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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


マドファング・ビーチ 前編



■序■

 原初の自然が今もまだ息づく、屋久島と種子島の南に、尾添島(おそいじま)という小さな無人島があった。あった、というのは、この島が数年前から無人島ではなくなったからである。この島は大規模な死火山の上にあり――というより、島が死火山の頂であるのだが――広い浅瀬に恵まれ、白い砂浜はハワイやグアムを思わせるほど白かった。自然の悪戯か、この島の周辺は沖縄ばりの亜熱帯性気候であることが確認されている。
 暖かい海流や気流が起こした奇跡と気まぐれ。ある東京の一企業がこの島に目をつけて、リゾート開発を始めたのだった。それが、数年前の話になる。そして今年、〈オソイビーチ〉と銘打って、海水浴場と浜辺の宿泊施設が試験的にオープンした。

「というわけで、モニターとしてオソイビーチに行ってもらいたいと思ってるの」
 碇麗香は、数枚のオソイビーチ招待券をデスクに投げ出した。ペアチケットだ。一枚で2名、モニターとしてオソイビーチで3泊できるらしい。ビーチにはコテージタイプの宿泊施設があり、ちょっとした南国気分を味わえるのだという。
「あ、あの。なんだか依頼内容がフツーすぎるんですけど……ざ、雑誌間違ってませんか?」
「話は最後まで聞いて頂戴。……三下君、もしかして行く気なの? やめたほうがいいと思うわ」
「え、ええっ?」
 もっともな三下の突っ込み、そしてつづく疑問と驚愕。だが賢明な調査員は気づいている。ここは月刊アトラス編集部で、彼女はオカルト記事命の碇麗香。ただのモニターテスト権を、自分たちに渡してくるはずがない――。
「尾添島はもともと〈恐れ島〉と言われていたのが、訛ってオソイジマになったと言われているの。地元の漁師さんの中には、もし船の調子が悪くなっても、尾添島に停泊するくらいなら、漂流したほうがましって考えている人もいるわ。この島は恐れられているのよ。ま、最近は迷信だって思っている人のほうが多いけど」
「で、出るんですか、なんか出るんですか」
「ええ。情報も届いているわ。〈メシイヌ〉という妖怪がいるんですって。人でもなんでも、動くものなら食べてしまうらしいわ」
「……だ、だ、大丈夫なんですか、そんなところリゾート地にしちゃって!?」
「あまり大丈夫そうではないの。住みこみの従業員の行方がわからなくなったりしているのよ。企業はそれを隠しているけれど、後ろ暗い話ならいくらでもうちに届くものでしょう? だから、そう簡単に死なないうちの臨時記者に調べに行ってもらおうと思って」
 麗香はにこりともせずに話をつづけ、分厚いシステム手帳をめくった。
「夏の特集号には記事を間に合わせたいわ。東京に戻ってきたら、3日以内にレポートを頂戴。それが条件よ――キツいなんて思わないで。渡航費はこっち持ちなんだから」
 信じられない待遇ではないか!
 東京から奄美諸島近辺までの旅費はアトラス持ち。宿泊費も食費も、ペアチケットがあればすべて無料。新鮮な魚介のバーベキュー、星空と潮騒の中のかがり火。白い砂浜。
 ただひとつ、島には妖怪が住んでいるらしく、どうやらすでに何人かが蒸発しているらしいという点を除けば――除けるものならば、素晴らしい旅行になるだろう。もし何も起きなければ、レポートにはただの旅行日誌を書けばいい。

 チケットは彼らの目の前にあった。
 白と青のさわやかなチケット。
 裏返してみたら、真っ赤に染まっているのかもしれない。
 きっと、レポートは旅行日誌にはならない。

