真のコピーらしきものまで数枚混じっている。
 …テーブル上に乱暴に投げ出されてから、皆、その事に気が付いた。
 常ならぬ荒っぽい所作の武彦に、皆の視線が集中する。
「…草間さん」
「中ノ鳥島、誰もいない街、虚無の境界…他、過去に零が狙われたと思しき件についてや…霊鬼兵の名が出た件、霊鬼兵が絡んでいると想定された件…IO2側に出された霊鬼兵に関するレポートも俺の手で捻じ込んで取れるだけは取ってある。
 うちに置いてある霊鬼兵関連の資料とレポートはこれで全部だ」
「随分…お調べになっているんですね…」
 封筒を手に取り、その分厚さを手に感じた時点で感嘆するセレスティ。武彦は当然だと続け、改めてセレスティが手に取ったのとはまた別の封筒を取り上げると、中身を取り出しテーブルにざっと並べるよう置き直す。
 零を家族として迎え入れた以上、彼女が霊鬼兵と言う素性であり人間とはどう違うのか――知りたくなくとも、見たくなくとも――結局、それでは済まされない事になる。けれど何も無い限り極力気にしたくない事である上に、曲りなりとも心霊的な裏の世界のトップシークレットに関わる事でもあるから――関連書類は日常の業務で使う書類棚には置いておらず、適当に分けて隠して置いてあると言う事らしい。…武彦は殆どの場合で表には出していないが、零を迎え入れて以降、新しく『霊鬼兵』のキーワードを見掛けたらどれ程些細な事であっても即チェックを入れている。その成果がこの書類。
「虚無の境界の霊鬼兵と来るなら、これらの情報も何かの足しになるかもしれない――確かレイベルはあの中ノ鳥島にも行ってたな。この書類の中身――俺やシュラインで気付かなかった事知らなかった事、足りない事があるようだったら情報の補填を頼む。情報に相違があったらその確認も」
「…承知した」
 と。
 レイベルが武彦の要請に頷いたその時、ふと気付いたようにCASLLが顔を上げた。
「そういえば…こんな時なのにシュラインさんの姿をお見掛けしませんが…?」
「…。シュラインは…」
 武彦はそこまで言い掛け、止める。
 何か言い掛けようとしたところで別の何かに思い至ったのか、黙り込んだまま、何も言葉を続けない。
「…やはり、零嬢の様子が見ていられないと言う事なのでしょうか」
 気遣わしげに、セレスティ。
 が、佇む影――冥月が静かにそれを否定した。
「いや。それだけで顔を出さないでいる程あの女は甘ったれじゃないだろう。それよりむしろ…何か思い付いて独自に調査に赴いてでもいそうな気がするが」
 それも、この場の者に知らせたくない――はっきり言えば草間に知らせたくない側面から、な。
 そこまでは冥月も口には出さない。けれど――自然とまた武彦に皆の視線が集まる。零の大事となればシュライン――シュライン・エマの方が彼女を放置でいるとは到底思えない。そして同時に、武彦の態度もまた気になるものがあり。
「…。シュラインの事は、暫く放っておいてやりたい。…今回は俺が迷惑掛け過ぎた」
「ほう? 自覚はあるのか」
「皮肉な話だがノインの口から虚無の境界と霊鬼兵の名詞が出た時点で思考能力が幾らか戻った。…まだ本調子とは言えないと思うが。それでも、な」
 今シュラインが考えているだろう事は、わかる気がする。
 それが許せるか許せないかは、俺にもまだ判断が付けられないが。
 武彦はそう告げたっきり、また黙り込む。

「…拝見します」
 丁寧に断ってから、魅月姫がファイルを手に取り、捲る。武彦たちが中ノ鳥島からどさくさ(?)で持ち帰った資料、その時居合わせた数名から色々聴取したメモ等のレポート。虚無の境界の存在が表面化した『誰もいない街』の事件――エヴァが初めて関連各調査機関の面子の前に姿を見せた時のレポート。…量産型霊鬼兵の存在もその時に複数体確認されている。他、草間興信所や関連各調査機関で関わった事件で霊鬼兵が絡むもの。零が妹となった経緯を知るアトラスの碇麗香からも、霊鬼兵関連の情報に限ってだけは商売さて置き随時情報提供を受けているらしく、アトラスの原稿や取材メモのコピーも含まれていた。
 それと、少し角度が違うが――いつ頃からか草間興信所に顔を出すようになったバチカンの『聖霊騎士』なる存在についても簡単にメモが残されている。よく来訪すると言うその聖霊騎士の固有名詞はブルーノ・M。…彼は言わば――素性を辿れば零の『弟』と言うか『従弟』とでも言うべき存在に当たる為、同じファイルに放り込まれているとの事。…曰く、このブルーノは霊鬼兵と同様心霊兵器の技術を使われ、別の形に発展応用、作成されている個体だと言うのだから。
「…彼の事まで調べていたんですね」
 こちらも魅月姫同様、セレスティは軽く断りを入れてから資料やレポートを一枚一枚手に取り、確かめる。そこで、一応自分も面識のあるブルーノの件もレポートに含まれている事に気付き、ぽつり。
「…当人や向こうの関係者から聞いた世間話程度の情報だがな」
 武彦がそう答える通り、確かに内容はそれ程深くない。ほぼブルーノの自己紹介に過ぎない。…二次大戦後半の日本とドイツから、時の北イタリア政権が心霊兵器の技術供与を受け研究、対極となる力を持つ兵器の作成を試みた成果であるとの事。聖霊機の作成、カトリック教会の聖人遺骸複数体培養が平行して行われ、造られたのがブルーノの素体。が、結局完成はせぬまま終戦に至り、それをバチカンが引き取り凍結。が、昨今の状況を鑑み、聖霊機を心臓として埋め込み聖霊騎士として完成させ、日本に派遣した事…等々。
 …とは言えさすがに、話した方も相手がここまで細かに記憶し資料として残しているとは思うまい。…それは深く関係はするが、零の心配故に霊鬼兵の情報を集めている身にすれば…特に直結してどうこうなると言う情報でもないのだから。それでも僅かでも関わる話が出ればもう無視ができない辺り、今の零は武彦らの『本当の家族』になっている事が見て取れる。
 魅月姫はそれとはまた別のファイルを捲り熟読しつつ、頭の中で情報を噛み砕いている。
「…霊鬼兵と言われる存在…本来は心霊兵器と言った方が良いんでしょうか。…まぁ、言い方なんてどちらでも良いですが。詰まるところ…霊鬼兵とは霊力の強い人間を核にして、人間や動物、機械を部品とし繋ぎ合わせて造られる、霊的な能力を備えた人造人間、と言う訳ですね」
 そしてその始まりは――二次大戦中、怨霊――タタリの力さえも兵器にしようと考えた二つの帝国の狂気から。その只中に開発する事ができてしまった有効な心霊兵器の技術。恣意的にタタリを発生させる為の装置――兵器である怨霊機。霊鬼兵はそれを守る為造られた強力な兵士。…それら心霊兵器研究の舞台が、中ノ鳥島。
「人間が造り出した――造り出せてしまった闇の眷族、ってところな訳か」
 魅月姫の見ているファイルを横から覗き、エルがぽつり。今まであんまり零ちゃんの素性について深く気にした事なかったけど、『人の手で』造られてそうなっちゃうってのは…ねぇ。嘆息混じりのその呟きに、魅月姫は目を細めゆっくりと頷く。
「世界を巻き込むあの大戦の頃には…私でさえ驚いてしまうような、様々な形の人の狂気が現実になったと聞き及んでいます。人が我らの――闇の領域に本当の意味で自覚的に手を出せた事実もまた然り。…普段はか弱い人間ですが、追い詰められれば何を成し遂げてしまうかわからないのも確か…。霊鬼兵――これもまたそんな中の一つになるのでしょう」
 述懐しながら魅月姫はファイルをぱたんと閉じる。
「…それを考えれば今の零さんの境遇は奇跡に見えますね」
 そんな風に造られたものが、人の中で平穏に過ごす事が叶っている事それ自体が。
 …それと、あのノインと言う方も、金髪の彼女――エヴァ・ペルマネントと仰るあの方も。
 兵器として作られながら、信じられないような個性が人格が感じられる。
 エヴァの能力の片鱗についても、武彦が出して来たレポートの中には収められている。彼女は虚無の境界の霊鬼兵として名が売れている為、その筋から見るなら露出も多い…それで構わないだけの力もあるとそう言う事だろう。その能力は零と互角――否、エヴァの場合はどうやら扱う怨霊個々のエネルギー値もやたらと高く、一時に扱える数も桁外れに多いらしい。恐らくは零と比較しても。
 ノインの事を考える――量産型霊鬼兵についてのレポートも武彦の出して来た中に幾つか含まれている。だがそれらは、傍で見ている限りは零やエヴァと何も変わらないように見える能力を持つとしか記載が無い。他、量産型霊鬼兵はゲシュペンスト・イェーガーと呼ばれる事もある…と言う他言語での呼称以外には、零やエヴァと何処がどう違うのか、の詳細は不明のまま。
 …但し、量産型、と言う事は、その存在を生み出すに当たり、零やエヴァと比べて――『何か』を切り捨て、能力も低い位置で妥協して造られているのだとは思えるが。

