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闇狩り
大禍刻より移ろい出でた闇は、ねっとりと纏わりつくように荒廃した街を支配していた。
刻を渡り歩く身であるが故に、此処が現であるのか遠い過去であるのかは定かでない。だが刻の流れに身を置く事さえどうでも良いと感じているのか、葛城夜都(かつらぎ・やと)はその表情に虚無を湛えたまま、深まり行く闇の中に溶け込むようにして、父、紫黒の傍らに佇んでいた。
腹をすかせているのだろう。紫黒は先ほどから双眸を妖しく光らせ、しきりに夜都の周囲を徘徊している。
――父の為に、今宵も食事を狩らねばならぬ。
夜都がゆるりと空を仰げば、闇に映える灰色の雲が異様な速さで天を駆け抜け、時折雲間から覗く真円の月は毒々しいまでの朱に染まっていた。
雲が西へ流れるのは、死者を浄土へ導くためだと言ったのは誰であろうか。今生に未練を抱き死んで行った者達の、行き場の無い苦悶が聞こえてくるようである。
冷え切った大地。
重苦しい重圧感。
空に月が在るにも拘わらず、不気味なまでにひっそりとしたそこは深淵の闇に包まれ、沿道に一定の間隔で置かれている鐘楼が、唯ぼんやりとした光を放っているだけであった。
朽ちた街に人の気配はない。かわりに、街全体を得体の知れない禍々しい邪気が覆い尽くしている。
恐らくは、妖と呼ばれる種の魔物の気配だ。
己の餌が近くに居る事を察知した紫黒は、周囲を取り巻く邪気にぬらりと舌なめずりをして、しきりに咽を鳴らしてる。
夜都は佩いていた退魔刀・白眉を、鞘から抜かぬまま利き手で持ち、静かにその両眼を閉じた。
不意に風に揺れる木々の葉擦れの音が、異様に大きく夜都の耳に届いた。
否。
葉擦れの音ではない。何かが猛烈な勢いで前方から突進してくる音だ。
夜都が銀の瞳をすっと開いて視線を走らせると、一瞬それは、周囲の空間を歪ませながら猛烈な速さで闇を切り裂きやってくる蛇に見えた。
ごうと啼く狂風が傍らを駆け抜けるも、生ぬるいそれに漆黒の装束をはためかせたまま、夜都は微動だにしない。
ふと頬に微かな痛みを感じて己の手でぬぐえば、その手にぽたりと一筋の朱が滴り落ちた。
ぬるりとした血が、夜都の手を汚す。
――この血は母のものか、父のものか。
人間の女を魔狼の父が孕ませて己が生まれた。
ではこの身を巡る朱のそれは、人のものであるのか、それとも闇のものであるのか。
漠然と、夜都は思う。
風の通り過ぎた方へ夜都が体を向けると、そこには闇の中を蠢くさらに深い闇が在った。
闇という闇を全て喰らい尽くしたかのような、何か。
幾重にも折り重なって蛇のような形を象っているそれは、苦悶と憎悪に歪んだ女の顔、顔、顔。
それらがうねりを上げてとぐろを巻き、夜都と紫黒をねめつけている。
――何が違う?
どれほどの妖魔を切り裂き、紫黒に喰わせただろう。
恐らく今己の前にいる妖魔も、夜都と紫黒を餌としか捉えていまい。
互いが互いを餌と思い、それを狩る為に意識を研ぎ澄ましている。
例え己に人の血が流れていたとしても、妖魔を餌として殺める己は、この蛇同様、闇に属するものではないのか。
――同じ闇のものである私に、同属を狩る権利などあるのか。
醜悪な妖魔を目の当たりにして己の心に湧き出た問いに、夜都は自答しようとする。
だがそれも束の間。夜都は心の深みに嵌る前に思考を止め、硬質な表情のまま前方を見据えた。
疑問ごと振り払うかのように、手にしていた白眉で風を斬ると、白眉の姿が一瞬で漆黒の大鎌へと変貌する。
女の顔をした蛇が、ニタリと笑いながら一度身を引いたかと思うと、突如物凄い勢いで夜都に襲い掛かった。だが夜都は素早く大鎌を構えてそれをかわすと、逆手に持ち替えて己の傍らを横切るそれへと大鎌を振りかざす。
微かな手ごたえが大鎌を通して夜都の体に響き、ぬらりとした妖魔の体液が刃を染め上げる。が、それは決定的なものではない。
再び夜都が蛇へ視線を滑らせると、その顔は笑みから怒りに変わっていた。
見れば夜都が切り裂いた箇所から、闇にも似た何かがどくどくと溢れ出て地を濡らしている。
その臭に、紫黒が早く餌を喰わせろと言わんばかりに、夜都へ向けて鼻を鳴らす。
夜都は紫黒のその様を無表情で受け止め、目の前の妖を見据えながら大鎌を一度振り切り、重心を右足にかけると、瞬時に妖魔に向かって踏み込んだ。
妖魔は、対峙する夜都の体に自らの牙を抉り込ませようと、奇声を発しながら夜都目掛けて突進してくる。
だが血肉に飢え、餌を求めるだけの動きが夜都に敵うはずもない。
夜都はそれを大鎌の柄で抑え込み、妖魔を殺める為とは思えぬ流麗な動きで、明確に相手の急所へと大鎌を振り下した。
切り裂かれた妖が断末魔の悲鳴を上げる。すると、今まで見ているだけであった紫黒が、もう待てぬとばかりに女の顔をした蛇へと喰らい付いた。
