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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


■夜花の下■





 空の裾にいわゆる入道雲が大きく広がり風が強まったときには多少空模様を案じもしたが、幸いなことに日が西に走るに従ってそれは姿を控えた。
 蒸し損ねた熱はまだ残ってはいるものの、人の熱に比べればたいしたものでもない。
 屋台の立ち並ぶ参道を溢れ返る人とその体温から逃れるようにして木陰に寄ったところで槻島綾と千住瞳子は同時に息を吐くと、互いの顔を見て苦笑した。それからそのままつと目を合わせて沈黙する。
 それぞれに何事かを言いたげにしているものの、窺い合うものだから言い出せない。
 きゅと瞳子が手にした巾着の紐を少しばかり引いたのを機に綾はぱくと口を開きかけ――やめた。足元を浴衣姿の子供が二人小走りに通り過ぎかけて、母親らしき女性がたしなめたのである。それに阻まれる形で綾の言葉は音になり損ねた。
「……行きましょうか」
 子供二人をちらりと見て綾はごく僅かに肩から力を抜いた。
 ああ緊張していたのだなと自覚して、ほんの一言なのに上手くいかないものだと思う。その彼に返事をしながら瞳子もまた少しばかりの何某かを表情に一瞬刷いてから馴染まないうなじの辺りに手をやった。
 浴衣に合わせたものの気に入らなくて数度纏め直した髪。それが落ち着かない。今更触れて整えようとしても逆に崩してみっともないことになるのは目に見えていて、僅かな感触で乱れはないと確かめるのがせいぜいだ。指先に櫛を入れて整えた髪の流れを沿えてから手を下ろすと巾着が手首から揺れた。
 けれど触れるに触れられないもどかしさはもしかしたら髪についてだけではないのではなかろうか。
 自然に瞳子と手を繋いで歩く綾の顔をそっと見上げてみる。深い色の瞳が時折屋台の光に鮮やかな緑を覗かせていて、それを見るうちに今度は帯の辺りを整える素振りで瞳子はもどかしさを誤魔化した。
 微妙な、ぎこちなさ。
 嫌なわけではないけれど落ち着かない、そんな。


 ** *** *


 小さな扇風機が屋台の向こうに座る若い男性をかろうじて涼ませている。
 店番の汗ばんだ様子なぞ知ったものかと彼の足先で動き回る金魚。そのひらりひらりとした尾鰭の揺れがあるかなしかの水流を作り、追うのは子供の歓声と水飛沫。
 並んで挑戦していたけれど、白熱したどこかの子供と金魚の戦いのおかげであまり芳しい成果ではなかった。
「人のせいみたいな言い方は良くないですね。不器用なんでしょうか」
 楽しげにおどけて言う綾に瞳子もくすくす笑う。
 彼女の笑みに唱和するように手に提げた風鈴がちりんと鳴ったのは、先程の金魚すくいの夜店から並んで幾つか置いた店に並べられているもの一つを見ているから。
 海洋生物や海鳥を象ったものから、椀を引っくり返したような見慣れたものまでずらりと並ぶ風鈴達。
 人波の隙間を通って吹く風に時折ひそりと小さな音を立てる。
 手の中にある小振りの風鈴は硝子の向こう側を透かしているが、一筋二筋と筆を走らせた色が乗っているその点が瞳子の興味を誘う。絵師が気紛れに引いたようなあっさりとした線であるのに濃淡までも鮮やかに浮かび上がっているそれ。
「……」
 指だけの力で僅かに振ってみる。
 ち、と掠める音はやはり蝉と同様に夏を思う時には当たり前に浮かぶもの。
 ち、ち、ち、と余韻を作る程の勢いもなく時折夜風も混ざって風鈴は鳴る。
 綾が瞳子の手の中で控えめに存在を主張する小さな風鈴を見てから、なにやら考える様子の恋人も見た。ちりちりとただ筆色を走らせただけの模様の風鈴を持ったまま真面目に首を傾げている彼女の前、幸いというべきかあまり商売熱心には見えない女性が扇子で自分をあおぎながら瞳子を興味深そうに。
 すいと瞳子の目線が動く。
 一織の布かと思わせるくらいに整えられた髪は纏め上げられていたので横顔でもすぐに気付いた。
 見る先にも風鈴があって、おや、といった感覚で綾は手に取る。
「あ、どちらにしようかと思って。お待たせしてすいません」
「いえ大丈夫ですよ――ああ、色と走りが少し違うんですね」
「はい。その、二つとも買おうとは思うんですけど……」
 どちらにしようかと、という声。
 綾の言葉に顔を向けて話していた瞳子がまた店を向いてまばたきする。睫毛が彼女越しの光に浮かんで、代わりに目尻の朱はごく僅かにしか目立たない。けれど見えてしまったので綾も少しばかりあらぬ方を眺めて。