 焔麒もテーブル上に広げられた霊鬼兵に関するレポートや資料を手に取り目を通している。見ながら皆の話を聞いている。たまたま、その時焔麒が手に取っていたのは古めかしい写真のコピー。何処から入手したのか、生前の桜木礼子――零の核となった少女と、同じく生前の佐伯数馬――零が中ノ鳥島で守っていた怨霊機の核となった、桜木礼子の恋人だったと言う軍人の写真。それぞれ裏に名前が書いてある。
 それらを見ながら、焔麒はふと思い出したように口を開く。
「ところで気のせいかもしれませんが、型は違えど同じ霊鬼兵…ノイン君からは死臭めいた臭いがしましたね。…人にわかるレベルかは判断しかねますが」
「ああ…それなら私も気が付いた。だが虚無の境界の手になる者であるなら…真っ当な人間や動物のみならず人外の肉体も繋いで造り能力の強化をしている事も考えられる…元々そんな臭いのしそうな肉体が利用されている可能性も否定できない。まだノインの容態をしかと判断するには材料が足りない」
 と、レイベルに同意されつつもまた無難な別の可能性も提示されてしまい、焔麒はふと沈思。レイベルの発言も然り。…そもそも彼女は相当広範な意味での医者である上に、中ノ鳥島にも居合わせ、霊鬼兵と言う存在にもそれなりに詳しい方であるらしい。確かに、一理ある。
 が。
 焔麒がノインから感じたのは肉体そのものの死臭、と言う訳でもなく。
 …気のせい、と前置いてある通り――上手く言い表せないが、焔麒はレイベルの言う『それ』とは少し違う意味でノインから死臭めいたものを感じていた訳で。元々、常々他者に知らせている程嫌いなものに関しては――誰であろうと他者より敏感になりがちなものではなかろうかとも思えるし。それは勿論、自分も例外ではなく。
 …自分は病院と言う場所を嫌っている。何故か。その理由を辿ってみれば――死臭がこびり付いているから。そこに至るので。
 「…焔麒?」
 武彦から訝しげな声が掛けられる。どうかされましたか、とCASLLからも心配げに声が掛けられる。
 それらの声を受け――焔麒は暫し黙り込んだ後、自分を見ている者を安心させるよう宥めるよう、にこり。
「いえ、ここでこうしていても私はあまりお役に立てないかと思いまして。霊鬼兵についても虚無についても殆ど今初めて知ったようなもの。私はその辺の至極平凡な一介の薬剤師ですので」
 ですから…エマさんや蒼王さんではないですが、何か別の角度から調査する事を考えた方が、私でもまだ何か零さんの力になれる事があるか、と思いまして。
 言いながら焔麒はソファから立ち上がる。取り敢えず今はおいとま致します。何か進展がありましたらこちらにも連絡を入れたいと。そう残し、焔麒は興信所からひとまず辞する。
 それを見送ってから、皆は再び武彦の出して来た資料やレポートに戻る。…とは言え、その場に居る者でそれら情報を知っておくべきだと判じた者はそろそろ粗方見終えたところ。武彦から情報の補填を求められたレイベルは、特に情報の相違は無いとの発言をしている。足りないところについては――霊鬼兵の体組織の構成成分やその化学式、回復の速度、活動による霊力値の移行等の専門的な話を今ここで披露しても意味はあるまい、との発言が成された。…つまりは医者の観点で見た時の専門的なデータ以上は、レイベルの知っている分と考え合わせてもこの情報で特に足りない事は無いと言う事になる。
 そこまで話したところで、零がまた応接間に姿を見せた。カップの中身を空にした人に対し、おかわりは如何ですかと聞いている。
 零が聞いて回っているそこで、魅月姫は自分に割り当てられたカップの中身を干した。零はそれを見、おかわり淹れますねと微笑んでカップを取り上げようとするが――いえ、必要ありません、御馳走様でした、と魅月姫はやんわりと断る。
 そして。
「焔麒さんではないですが、私も少し…ここ以外で調べてみる事にします」
 零さんの事は、エルや皆さんにお任せしたいと思います。エルから武彦、そして零へと視線を流して頷き、それだけを残すと――魅月姫はその場で不意に姿を消した。…自らの足許から膨らんだ黒い影に飲み込まれるような形で、唐突に。
 魅月姫の姿を飲み込んだ影は跡形も無く消えている。それで、何処かへ移動したらしく。

 と。
 …そんな魅月姫の行動の直後、偶然ながら興信所の玄関ドアが控え目にノックされる。その音で来訪に気付き、中からはいと受け答えられたところで、一般的な碧眼とは異なる群青の瞳が印象的な可愛らしい姿が――失礼しますとドアを開けていた。そしてすかさずぺこりと一礼、こんにちは皆さん、とにっこり笑顔を向けている。
 そこに居た来訪者は、先程偶然ながら簡単な素性をレポートの上で皆が見せてもらってもいた相手。赤色の十字をあしらった純白の騎士服――と言うより修道服を纏った、人間で言うならば中学生程度の年頃になるだろう少年、聖霊騎士のブルーノ・M。彼の手には御土産らしき包みが下げられている。曰く、法王庁に定例の御報告に行って来たとの事。その帰りに修道院で作っている手作りジャムを草間興信所に持参した、と言う事らしく。
 ブルーノは零の姿を見付けると、朗らかな笑顔で歩み寄り元気に挨拶。零の肩にちょこんと乗っている紅き聖獣ソールにも続けて声を掛けてみた。そして御土産の手作りジャムを零に渡す――が。
 受け取る零に、何故か、微妙な違和感が。
 ブルーノは思わず目を瞬かせ、零のその顔を見る。と、零の側でもブルーノのその態度を見、何処か不思議そうに小首を傾げていて。
 それでもすぐに、優しい笑みを浮かべてブルーノに礼を言う。
「有難う御座います。大事に食べさせて頂きますね」
「…是非。喜んで頂ければ幸いです…。…。…あの!」
「? どうしました?」
「あの…零さん、何か具合でも…?」
 恐る恐る、訊いてみる。
 が。
「…何でもありませんよ?」
 あっさりとそう言って、零はブルーノに微笑み掛ける。…それは先程浮かべた優しい笑みと不自然なくらい全く同じ表情で。零の肩に乗るソールがブルーノに何かを訴えるように頭を横にぶんぶんと振っている。
 が、ソールの意図は通じない。変わらない笑顔に、気付かない。
 ブルーノは零の答えを信じ、安心してしまう。
「そうですか。それなら良かったです!」
 そして今度こそ満面の笑みを受かべ、ブルーノはこくりと元気に頷く。それを受けてから、零はお茶をお持ちしますねと残してまた部屋の奥――台所へと引っ込む。
 と。
 零が応接間から引っ込むなり、ブルーノ君、とセレスティが彼を手招き、テーブルに呼び付けている。静かな声。けれど普段のセレスティのように柔らかさを感じさせる声と言うより、何処か厳しさを孕んだ真摯な声であり。そしてテーブルの側まで行くと――駿に背を押されCASLLに促されレイベルに手を引かれ殆ど無理矢理ソファに座らされ、耳打ちするように皆から囲まれ話を聞かされる。ブルーノはいったい何事かと思いつつ素直に皆にされるがままになってはみるが――零が想いを寄せる相手が出来たと言う話を聞かされた時点で、ええっ! 零さんにっ! とブルーノは大声を上げてしまう。声がでかいと即座に武彦から口を塞がれる。静かにと皆からジェスチャーで示される。
 そして、それだけならまだ良かった、と話の続きに移る。ブルーノにそう言った武彦に対し、皆から意外極まりないような視線が集中するが…まぁそれはさて置き。その相手――ノインがあろう事か虚無の境界の霊鬼兵、それも現在、何か作戦の最中だと思しき様子だと判明した事も伝える。そこでまた――虚無の境界の霊鬼兵ですって!? とブルーノはパニックを起こし大声。今度は武彦では無くCASLLに、声が大きいですっ、と口を塞がれつつ、再び小声で皆さんから叱られる。それでもブルーノにしてみればそう簡単には落ち着いていられる話では無い。…見るからに極悪顔、落ち着いたいつも通りのブルーノなら視認しただけで反射的に警戒態勢に入ってしまいそうなCASLLの威圧的な容姿にさえも意識が行かない。
 …虚無の境界の霊鬼兵。ただ、そうは言っても――ノインもノインで零への気持ちについては本気であったのか、自分のその正体を知らせるなり、零に別れを告げても来たと言う事。それから――零の妹に当たる虚無の境界の霊鬼兵、エヴァまで姿を現した事。また、そこで彼女が現れたからこそ、ノインは零に自分の正体を打ち明け、別れを告げたようでもあり。
 それで、ノインに別れを告げられ姿を消された後が今。零は一見普段通りに戻ったように見えるが、その実自分を殺しているようにしか見えない態度を取っていると言う事…等々。言われてみればブルーノが違和感を感じたのは零の笑顔だったのかもしれない。迎えてくれた笑顔、喜んでくれた時の笑顔、親愛故の笑顔。それは笑顔と一言で言っても、皆違っている表情であるのがいつもの事であり自然な事で。なのに今日ここに来てブルーノに向けられた笑顔は、全て同一。
 …零が常に同じ笑顔でいたのは、笑っていろと命令されていた過去の時。
 そこまで話される内、ブルーノの頭にも漸く落ち着きが戻ってくる。とは言え、先程まで零に向けていたような元気な笑顔までは戻らない。
 今の事情を粗方知ると、辛そうな顔になり、俯く。
「零さん…」
「――…あの時の公園で、零嬢だけでは無く、ひょっとしたらエヴァ嬢も、ノイン君の事は何か特別と思っている様子がありました。ですが…だからこそ私は、想いの種類が違うと言う可能性もあるように思えるのです。三人が三人とも霊鬼兵…恋心と言うよりは、分かり合える同士、のようなものなのかもしれないと」
「…」
「ブルーノ君はどう思われます?」
 霊鬼兵とは対極の能力を持つものとして、同じ心霊兵器の技術で造られた聖霊騎士――彼らと似た境遇であると見込んで、伺いますが。セレスティにそう言われ、ブルーノは真剣に考えてみる。
「どうでしょう…わかりません。でも、分かり合える同士、と言うのも…あるのかもしれません。僕も、お姉様に――零さんに初めて逢えた時、凄く嬉しかったから…」
 ノインさんと言うその方…どんな方であるのか、僕も知りたい気はします。
 …零さんがお慕いになったと言うのなら、きっと、良い方なのだとは思います。
 なのに、どうして虚無の境界なんて…。
「…彼らが何か企んでいるのなら、僕は戦わなければなりません」
「ブルーノ君」
「零さんは悲しむでしょうね…でも、それが本来の僕の務めですから…」
 と。
 辛そうなまま、搾り出すように告げたところで。
「…ブルーノさん、どうぞ、紅茶です」
 いきなり、零の声が間近で届く。いつから応接間に戻って来ていたのか、やはり先程同様の優しい微笑みを浮かべたまま――カップとソーサーをブルーノに差し出している。…まず間違い無く今の話は聞こえてしまっていたタイミング。なのに、目立った反応を返さない。それどころか、先程と同じ態度に表情で。
 そんな零を見、ブルーノは思わず唇を噛み締めた。
 直後。

