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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


神々の柩 その2

「まさか、本当にあるとはね」
 目の前の棚に置いた物を眺めながら碧摩蓮はどこか畏怖のこもった声音で呟いた。
 蓮の目の前には一振りの剣が置かれていた。奇妙な色合いの剣である。プラチナのようにも、胴のようにも見える。つまり色が定まっていないのだ。
 剣の形をしてはいるが、西洋のものではない。かといって東洋のものとも少し違う気がする。最も近いのは日本の古墳などから出土する古い胴剣といったところだろうか。
 ただ、恐ろしく古い物だということだけ蓮にはわかっている。そして、その材質についても、おおよその予想はついていた。
 材質はヒヒイロカネ。日本最大の偽書とも言われている竹内文書などに記されている錆びない金属のことだ。一説にはオリハルコンと同系の金属ともされる伝説上の代物だ。
「これがあるということは、本当に存在するのかもしれないね」
 誰に語りかけるでもなく蓮は独りごちた。
 日本には多くの奇書、偽書と呼ばれるものが存在している。いや、日本だけでなく世界中に溢れていると言ったほうが良いだろう。
 しかし、日本のそうした書物、そして伝承や民話には、いくつか共通するものがある。
 それは地下世界の伝説だ。
 厳密に地下世界があったと明記されているわけではない。黄泉や奈落と呼ばれ、暗く、死者が集う場所であるというように語られている。
 古事記では黄泉と呼ばれ、長野に伝わる甲賀三郎の伝説では奈落とも言われている。
 さらに徐福の渡来を伝える宮下文献では、富士に日本最古の文明があったことが記され、実際に山梨県の富士五湖地域では、徐福伝説も多く残されている。また、別の古書によれば、富士の地下には広大な空間があり、それこそが古事記に記された黄泉の国であると断言している。
 荒唐無稽な話も多いが、それでも蓮は日本のどこかに、黄泉や奈落と呼ばれた地下世界、あるいは地下都市があるのではないかと考えている。
 竹内文書に記されたヒヒイロカネが存在した以上、そうした地下世界も、あながち伝説だとばかり言えなくなる。伝説から実在が照明された例はある。ギリシャ神話のイリオスのように。
「誰か、探しに行ってくれないもんかね」
 ふと、そんなことを蓮は呟いてみた。

 そんな蓮の思いつきから始まった伝説、神話の検証にも近い作業。それは、まるで雲を掴むかのような話でもあった。

 竹内文書――日本最大の偽書とも言われ、新興宗教団体である天津教の教典である神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命によって武内宿禰の孫、平群真鳥が漢字とカタカナ交じりの文で訳したとされる写本と、文字の刻まれた石、鉄剣などを指す総称で、いわゆる古史古伝の類に 属する書物とされている。
 宮下文献――古代中国、秦朝に仕えた方士、徐福が「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申し、秦の始皇帝の命を受け、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。到着した土地で、徐福は「平原広沢」の王となり中国には戻らなかったといわれている。
 徐福が到着した地は古代の日本であるとされ、徐福は富士山麓に住み、阿祖山太神宮に伝わる伝承を編纂したとされている。この徐福伝――富士文書を原本とし、度重なる書写と編集を経たものを宮下文献という。阿祖山太神宮の宮司である宮下家に伝えられていたが、度重なる噴火や火災によって大部分が失われ、残っていたものが明治になって封を解かれ、大正10年に三輪義Xが整理、編集して神王紀として出版した。