「帰ってから見比べたらどうなのかとオバちゃん思うね」

 邪魔だという素振りではなく呆れと微笑ましさを顔に乗せて二人に言う、それにはたと顔を合わせて照れ笑いを浮かべ合うまでの少しの間はおそらく店の女性には当事者よりも長く感じられただろうと思われる。



 そんなちょっとした遣り取りの後に買い、箱に収めた風鈴を二つばかり何の変哲もないビニールに入れて渡されてぶら提げて歩く。無論手に取っていた簡素ながら鮮やかな風鈴だ。
 ざくざくと砂利を踏む音が不思議と耳に響くのは、実際の音ではないのだろう。
 踏む感触が周囲の賑やかな声を上書きするように音を膨らませている、そんなところ。
「大丈夫ですか?」
「はい。平気です」
 混ざる小石や段差、人を避けたとき。そのたびに瞳子と綾の歩調はずれる。
 浴衣姿に合わせて下駄を履いている瞳子がどうしてもちょっとした拍子に普段の動きを乱すのだ。
 前髪を軽く撫で付ける彼女の慎重な手付きを見てから綾は気付かれないように唇を綻ばせた。
 それは、待ち合わせた時間のそのすぐ後。
 まだ夜店の灯火が曖昧な、今程に鮮やかでもなく遠目に危うくもない頃だったけれど、慣れない履物と浴衣ではあまりに歩きにくかったらしい。足をもつれさせるわ浴衣の乱ればかりが気になって会話も半端に途切れるわ、しかもそれが込み合った人混みでのことなので彼女もなかなかに困っていたのだろう。
「もういいや」
 そんな呟きが囃子をくぐりぬけて綾に届いたのを知らぬふりをすれば、さりげなく瞳子は歩き方を変えた。普段のままに、ただし流石に浴衣を乱して足を晒す羽目になるのは遠慮すべく幾分小さな歩幅で。
 横目に窺ったその姿に可愛らしいなと自然と考えて綾は思い出すだけでも笑みが浮かぶ。
 とはいえ瞳子と一緒に過ごす時間はたいてい当たり前のように穏やかで互いに微笑み合うことも多いのだけれど、また少し違う微笑ましさだった。
 おかげで当初のぎこちない、微妙な空気は溶けて消えたけれど、さて。
 綾の笑う気配に瞳子が怪訝そうに振り仰ぐ。その向こうで射的に興じるグループの姿。視界に入る空はもう暗いけれど地上は立ち並ぶ屋台の明かりが眩しくて、対照的な様だった。
「綾さん?」
「いえ、まだ少し早いな、と」
 つと確かめた時間はいささか早い。
 考えながらゆるゆると並ぶ屋台を眺めつつまた歩き出す。
 境内手前でなにやら神楽か何かもあったはずだ。それを見物して時間を潰すのもいいだろうか。
 傍らの瞳子は慣れぬ装いな分だけ歩き回るのも疲れるだろうし、一息入れる方が良さそうにも思う。あるいは何か軽く食べておくとか。姫林檎のリンゴ飴は食べたけれどたいした量でもないし。
 そこまで考えたところで――どうやらタイミングを外されることは多い日らしく「あ」と瞳子が何かに気付いて声を上げた。続いて見るとちらちらと歩く人々も見ている。
 おかあさぁん、と小さく叫ぶ声。
 迷子だと察したときには瞳子は普段の歩調、歩幅そのままに足元も気にせず人をすり抜けてそちらへ向かっていた。綾がそのすぐ後に続く。
 だんだんと一方向を見る人が増えていく。そこに。
「おかーさん!おかあさぁーん!」
 近付けば尚響く、泣きそうな、癇癪を起こしているような、不安をまだ堪えている様子の子供がいた。
 小学校にはまだ早いだろう程度の低い背がうろうろと左右を窺い多少動く。けれど周囲は知らない大人ばかりで子供の目指す人はいない。おかぁさん、と呼ぶ。答えがない。
「おかーさん!おとーさん!」
 気にはなるのだろうけれど、まだ声をかけるには躊躇われるのか何人もが見ては去る。
 怒っているような子供の甲高い声に眉を顰める人もまたいる中で瞳子は正面に立つと、すぐに膝を曲げた。
「どうしたのかな?」
 そっと笑いかける。
 向かい合う二人の横で綾もまた膝を曲げて子供の顔の高さに。
 顔中に力を入れて親を呼んでいたのだろうその子が目をしばたたくのを見て、ああ泣きそうだとそれぞれに思った。