「――…他人を好きになる気持ちを殺しちゃ駄目だ!」

 居た堪れず叫んだ――そんな大声が室内に響き渡った。
 何処が元だか瞬間的にわからない。
 だが、声の主は初めからここに居た。駿。
 いきなり発された大声に、駿は皆から注目を浴びる。が、そんな事はどうでもいい。
 それより、今は零。
「周囲の皆に心配を掛けないように気遣う事だって大事かもしれない、けど自分に素直になる事だって大事な事なんだ。一緒に彼を探しに行こう!」
 駿は真剣な顔で零を見、その手を取って訴える。…零が持っていたお盆が落ちる。彼女がブルーノの為に持ってきたティーカップも床に落ち、かしゃんと形を無くす音が響いた。
 目を瞬かせ、零は駿を見ている。
 …綺麗好きないつもの零なら真っ先に気にするだろう、落ちて割れたティーカップ、零れた紅茶の事に意識が行っていない。
 零にとってそれ以上に心を揺さ振る事が今はある。
「そうですよ! 探しに行きましょう!」
 ここぞとばかりに駿に同意するCASLL。CASLLの同意を受け、零に力強く頷いて見せる駿。惑う零の瞳。…ほんの僅かではあるが久々に表に出て来た、本来の、普段の零の素直な反応。そんな彼女の肩の上で、聖獣ソールもまた、そうしようよ、とばかりに零の頬に擦り寄り、ぺろり。
「…でも」
 と。
 零が躊躇いつつも抗弁しようとしたそこで、じりりりんと電話の呼出音が鳴る。その音を聞き、助かったとばかりにやんわりと駿らを抑え、零は黒電話に歩み寄る。受話器を外し、草間興信所ですと日常の電話応対を。
 するが。
 その時点でまた、零が黙り込んだ。
 少しして、通話相手の話を受け、ぽつりぽつりと話し出す。
「…はい。でも綾和泉さん…私は…――。…。はい。…わかりました。兄さんに代わります」
 そう言い残すと、零は受話器を耳から離し、送話口を手で押さえる。
「綾和泉汐耶さんです。兄さんに代わって欲しいと」
「…。…ああ」
「…。…風宮さんやCASLLさん、ソールさんにだけじゃなくて…綾和泉さんにも、言われてしまいました」
 本当の意味で好きなようにしないと――悔いの残らないように動くだけ動かないと、他の誰でもない、零ちゃんの心が可哀想、と。
「…そうか」
「…」
 妹から兄に、受話器が渡される。
 武彦はそれ以上何も言わない。いつもの定位置デスクに戻ると一度だけ零を見る。気のせいかと思えるくらい僅かな間だけ向けられた、眼鏡の奥の何とも形容し難い優しい瞳――諦めたような悟ったような、慈しむような突き放すようなその表情。
 ただ、僅かな間それを向けたっきり、武彦の意識は電話の方に移動している。
 受話器を兄に渡してから――武彦のその目を見てから、何処か呆然と、所在なげに佇む零。そんな姿の手を引き、行こうと駿が促す。少し躊躇ってから、ぎこちなく頷く零。そんな零を見、CASLLもそのごつい手にしては信じられないくらいの優しさで零のその肩を叩き、勇気を与えようと頷き返す。わう、とCASLLの相棒な白い仔犬さんも同意するよう吠えている。
 そして、玄関ドアに向かうが――そんな三人+二匹の前に立ちはだかるようブルーノが回り込んで来た。
 唇を噛み締めている。
 駿とCASLLは咄嗟に零を庇うように前に出た。
「…邪魔をしないで下さいブルーノさん!」
「そうです! もしどうしてもと言うなら、私が…!」
「虚無の境界に所属する者である彼らが何か悪事を、テロを企んでいるのなら僕の仕事は決まっています! でも…でも、何とかノインさんと零さんがお話できれば…! 戦いを避けられれば!」
 そこまで彼らの真正面で言い切ると、ブルーノは思い切るよう後ろを振り返り力強く玄関のドアを開ける。そして零たちを促すよう、自分は横に退き彼らの前の道を開ける。目を丸くする零。ブルーノのその行動に、安堵したよう、ふ、と笑う駿。その通りですとばかりにうんうんと頷くCASLL。
 …ブルーノのその行動は、聖霊騎士本来の役目とは、反する――可能性もある事。けれど皆の幸せの為にこそ戦いたいブルーノ。その優しく善良な心がある事も確かで。問答無用は好まないのも、確かで。ブルーノがそうする意味も、零にはわかる。立場が逆なら、恐らく自分でも同じ事をする。
 行きましょう! 最後に零たちをこう促し後に続いたのは――ブルーノで。

 …他方、大事な妹と駿にCASLL、ブルーノが飛び出して行ったにも拘らず、武彦は何も言わず、動じない。
 それは今の零――駿とCASLLに言われて僅かながらも元の通りの素直な反応を取り戻した零の心を、守ってやりたいと思ったからだろうか。汐耶の言うように――それから恐らく、今ここに姿の無いシュラインの考えているだろう通りに。
 …それとも。
 電話の向こう、汐耶から――独自に調べた情報が伝えられていたから、だろうか。

 ――…虚無の境界型・量産型霊鬼兵についての――そして特にノインについての、聞き逃せない情報を。



■杞憂なら

 時間は少し遡る。
 綾和泉汐耶が草間興信所に電話を掛けるより前の事。零とノインの件を知ってからも当然日常は巡り来る訳で、普段通りに仕事に追われ彼女は毎日を過ごしている。過ごしているが――それでもやっぱり気懸かりな事には変わりなく。仕事の後や休み等合間を見て、色々と調べてみる事にしている。
 草間興信所でも何かしらの形で動いてはいるだろう。草間さんやシュラインさんが――他の皆も、あの零ちゃんを放っておけるとは思えない。思わない。わかっているから、そちらはそちらに任せて。…折を見て、私も背中を押してみようかと考えてはいるけれど。彼女自身の心に問うて、好きなようにできるよう。
 どうせなので司書ならではの方向から…と言う訳でもないが、汐耶はこの件に関わる情報収集に努める事にする。まず、ノインの居たあの公園が霊的磁場の高い場所に当たるかどうか。…それは該当の地の太古から現在に至る歴史を調べればある程度見当は付く。地元郷土史を捲る。地図で地形を調べる。立地条件。今に至るまでどんな場所であったのかの変遷。仕事場の要申請特別閲覧図書に――付喪神にも訊いてみる。該当の地で祭祀は魔道は行われた事があるか。怪異が起きた事はあるか。あるなら――その周辺で同じ条件の場所があるかどうか。
 結果、該当の地がピンポイントで特別に霊的磁場が高いと言う訳ではないらしい。だが――それはこの都市そのものを基準としての事。言ってしまうならこの魔界都市東京自体が充分過ぎる程呪的都市。『東京』である時点で霊的磁場は元々高い。何処で何が起きても不思議ではない。…まぁ、だからこそ虚無の境界のテロ対象に狙われているのだろうが。今更と言えば今更である。

 他、特に気になったのは『虚無の境界製・量産型霊鬼兵』について。零ちゃんは元々、大日本帝国に造られた決戦の為の最終兵器、心霊兵器――初期型の霊鬼兵と聞いている。つまりはそれ以降の霊鬼兵の雛型となるプロトタイプ――基本となる仕組みは同じ、零ちゃんがベースになるのだろうとは思う。
 …ならば言葉は通じる。心も通じる。人造生命であり、強大な能力を持っているだけで――ただ『兵器』とは到底言えない。使われているのが怨霊――負の方向のとは言え人の想念の集合体、その上にある人格となれば当然かも知れない。それは話は通じ難いかもしれない――ただそれでも、本当に通じない訳ではない。
 だが、そんな存在を虚無の境界がその手で造り兵士として使っているとなると話が違ってくる。この組織が噛んでいるのならベースとなる零と同等の能力・性質だけを持つとも限らない。技術の発展がどんな形で為されているかわからない。
 例えばエヴァ・ペルマネント――Ωと言う名であった事もある。彼女の情報についても簡単にだが前から聞いていた。虚無の境界製の最新型霊鬼兵。直接零の妹に当たるらしいが、その能力は虚無の境界ならではの技術が活かされており凶悪かつ強力になっていると言う話。冥月の操る影の中から見た限りでは、悪い子には見えなかったけれど。まぁ、見た目だけでは何も計れないのがこの業界でもあり。けれどそれで当人の人格まで悪いと決め付ける事もないだろう。まだ様子を見る余地はある。…害意があるなら放っては置けないが、それだけの事に過ぎない。それは霊鬼兵でなくとも誰でも同じ事。
 ただ。
 霊鬼兵についてそれら目立つところの情報は噂の延長で耳に聞こえていても、それより少し地味な情報になると、心当たりはそうそう出て来ない。本来零やエヴァの情報だって充分に機密の範疇、隠されてして然るべきもの。汐耶や草間興信所に集う皆の場合は――零の身内とも言えるくらい近くに居るから、近くに居ると目立つ情報であるから、たまたまそちら方向にアンテナを張っているから…等々、そんな偶然に近い理由から知っているだけの事で。
 地味な情報。例えばそれは霊鬼兵は霊鬼兵でも量産型の事。エヴァのような者より余程人数が居て当然だろう虚無の兵士――兵器。…IO2ならばそのくらいの事は基礎情報として調べていて当然だろう。IO2の情報を、自分で可能な程度だが借りる事も考える――考えるだけで実行するのは止めた。下手にIO2を突付いて今回の件が気付かれてしまったら、ノインの事がどう扱われるか。ここはその危険性の方を重視すべきだと思う。…零ちゃんの為にも、ノイン君の為にも。
 ならばどうする。すぐ思い付いたのは『元』IO2の人。真咲御言と真咲誠名。彼らの名、特に前者の彼の名が出て来たのは汐耶自身の過去の経験故の事。『誰もいない街』の事件が起きている頃――今のこの人が勤めているバーで、虚無の境界からの手出しがあった。…霊的磁場の高い場所で異能者を殺す事を目的に。それで何がどうなるかは、事前に企みを止められた為――そして同時に何の情報も無かった為にその時は不明のままだった。だが、何にしろテロの延長、事前に止められずそれが成就していたなら起きるのは良からぬ事であっただろう事だけは間違いない。
 そこからして――今回の件についても嫌な予感がした。…杞憂なら良いのだけれど。