 今年の東京は、ひんやりとしていた。



■調査員白浜に立つ■


 8名の調査員が寄ってたかって脅したため、三下が尾添島の取材に同行することはなかった。彼はどうやら来たかったようだ。そして調査員の何人かは、面白がって三下を脅したことを少しばかり反省した。
 少なくとも桟橋に降り立った現時点では、尾添島の光景がひどく美しく見えたからだ。
 東京を発ったのは午前7時。現在時刻は午後3時。長い道のりだった。
 チャーター船は漁船と言っても過言ではなかった。鹿児島の港を出たときには海が荒れていたが、尾添島が近づくにつれて波はおだやかになり、桟橋が見える頃には、8人が8人とも、外国にでも来てしまったのかという錯覚にとらわれた。
 沖縄でもここまで澄んだエメラルドグリーンの海を見られるだろうか。ピンクのサンゴの群れは、極彩色の魚たちは。ビーチを彩るのはヤシとソテツだ。そして砂浜は砂とは思えないほど白い。石灰のようで、ミルクのようで、息をつけば飛びそうなほどのきめ細かさだ。
 漁船……いやチャーター船の古ぼけた温度計は、36℃を示している。しかし、東京のような湿度はここにはないし、このくらいの気温は当たり前だと思わせてしまう雰囲気が、島にはあった。
「すごい、すてきね! グアムよりきれいかも!」
「あー、こういうところで余生を過ごしたいわねえ」
「新婚旅行、こういうとこにしとけばよかったわ……」
「が、外国! ハワイですよ! バリですよ! いえ行ったことないんですけどこんな感じなんですよね!?」
「あちィよ、くそったれ。泳ぎてェ」
「我はもう少しばかり『鉄の鳥』と『鉄の魚』の乗り心地を堪能したかったぞ」
「私は反対。……でも、あの程度のフライト時間でこんなハワイみたいなところに来られるんだから、得かもしれないわね」
「簡易観測機を見る限り危険な突発性高熱プラズマが発生する可能性は低い。半径300m以内は安全だ。極めて安全だぞ!」
 光月羽澄、シュライン・エマ、藤井せりな、シオン・レ・ハイ、黒贄慶太、瀧津瀬流、田中緋玻、国光平四郎――この日月刊アトラスの取材で尾添島を訪れたのは、この8名だ。モニターは自分たちだけだろう、と、8人ともが思っていた。
「あら。他にも誰か来てるのかしら」
 桟橋はふたつあり、シュラインが残る一方の桟橋を見てそう言った。そこにも一隻の漁船……いやチャーター船が係留されている。OSOIRESORTと船首に青字でペイントされていた。
「何日も繋ぎっぱなしって感じじゃないわね。まあ、賑やかなほうが楽しいわ」
「うーん、最終日まで楽しく過ごせたらいいんだけど……」
「オイ、賭けてやる。そいつは無理だ。ぜッッッてェ無理!」
 せりなと羽澄の何気ない会話に、黒地に龍と虎のアロハシャツを着た慶太が荒々しく割り込んだ。彼はすでに桟橋から降り、白い砂浜をサンダルで踏んでいる。その横ではすでにシオンが子供のようにはしゃいでいた。この島においても彼は一張羅のスーツだ。
「黒贄さん、そんな怖い顔しなくても……」
「彼の顔はもともとだいぶ怖いわよ」
「緋玻さん、そんなこと言って!」
「ま、この島には妖怪がいるかもしれないっていう前提は忘れないほうがいいでしょうね」
 ひょい、と緋玻は荷物を抱えた。彼女のバッグは詰め込まれた洋書の冊数も冊数なので結構な重さだったが、彼女はそれを問題にしていない。
 しかし、大荷物と言えば平四郎に勝る者はなかったが、彼もまた、怪しげな謎の計測器のディスプレイを見つめながら、軽々と荷物を運んでいる。重さを感じる中枢が興奮のために麻痺しているようだ。彼はフィールドワーク(と、今回の取材を称していた)に出るのが久しぶりだったのである。
 ぞろぞろと桟橋を降り、砂浜に降り立つモニターたち。8人は、オソイビーチに常駐している従業員に温かく出迎えられていた。
 最後に桟橋を降りたのは流だ。蒼い海と蒼い空を、青の目でぐるりと見回し、その目を細めていた。ここは、波の音さえおだやかだ。人の歴史も知らぬ平和な島だ。
 平和。
 流は首を傾げた。伝承では、この島には妖怪が住むという。恐れ島、というのが真の名であるという。しかし、仮にも流は神だった。妖怪の類が島に棲みついているのなら、こうして砂浜に立っているだけでも、気配を感じ取れるはずだ。同行している緋玻とシオン、そして慶太の肌と精神からは、人ならざるものが発する気配を容易に読み取れた。
 この島は平和だ。妖怪の気配は微塵も感じられない。
 流れの勘はずっと若い頃に比べると多少は鈍っているのだが、それにしても。
 ――ふむ。邪なる妖は居ないに越したことはないが。
 誰かが島を調べ始めたら、言っておくことにしよう。今はとりあえず、コテージタイプの宿泊施設に行き、荷物を置いて、ビーチを歩く。今はそうして楽しめばいい。
 一方、流とは対称的に、慶太は落ち着かなかった。この島で何かろくでもないことが起きる、と賭けてもいいと言ったのは、冗談でも出まかせでもない。桟橋から砂浜に足を下ろした瞬間、彼の中の羆がわめき始めた。
「だーーー、うっせ! うっせ! うっせェっての!」
 彼が砂を蹴りながらピアスのチェーンを引っ張る様は、見る者にある種の不安を与えるには充分だった。シオンがいたずらに怯えているので、仕方なく羽澄が慶太を諌めた。
「ねえ、黒贄さん。そのう……大丈夫?」
「大丈夫もクソもあるか! まるで蜂の巣ン中に特攻かましてる気分だ」
「せっかく来たんだから、ちょっとは雰囲気を楽しまなくちゃ」
「俺だって好きでカリカリしてんじゃ……」
「見て!」
 シュラインの珍しい歓声めいたものが、慶太の愚痴をかき消した。桟橋からはいくらも歩いていないが、8人の前に、これから2日間を過ごすコテージがあらわれたのだった。


