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<東京怪談ノベル(シングル)>


硯に向かひて



 つれづれなるままに 日暮し硯にむかひて 心にうつりゆくよしなしごとを 
 そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ――


 そんな、とある古典の序文が藤宮永(ふじみや・えい)の脳裏を掠めてゆくほど、のどかな日であった。
 真白の空間にどのような言葉を生み出し、定着させ、無限の世界の一角を創りだすか。今はそんな事を考えながら言葉を書きつけている訳でも、書家として一瞬の緊張の只中に身を投じている訳でもない。
「本日休業」を決め込んでいるのか、永は和室の中央に座し、緩やかな時間の流れにただひたすら身を任せて、もう随分と長い事座卓の上に広げられた半紙へ、それこそとりとめの無い事を書き綴っていた。

 文字が体をあらわしているのか、それとも体が文字をあらわしているのか。
 物腰優雅な永の手から生み出される字は流麗で達筆。さらにその美しい文字を、上質な墨の濃淡が一段と際立たせている。
 部屋の中は品良い墨の香りで満たされ、その香りに至極ご満悦な表情の永ではあったが。つい今しがた脳裏を掠めていった古典の意味を思い出すと、手にしていた筆を置き、思わず腕を組んで首を傾げた。
「……妙にけったいな気分になってきたーて、どないな気分やろか」
 もっとマシな解釈してくれへんかと、ポツリ呟かれた独り言は関西弁。だがこの藤宮永という男、別段関西出身という訳でも関西に住んでいた過去がある訳でもない。
 それなら何で関西弁やねん!と誰しもがツッコミを入れたくなるのだが、何故関西弁になるのかは、永自身全くもって不明らしい。
「まぁええか。古文解釈なんぞ、どこぞのえらい学者先生に任せるんが一番や」
 夢中になれるものを見つけるととことん没頭。反面、さほど興味のない事柄に関しては右から左へさらりと受け流してしまえるのはB型のなせる業だろうか。
 しばしの沈黙の後、永は再び筆を手に取り墨を含ませると、姿勢を正して真白の半紙に向き直った。

 休業日であったとしても、永が文字に向かう時は、常に凛とした清浄な空気がその場を支配する。
 墨を磨る、己の心が最も「無」の領域へ近づける蕭やかな空間。半紙へ筆を馴染ませる一瞬の緊張。そして真白の世界が己の書きつけた文字で埋められて行く、何とも形容し難い感覚。――書家として最も充足した刻。
 一つ呼吸を置いた後、永は無の空間へするすると文字を生み出して行く。


『智恵出でては偽りあり 才能は煩悩の増長せるなり』


 綴られた文章は、先ほどと同じ古典作品の一節に載せられているものだった。
 すっと筆を抜いてその一文を書き終えると、永は軽い溜息を零す。暫くあってから筆を置き、座卓に左肘をついて左手に顎をのせると、
「……なんや私の事言われとるみたいやね」
 永は独り呟きながら苦笑した。

 書きつけた文をひとしきり眺めた後。永は何を思ったのか、半紙の中にある『偽』という文字をコンコンと軽く人差し指で叩いた。
 するとどうだろう。今まで一寸の歪み無く綺麗に羅列していた文字が、風に吹かれて流されて行く砂のように、さらさらと『偽』の文字だけを残して跡形も無く消え去った。
 残されたのはただ、半紙の中央にある『偽』の文字だけ。
 さらに永が『偽』を軽く小突くと今度は、『偽』が『人』という字と『為』という字に分かれた。
 綴った会意の組み合わせを変える、字遊びの一片だ。
 その二文字を、永は何事も無かったかのように腕を組みながら眺め遣る。

――「人の為」と書いて偽りとなるが、ならば偽り……仮初の物質、現象を生み出す己の力は「人の為」に備わったものなのか? 