 蓮から話を聞いた御剣劉児は、まず都内にある私立大学であった。この大学の考古学研究部に古くからの知人がいた。
「また、面白いものに目をつけたようだね」
 劉児の目の前に座った初老の男性が言った。白くなった髪を撫でつけた細身の男性だ。年齢はすでに60歳を越えているだろう。
「だが、宮下文献はともかく竹内文書ともなると、本当の意味で仕えそうなものは、そうそう現存はしてないぞ? 現存している大半が後世の人間が書き起こしたものだからな」
「そもそも、竹内文書とはなんなんだ?」
 劉児の言葉に男性は小さなため息を漏らした。
「そんなことも知らないで、富士文明を調べようとしていたのか?」
 竹内文書とは、新興宗教団体である天津教の教典である神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命によって武内宿禰の孫、平群真鳥が漢字とカタカナ交じりの文で訳したとされる写本と、文字の刻まれた石、鉄剣などを指す総称で、いわゆる古史古伝の類に 属する書物とされている。
 平群真鳥の子孫であるとされる竹内家へ養子に入ったと自称する竹内巨麿が、昭和3年3月29日に文書の存在を公開した。写本は失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。 また、旧約聖書などの古代文献に出てくる人物や乗り物らしきものと、竹内文書に出てくる人物や乗り物らしきものとに、なんらかの関連性があるとするような記述があるが、書かれている内容は荒唐無稽なものとみなされるものが多い。
 竹内文書では現在の天皇以前に上古25代、ウガヤフキアエズ73代の天皇、さらにそれ以前に天津神7代があったとしている。ちなみに上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といってイザナギにあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」――すなわちツクヨミであり、スサノオの別名とされている。
 他にもビッグバンさえ起こっていない紀元前3175億年に上古初代天皇が存在し、上古2代天皇の在位が320億年に達している。彼のイエス・キリストも断罪の丘では死なずに来日し、真のキリストの墓は青森県の戸来村、現在の新郷村にあり、戸来はヘブライが訛ったものだとされる。
 モーゼの十戒には、表十戒、裏十戒、真十戒があり、天津教が神宝として所有していたものを天皇が来日したモーゼに授け、モーゼの墓が石川県の押水町に存在している。釈迦をはじめ、世界の大宗教とされる教祖は、すべて来日し、天皇に仕えていたなど、その内容は荒唐無稽にもほどがある。
「まあ、そのあまりにも荒唐無稽さに、偽書と判断されたんだ。フィクションにしても、いい加減すぎるし、今でも論争の的になることはあるよ」
「その天津教というのが、信者を集めるために捏造したという可能性は高いな」
「確かに、そういう見方もある。実際、竹内巨麿という人物は、昭和10年に逮捕され、12年には不敬罪で起訴されている。だが、19年の判決では無罪となった」
「もう1つの宮下文献というのは?」
「宮下文献は、富士文書を基に書かれた物だ」
 古代中国、秦朝に仕えた方士、徐福が「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申し、秦の始皇帝の命を受け、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。到着した土地で、徐福は「平原広沢」の王となり中国には戻らなかったといわれている。