 ヤシとソテツ、ハイビスカスに囲まれた入り江。コテージは12戸あった。どれも南からの日差しを浴び、おだやかな潮風を受けていた。南国の樹木の枝葉がざわめく音は、東京では聞けない音だった。チャーター船は貧弱だったが、宿泊施設は真新しく、見る限りではまともだった。オソイビーチの整えられた砂浜も、入り江からほど近い。
「すごいですね! ここはすごいですね、天国ですね! 夢じゃないんでしょうか、これでタダだなんて!」
 感激のシオンは、編集部で借り受けたポラロイドカメラでコテージと入り江を激写しつづけていた。何の変哲もない平和な南国の光景が、シオンのカメラから吐き出されていく。
「シオンさん、一日目でこんなに写しちゃもったいないわ。スクープ撮りたいんでしょう?」
「あ、あああ、そうでした! タダで来させてもらったんだから編集長にそれなりのものを渡さなきゃ……」
 砂浜にぽろぽろ落ちている写真を拾って、せりなは苦笑いしている。ポラロイド写真は、ブレていたりボケていたりとどれも使えそうにない。そのかわり、取り立てて妙なものも写っていない。
 せりなが顔を上げて見たものは、海鳥が青い空を切り裂いて飛んでいくところだった。そしてその空の下で、平四郎が砂浜のド真ん中に何やら不可解なマシンを設置しているところだった。
「国光さん、それ……」
「これかね! これはプラズマ観測装置プラズマジックP−Y56Kである! そしてこれがP−Y56K観測結果の受信専用端末だ。半径3キロ以内で発生したプラズマはこれで確認できる。P−Y56K本体の素晴らしい点は、プラズマを感知した時点でその発生地点と発生時間を自動的に記録できるというところだ。これでメシネコなる妖怪が動物性プラズマであることを証明できるだろう!」
「メシイヌです、博士」
「学者。優れたからくりのようだが、此処には置くな。美しい白浜の景観が損なわれるではないか」
「どうでもいいけど、これ、妖怪に反応するの? ……だったら、私にも反応しないとおかしいんじゃないかしら……」
「無反応ね」
「まだスイッチを入れておらん! そして我輩の発明はインチキなどではない!」
「誰もインチキだなんて言ってねェだろ、いや思ってはいるかもしんねェけど」
「こらッ、触るな! なんだその露骨な猜疑の眼差しは! どけ、最終調整に入らねばならん!」
「持ってっていい荷物どれですか? コテージまで運んでおきますから……」
「おお、頼むぞ」
 平四郎はビーチにもコテージにもさして興味を持っていない。ただ、プラズマ観測装置の設置と調整を楽しんでいる様子は他の者にも充分伝わった。彼には彼なりの島の楽しみ方があるのだ。
 7人は平四郎の荷物(着替えなどの必需品が入ったバッグは異様に小さかった)を持ち、彼を残してコテージに向かった。
 ひとりプラズマ観測装置のもとにとどまった平四郎は、ひととおりの準備をすませてスイッチを入れた。エネルギー源は太陽光だ。この島には太陽の光が有り余るほど降り注いでいる。平四郎が生み出したマシンは軽く震えながら低い唸りを上げ、彼は「よしよし」と頷いてモニターを見つめた。
「ぬ?」
 コテージに向かって動いている『動物性プラズマ』がざっと4体。
 平四郎は顔を上げ、目をすがめた。
 観測機が示すプラズマは、田中緋玻、朧津瀬流、黒贄慶太、シオン・レ・ハイ。
「……少なくとも彼らはメシイヌではない。この四つの反応は除外させなければ……」
 ぎらぎらと照りつけるエネルギー源のもと、平四郎はシステムの再調整に入った。
 やはり、とても楽しそうだった。



■黄金の海■


 入り江にせり出している四阿はレストランで、夜には酒も出しているらしい。木のテーブルと椅子はアジアのリゾートを彷彿とさせるスタイルだ。今は従業員の数もわずかにふたりだが、正式にオープンしたときには、アロハシャツの客と店員であふれかえるのだろう。
 7人がレストランを通ったときには、ふたりの『先客』がいた。彼らもモニターなのだろうか――しかし、どうもリゾート地を堪能しに来たような様子ではない。ひとりは40代の男で、もうひとりは若いがあかぬけない青年だった。ふたりとも眼鏡をかけていて、アイスコーヒーを片手に真顔で話し合っている。
「……、なんだか国光さんに雰囲気似てるわ」
「ちょっとマナー違反だけど、失礼して……」
 シュラインがほんの一瞬聞き耳を立てた。彼らは、島の生態系について話し合っているようだ――。
 肩をすくめ、シュラインは声を落とした。
「どうやらほんとの意味での調査員みたいね」
「よ、妖怪の調査に来たってことですか? 真剣に? 科学者が?」
「うーん。失踪が妖怪の仕業だとは断定できないわ。少なくとも今の段階じゃ」
「妖か。ひとつ気になることがある」
 視線が流に集まった。広い四阿を風が通っていく。
「我の感覚が鈍っているのやも知れぬが、妖の気配は露ほども感じられぬ」
「わかるわ。妖怪の棲み処だって言うなら、ちょっとでも嫌な雰囲気を感じるものだと思ってたけど、ここはただの素敵な島よ。緋玻さんはどう?」
 羽澄の言葉に、緋玻も頷く。その伏せがちの目は、注意深く辺りを見回していたが。
「……そうね。でも、人の手が入ったところから遠ざかってるだけかもしれない。妖怪は人嫌いが多いから。それに、気配を完全に消せるものもいるわ」
「そういうヤツほど強ェんだよ。俺ァさっきからなーんか落ち着かねェんだ。なんか居るのは間違いねェ。でも妖怪じゃないんだったら……あとは何だ? ただのケモノか?」
「や、やだなあ。あ、でも、少なくとも今、まわりに妖怪はいないってことですよね。泳ぐなら今のうちじゃないですか!?」
 シオンはもしかすると前向きなのかもしれない。苦笑もあったが、全員が笑顔になった。
 シオンの言葉は正しい。泳ごう。