 文字――殊、漢字は一つ一つが底知れぬ程に深い意味を持つ。
 故に一字のみで、そのものの本質を捉える事さえ出来る。漢字が「真名」とも称される所以だ。
 これらの真名が抱く意味を解さずに、ただ闇雲に字面を綴るだけであれば、漢字は文章を構成する為の単なる一要素に過ぎない。
 永にはこの真名を深く解し、物質として具象化する能力が備わっていた。
 だが――。

 ふと思う。
 厄介事は面倒なので、上手い具合に無力な一般人のフリをして暮らしているが、本当にそれで良いのだろうか。
 けれど誰も己の抱く能力の事を知らないのであれば、持っていても持っていないのと同等のような気がする……。
 己の持つ能力に驕り、高みから見物してる訳ではない。ただ時折、ふとした拍子に考えてしまうのだ。
 何故自分にこのような能力が与えられたのかと。

 永がそんな事を思い巡らしている時だった。離れていた文字がするりと元に戻り、『偽』という漢字が再び半紙の中に浮かび上がった。
 真白の紙の上で妙に冴え冴えとした墨の黒が映える。
 窓辺から入る湿り気を帯びた夏の風が永の頬を、同時に半紙を掠めると、俄かに『偽』が揺らいで何某かの形を形成し始めた。
 この真名から何が具象化されるのか。永が何とはなしに文字へ息を吹きかけると、紙の上で揺らいでいた文字が不意に外へ抜け出した。

 黒い靄のような塊はしばらくその場を彷徨い、やがて無数の表情へと変化する不可思議な面を被った男の姿を象って行く。
 『偽』は人の作為により幾重にも姿を変える。転じて正体を隠してうわべをつくろうという意味も持つ。
 面の表情が変わるのはその所為だろうか。

――無力なフリをして能力を隠し……人を偽っている事を諌めているのか?

 具象化されたものを見て、永は微かに眉間にしわを寄せた。
 だがそれも束の間の事。
「なーんて、阿呆くさっ! 私は正義のヒーローでも何でもないんやし、そんなんどうでもええやん」
 永は己の中に在る微かな動揺を掻き消すように力強く言い放った。
 片手をひらひらと左右に振ると、永の動きに呼応して面を被った男の姿が歪み、風に吹かれた煙のように一瞬にして無へと帰ってゆく。
 後に残ったのは、何事も無かったかのように再び半紙にあらわれた古典の文面。
 永はその文字を一瞥すると、立ち上がって窓辺へと足を運んだ。


 窓辺から覗く景色は、平凡でのどかな夏の日を呈していた。
 広大な青空と、そこに浮かぶ入道雲を眺めていると、部屋に閉じこもって由無い事を考えている己が何故だかとても小さく思えてくる。
「これが正しいという価値の基準なんてどこにもあれへん。せやから自分の能力に自分から捉われに行く必要なんて何処にも無いんや」
 深く考えたところでどうにかなるわけでもないしな、と一人呟くと、やがて永は大きく深呼吸をした。
「大体人の為の力なら、人である自分が生き易いよう使って問題ない!」
 ぽんと軽く両手を叩くと、永は己の中にあった疑問を自己完結させる。
 結論が導き出されれば、それまで思考を巡らせていた頭の中が、急に晴れ渡ったような気がした。
 思考の迷路にはまると長いが、一度抜け出すと達観してしまう……やはりこれもB型のなせる業なのかもしれない。
 そんな自分を少し潔いなと思いつつ、先ほど『偽』が具象化された姿を思いだすと、矢張り文字は奥深いなぁと思ってしまう。
「……せやからこそ、書家を生業にしておるんやけどね」

 文字と同じく人の心も奥が深い。
 それ故に、深みに足を取られて身動きが取れなくなることが無いように。
 面倒くさいと思えるくらいが丁度いいのだと、永は穏やかに笑う。
 そして一度青空を見上げると、永は再び文字と向き合うために、踵を返してその場を離れた。



<了>