 徐福が到着した地は古代の日本であるとされ、徐福は富士山麓に住み、阿祖山太神宮に伝わる伝承を編纂したとされている。この徐福伝――富士文書を原本とし、度重なる書写と編集を経たものを宮下文献という。阿祖山太神宮の宮司である宮下家に伝えられていたが、度重なる噴火や火災によって大部分が失われ、残っていたものが明治になって封を解かれ、大正10年に三輪義Xが整理、編集して神王紀として出版した。
 その内容は多くの伝承が混交しており、文書同士の矛盾も多いが、富士山こそ蓬莱山であり、高天原が富士山麓にあったとする主張は全編を貫いている。日本の神々はもともと大陸で発祥し、高皇産霊神が初めて東方進出を志し、子の国狭槌尊とともに富士山麓に都を置いた。高皇産霊神の死後、国狭槌尊は先遣隊を率いて先に日本列島に来ていた兄、国常立尊と再会して日本列島を分割統治したとされている。
「その徐福が平原広沢の王となったとされる地が、富士山麓とされているんだ」
「つまり、それが日本最古の文明というわけか」
「まあ、これらの文献を信じるのなら、だがね」
 徐福が生きていたとされる時代は中国秦朝、紀元前3世紀後半である。その頃の日本は北九州、あるいは畿内地方に初期国家があった程度とされるため、宮下文献が正しいとするならば、まさしく日本最古の文明であるという説はうなずけなくもない。
「それで黄泉ってのは、その富士文明だったのか?」
「それは、高天原がどこだったのかによるだろうね。宮崎県高千穂、長崎県壱岐、岡山県蒜山高原などが有力だが、もし高天原が西にあったのだとすれば、黄泉は東日本にあったと考えても良いかもしれない」
「なんでだ?」
「黄泉というのは死者の世界を指しているんだが、当時の日本の中心が西日本にあったのなら、東日本は未開の地でもあったわけだ。そこへ流刑にでもされれば、たいていの人間は死んだも同然と考えるだろう。そうした意味で、流刑地を黄泉と呼んでいた可能性は充分に考えられる」
 太古の日本には黄泉路が存在し、黄泉比良坂で葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻イザナミを追ってこの道を通り、一般的には根の国と同一視される根の堅州国――現在の島根県に入ったとされているが、これについても諸説あり、定かではない。
「ただ、本当の意味で地下都市があったのか、と言われると疑問だな。だが、完全に否定できないのも事実だ。カッパドキアのような例もあるからね」
 奇岩地帯として有名なトルコのカッパドキアには世界最大とも言われる地下都市が存在している。この都市は1960年頃に発見され、8世紀から9世紀頃にかけて造られたとされている。一説によると6世紀中頃から8世紀にかけ、ササン朝ペルシャやアラブ勢力の攻撃にさらされた時、住民が自分たちの宗教的価値観を守るために地下へ町を造った。そして9世紀になり世の中が平和になると地上に戻りこの地下都市を封印したとされているが、ほとんど解明されていない。
「もし、実在するとしたら、富士北麓だという話も聞いたのだが?」
「地下都市にせよ、富士文明にせよ、富士山北側にあったという説はうなずける。山梨県で徐福伝説が残されているのは、富士吉田市や富士五湖周辺だ。それに、文明を築くのなら、やはり水がなければならないだろう?」
「確かに、その通りかもな」
「富士五湖周辺からなら、海もそう遠くはないし、立地条件としても悪くはない。ともかく、ここで議論しても始まらないから、現地に飛んでみるしかないだろうな」
「そうだな」
 うなずいて劉児は立ち上がった。富士文明、徐福伝説、黄泉。予備知識はこの程度で良いだろう、と思っていた。あとは最も有力とされる富士五湖周辺を調べてみなくてはなにも始まらないという気がしていた。