 一行が水着や動きやすい服装に着替え、オソイビーチに入ったのは午後4時をまわってからだった。しかし、太陽は少し西に傾いたくらいで、空気も砂浜もまだ熱気を帯びている。冬の4時とはわけがちがう。
 砂浜は静かだった――海鳥の声と波の音、7人の声があるきりだ。このビーチが一般公開されたら、湘南やワイキキのように人の歓声とビーチパラソルであふれ返るのだろうか。
 女性陣は全員が全員ともしっかり日焼け止めを持ってきていた。シオンにおすそ分けできるほどの量だ。しかしシオンは日焼け止めを顔に塗るだけで事足りた――彼は一張羅のまま泳ぎ始めたのだ。青い海を進む黒いスーツ。シュールな光景のようだし、入水自殺を試みるサラリーマンを見ているような気持ちにもなれる。
「ナマコもクラゲもいないわ。ゴミもないしね、……今の段階では」
「でも貝殻も落ちてないの。ちょっとキレイすぎ?」
「人がいなくてのんびりできるのも、今のうちかもね」
 緋玻はごろりとデッキチェアに横になり、サングラスをかけて、洋書を開いた。シュラインと羽澄は波打ち際で、寄せてくる波と砂ごと帰っていく波の感触を楽しむ。せりなはその光景を遠巻きに見て、目を細めていた。
「若いっていいわ……私はもうこの年だからね、水着は無理よ。若い子には負けるわ」
 もう少し。あと少し陽が傾いたときが、せりなは楽しみだ。海と白い砂は黄金に染まるだろう。そして若者たちはその黄金の中に、くっきりと黒い影を残す。シオンにすっかり忘れられたポラロイドを拾い、せりなはその黄金の景色を写すつもりだ。
 確か、この島はさほど大きくなく、一時間ほど歩けば一周できると従業員は言っていた。ビーチをぐるりと一周したら、ちょうど陽もいい具合に傾くだろうか。せりなはシオンのカメラを手に、波打ち際を歩き始めた。
 ぬ、と彼女の前に白い蛇が出し抜けに現れたのは、歩き始めて数分後のことだ。
「あらッ! きゃあッ! ビックリした!!」
『おお、流されてしまったようだ。相済まぬ』
 しゅうしゅうという蛇独特の唸り混じりで、白蛇はものを言った。その声は、蛇めいていたが――流のものだ。驚きのあまりへんなポーズで硬直したせりなは、それに気づいて、まだ驚いた顔のまま屈みこむ。
「もしかして流さん?」
『斯様に澄んだ海も空も久方ぶりに見た。我も水神の端くれゆえ、ひと泳ぎもしたくなる』
「見かけないと思ったら、そんな格好でひとりで泳いでたの? 皆向こうで楽しそうにしてるわよ」
『我のこの姿を見れば、そなたのように驚くだろう』
 しゅ、と流は笑った。
『そなたも潜れば良いものを。珊瑚が美しいぞ』
 彼が濡れた砂浜を這う様は、海に流れこむ川のようだった。白蛇はきらきらと光る波間に姿を消した。せりなはしばらく立ち尽くし、龍神が泳ぐ海を眺めていた。

 情けない悲鳴が上がった。

 何ごとか、とシュラインと羽澄の手が止まる。ふたりの間を往復していたスイカ模様のビーチボールが波に落ちた。緋玻もサングラスを取り、デッキチェアの上で身体を起こす。
 悲鳴を上げ、ずぶ濡れのスーツ姿で逃げ回っているのは、シオンだった。彼はどこまでスーツで泳いでいったというのか、だいぶ沖まで出ているようだ。水深が浅いのか、サンゴの上を走っているのか、シオンはもがくようにして海を走っている。
 すわ妖怪メシイヌか。
 いや。
 シオンの背後には、映画でよく見かける例の背びれがある!
「サメーーー! サメです、助けてーーー! サメ! サメ! サメ!」
「うそ!」
「この辺、サメがいるの!?」
「ちょっと! こっち! 浅瀬のほうに走るのよ!」
 緋玻が声を張り上げる。シオンには――届いたようだ。必死の形相で、彼は海を走ってきた。しかしサメもついてくる。浅瀬になっても――泳いでいる!
「ひゃああぁああああぁーーー!!」
「だっはっはっは!! ぁっはっはっは!! ひィ、ハッ、面白ェわアンタ!!」
 サメはまるでトビウオのように跳ね、シオンの頭上を悠々と越えて、薄い波の上に頭から突っ込んだ。サメはそれきりかき消え、慶太が波間から大笑いしながらあらわれたのだった。
「……なんだ、黒贄さんの『タトゥー』ね」
 一瞬あらわになったサメの姿は、鋭利な刃物か炎のようにデザイン化されていた。トライバル・タトゥーのサメだったのだ。羽澄は腰に両手を当ててため息をついた。
「驚いちゃったわ、黒贄さん!」
「ばははははは! わははははは! ヘビもいんぞホラ! ウミヘビだホレ!」
「ぎゃあああああ、やめてぇぇぇえええ!!」
「聞ーてないし……」
「いいじゃないよ、羽澄ちゃん。黒贄さんがあんなに楽しそうなの初めて見たわ」
「あの刺青じゃどこの海も門前払いなんでしょ。楽しませてあげたら? シオンとかいうあの人は気の毒だけど」
 緋玻はいつもの調子で言い放ち、サングラスをかけた。デッキチェアに戻る気だ。
「緋玻さん。緋玻さんも泳ぎません? せっかく水着着てるんだし」
「私はいいわ。のんびりしたいのよ。実家からの帰れコールからせっかく逃げられたんだから」
 うっすらと苦笑いを浮かべる緋玻を、シュラインがフォローした。
「いろんな過ごし方があるわ。それぞれの時間を楽しみましょ」
 彼女はビーチボールを拾い、海に向けてサーブを放った。スイカ柄のボールは光る海の上を飛び、慶太のサメがイルカのようにジャンプして、鼻面でボールを突いた。ボールは沖まで飛んでいったが、取りに行けない距離ではない。
「取りに行きましょ、羽澄ちゃん」
「競争で?」
「それもいいわね!」
 デニムの水着のシュラインと、和柄ロングパレオの羽澄が海に飛び込んでいった。羽澄がかぶっていた帽子がひらりと舞い、砂浜に落ちる。
その後ろをすいすいと黒いサメが泳いでいて、シオンは相変わらず無我夢中でタトゥーから逃げ回っていた。