 時間が惜しいので直接赴くのではなく電話を入れる。御言の方を先にする。相手はすぐに出た。曰く、偶然ながら誠名も一緒に居るところだったらしい。…好都合。挨拶もそこそこに本題に入る。…異能者ではなくとも霊鬼兵の自滅でも場の負への変換が成り立つかどうか。御言は可能でしょうねとあっさり肯定。霊鬼兵はその能力的属性だけを言うなら外法の霊能者と言えますから、つまりは『人為的な異能者』になるんです。それも基本的な属性は『人間』として、その範疇の偏りで判断される、と。
 ただ同時に、霊鬼兵の場合は数多の怨霊がその一つの個体を構成している訳ですから、一人であっても数人から数十人単位の異能者がひとつところに居るようなもの、と見なされるでしょう。…ですから、むしろ一人の異能者よりも一人の霊鬼兵の方が、汐耶さんの仰る条件に当て嵌める場合、効果は上回ると思われます。
 それを聞いてから、汐耶は今回の件を――ややぼかしながらだが話してみる。自分の経験した過去の件と何だか似たような企みを思わせはしないか。それは中心に居る霊鬼兵当人は自覚や悪意が無さそうであっても。
 草間さんのところの零さんの事はそれは御存知でしょうが、量産型になる霊鬼兵については御存知ですかと御言が改めて聞いてくる。…汐耶にしてみればそこもまた気になっていた事――聞けるならば聞きたいと思っていた事でもある。その旨言うと、同じ霊鬼兵と名が付いていますが、オリジナルとも呼べる零さんやΩと量産型とは――根本的に違う存在であるとも言えるんですよ、と御言。
 曰く、量産型霊鬼兵とは元々が『断片的な霊鬼兵作成の技術だけ』を中ノ鳥島から持ち返った何者か――恐らく秘密裏に帰還した当時の研究者の中の誰か――が、あろう事か虚無の境界にその技術を持ち込み、そこで試行錯誤の上に何とか造り出した独自の兵器になるらしい、との事。…IO2が『霊鬼兵』と呼ばれる存在を知ったのは実は初期型の零よりそちらが先である。その技術は何処から来たのか、その元を辿り調査する内に――IO2は中ノ鳥島に辿り付き零や怨霊機の存在を知った訳で。
 経過を知る内に明らかになった事。本来、オリジナルの霊鬼兵と呼べるのは――少なくとも確認出来るのは零とΩ、即ち『念入りに選ばれ中ノ鳥島で処置された素体から造られた者』のみになる事。量産型霊鬼兵は元々が断片的な情報の模倣から始まっている為――素体も何も製作を手掛ける科学者たちの独自の判断で現地調達されている。そして製作に当たっての基本的な理念からして――オリジナルとは一線を隔するものになっていて。…その手段や思想の善悪ともあれ少なくとも『守る為』だった二つの帝国の理念と、『滅ぶ為』にこそ力を求める虚無の境界の理念。…表面的には似ているようでいて、絶対的に違うものがある。
 零やΩのような『全てを注ぎ込んで造り出された』個体は――狂気の中のとは言え切なる悲願を託されたものであり、形振り構わずとんでもないコストが掛けられているもの(Ωの素体は中ノ鳥島から簒奪されたものであり、霊鬼兵として完成させたのは虚無の境界であってもベースの大部分は零同様中ノ鳥島製となる)。金銭面でも技術面でも素材の面でもそう言える。そしてその代償に、期待の通りに強大な力を有する訳で。
 その強大な力を求めた上で――極力能力的なものを近付けようと試みた上で、コストの方は抑えて何とか実用レベルまで持って来ようと作成されたのが量産型。…質より量を選択された結果がそこにある。
 だからこそ、量産型霊鬼兵は零やΩと比べれば欠けているところ足りないところは幾らでもある。扱える怨霊の量も質も、怨霊に対する支配力も違う。それは量産型にもそれなりの超回復力はある。けれどそれが零やΩのように霊力さえあれば無限に、とは行かない。
 今はどうだか知らないが、以前の――初期の量産型霊鬼兵は核である生身の部分を常に冷却していなければ腐り果ててしまうと言う致命的な欠陥がありもしたらしい。
 けれど彼らと敵対する者からすれば、現場で見る限りオリジナルか量産型かの差は殆ど無く。…まぁ、差は無く見えるように上手く配置され使われている、と言う事なのだろうが。…そうで無ければ、わざわざ量産型として霊鬼兵の名を持つ二線級の物を造る意味も無いだろう。…その通りの用途で使えないのならば別の形で応用すれば良い事。
 汐耶は黙ってそこまでの話を聞いている。量産型霊鬼兵についての話。…思っていたよりも意外な話。霊鬼兵と言う存在に大日本帝国とナチスドイツの影が垣間見えているのは元々承知していた事。だが量産型の場合は直接それらの帝国が関わる訳では無く、初めから虚無の境界の手になるものであると言う事。秘密裏に持ち出された技術の模倣から造られた。求められたのは質より量――使い捨て。…ならばそう使われる可能性は。
 …懸念が増す。

 暫しの沈黙の後、少しお聞かせしたい事があるそうなので誠名さんと代わりますと電話口から御言。曰く、今電話で話していた内容からして気になる事があるらしい。
 代わるなり、悪ィな、電話、盗み聞きする気は無かったんだがと誠名から軽く謝罪された。…とは言えむしろこの場合は聞いていて欲しくもあったので、汐耶としては別に盗み聞きされたと言う意識は無い。聞こえちまったら黙ってられない事が出てきたからさ、と誠名の声。何処についてそう思ったのかと思えば――自覚も悪意も無さそうなまま、ただ配置されている量産型霊鬼兵、と言う汐耶の言い方。
(…そいつひょっとしてNo.9――ノインって言わなかったか)
「! …御存知なんですか」
(当たりか。ま、御存知って程御存知じゃねぇけどな。四年以上前――まだ俺がIO2居た頃の話なんだが、ちぃと仕事でバッティングした事があってね。印象的な奴だったから覚えてる。何で虚無の境界なんぞに大人しく忠誠誓ってるのか全然わかんねェくらい真っ当に話が通じる奴だよ。だが…あいつがあいつ自身で自滅する事だけはまず有り得ねぇ。幾ら虚無の命令でもそれだけは無ぇ)
 奴が一番に考えるのは虚無の境界じゃない。奴が一番に考えるのは――自分を構成する為に素材として使われた全て、だ。奴は自分を構成する全ての怨霊をずっと宥めて慰めてやがる。奴の能力発現は『支配』じゃない。対話で力を『借りて』る。…独りじゃない僕が居る。だから何も怖くないから全部僕にぶつけて良いから。怨霊はその心に応えて自分から動く。まともに話が通じない狂暴な荒魂、怨霊でさえ奴の側は居心地が良いらしい。
 だからそこに居たがる。離れたがらない。奴が霊鬼兵である以上そこに居ても浄化される事は無いと知りつつも力になりたがる。…奴はずっと側に居るとその言葉を本気で守っている。下手に死んだらその数多の怨霊が、魂が別の形で利用される事は目に見えている。苦しめられる事は目に見えている。だから何があろうと皆を包んだまま生き延びる。死ぬなんて出来ない。
 …奴はそれが霊鬼兵として生を受けてしまった手前の果たさなきゃならない責任と考えてやがるんだ。
「…そこまで」
(ああ。…とんでもねぇよ。並の神経なら発狂してるところだろ。どうにか持ち堪えても手前自身で精一杯なのが精々だ。なのにそこまで考えて――実行までしてやがる。…虚無の境界の中で居て、自分と言う場ならまだ幾らかだけ――それはほんの僅かな差でしか無くても、まだ他よりはマシな居場所にしておけるから、ってな)
 だから、強い。
 死ねないと言う意識があるから。使役される側である筈の怨霊が――使役する側である筈の奴を自ら守るから。
 当時仕事がバッティングしたと言ったろ。…正直肝を冷やした。その時までに俺たちが遭っていた霊鬼兵の中でも――奴は段突に強かったからな。最後はこちらが見逃してもらったようなもんだった。
 とにかく。奴が虚無の境界の作戦の為に自分から死ぬような事は無い。
 虚無の境界の作戦の中で、密かに『仲間』に殺される可能性――なら充分有り得るだろうが。
 …それだけ伝えておきたかった。んじゃ戻す、と誠名は御言に電話を返す。お役に立てそうですかと御言。はい、色々参考になりましたと汐耶。…御言の話もだが途中で代わった誠名の話も。まさかノインを直接知っているとはさすがに思わなかったが。
 二人の話を聞き通話を終えると、その途端にまた汐耶の携帯電話が鳴り出す。何か追加事項でもあったのか。思いながら発信者を見ると――今度は相手は別人、シュライン・エマ。
 零の事を一番気遣っている人の中の、一人。
 すぐに出る。
 …少し話して、シュラインは今、草間興信所には居ないと汐耶はすぐに察した。あの時のノインの行動について、ぽつりぽつりと話される。考えながら――考えが纏まらないような、そんな感じで。
 あれで別れてしまってはどちらも辛いだけの筈。零と話した事が、そこに居た事が――その理由が裏切りと感じても、ささやかな時間に関しては完全に善意としか感じられなった。虚無の境界の霊鬼兵であると素性を自分の口から言ったのも、その事を咎めるよりも前に――零ちゃんに嘘が吐けない表れだったように見えて。
 汐耶はたった今誠名から聞いたノインの事をシュラインに伝える。IO2であった頃、過去遭った事があると言う話を――自分たちが先日見た以上の、知らなかった彼自身の情報を。当時全く敵の立場でありながら真っ当に話が通じるとまで言わしめたその心の在りよう。自分を構成する全てを受け入れ背負い続けようとする、限りの無い包容力。自らを構成する怨霊を宥め慰め続けている事。虚無の境界の兵器でありながら、そちらこそを第一と考えているようである事。
 それはあまりにも優しくて、強靭な――強靭過ぎる精神力。
 …シュラインは絶句していたようだった。
 電話を介してである以上その表情も何も見えないが、汐耶にも察する事は出来た。