 ** *** *


「すぐに見つかって良かったですね」
「ええ。連絡所に向かわれていて幸いでした」
 瞳子の言葉に同意しながら綾が軽く首を回す。
 やはり迷子だった件の子を落ち着かせながら連絡所に向かったのだけれど、生憎と連絡所のあるのは正面の参道のさらに外近くだった。ちなみにそのとき二人が居たのは境内近くの随分と奥の辺り。
「あの子、喜んでましたね。肩車」
 そうですね、と親と再会できたことを指していると思った綾は続いた言葉に一拍置いた。
 改めて「確かに」と頷いたときに今度は首元を軽く揉む。
「大人しく掴まっていてくれたから出来ましたけど、世の父親というのは大変です」
 冗談めかしてしみじみした調子に見せる彼に瞳子がペットボトルのお茶を差し出すと、礼を言って受け取った。
 ありがとうございます。どういたしまして。
 はぐれた子供が無事に親と会えたことを互いの笑顔で喜び合いつつ、今度こそ二人は適当に人波を避けて休憩している。
「ああ――もう少ししたら、始まりますね」
「花火大会ですね」
「ええ。瞳子さんは疲れては?」
「大丈夫です。綾さんこそ」
「僕も大丈夫ですよ」
 ただ流石に首周りを無意識に解すことにはなっているのだけれど。
 連絡所までが遠く、手を繋いで歩くのでは時間もかかるし下手をすれば綾達まで子供とはぐれかねない。なのでまだ小さな子だからと綾は子供の前で屈むと背を見せたのである。
『どうぞ。僕が背負います』
 ……あるいはおんぶのつもりだったのかも知れない。
 少なくとも瞳子はちらりとその瞬間に思ったものだ。
 しかし子供は手近な石に乗ってから――この『手近な場所に程良い高さの石』があったのも原因だ――脇から綾の肩に跨ろうとしたのである。無理のある方法に、当然ながらぐらりと乗り損ねるのを慌てて瞳子が支え、そうして子供の希望に気付いた綾は改めて肩車を提案した次第だ。
 けれどそれで何某かのキャラクターがプリントされた綿菓子の袋を握ったその子が親に会うまで不安を忘れたのならそれでいい。そんな風に考えるのは綾も瞳子もきっと同じ。
 思い出してはほんのりと心和ませて、夜風が木の梢を揺らすのに混ぜて遠くからざわめきを聞きながら揺れる夏祭りの場の灯りを見ていた。