 誰も、漁師を島から遠ざけるほどの妖怪の存在など感じてはいない。
 海にも入らず、プラズマ観測装置にかじりつく平四郎はべつだったか。いや、彼は、何かがあらわれるということを期待しているというだけか。
 島は平和だった。
 夕暮れの黄金に包まれようとしていた。



■メシイヌ、とは■


 8人が集まり、ようやく島の探索について話し合い始めたのは、夕食時だった。まだ空は藍色をしているが、四阿レストラン(一応『インディゴ・コーラル』という華やかな名前があった)は肉と魚介が焼かれる匂いに満ちていて、一行は十二分に食欲をそそられたのだった。
「ここに来る前に一応調べられることは調べておいたわ」
「私も」
「とりあえず私もね」
「はー、女性は準備がいいものですね!」
「あら。おばさんは何にもしてこなかったわ。ごめんなさい」
「いいんですよ。こっちも大した情報は集まらなかったんです」
 シュラインが苦笑すると、緋玻と羽澄もそれにつづいた。妖怪〈メシイヌ〉はきわめてローカルな情報で、これを取り上げる文献はないに等しい。ただ、屋久島と種子島の漁師の間で、都市伝説のように細々と息づいてきただけだ。
 メシイヌは尾添島だけにいる。泳ぎはあまりうまくないようだ。他の島に移ったことが一度もないのだから。動くものは何でも食べる。そして、一度目をつけられたら、逃げることは難しい。狙われたら、とにかく逃げる。運を天に任せて逃げて逃げる。そして、海に飛び込むか、船に戻るのだ。メシイヌはこの島を出られない。海にも入ろうとしない。メシイヌには、命乞いの言葉も通じない。殺そうとしても無駄だ。メシイヌは人間よりもずっと強い。
「言い伝えはこのくらい。気になったのは……」
「襲われる時間や条件が、めずらしく特定されてないってこと」
「普通の妖怪なら、何かをしたら狙われるだとか、夜になったら現れるとか、条件がつくものよ」
「と、いうことは……妖怪などではないということも考えられる!」
「では何だ?」
「動物性プラズマだ!」
「……」
「……」
「待って。あながち間違ってないかもしれないわ」
 平四郎のトンデモプラズマ説を支持したのは、せりなだった。シオンのカメラを手に砂浜を歩き、彼女は黄金の景色を何枚か写していたのだ。せりなはその写真の1枚を、テーブルの中央に出した。
「メシイヌは『動物』なのかも」
 砂浜。
 せりなは打ち上げられた美しいヒトデと貝殻を写していた。
「日差しが強かったせいかしら……その場にいたときはわからなかったんだけど……」
 それは、足跡。
 うっすらと砂浜に押しつけられた、肉球の跡。犬のものによく似た足跡だ。
「これ、どの辺で写したんですか?」
「みんなが泳いでたところからは200メートルくらい離れてたかしら」
「オイ、あんまひとりで動かねェほうがいいぜ? 言ったろ、船ン中で」
「あら。近くで流さんが泳いでたから大丈夫だと思って」
「なに、我はこの足跡の近くを這っていたと言うか。気づかなんだ、迂闊だった」
 うっすらとした足跡を、8人が食い入るように見つめる。はっきりとはしない痕跡。現時点で彼らが掴んでいるメシイヌの実体そのもののようだ。
「博士、あのプラズマ測定器、四つ足の獣にだけ反応させることってできませんか?」
「む? 可能だ。無論である」
「この足跡の大きさなら、体重は60キロかそこらはあるぜ」
「そ、そんなに大きいイヌいますか!」
「セント・バーナードはたまに100キロ超える。ま、そんだけデカい犬なら、昔のちっせェ日本人から見りゃちょっとしたモンスターだったろうな」
 メシイヌはこの島に生きるただの野生動物かもしれない――。そんな空気が一行の間に下りてきて、潮風によってもてあそばれた。
 しかしその推測は、凄まじい悲鳴が吹き飛ばす。