 話の――相談の相手に汐耶を選んでしまったのは、きっとわかってもらえると思ったから…だろう。それに汐耶ならば物事を冷静に見つつも共感してくれる。同じ女だから…と言うつもりも無いけれど。

 ぴ。
 汐耶との通話を切るシュライン。
 ここのところ草間興信所にはあまり顔を出していない。それは零ちゃんの様子は直接もしくは電話で武彦さん経由で――毎日確認している。けれど直接行った時でも、あまり長居はしていない。
 それは、当ても無く捜してどうなるものでも無い事はわかっている。けれどノインに遇う事は出来ないだろうか。思いながらなるべくあちこち動き回っている。あの場で私たちに――草間興信所の身内に知られたと思い姿を消したのなら、そこから外れた方面で、何処か居る可能性。
 零ちゃんも彼も二人とも、まだ一歩…いえ、半歩程前進した程度で。彼が素性を告げ別れを告げたのも――きっとこれ以上続けたら辛くなると思ったから。私も親しい人想ってた人との別れの経験も…死別の経験もある。…色々とあったから。時間経ての慰めは言葉でかただ共有した時間でか――確かに心通じた瞬間の記憶。それで悲しみを深くした場合でも、その感情も自分だけの宝物になるから。
 だからこそ二人、共有時間をもう一度だけでも、取れたら。
 そう、願う。

 …当ても無く捜す中、建前仕事の為として、ノートパソコンは持ち歩いている。事実ファミレスや喫茶店で時折広げて現在受けている仕事を進めたりもしている。けれどそれも少しだけの事。…こんな中で、集中出来る訳も無い。結果、殆ど余計な荷物になっている。
 この辺りの住所はどうなっているのだったか。気も漫ろな仕事中、ネットで何度か引っ張って来てみた周辺地図が頭に思い浮かぶ。草間興信所からは外れている方、特に零ちゃんはまず来なさそうなところ。自分が実際に来てみた地域。…それは見逃している可能性だって幾らでもあるかもしれない。けれど無意識の内にマークまでしていて。ノインが居る可能性はあるか。…それは、虚無の境界の存在も頭にある事はある。
 けれどそれより。

 考えながら暫く歩いて。
 夏暑い中なので少し疲れた…のかもしれない。気が付けば目が休めそうな場所を探している。手頃な場所は近くにないか。思ったところで、あまり流行ってない様子の喫茶店が、今歩いている道の少し先に見えた。
 営業中。確認してからドアを押す。からころとベルが鳴る。
 少し喉を潤したい、休みたいと思っての入店。
 だったの、だが。

 入ったそこで。
 空いている店内で。
 二人着いているテーブルがある。入ったそこで見える位置――緩く編んだ青い髪を肩に流している中華風の青年。片眼鏡の向こうの瞳は金色。見覚えがあるその顔は――玲焔麒。
 彼の座るテーブルを挟んだ、その向かい。
 座っているもう一人。
 …胸騒ぎがした。
 それは、後ろ姿が――それも少ししかここからは見えないが。
 耳を澄ましても――音で確かめても、胸騒ぎの通りの気がする。
 冥月操る影の中から見たあの姿と同じ。

 ノイン。



■『僕』のこと、それと今ここに在る『皆』のこと

 玲焔麒がこの喫茶店に来て――今の零の様子をノインに伝えてから、少し経った後の事。
 店の入口に新たな来客が訪れる。からころとベルを鳴らして入ってくる。単なる客人。素直に考えればそう。けれどそれにしても、焔麒にも覚えのある気配――知人。それも草間興信所での。すぐにわかる。人の少ない店だからその時点でほぼ見分けは付いている。

 …まさかいらっしゃるとは思いませんでした――いえ、逆だったのかもしれません。
 草間興信所に居なかった彼女こそが、真っ先にこの場に辿り付く可能性。興信所で話す中彼女の名が出た時点で、草間氏が言っていた事。放っておいてやりたい理由。彼女が考えているだろう事。…それは、こういう意味だったのか。
 今この店に入ってきたのは、シュライン・エマ。彼女の方でこちらに気付いた…と思ったところで焔麒は迎えるよう微笑み掛けている。シュラインは携帯を閉じながらぎこちない微笑みを返している。たった今ここに来てすぐに――短いながらも通話をしていた。…何処に? それはいずれ――否、すぐに知れる事。
 ノインが焔麒の視線を追い振り返る。テーブルに近付いていた姿――シュラインを見るなり、息を飲む。…シュラインの事はノインの方でも知っていたか。言わば今の零の姉。草間興信所の――所長の一番側に居る人間。
 焔麒の正面、シュラインを見て固まっているノイン。シュラインに対し、どうぞとばかりに焔麒はさりげなく横に移動。席を詰める。何も言わないまま会釈で謝意を示しつつ、シュラインは空けてもらったそこに座る。
 ノインもまた何も言わない――何も言えない。
 テーブルの上、ノインの左手に緩く握られている小さな袋に気付く。繊細な織物の――どちらかと言えば正面に座る焔麒の持ち物のような印象の――香袋、匂袋。
 …玲さんも。シュラインはそう思いつつ、こちらの目を見れないで黙りこくっているノインの手をそっと押さえた。貴方自身の時間を暫くだけ。そう頼む。
 ノインの表情が少し揺らぐ。目が上げられる――シュラインの顔を見る。…そして――零君は御存知なんですか。それだけを告げるなり、ぎゅっと匂袋を握り締めている。反射的に力がこもった、そんな感じ――に見えたのだが。
 同時に、ノインの顔色が変わっているようにも見えた。感情ででは無く、別の理由で。そんなノインを見た焔麒の目が細められる――それでシュラインも観念したように目を閉じた。…気付いていた。黒冥月操る影の中から見たその時に。勘違いだと思いたかった。けれどその音は――他の場所でも嫌になる程覚えがあって。これは生命活動を行う個体としては明らかに『先が無い』音で。
 …シュラインが耳を澄まして拾えた音。それは死んだ細胞が腐敗するその時の。
 有機物が数多の虫に微生物に容赦なく分解、変質させられていく不協和音。
 そんな音が体内の――不自然な部位からするのなら。
 稼動状況に懸念があるのは、間違いなくて。
 シュラインは何も言わぬまま鞄から小瓶とハンカチを取り出し、小瓶の中の透明な液体――御神酒をハンカチに含ませる。そして、そのハンカチをノインに差し出した。
 匂袋を持っているのとは逆の腕――右腕。きっとそこが不協和音の源で。…彼が持っているこの匂袋も、それを幾らかでも癒そうと焔麒が特に調合したのだろうもの。なのにそれでもまだ険しさがある焔麒の表情。そこから見ても、自分の行為は殆ど意味は無いかも知れない。けれどそれでも、幾らかでも楽になれば。そう思い。
 場が静止する。躊躇うような空気がノインから。それでも――否、だからこそ、シュラインは受け取るよう更に促した。必要ないと言うのではなく、差し出しているのが自分だから躊躇っている。そう取れたから。
 少しして。
 お借りします。ノインは小さくそう言い、漸くシュラインからハンカチを受け取った。それで、そっと右の上腕を押さえる。やはりそこが、不調の源。
「…辛い?」
「いえ」
 …そんな事は言っていられませんから。
 僕の中に在る『皆』の為にも。
 と、ノインが当然のようにさらりと告げた、そこで。
 焔麒は俄かに驚く。
 …それこそ、そんな事を言っていられるような――他を構っていられるような、生易しい状態ではない事を識っているから。
「――…ノイン君、貴方は」
「大丈夫です。…おわかりでしょう」
 身体面で言うなら疾うに手遅れ。兵器どころか木偶人形。渡された匂袋やハンカチを持つ事すら、言葉を発する事すら――本来の機能的には既に無理の筈。
 なのに動いている事実――疾うにその状態の筈なのに、それでも外から見る限り支障無く動けている、事実。
 …自分を構成する為に使われた数多の『素材』――自分の中に存る数多の霊や魂に、何があっても見捨てはしないと。生き抜くと言い聞かせ。
 その思いだけで――有り得ない無茶を、少なくとも表面上は平然と――続けている事。
 ならば今のノインの状態はどう説明出来るか――それは元の通りに、霊鬼兵としての機能通りに個体を保持し動き続けろと――そう、ずっと己を己自身で『呪い』続けている事くらいしか。…恐らくはそれで『核』の腐敗を止めていた。霊鬼兵と言う元々呪術的な存在であるからこそ可能だった、それでも無茶な方法。
 けれどそれすらも、もう、難しい状態、なのだろう。
 もう、何をどう治療しようと考えても――気を紛らわせてやる事くらいしか、やりようは無い。
「…御二人とも、僕などの事を気遣って頂き、有難う御座います」
 零君には…酷い事をしてしまったと言うのに。
「…そう、思うの?」
「…」
「せめてもう一度逢う気は…零ちゃんと、確り向き合ってみる気は、無い?」
「…これ以上逢っても、彼女が辛いだけですよ」
「それでも。…貴方の言う通りだったとしても。時間が経ってから…いつか、その感情も自分だけの宝物になる」
 言葉でか共有した時間でか、確かに心通じた瞬間の記憶。
 それこそが、大切なものになる。
 それでより辛い思いをしたとしてもそれでも。貴方にとっても零ちゃんにとってもきっと…一番の慰めになるから。
 だから。
「…」
「…。貴方の名前は…『neun(9)』だけなの?」
「はい。…残念ながら。僕にはneun――ノイン以外の名前はありません」
 特に必要とされていませんので。
「…数字じゃなくて、貴方自身の名前は…無い、って事か」
 ノインの答えを聞き、シュラインは小さく息を吐く。
 寂しげに微笑んだ。
「…もし叶うなら――名乗ってみたい名前なら、ありますけどね」
「それは?」
「和弥と。刑部和弥――僕の『核』となった素体の名です」
 今の僕が居る為に一番の犠牲になった人。その人が居たから今の僕が居る。
 …だからせめてその人の心を受け継ぎたい。
 だから名乗りたい名前、になるんです。
 他ならない僕と言う立場でそんな名前を名乗りたいなんて、莫迦言うなって感じですけどね。
 言わば、彼の死を前提に――彼を殺して、結果、僕が居る事になるんですから。
「…。でもその彼も、今の貴方の一部。そうなるんじゃないかしら」
「影響は、一番受けていると思いますが」
 そう言ってしまうのは、彼に申し訳無い気がします。
 …それより。
「虚無の境界の事については、何も訊かないんですね」
「…貴方自身の時間をと、頼んだ筈よ」
「…良いんですか」
 草間興信所の方が。
 と。
 シュラインに確かめるノインの声を受け、焔麒の声が滑り込む。
「…そっくりそのまま、お返ししても宜しいですか」
 良いんですか、と。
「…」
「貴方は――あの場で彼女に別れを告げてそのままで。それで本当に、良かったんですか」
「…。零君に伝えて欲しい言葉は、もう、お願いしてありますから」