絶叫と、肉を食む音と、血をすする音のみが交互に夜都の耳を掠め行く。それは幾度も聞いてきた音。
夜都は微かに肩で息をしながら、妖魔を貪り喰らう父のさまを無表情のまま見下ろした。
――私もいずれ喰われる時が来るのだろうか。
数え切れぬほど妖魔と対峙してきたにも拘らず、未だこうして狩られてはいない。
だが、妖魔に刃を向け続ける以上、それは時間の問題かも知れぬ。
そう思いこそすれ、夜都は己の死に対して恐れはなかった。
怒りも、悲しみも、喜びも、全てが虚無に包まれて夜都の心の表層にさえあらわれる事は無い。
腹を括っていると言うよりも……どうでも良いのだ。
生ぬるい風が流れた。
その風に黒髪を靡かせながら、ふと紫黒の傍らへと目を向ければ、そこに夏の花が咲いているのを夜都は見た。
「花が……」
一輪だけではない。今まで気づかなかったが、己が妖魔と対峙していたその大地に、見た事もない優美な花が咲いていた。
――これはなんと言う名の花か。
屍が流す血肉に穢れる事無く、ただ静かに風にその身を揺らしながら咲く花を、夜都は美しいと思った。
と同時に、屍を前にして花を美しいと感じる己の心に、驚きを隠せずにも居た。
美しいもの。
美しく在るもの。
己の存在とは程遠い場所に位置するもの達。
同属である魔を狩り裁きを下して居る己が、清浄なるものを美しいと思う。この矛盾した心の何と愚かな事か。
いっそ己の身と同じように、この花も汚してしまおうか――。
そう思いこそすれ、何故か夜都は地に咲く花を踏みつける事が出来なかった。
寂寞の念が夜都の心を支配して行く、その時。
「――踏み拉かぬのですか?」
突如、真後ろから声をかけられて、夜都は振り向いた。
先ほどまで己と、紫黒と、今は形すら留めていない妖のみが占める世界であったのに、いつの間に背後を取られたのであろうか。そこには和服姿の一人の男が立っていた。
――妖か?
微塵でも闇の気配を感じれば、容赦はしない。
だが目の前の男からは、邪も聖も、敵意さえ感じられなかった。
何時の間にか、雲に隠れていた朱の月が、再びその姿を現して辺りを照らしはじめた。
その光は、今まで闇に支配されていた空間を、穏やかな光で染め上げて男の姿を浮き彫りにする。
気配さえなくただ静かに立ち尽くし、涼しげな笑みを浮かべて声をかけてきた男を、夜都はまじまじと見つめた。
さわさわと木々が揺れ、妖の屍から零れ落ちた大量の体液が風により波紋を作る。波紋に映った朱色の月が姿を崩し、幾重にも広がりながら月光を反射すると、ゆらゆらと赤い光が揺らめいて紅玉の様な輝きを周囲に放った。
妖魔が死んだ事で空気が正常に戻ったのか、それともこの男が現れたからなのかは判らない。だが確実に、先程までとは異なる凪いだ空間が、其処には在った。
「名は?」
不意に問われ、夜都は己の名前を口の葉に乗せる。
「……葛城、夜都」
向かう男は、その顔に穏やかな笑顔を湛えてはいたが、瞳は決して笑っていなかった。
先ほどまでの争いをこの男が見ていたのかどうかなど、夜都には知る術も無い。だが相手が己に対して殺意を抱いていない事だけは察知出来る。
「貴方は……」
「綜月漣と……申しておきましょうか」
「此方で何を?」
「あれの成れの果てを見る為に」
ついと漣が指差す方をみれば、そこでは変わらず紫黒が妖魔を喰らっている。
漣はあの妖魔に会いに来たのだろうか。
疑問に思い、夜都が問う。
「……あれは貴方の仲間ですか」
「…………」
だが夜都の問いに漣は答えず、漣は傍らに咲く花へ視線を落とすと、それをのんびりとした所作で一輪手折って、凪いだ笑顔を見せた。
「黄蓮華升麻(キレンゲショウマ)ですねぇ……此処にはまだこんな花が群生しているのですね」
「黄蓮華升麻……」
聞いたことのない花の名を独り言のように反芻しながら、夜都は漣の手の中にあるその花を、変わらずの無表情で眺め遣る。
と、今まで花に視線を落としていた漣が顔をあげた。
「ああ、連れの方の食事が終わりますよ」
その言葉に夜都が振り返れば、妖魔をたいらげた紫黒が満足げに咽を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる。
紫黒の身体は、喰らった時に付いたのであろう先刻の妖魔の血肉で濡れていた。それが月光に照らされて艶やかに夜都の瞳に映し出される。
「……一輪いただいて行きますよ」
再び、風に木々が揺れた。
その風に己の髪を抑えながら、夜都が漣の居る方を見遣れば、そこには元の闇があるばかりで、人の姿も妖魔の気配さえも感じられなかった。
「……幻?」
刻が見せた夢であろうか。
ただ一輪の花だけが、地から天に伸びるように美しい様相を呈して、その場に咲き誇っていた。
<了>
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