 ややあって、さて、と箸を置く。
 休憩がてらお茶と、通りがかった屋台の焼き蕎麦を食べながら時間を潰せばそろそろ花火会場に移る頃合だった。
 そこかしこである夏祭りの中で、今日を選んだのはお互いの都合もあるけれど花火見物も理由の一つ。それを逃すのも惜しいわけで、割り箸と容器をビニールに入れていく。
「ごちそうさまでした」
 ぱちんと両手を合わせて綾と瞳子は袋にまとめた容器類を見る。
「なんだか美味しかったです」
 屋台だと侮れないですね、と言う瞳子に頷きながら袋の口を結ぶ綾。
「それに、やっぱりこういう場所だと不思議と美味しく感じるんですよね」
「なんだか雰囲気が違うと気持ちも違うというか……半分ずつ位のつもりだったんですけど」
 頼むときに鼻をくすぐった匂いにそそのかされて一人一個で頼んでしまった。
 微妙にお腹が膨れたというかもたれたというか、実際にはそうでもないのだろうけれど帯が気になって端をそろりと指で引いた瞳子である。
「まあ量はそう多くもなかったですし」
 立ちながら綾。
「私捨ててきます」
 捨てて来ますねと彼が言いかけたところで慌てて瞳子はそう、口を開いて立ち上がった。
 ぴりと薄い痛みに足首を曲げる。体勢を崩しかけたのを綾が踏み出して半ば抱えるようにして止めると、気遣わしげな目を瞳子の顔と足元に向けて。
「……瞳子さん」
「はい」
 抑えた声で呼ぶのに返す。
 綾の目元が寄せられているのに気づき、視線を辿ってああと瞳子も表情を変えた。
「先に袋を捨てて来ますから、そのまま体重をかけないで。すぐですから」
 背を向けて少し先にある臨時ゴミ捨場の様子を見せる一角に駆けて行く彼の背中を眺める。言われた通り、体重は多少無理もあるが片方を庇う形で立って負担を減らしながらだ。
「折角お洒落したのに」
 慣れない格好のおかげで足を痛めてしまった。
 見下ろす足先は指の股が赤く擦り剥けているけれど、それではなく手近な石で擦った上に捻ったのかじわじわと疼き出している足首。それを綾は見たのだろう。
(ごめんなさい、綾さん)
 戻って来る綾の先刻までの寛いだ様子を退けた表情に申し訳なくなる。
 二人とも楽しみにしていたし、何度も着直し結い直した浴衣と帯のことだって。
 時折居たような、足元だけ靴で、ということはしたくなかったけれど今はまだそちらの方が良かっただろうかとさえ思う。あーあ、という気持ちで瞳子は綾に「すいません」と謝った。
 それに綾がかぶりを振る。
「謝るのはこちらです。瞳子さんが下駄を履いているのは解っていたのに普段通りに動いて」
「そんな――っきゃ!あ、綾さん!」
 彼が詫びるのに更に返しかけたが予想外の展開に瞳子は慌てて綾の名を呼ぶ。
 失礼します、と続けて言いながら綾は身体を曲げ、かと思えば瞳子の背と膝裏に腕を回して引き寄せたのである。そのままぐいと姿勢を戻せば綾の腕の中で横抱きにされる状態に。
「あや、あやさん。あの」
 これはいわゆるお姫様のあの状態でつまりいわゆる姫抱っこというやつで。
 ぐるぐると瞬間的に脳内を過ぎる説明を瞳子が噛み砕く間に彼女の王子様は普段よりも早足大股で歩き出す。
「待って下さい、綾さん、私大丈夫ですから!」
 と、彼の襟元を握って耳近くで叫ぶ形になりつつ呼べば綾の動き出した足はまた止まった。至近距離から深い緑の眸が瞳子を見る。あの、ともう一度今度は控えめに呼んだ。
「歩けますから私」
「だめですよ、怪我してるのに」
 だからおろして下さい、と言うよりも先にさらりと綾に拒まれる。
「無理して明日悪化しては大変ですよ」
「そんなに酷くないですから」
「だとしてもせめて応急処置をしてからでしょう」
「でも」
「瞳子さん」
 その近い視線のままで目を合わせられて瞳子は口を閉じた。
 綾の目は疑う必要もなく真摯で、ふざけた様子はない。見返しながら綾が瞳子を背負うわけにもいかないことにも気付く。今の自分は浴衣だから、簡単に乱れるし足も出る。でなければ、背負う方が綾としても楽だろうに。
「ずっと気付かないでいて申し訳ないんです。せめて今からでも無理をして欲しくない」
「……花火大会の後で、いいです」
「途中からでも見れます。こちらの方が大事ですから」
 きっと当たり前の言葉なのだけれど、瞳子にしても花火大会と綾は天秤にかけるまでもないのだけれど、でもやはり胸を打つ。緩慢に視線を下ろして瞼も伏せると瞳子は「ありがとうございます」と言った。はい、と答えて綾は再び歩き出す。その先はどうやら駐車場のようだった。車で手当てをしてくれるつもりなのだと考えて、そこでもう瞳子はきゅっと掴んだ綾の衣服に顔も寄せる。まだ灯りが溢れる辺りではないから、今の内に。

 きっと耳の辺りまで赤く火照っているだろう熱が引けば良いと、思いながら。

 顔を隠してしまった瞳子が、こちらも周囲から時折飛ぶ視線だけでなく目尻から頬骨辺りに熱を感じつつ歩く綾に気付かないまま駐車場まで辿り着く。
 普段よりも盛況だろうそこは、車の数こそ多いものの人は居る様子がない。
 ぐるりとひとしきり見回して記憶を確かめると、綾は瞳子を抱き上げたまま己の車の方へと向かった。並ぶ車の中に馴染んだものを探す。
「もう着きますから」
 腕の中でしがみついて顔を隠す、なんとも可愛らしい行動を取ったままの瞳子に呼びかけて一度その足を見て、状態を暗いながらも窺う。水場は、と綾が頭の中で出来る事を確かめて。
「瞳子さん」
 呼んだ、瞬間を狙っていたかのようだった。