 ――…影の化身のような女性に、『遺言』は。



■Wish or Hope

 シュライン・エマから草間武彦への電話。
 零ちゃんに伝言を。
 …今、シュラインが零を呼ぶ。それはつまりは――ノインしか理由が思い当たらない。見付けた訳か。それとも何か別の。色々考えはするが、ひとまず今ここに――草間興信所に零が居ない事だけは確実で。風宮駿にCASLL・TO、ブルーノ・Mに連れられ促され、ノインを捜しに外に飛び出して行ってしまいそれっきり。…それはまだ、然程遠くに行っているとは思えないが…取り敢えずシュラインに今零が不在である事を言いそびれた。
 シュラインは綾和泉汐耶が入手した真咲誠名の話を知っている。…ノインの昔を僅かではあるが直に知っていた人物のその話。虚無の境界らしからぬその心の在りよう、故の強さ。大切なのは自分を構成する素材たち、その為だけに生きている。奴が自分から死ぬ事は有り得ない。
 電話の後、結局草間興信所に合流した汐耶はその件はシュラインにも伝えてあると言っていた。…ただ、汐耶と話したその時はまだ、電話口での様子からしてノインと遇っていた訳ではなさそうで。それで武彦の元に来た、ノインを見付けたのだろう電話。その時間的タイミング――ならばあれから、すぐの事。
 皆で零たちとの――零との速やかな合流を思考する。武彦に依頼の形とわざわざ言わせ、既に影での探索を始めている――と思しき黒冥月。…そうは言っても表立って見える行動としてはただ今まで通りに黙して佇んでいるだけなのだが。
 同じ時にセレスティ・カーニンガムが何かに気付いたような顔をする。…ノインの居た公園付近に、虚無の境界が暗躍しているようならその端緒を捕捉せよと放っていた部下たちの一グループ。彼らへと電話を掛ける。理由はと言えば、彼らの体内の血流からして、そのグループの居るその場所で、何か騒ぎが起きていると見た為。
 ふ、と唐突に実体不確かな闇の化身がエル・レイの側に現れ、甘えるように何事か耳打ちをしている。露出の多い魅力的な肢体の女性――それは、黒榊魅月姫の使役する夢魔であり。
 静かに冥月が口を開く。…応接間内の様々な動きを鑑み、久々に目を開け武彦をちらと見る。
「…依頼の必要も無かったかもしれんな」
「?」
「かもしれん。皆の様子からしてな…そろそろ行こうか?」
 訝しげに冥月を見返す武彦。それを余所に、レイベル・ラブが何故か当然のように冥月に同意。一同を促すように見渡し、自身もソファから立ち上がる。





 人気の殆ど無い喫茶店――それは常ならそうなのだが。
 今日この時だけはそうでも無かった。…一つのテーブルにノインと零が差し向かいで座っている。その側に、零に仕える騎士宜しく駿にCASLLにブルーノの三人が立っている。合流以前にノインと話していたシュラインと玲焔麒、後から来訪した武彦と魅月姫とレイベルは、隣に当たるテーブルに着いている。
 大所帯で失礼致します。入店してすぐ、テーブルに着く前に店主に断りを入れていたセレスティと汐耶。少し遅れて、こちらはやや離れた位置に陣取っているエルに冥月と同じテーブルに着く。

 ノインが見付かり、零が居る――舞台は整った。
 が。
 二人は黙りこくったままでいる。
 他の皆は、そんな姿を気遣わしげに見ている――もしくは邪魔にならぬようと考えたか敢えて無視するように離れ、外をこそ警戒している。零さん、と促す駿。やっと逢えたのだから、話し掛けなきゃ。想いをぶつけなきゃ駄目だ。思いながらノインの事も見る。
 ノインはまだ躊躇しているのか、瞳が揺らいでいるようだった。紅い色。零と同じ――エヴァとも同じ。
「…ごめんなさい」
 ぽつりと、零。
 ノインの目に、驚いたような光が浮かぶ。
「…ノインさんの仰る通りなんだろうなって、もう逢わない方が良かったんだろうって。わかってました」
 ノインさんと私では、居場所が違う事。
 あのままで居たら、いずれ私が辛くなると思って下さったからこそ。
 だから別れを告げて来たのだと。
 …初めから、裏切られたとは思っていない。
 兄さんたちには、心配懸けてしまいましたけど。
「ノインさんがそう判断したんですから。そのお気持ち、尊重したいと思っていました。…でも」
 …やっぱり、逢いたかったです。
 そこまで言うと、零は俯く。
 ノインは何も言わない――言えない、のか。
 酷いと承知で一方的に言った事、なのに本当に、その意図を汲んでいた零。
 弁解も何も出来ない。
 だからと言って、翻す事もまた。…自分の立場が――居場所が何か変わった訳でもない。
 が。
「君も零さんの事が好きなんだろ!」
 それら全てを吹き飛ばす檄が飛んで来る。…駿。
「人と人がお互いに好きになれるなんて事は奇跡みたいな事なんだ! だから…その気持ちは大事にしなくちゃ!」
 言われた途端、ノインは痛みを堪えるような顔になる。
 と。
「違うのですか?」
 …風宮さんが、仰る事。
 静かにそう続ける、魅月姫。
「どうぞ、本意を聞かせて下さい。…零さんの事を、どう思っているのか」
 その声に。
 答えるのはまた沈黙で。ただ、その沈黙は――先程までのように敢えて押し黙っていると言うより、何か言おうとして、けれど言葉が出て来ないような印象で。
 ノインはちらりとシュラインに目を遣る。…何処か縋るようにも見えたその瞳。それを見、受けて頷くシュライン。…それで良いの。貴方が貴方としてそこに在る事に責任を感じるのも仕方無いかもしれない。けれどそれだけじゃなくて良いの。貴方は貴方自身を認めて良いの。…彼らを動かしているのは心だもの。それで普通なの。そうでなければ…それが無ければ。本当に兵器になってしまう。
 シュラインの視線が武彦に移動する。武彦は煙草も喫わず腕組みし目を閉じている。感情が見えない顔。黙ったままで何も言わない。けれどそこに居て何も言わない時点で、わかってくれているのだとも、言える訳で。

「…羨ましかったんです」
 初めは。
 ノインがぽつりぽつりと話し始める。
 零に初めて声を掛けた時。その理由。
 零君が、草間興信所の――草間零である事は初めから知っていた。
 けれど、そんな知識とは別に。
 殆ど衝動で。
 その姿を偶然目の当たりにして、彼女が現在、幸せである事が、もう感覚的にわかってしまったから。
 羨ましくて眩しくて。
 思わず、声を掛けていた。
 受け答えてくれた事も、嬉しかった。
 それで、もっと話していたいと、思ってしまったんです。
 …零君も、そう思ってくれていたみたいで。
 毎日のように来てくれました。
 だけどこのままじゃ駄目だって、理性の部分ではずっとわかっていました。
 自分は何の為にあの場所に居たのかを考えれば。
 ですが、自分こそが――あのままで居たいと、ずるずると引き摺ってしまって。
 エヴァや…零君の身内である方々に知られた時点で、漸く踏ん切りが付けられた。
 でも。