 東京を出た劉児は車を走らせて富士北麓へと向かった。中央自動車道を河口湖インターチェンジで降りた劉児は、富士浅間神社へ足を伸ばした。
 ここに祀られているコノハナサクヤ姫は、死の起源を表しているともされている。その由来として、コノハナサクヤ姫とニニギ尊の間にできた子が、不義の子ではないかという疑いをかけられ、身の潔白を証明するために産室へ火を放って子を産んだ。それが日本神話における死の起源の説明神話というふうに定着している。
 また、山の神オオヤマツミによってニニギ尊に差し出されたコノハナサクヤ姫は「木花」のようにうつろいやすい一時的なものを表し、姫とともに差し出された岩長姫は「石」のように永遠なるものを表しているともされる。ニニギ尊がこの2つの命のありようのうち、永遠を表す岩長姫を醜いとして遠ざけたため、天皇の命は木花のようにはかないものとなったと神話では語られている。
 コノハナサクヤ姫が火の中で子を産んだこと、そして山の神を代表するオオヤマツミ神の娘であることなどから、この姫神が富士山の神として浅間神社で祀られている。しかし、コノハナサクヤ姫を祭神として祀ったのは、実はそう古いことではなく、江戸時代以降ではないかとする説もある。浅間大社社伝にコノハナサクヤ姫の名が登場するのは江戸寛政年間であり、民間信仰においてもコノハナサクヤ姫を富士山の神としているのは、最も古い記録でも慶長19年であるという。
 常陸風土記によれば、それ以前に富士山の神とされていたのは「福慈神」という神で、この神を祀る富知信者も「延喜式」神名帳には記載されている。実はこの福慈神こそが、徐福ではないかという説がある。日本へ到来したという徐福伝説が事実だとすれば、古代中国から当時は未開地だった東日本に文明を伝えた徐福は、まさに神だったわけであり、それを祀らなかったわけがない。
 さて、ここで問題となるのは神とはなんであるか、ということである。現代においては神は信仰の対象でしかなく、その存在に関しても非常にあやふやなものとなってしまっている。しかし、キリスト教などに照らし合わせてもわかるように、ただの自然現象や天災だけを恐れ、それを神としていただけとは思えない節がある。
 人間は単純な生き物であるから、そうした自然災害を恐れるだけよりも、自分たちに対して利益を齎してくれる存在を「神」と崇めていた可能性は高い。この場合、当時の日本人に利益を齎す存在といえば大陸から渡ってきた人間であることは想像するに難しくない。事実、日本と大陸との交易は古くから行われていた。桓武天皇の母、高野新笠は百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔であると続日本紀に記されているように、中国大陸や朝鮮半島から多くの文化、文明が日本へ齎された。
 不遜な表現ではあるが、神の末裔であるとされる天皇家も、そうした渡来人である可能性が完全には否定できない。以上の点から推測するに、神とは大陸や半島から文明を運んできた渡来人であるという公算が高い。
 浅間神社を見た劉児は、社殿の新しさに落胆した。それもそのはずで、現在の社殿は徳川家康が関が原の戦勝に応えて寄進したものであり、建造から400年程度しか経っていない。
 劉児は取材と称して社伝を拝見させてもらうことにした。
 その内容によれば、西暦110年に日本武尊が東方遠征の折に富士山を遥拝したことに始まるとされ、また垂仁天皇の代に富士山の大噴火を恐れる人々の心を静めるため、勅命をもって火山鎮護の神であるコノハナサクヤ姫を祀ったという説も盛り込まれていた。延暦7年に甲斐守紀豊庭が現在の場所に社殿を造営したとされている。
 社伝にたいしたことが記されていないと感じた劉児は、次に徐福伝説が残る場所を回ることにした。
 徐福伝説は現在の富士吉田市を中心に、富士北麓、富士五湖周辺に幅広く分布している。
 山中湖に面した長池村は以前は長命村と呼ばれており、蓬莱山に不老不死の仙薬を求めた徐福の子孫が住みついたともされている。
 不老不死の仙薬を探し求めた徐福だったが、結局は見つけることができず、国へ帰ることもできないまま富士山麓に永住することを決意したともいわれる。連れてきた数百人の童子を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をし、この地の娘を妻に迎えて帰化して村人には養蚕、機織り、農業技術などを教えた。
 甲斐絹は山梨の織物として知られており、江戸時代に誕生したものといわれているが、甲斐国の名から「甲斐絹」と命名されたのは明治以降である。しかし、富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだったという記録がある。この技術を伝えたのが中国からやってきた徐福であったと伝えられている。また、河口湖周辺地域は昔から機織り、裁縫が盛んであった。これは徐福、あるいは同行していた技術者たちが伝え広めたものと考えられている。
 また、河口湖浅間神社の由緒書には「富士山の神、浅間明神を此の地に奉斎。伴直真貞公を祝に同郡の人伴秋吉公を祢宜に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀」とある。同神社の宮司によれば、この神社の創祀者である伴直真貞公こそ徐福の子孫ではないかと考えられるという。
 富士山麓に文明が築かれたのだとして、富士山噴火の影響は本当にあったのだろうか。例えば延暦の噴火によって富士文明を焼いたとされる溶岩は、寄生火山から噴出した剣丸尾ではないかといわれている。この溶岩は標高2900メートルの山腹割れ目から流れ出して、スバルライン2合目と丸山との間を流下し、現在の富士急ハイランドの敷地を経て下吉田の赤坂で止まっている。その溶岩下から縄文式土器や古銭が出土しているので、かなり長期にわたる人間の居住が確かめられたが、この丸尾は延暦または貞観の噴火の産物ではないかと推定されている。しかし、その流れは帯状に長く、青木ケ原を埋めた溶岩のような広大さはないので、富士文明絶滅説は怪しくなるのである。