 ――ぉん


 低い音が空から降り、重なって降る鮮やかな。
「空を、瞳子さん」
 呼ぶ声を繰り返せば瞳子が綾にしがみついていた腕の先、皺をつけるほど握っていた指を緩く開いて顔を上げる。見上げた空に続けて響く重低音。光が鮮やかに広がっては降り音と一緒に身体を震わせて。
「……花火」
「ええ」
 鮮やかに開いては散り光を撒く。
 綺麗ですね、とどちららからともなく呟いて声が重なったのに気付いて相手を見た。その間も花火は大小織り交ぜて幾つも上がる。
「駐車場からも見えたんですね」
「そうですね。会場よりも良いかもしれません」
「落ち着いて見物出来ます」
「ええ」
 話しながらも車に戻り、瞳子を下ろす。
 足の具合を調べながら空を照らしては消える花火を二人で見上げてぽつぽつと言葉を交わした。綺麗ですね、だとか、あの形、だとか、そんな些細なものに応えを返す程度の会話とも言い難い遣り取り。
 どん、と一つ大きなものが勿体ぶって上げられたときには歓声が遠くから流れて来た。
「ああ――本当に見事なものですね」
 瞳子の傍らで綾が空を仰いで言う。
 はい、とまた応えを返すに留まって二人無言で空を仰いだ。
 響く音。光。ときに届く人のざわめき。
 けれど並ぶ綾と瞳子の周囲には紗幕があって、それが先程までの賑やかな空間から引き離す。吹く夜風のようなさりげなさ。
 その沈黙の中で「瞳子さん」と綾がゆるく声を落とした。
 瞳子の足を診ていたそのままの姿勢の彼は瞳子よりも車の座席に腰掛けている瞳子よりも低い。花火に照らされた髪が光を乗せる。
 静かな彼の声に静かに眸を向ければ――。


 賑やかさではなく、涼やかさをまず覚えるすっきりとした桔梗柄。髪型も、手に持った巾着も、帯もそれから下駄も、本当に気を入れて装ってくれたのだと知れるそれら。
 瞳子にしてもきっと何某かの言葉を求める気持ちはあるだろう。
 なのに自分と一緒に夏祭りに出る、その為に装ってくれたのだと思うと綾は嬉しく思いながら何も言えなかった。言う前に正面から相手を見てしまい、どこか非現実を思い起こさせる祭りの灯りを映した眸を重ねる間に言葉は見失い気恥ずかしさばかりを見つけ出す。
 一瞬の、本当に一瞬のことであったはずなのに。
「――さぁ、行きましょうか」
 外れる視線。
 そのタイミングばかり睦まじく揃って逸らしてから綾が促す。
 瞳子は悩んで決めた浴衣と下駄とを一度するりと流し見てから僅かな落胆を足元に捨てたことにすると「はい」と微笑んだ。
 何か一言を。
 言い損ね、聞き損ね。


 ――それが今何気なく落とされた。
「可愛いですよ」
 自然に笑って綾が言う。
 浴衣と下駄と、巾着。髪を装いに合わせて整えて。
 それらを時間もかかっただろうに選んでくれた瞳子自身。その気持ち。
 彼女を作る何もかもをきっとひっくるめて言っているのだろうと綾は胸の内のどこかで思う。意識する程ではない泡のような認識で。
 彼が見上げる前で瞳子の眸を縁取る睫毛が揺れる。
 ぱちぱちと数度揺れている間に瞳子が笑う。
「ありがとうございます」
 嬉しい、と小さく続いたのが空耳だったのか実際に洩れたのかは気にならず、頭上で尚も咲く花の光の明滅を感じ取る。瞳子が見下ろす。綾が見上げる。
 巾着を握る手にそれよりいくらか大きく骨の張った手が触れた。
 低い音を乗せて花が空で散る。
 少しだけお互いに身体を伸ばし身体を屈めれば、なんて近い場所に吐息があるのだろう。だんだんと朧になる相手の輪郭の中で浮かぶ微笑を確かに見て取りながら、そして相手の眸に映る己の微笑さえ見出しながら。

 夜の空を飾る彩りが続く中でそろりと唇を、寄せた。





end.