「僕も、何事も無いまま貴方にもう一度逢えたら。ずっと思っていました」
 それが、好きと言う感情表現で表して良い気持ちなのかは、わかりませんけれど。
 苦く笑みつつ、ノイン。
 零は、そんなノインの言葉に、こくりと頷いている。少し、嬉しそうにも見えたか。零は頷いたそのまま俯いて、顔を上げない。
 暫くして。
 零が顔を上げる。嬉しいですとぽつり。ノインが告げた言葉の、自分の受け取り方が間違って無かった事――それと今言ってくれた事。同じ想いだった事。
 けれど、そこまで言ったところで。
 零はふと窓の外に目を向けた。屋外。道路を挟んだ向こう。
 何となく零のその視線を追って、ノインは硬直した。

 ――…道路の向こうに佇んでこちらを見詰めていたのは、エヴァ。





 ノインが気付いた。そう知った途端――エヴァの身体が翻される。
 逃げるように、その姿は消えていた。
 前後して、草間さん、と鋭く呼ぶ声が飛ぶ――汐耶の声。何事かと武彦が目を開け確認する。汐耶とセレスティ、そして冥月とエルの四人が着いていたテーブルを見る。
 …冥月の姿が無い。

 ノインと零の視線が一度絡む。微かに頷く零。それを確認するなり――ノインは席から立ち、店から飛び出した。ノインの身体の状態は皆それぞれ少なからず聞いている――もしくは直接診て識っている。…それでも目の当たりにした正常に稼動する霊鬼兵に匹敵する――並以上の運動機能に呆気に取られたか。
 ゆっくりと零が立ち上がる。そして、私も追いますと皆に冷静に断りを。

 …『妹』の事、放って置けませんから、と。





 …喫茶店の窓。ノインと『姉さん』から――他の連中が座っていたところから見える位置。
 そこから目が届かなくなるところまで歩いて来て、立ち止まり小さく息を吐く。
 労るような声を掛けられた。
「…後悔しているか?」
 それは覚えのある声。先程、公園に訪れた皆に――零たちにノインの居場所を教えた際、そちらと合流せずにこちらに残った――蒼王海浬。
「…うるさいわね。後悔なんかしてないわよ」
 少し怒った調子で返すエヴァ。
 それは、後悔はしていないが――あの場に居るのが『姉さん』である以上、エヴァにとってはあまり好ましくない事であるのも確かで。
 ただ、零の周りに居る人たちの方が――今のノインの状態を良い方向に持って行ってくれる可能性はあるように思ったから。
 だからエヴァは身を引いている。

 …本当は、それだけの理由でも無いのだけれど。
 今はノインに逢いたくない。
 出来るなら、これからも。
 だから自分は、あの喫茶店に入る事はしなかった。
 けれどノインの姿が見たくて。
 姉さんがこちらを見たから、気付かれてしまった。
 何で。
 わざわざ。
 …私を見たのよ。姉さん。

 と。

 思ったそこで、地面を蹴る音が、足音が近くまで来る。走って来る音。自分の背後、すぐそこで、近い位置で足を止める。立ち止まる。…ほんの僅かも荒くなった息遣いに聞こえない。そんな存在。
 息を呑んだ。
 ここに走って来たのが誰だか、わかったから。
 ノイン。
「――…何で来るのよ!!」
「君が悲しそうな顔をしていたから」
「――!」
 言われた、途端。
 ばっと振り返り、凄い目でエヴァはノインを見る。こめられた激情――その正体は一つではなく。妬みもあるか憧れもあるか。けれどそれ以上に――それとは別に。何かとんでもない理不尽を憤るような。今にも泣きそうな。その感情に合わせぶわりと周辺に湧く瘴気、黒く染まる意識――エヴァに喚ばれ強力な呪縛を受け、使役された数多のエネルギー体…方向性の定まらない怨霊たちが――ノインに襲い掛かる。
 が。
 その瞬間――直前、ノインの影が広く大きく伸び上がり、その爆発的なエネルギー全てを何事も無かったように吸い込んでいる。何が起きたか――少し前、一人で自分の前に来、『影』と名乗り去った女性…冥月の技。ノインはすぐ気付く。
「言ったろう? 直接周辺に害が及ぶようなら邪魔をすると」
 声だけが先に来る。
 いつの間にか、そこに居た。
 冥月。
「…エヴァと言ったな。そこまで虚無に忠誠を誓うか」
「…?」
 静かに問われた冥月のその言葉に、ノインはすぅと目を細める。そして物問いたげにエヴァを見る。
 エヴァの答えは――殆ど絶叫だった。
「何で来るの! ユーは死にたい訳!? 違うわよね!? …今回の作戦は本当は違うのよ! 後から違う命令があったの! 私たちが元々命令されてたみたいに怨霊を集めれば良いんじゃないの! 本当は、本当は――ユーを!!」
 そこまでぶちまけると、エヴァは立っていられなくなったかその場で崩れ落ちる。がくりと膝を突く。
 彼女の告げたその科白。続きになるだろう言葉は、すぐに察しが付いて。
 ――…つまりはノインを殺せと言う命令が、エヴァにこそ下されていたのだ、と。
「…それでか」
 君が急に僕の前に姿を見せなくなった――僕を避けていた理由。
 ノインは寂しげに笑うと、視線の位置を合わせるようにエヴァの前で屈む。立ち上がる助けにとエヴァに手を伸ばす。
「――」
 エヴァは瞠目したまま、ノインを見詰め、動かない。そんなエヴァの手を、ノインは躊躇いなく取る。
 殆ど、同じ時。
 力無くくずおれたその肩に、そっと手が置かれた。今度はノインの手では無く、別の。
「それが嫌だったから…止めて欲しかったから、ノインさんの事を私たちに教えてくれたのね」
 零。
 いつの間に追い付いて来ていたのか、零もまたその姿を見守っている。直に触れては急消耗する事がわかっているからか手は出さないが、ブルーノもまたエヴァ姉様、と心配そうに声を掛けていた。
 喫茶店に居た面子が少しずつ追い付いてくる。…それは確かに、ノインと零が出て言ってしまえばその場所に当面用は無い訳で。虚無の境界側からの新たな手出しがある事を考えても、今は実は――この場所にノインが居る事を聞いて己が主人に確認してから、セレスティの部下たちが『他以上に確実な標的とされる場所』として確りと見張っている。こちらが注視しているのとは別の変わった動きがあれば、連絡はすぐに入るようになっている。そちらの心配は無い。
 駿とCASLLが霊鬼兵三人――いや心霊兵器四人の様子を見、感極まったかぐすんと鼻を鳴らしている。エヴァを気遣うノインと零の様子に――草間興信所の『人間の兄と姉』に似たものを感じ、自然と武彦とシュラインに目を向け笑い掛けてしまう汐耶とエル。そんな二人に対し、安堵にも似た意味の笑顔を返すシュライン。一方の武彦は軽く眉間に皺を寄せている。…まぁそうは言っても、本気で不機嫌と言う訳では無く、何となく意固地になっているだけのような。そんな雰囲気。
 元々この場に居た海浬、それと一番最後に追い付いたセレスティは――今の幾つかの動きを全て予測していたのか、黙って見ている。セレスティどころか――海浬にまで僅かに微笑みらしきものが見え。

 …ただ。
 虚無の境界の思惑の通りに殺されなくとも、ノインの存在に先が無い事も、確かな事で。
 例え表面的には、何事も無いように動けていると言えども。
 エヴァの助力にと伸ばされた手からもそれはわかる。左腕――ノインの利き手は右である。より力が入るのも、本来右。けれどノインは――まずそんな右腕を伸ばそうとしていたが途中で思い直し、それから左腕に変えていた。
 右腕を包む服の袖が、少しだが汚れている。…茶の混じった青黒い不吉の色。先程まではそれ程汚れてはいなかったのに――今、また。
「…少し動いただけで」
 これ程なのですね、もう。
 目敏く気付き、嘆息する焔麒。その呟きで皆も気付く――ノインの腕の事。
「もう、無理だと思いますか?」
 生きるのは。
 焔麒の呟きを受け、静かに問うノイン。彼に渡された薬の――匂袋の効果は上々、気を紛らわす役には立つ。それが根本治療にならずとも、言葉通り幾分楽にはなった。手持ちの物を目の前で調合したそれだけで、そこまでの効果を齎せる者なら。そう思い、自分の容態を聞いてみる。
 …根本治療にならずとも。それは――ノインの場合、肉体だけで見るなら既に死んでいる――完全に手遅れである訳で、根本治療が、不可能であると言う事でもあって。霊鬼兵と言う呪術的な存在であるからこそ、一個人として活動する為の無理が利いている、それだけで。
 ノイン本人も、その事は――もう、本能的に知っている。