 では、宮下文献は偽書なのかということになる。実際、富士周辺を研究している地質学者にとっては、かつての富士文明の存在「高天原伝説」は語る必要もない「嘘」でしかないという見方が強い。つまり、結論的には宮下文献は富士山北麓の史実を表しているのではなく、場所が意図的にすり替えられたと考えられるのである。
 それでは本当の高天原はどこだったのろうか。恐らく、それは宮下文書に出てくる地名を共有する他の地域にあるはずである。そこで徐福伝説をもつ東海の三神山の地、東三河から奥三河の地という線があぶり出されてくる。東三河には神々の来訪伝承が無数にあるが、中でも興味深いのは石巻山である。愛知県豊橋市の東北に位置する牛川町と石巻山には、不思議な謎がかくされていた。
 謎の一つは、牛川稲荷神社の境内に立つ20に及ぶ立石である。そこに刻まれている文字は今まで見聞きしたことのない謎の大神の名であり、地神と刻まれた石巻山遥拝石である。また、蓬莱島を模した弁天島と浪ノ上1号という発生期の古墳がある。そこから中国将官用環頭の両刃の剣が出土している。
 また、東三河には神と崇められた霊山が多い。その中でも石巻山と本宮山、更に内陸にある鳳来寺山は、日本古来の有名な神山で修験者の住む処であった。まさしく東海の三神山なのである。宮下文書で語られる徐福渡来が史実であり、最終目標である蓬莱の国が日本であり、しかも3神山を目指していたというのであれば、それは徐福伝説をもつ東海地方の三神山を目指していたとしか考えられない。
 秦の徐福、日本渡来の伝説が史実であるとするならば、日本各地に残る徐福伝説はこう解釈できないだろうか。徐福は3000あまりの童男、童女を引き連れ、大船団を組んで日本にやってきた。しかし、船団は分裂し日本各地に上陸した。その本隊は愛知県御津に上陸し、真の三神山である石巻山、本宮山、鳳来寺山を見いだし、この地域に住み着いて、その後の日本の基礎を築いた。富士山麓には分岐船団、徐市の一行が到着したが、東三河との交流もあって東三河での史実が、富士山麓の史実にすり変わってしまった。宮下文書記載の内容は富士山の爆発にも影響されず、現実は東三河に残っている。
 しかしながら、徐市の一行が富士山麓に到着したのであれば、そこにも文明、ないしはなんらかの生活が築かれていたはずである。事実、富士北麓を覆う溶岩の下からは、多数の土器などが出土しており、そこに人間が居住していたことは立証されている。それこそが富士文明ではないかと考えるわけである。
 さて、そこで問題は黄泉、奈落という考えである。実際に地下世界があったのではないとするならば、前述のように「死」を意味する流刑であったのかもしれない。当時、日本の中心が西日本であったとするならば、未開地であった東日本に流刑されれば、死んだも同然と考え、畿内より東を黄泉と呼んでいた可能性がないとは断じきれない。
 だが、徐福伝説が史実であり、彼こそが日本の古代文明を齎したとするならば、畿内文明と富士文明は交流があったという宮下文献から推測されるように、東日本は決して未開の地ではなかったということになる。
 そこまで考え、劉児はある可能性に思い当たった。
 つまり、富士文明とは別に富士周辺に文明が栄えていたのではないかということだ。
 徐福、もしくは徐市が富士へたどり着いた際、現在の富士五湖周辺にはすでに文明が存在していた。それを併合しようとしたのか、土地の人間と共存しようとしたのかは不明だが、もし武力によって併合しようとしたのならば、当たり前だが古くからいた人間は反発したはずである。そして、始皇帝の命令によって動いていた徐福らには、当時の日本など足元にも及ばない武力を誇っていたことは容易に想像できる。
 徐福一行からの攻撃を逃れるため、現地人が地下に逃げたのだとしても不思議ではない。実際、溶岩石で形成された富士周辺には、多数の風穴や氷穴が存在する。そうした中に広大なものがあったという可能性は否定できない。事実、トルコのカッパドキアには世界最大とも言われる地下都市が存在している。また、スロヴェニアに巨大な鍾乳洞があるように、日本にも似たような地下空洞がないとは言い切れない。
(風穴が怪しいかもしれないな)
 そう劉児は考えた。現在、観光地として公開されている風穴ではなく、非公開のものもあるはずだ。そして、非公開であるからには、なにかしらの理由があると考えた。
 もしかしたら、風穴のいくつかが、失われた地下都市へ通じているのかもしれない。そんな淡い期待を抱き、劉児は風穴を調べるために向かった。

 完


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 6607/御剣劉児/男性/28歳/喫茶店のマスター・武器商人

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■         ライター通信          ■
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 このたびはご依頼いただきありがとうございます。
 お待たせしてしまい、申し訳ありません。
 神々の柩編の第2回目ということで、情報を基にした推測をメインにやらせていただきました。
 リテイクなどございましたら、遠慮なく申し付けください。
 では、またの機会によろしくお願いいたします。