■メシイヌ、が、■


 悲鳴は厨房の奥も奥から聞こえてきた。いや、外からかもしれない。ともあれ厨房の勝手口のそばでは、真っ白い清潔な服装の料理人が腰を抜かし、泣きながら悲鳴を上げていた。
「どうした!?」
「よ、妖怪ですかッ!?」
「大丈夫ですか!?」
「バ、バイトが! 見習いのバイトが、バイトが……」
 料理人は薄いアルミ製のドアを指さしてそのようなことを言ったが、ほとんど意味を成していなかった。慶太が荒々しくドアを開ける。勝手口の向こう側は切り開かれた森の中だ。10メートルほど向こうに、倉庫のようなものが見えた。
 何もいない。
 だが、落ちているものがある。
 厨房から倉庫らしき建物の間の10メートル、ほぼ中央に――恐らくは、人の腕が。日焼けした男の腕だった。遠巻きに見る限りでは、腕は引き千切られているようで、ずたずたの傷口は鮮やかな赤だ。まだそこに落ちて間もないらしい。
「あの建物はなに?」
「ち、ちょ、貯蔵庫です。冷蔵庫と冷凍庫も、ち、地下に。バ、バイトが」
「わかったわ。バイトくんが30分前に食材を取りに行ったまま戻らなかったのね」
 せりなが料理人の言葉を続けた。いくら人が混乱していても、彼女には筋道の通ったストーリーを心の中から汲み上げて、繋ぎ合わせることができる。
「クソ! まだ近くにいるみてェだな」
 慶太が森の闇と転がった腕を見つめて吐き捨てた。霊気や妖気の類は感じられないが、慶太には未知の気配が伝わってきている。
 枝と草は揺れていた。だがそれが、島に棲みつく者の仕業なのか、風のいたずらなのかはわからない。
「……あの、聞きたいんですけど」
 羽澄はまだ震えている料理人の前に座って、その顔を真正面から見つめた。
「従業員から行方不明者が出てるって噂で聞いてます。それは本当ですか?」
「……」
「今回が初めてじゃないんですよね?」
 落ち着いているが、有無を言わせぬ強い意志がこめられた言葉だ。料理人は羽澄から目をそらして、しばらく苦しげに黙りこんでいた。
「こんなことになったのよ。これ以上隠しても無駄でしょう」
 緋玻の冷めた言い分は追い討ちだった。
 料理人は汗を拭いながら頷いた。


 鬱蒼と茂る緑の中で、ふごる、ごぅると声がする。聞いたこともない声だが、獣の声には違いない。慶太は顔をしかめ、勝手口のドアを閉めた。
 平四郎はプラズマ観測装置の端末の液晶ディスプレイを覗きこみ、指先で本体の横を突ついたり、振ったり、耳を押しつけたりしている。反応がないのだ。まだ動物の存在を探知するように調整していないのもあるが――。
「P−Y56Kからの応答がないぞ。故障か?」
「オイ、どこ行くんだオッサン!」
「P−Y56Kの点検だ!」
「アホか! そうやってひとりになったヤツから死んでくんだぞ!」
「失敬だな! 我輩は阿呆ではないぞ! それにMA‐SY28の準備がある!」
「なんだそりゃ!」
「我輩が開発したプラズマ式即効性麻酔ガス発生装置だ!」
「そ、そうだ! メシイヌさんはおなかが空いてるんですよね、きっと。で、動くものならなんでも食べちゃうんですよね! エサをあげましょう、エサ! おなかいっぱいになればいなくなってくれると思います!」
 転がっていた腕を見てからずっと硬直していたシオンが、出し抜けにそう叫び、厨房の中を走り回った。その腕で、トロピカルフルーツと生肉、変わった色の鮮魚をつぎつぎと抱えこんでいく。
「ドア開けてください!」
「うむ」
「開けんなボケ!」
 両手がふさがったシオンの代わりに、素直に流が勝手口を開ける。慶太が抗議したが、シオンはドアが開くや否や、必死の形相で食べ物を投げ始めた。肉が、野菜が、魚が、闇の道の上を舞う。
 流は目を凝らして、飛んでいく食材と、聞こえる獣の声を見つめていた。

 ぶごる! ごぶっ! ごふるごふる!