 と。
「…霊鬼兵の枠から外れる覚悟はありますか?」
 不意に、魅月姫。
「それで良ければ――それでも、更に生きる望みを持たれるのなら」
 私の血の力を与えても。…真祖の吸血鬼の、その力を。
「!」
 驚く。
 その提案は――今のノインにしてみれば、願っても無い事。
 ただ。
 願っても無い事ではあるがそれでも、一つだけ引っ掛かる事がある。
 肝心な事。
 だからすぐにその話を受ける事はせず、立ち止まって『それ』を確かめる。
「…貴方の血の力を頂いた場合――僕を構成する数多の霊や魂は、どうなりますか」
「…。それは――貴方と共に運命を辿る事になると思います」
 霊鬼兵を眷族にした事はありませんから、はっきりとは言えませんが。ですが私の血の力では――貴方のその身をそのまま、別の存在へと変換する事になる訳ですからね。
 魅月姫は淡々とそう告げる。
 でしたら、とノインは目を伏せた。
「…お気持ちはとても有難いのですが――辞退したいと」
 僕の中の皆に――今在る以上の業は、背負わせたくありませんので。
 僕だけを言うなら、僕だけと考えるなら。…僕は初めから不自然な存在なのですから――とても有難いお話なんです。ですが『皆』は、そうじゃない。きっと本来行くべき場所がある。それがいつになるかわからなくとも――『皆』には、いずれ救われて欲しいので。
 僕の事情で縛り付けてしまいたくはないんです。
「ですか。…そう仰る気はしてました」
 貴方のお話を聞いていると。魅月姫はノインにそう告げ、小さく息を吐く。
 それらを聞きつつ、ふむ、と難しい顔になるレイベル。
 重々しく頷いてから、じゃあ、とノインに次の提案を出した。
「どうせなら死んではみないか?」
 途端。
 ぴくりと。
 零とエヴァがその言葉の意味に、震えた。
 ノインがどういう事かとレイベルの顔を見る。
 死んではみないか。そうは言っても――ただ死ねと言う訳では無いような、言い方。
「そう。死別と言う最期の突撃敢行を要請する。…そんな顔をするな。まぁつまりは、零への責任を取れと言うと同時に、霊鬼兵の身上から別存在へ転移しないかとの誘いだ」
 黒榊が可能なようにそのまま存在を継続した上で変換、とは行かんが――どうも貴方の場合はそうは行かない方が良いのだろう。霊鬼兵を構成する下地となる数多の霊や魂はそれぞれ本来の行き場に送るのが一番いいだろうし今の言い分からして貴方もそれを望んでいるのだろう。…それ程難しい事ではない。なぁブルーノ? レイベルはいきなりそう振る。振られたブルーノはきょとんと自分を指す。当然のように頷くレイベル。…本来の行き場、それはつまりは。気付くと慌ててブルーノも頷いた。はい、迷える魂を主の御許に送るお手伝いなら僕が、と。
 それを聞き、またレイベルは頷く。更に続けられたのは別存在への転移に当たっての具体的な手段。インフォームドコンセントとでも言うつもりか、指折り、その例を挙げて行く。
 ――…貴方のその人造魂を輪廻の回に乗せる、再会を期して一部別の象でここに残る、霊魂サイバー化…手段は様々だが、私の手で事を成すなら一時の別れをしなくてはならないのは変わらない。虚無に利用されぬ形になる為には。
「…どうだろうか?」
「…」
「もし受けると言うのなら――せめてそれが素晴らしき別れでありますようにと、そう願う」
 私は常に恋する者たちの味方であり、あらゆる意味で医者なのだ。
 別に人魚でなくともまことの涙は真珠だよ。
 これからもこうして世界は変曲を重ねて行く、帰昔線然り、幻の島然り。…そう、映画版のラストが原作無視の、愛が地球を救う展開だったように。
「…?」
「…。…まぁ、細かい事は気にするな。とにかく、悪いようにはしない」
 何だか別方向に行きそうだったと見たか咳払いをしつつ、取り直してレイベルがエヴァを見る。
「それに、エヴァはノインを殺せと命令を受けているのだろう? ならばその通りにしてやればいい。その後、私が何をしようとそこは貴方に出された命令に関係無い筈だ」
 …とは言え。
 そう簡単に割り切れる事でも無いだろう。エヴァがノインを殺すのが嫌だと言うのは、感情だ。無理にやらせては――傷が付く。
 と。
 あっさりとそう翻した、途端。
 また『影』が、動いた。
 …先程エヴァの攻撃から音も無くノインを庇った、その影が。
 今度は逆に。
 その場にくずおれ、へたり込んでいるエヴァ、その身を支え起こそうとしている零。
 その、目の前で。
 …ノイン自身の、その『影』が。
 鋭い針のように、伸び上がり。
 ノインの右腕を――肉体の繋ぎ目、その奥、霊鬼兵の霊力の源――『核』に当たるその位置を。
 貫いた。
 殆ど刹那の事。
 誰も何も言えず、ただ見ていてしまった、だけ。
 使われたのが影である事からして、手を下した可能性は居合わせた中では二人だけ。
 それも、間隙を縫うその、やり方が。
 深淵の魔女では無く、元暗殺者――魅月姫では無く、冥月の方と知れていた。

 …『核』が破壊され、ノインの身体が傾ぐ。
 スローモーションのような中、酷く冷たい声の筈なのに――何故か柔らかく優しくも聞こえたアルトが静かに響く。

「後は任せて楽になれ」
 …見てはいられんよ、もう。
 もっとずっと前の時点。まだ誰もノインに辿り着いていない、その時点で。真っ先に捜し、見付けていた。影の走査で身体も診た。身体は死んでいる、それでも動いている。どれだけの負担になっている事やらと、驚いた。
 皆が調べる中で明らかになって行く事柄。そこから、無茶の理由が見えて来る。
 手を下すだけ下すと冥月は後は頼むとでも言いたげに、レイベルへと視線を流す。承知したとばかりに、目で頷くレイベル。
 それから、冥月はまたノインへと目を遣った。その場で倒れるどころか――体組織が崩れ始めている。今度はエヴァが零と共にノインを支えている。やだと泣きじゃくるエヴァに、泣くのを堪えているような零の顔。他の皆も目を見張り、思わず駆け寄る。急過ぎたから、事態に付いて行けない。問題無いと静かにレイベルが駆け寄る皆を制す。それで周囲も、少しだけ、落ち付く。
 が。
「やはり別れは自分で言え」
 …まだ、その余裕くらいはあるだろう。
 あれだけの生き方をしていられるくらいなら、まだ。
 そう知っているから、冥月は手を貸す事もせず、敢えて突き放すように告げる。
 エヴァがそんな冥月をきっ、と睨む。殆ど反射的に――その感情に喚ばれた怨霊が攻撃の為のエネルギーとして形を成して来る――が。
 そんなエヴァの腕を、力無くノインが引いている。制止するように。
 はっとして、エヴァはノインを見た。途端、波が引くように喚ばれた怨霊が消えていく。
 堪え切れなくなったか、零の目からも涙が一粒零れた。
 ノインはそれをそっと指先で拭ってから冥月を見、ゆっくりと頭を振る。
「…いえ。貴方に頼んだ言葉は――もう必要ありません」
「ほう? 何も遺さないか」
「違います」
 …遺したいのは永別の言葉ではなく、いつかまたと再会の約束を。
 その言葉を聞くと、冥月は何も言わずに目を閉じた。もう自分の出番は済んだとばかりに一人踵を返し、その場から離れていく。
「…冥月」
 思わず。そんな風に自分を呼び止めた武彦の声に、冥月は足を止める。が、それは僅かな間の事で。
 冥月はすぐにそのまま、姿を消す。

 ノインの力が、尽きて行く。
 皆に見守られる中――それぞれ意味は違えど、二人の大切な人に見守られる中。
 最期の力で呟くように、告げた。
 待っていて欲しいと。

 ――…またいつか、悲しみの涙を介さずにお逢い出来るその日まで、と。


【了】


×××××××××××××××××××××××××××
    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
×××××××××××××××××××××××××××

 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

 ■2778/黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)
 女/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒

 ■2980/風宮・駿(かざみや・しゅん)
 男/23歳/記憶喪失中 ソニックライダー(?)

 ■4345/蒼王・海浬(そうおう・かいり)
 男/25歳/マネージャー 来訪者

 ■1449/綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)
 女/23歳/都立図書館司書

 ■3948/ブルーノ・M(-・えむ)
 男/2歳/聖霊騎士

 ■4682/黒榊・魅月姫(くろさかき・みづき)
 女/999歳/吸血鬼(真祖)/深淵の魔女

 ■1883/セレスティ・カーニンガム
 男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い

 ■6169/玲・焔麒(れい・えんき)
 男/999歳/薬剤師

 ■0606/レイベル・ラブ
 女/395歳/ストリートドクター

 ■0086/シュライン・エマ
 女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

 ■3453/CASLL・TO(キャスル・テイオウ)
 男/36歳/悪役俳優

 ※表記は発注の順番になってます

×××××××××××××××××××××××××××

 …以下、登場NPC(□→公式/■→手前)

 □草間・零(初期型霊鬼兵・零)/主人公(え)。中ノ鳥島出身。素体の名は桜木礼子。
 ■ノイン(虚無の境界製・量産型霊鬼兵・No.9)/どうやら零ちゃんの本命であるらしい青年。量産型のタイプとしては旧型から新型への過渡期に製造されている。なお、9がドイツ語読みneunとはなっているが核となった素体は日本人。その名前は「刑部和弥(おさかべ・かずや)」。
 □エヴァ・ペルマネント(虚無の境界製・最新型霊鬼兵・Ω)/零の妹。素体は中ノ鳥島製。なお、その素体の名前は不明。

 □草間・武彦/探偵と言うより今回は零の兄…(もしくは父…?)
 ■真咲・御言/御指名あったが故に登場、情報担当。現バーテンダー、元IO2捜査官。
 ■真咲・誠名/御指名あったが故に登場、情報担当。現怪奇系始末屋(副業的裏稼業が)、元IO2捜査官。
 ■エル・レイ/御指名あったが故に登場、魅月姫さんと旧知の女吸血鬼。

×××××××××××××××××××××××××××
           業務連絡?
×××××××××××××××××××××××××××

 いまだかつてした事のない日数の遅延を今回はやらかしてしまいました。
 黒冥月様、風宮駿様、蒼王海浬様、綾和泉汐耶様、ブルーノ・M様…五名様分、大幅に納期が過ぎております。お渡しが遅れまして大変申し訳ありません(謝)。大変お待たせ致しました。

 …何かPC様の行動・発言・性格・思考等でこれは有り得ない等の引っ掛かりがあるようでしたら御気軽にリテイク御声掛け下さいまし。他に何かありましたらその際にも。出来る限り善処致します。

 ※ちょいと落ち着いてからこちらの部屋に今回のライター通信相当記載する予定(今回遅れた理由やら本文中に於けるPC様のプレイング外の行動についての言い訳もどき等々)
 http://omc.terranetz.jp/creators_room/room_view.cgi?ROOMID=162