 声は大きくなり、近くなって、そして……あらわれた。

「うわ、は――」
「シッ! シーッ!」
 悲鳴を上げかけたシオンの口を、慶太がすばやく手でふさぐ。そう大きくないドア口から、8人はメシイヌを見ていた。
 シオンが投げた生肉にかぶりついているのは、奇怪な獣だ。あれが妖怪メシイヌなのか。まるで映画の中のクリーチャーだ。体毛はまったく生えておらず、厨房から漏れる光が照らしているのは、むき出しになったピンクの皮膚だ。大きさはセント・バーナードほどもある。
 不気味なのは、その顔だった。大きく裂けた口には牙。それだけだ。このイヌには耳も目もない。鼻は土で汚れている。
 一行はほとんど呆気に取られていた。立ちこめる沈黙の中、突然、平四郎が手にしていた端末が甲高い警告音を鳴らした。全員が息を呑み、非難の目で平四郎を見たが――
 イヌは反応を示さない。肉を食べ、ときどき顔を上げて風の匂いを嗅いでいる。
「……目も耳も利かぬようだな。鼻は良さそうだが……風向きに救われた。我らの匂いが届いておらぬ」
「メシイヌ――なるほどね。盲いた狗……ってことだったわけ」
「ブサイクだけど嫌いじゃねェぞ、ああいうの」
「端末のバッテリーが切れてしまった!」
「見て、あの脚。モグラみたい」
 羽澄が示したのは、メシイヌの発達した前足だ。大きな爪がついている。爪には砂と泥がこびりついていた。
「土の下で暮らしてるのね。だから耳も目も必要ないのよ」
「毛もね」
 土で汚れたメシイヌの鼻面には、長いヒゲが何本もあった。風の匂いを嗅ぐメシイヌのヒゲは、ぴくぴくと動いている。果たしてこのイヌの感覚器は鼻だけか、一行がそう思った矢先――
 料理人が這いずるようにして厨房から逃げ出した。よろめき、調理台の上のボウルや包丁を落としながら。金属は床に落ち、耳障りな音を立てた。
 がふる、とメシイヌが勝手口を見た。
「まずいぞ、オイ!」
「閉めて!」
 流はドアを閉めたが、無駄だった。
 メシイヌが突進してきて、頭突きでドアを破ったのだ。ドアはその一撃で完全にひしゃげ、シオンがその残骸とメシイヌの下敷きになった。醜い獣はすぐに体勢を立て直し、豚のように鼻を鳴らした。匂いを嗅いでいる。
 汗、皮膚の下を流れる血。人間たちのその匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。地底のイヌはその口を大きく開けた。口しかないような顔だ。あぎとの中には鋭い牙が不揃いに並んでいた。
 緋玻が調理台の上の包丁を投げつける。矢のような勢いで飛んだ包丁は、深々とメシイヌの肩口に突き刺さった。きゃいん、とかれはイヌのように悲鳴を上げた。きゃいん、と悲鳴はもう一度上がった。流がその横っ面に拳を叩き込んだのだ。彼の右手は鱗に覆われ、人のものではなくなっていた。
 イヌは吹き飛び、厨房の床に長々とのびた。
 皺だらけの皮膚。腹に並んだ小さな乳房。土の匂いがする肢体。
 包丁が刺さった傷口からは、赤い血が流れ出している。
「こいつ、ふざけやがって!」
 慶太が殺気もあらわに、のびた獣に近づいた――。
「待ってくれ! 待ちなさい!」



■貴重なのか、そうでもないのか■


 慶太を制止して厨房に入ってきたのは、レストランで見かけた眼鏡の壮年だった。彼は入り口のそばにいたせりなとシュライン、メシイヌの前の慶太をつぎつぎと押しのけ、倒れているシオンに一瞬けつまずき、のびたメシイヌのそばに屈みこむ。
「なんだ、あんた!」
「大月科学技術大学の芳沢だ。この島の生態系について調査している」
 彼はメシイヌを舐めるように見つめながら名乗った。声は高揚し、彼が興奮していることがはっきりとうかがえる。
「これこそが私の追い求めていたものだよ。新種だ! わかるだろう?」
「妖怪の正体だ。れっきとした脊椎動物であることは一目瞭然だな」
 なぜか平四郎は勝ち誇ったような態度だ。彼は胸を張り、バッテリーが切れてしまった端末を白衣のポケットに押し込んだ。
「確かに貴重な個体であることは間違いないだろう」
「そうだ。殺すべきではないと思わないか」
「だが凶暴で危険な生物であることも間違いない。……我輩はP−Y56Kの様子を確認してくる」
「ひとりは危ないわ。私も行きます」
 平四郎はめずらしく正論を口にした。それに感心したというわけでもないが、せりなが彼に同行し、厨房を出て行く。緋玻は呆れたため息をついて、のびたメシイヌにかじりつく科学者を一瞥した。
「なんだか映画を観てる気分だわ。それも先が読める映画」
「緋玻さんも国光博士と行くんですか?」
「私は科学者が嫌いよ。好きにさせたらいいわ」
 緋玻も行ってしまった。羽澄はシュラインと顔を見合わせる。ふたりとも困り顔だった。
「オイ、包丁ここに置いとくから、襲われたら勝手に自分で何とかしろよ」
 慶太は芳沢にそう声をかけ、ドアの下でメシイヌ同様のびているシオンを抱え上げた。
「あんたはこの学者サンに付き合うのか?」
「……いや。外を調べてこよう」
「あんま遠くまで行くなよ」
 流は、ドアがなくなった勝手口から外に出た。
 波の音だけが聞こえる。流は眉をひそめた。虫の鳴き声が聞こえない。


 これはなんとしたことか。
 平四郎とせりなは浜辺で立ち尽くしていた。
 巨大なガラクタがそこにあった。プラズマ観測装置プラズマジックP−Y56Kの成れの果てだ。バベルの塔のミニチュアのようにそびえ立っていたはずの機械は、いまや倒され、壊されていた。
「わ……、わ、わ、」
 平四郎はわなわなと全身を奮わせ、セリナはあらかじめ耳をふさいだ。
「我輩が1574時間と24分をかけて作り上げたプラズマ観測装置プラズマジックP−Y56Kをこのように完膚なきまでに破壊したのは誰だあーーーーッッ!!!」
 平四郎は冷静に状況を判断できそうもない、と踏んだせりなは(彼の心の中を見て確かめるまでもなかった)、壊れた観測装置に近づいた。
 鉄やプラスチック、チタンやニッケルの部品には、唾液と牙の痕が絡みついている。斧のような、『道具』で壊された痕跡は見つからない。
 メシイヌだ。かれ『ら』の仕業だ。
 せりなは息を呑んだ。
「博士……」
「おお、基盤は無事だぞ! 不幸中の幸いだ! 予備のモニターはある……あとは電源があれば……いやその前にここをアレと繫いで……」
「博士!」
 ようやく平四郎はせりなの声で顔を上げた。せりなは機械の残骸の後ろを指差していた。
 彼女はしかし、メシイヌを示していたのではない。その指の先には、穴があった。


 穴がどのくらいの深さのものなのか、見当もつかない。
 その穴は、食料庫の裏手にぽっかりと開いている。流はその穴を覗きこんでいた。掘り返された土の匂いと、血の臭いが混ざり合っている。
 大の男でもすっぽりと中に潜り込めそうな、大きな穴だ。流はじっと耳を澄ませた。
 ずっとずっと奥で、ずずずずず、ぞぞぞぞぞ、という音が聞こえる。何かがうごめく音。音はひとつではない。無数にある。


「この個体はメスだ。『ソルジャー』かもしれん」
 ぶつぶつと、気絶したメシイヌを観察しながら芳沢が言った。シュラインと羽澄は、ツ小さなその呟きを聞き逃さなかった。
「……芳沢さんは、その動物がどういうものだとお考えですか?」
 丁寧にシュラインが聞くと、芳沢は嬉しそうに振り返った。
「ハダカデバネズミというネズミを知っているかね。アフリカに生息している。体毛は一切なく、皮膚がむき出しなんだ。耳も目も退化していてほとんど機能していない。この新種と共通するところは多い。となれば、ハダカデバネズミのように、この新種もコロニーを作り、集団生活をしている可能性がある」
「動物が集団生活……、ああ、ハチとかアリと同じってことですか? 群れとはちがって?」
「そう。社会性動物という。群れという感覚と少し違うのは、ハダカデバネズミは『クイーン』を中心にした生活をしているというところだ。子供を生むのはクイーンの役目で、食料を調達したり、外敵と戦ったりするのはソルジャーの役目だ。働く者にはメスが多く、オスはひたすらクイーンと交尾して、子孫を増やすためだけの役目なのさ」
 シュラインと羽澄は、肌が粟立っていくのを感じた。鳥肌が立ってきたのは、勝手口から入り込む風が冷たくなっていたためばかりではない。
 もしメシイヌがそのネズミのように地中で集団生活を営んでいるのだとしたら……、
 自分たちは、無数のハダカイヌの上に、立っているということになる。
 毛のないピンクの肌を寄せ合い、目も耳もない動物が、地中で餌を待っている。かれらには、音も光も通じない――。


「静かだな」
 なぜか慶太とシオンは同じ部屋だ。慶太は窓辺で目を光らせながら、ぽつりと呟いた。
「虫も鳴いてねェ」
「車の音も聞こえませんねえ……」
「親の仕事手伝ってりゃよかったんだ、俺」
 慶太はばりばりと頭をかいた。部屋の隅のベッドを見れば、シオンが頭からタオルケットをかぶって震えている。戸口には、トライバルデザインの黒い狼。慶太が見張りに立てたのだ。シオンはこの狼も少し怖いらしい。
 だが、今の慶太はシオンをからかう気分ではなかった。
 夜の入り江は美しい。波はほとんどない。空には雲ひとつない。数え切れない星が散らばり、時おり流星も見えた。
 隣のコテージでも、緋玻はひとり、窓辺でその夜景を見ていた。
 慶太と同じように、実家に帰って親の仕事を手伝っていればよかったか、と考えながら。


 時おりコテージは揺れる。ずずずずず、と深い土の中の震動を受けているらしい。
 この島には妖怪などいない。
 ただ、新種の生物が地面の下にひしめいているだけの、平和な島だった――。


 芳沢が観察しているメシイヌが、ぴくり、とその鼻面を動かした。





〈続〉


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          登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0701/国光・平四郎/男/38/私立第三須賀杜爾区大学の物理学講師】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】
【3332/藤井・せりな/女/45/主婦】
【3356/シオン・レ・ハイ/男/42/紳士きどりの内職人+高校生?+α】
【4289/朧津瀬・流/男/999/古書店店主】
【4763/黒贄・慶太/男/23/トライバル描きの留年学生】

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               ライター通信
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 モロクっちです。『マドファング・ビーチ』前編をお届けします。
 久々の大型依頼ですっかり長くなってしまいましたが、まだ皆さん一泊もしていないという亀の如き時間の流れ。後編は2日目の朝から始める予定です。
 モロクっちは北海道の荒れ果てた灰色の海しか知らないため、ビーチの光景はすべて想像で書きました。……。前編ではこのとおり、ほのぼのとしたリゾート気分をお届けいたしましたが、後編はいつものように(?)戦闘や血や肉片で大騒ぎになりそうです。
 メシイヌの生態は芳沢が言った、ハダカデバネズミを参考にしています。光も音も通じませんし、生息しているのは一体や二体ではない……はず。メシイヌ=盲い狗が正解でした。田中緋玻さん大正解であります。
 それでは、後編もよろしくお願いいたします。