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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


折れた御柱 その2

 諏訪大社の御柱が裂けるという事件が起きた。
 長野県の諏訪地方には、日本の三大奇祭にも挙げられる「御柱祭」という大きな祭りがある。数え年で7年に1度、山から巨木を切り出し、それを各部落の氏子たちが引いて町や村を練り歩き、川を渡り、最後には木落とし坂と呼ばれる傾斜のきつい崖から、人を乗せたまま御柱を落とし、厄を払うという祭りだ。
 引き裂かれたのは諏訪大社の上社前宮の御柱。上社前宮は諏訪明神信仰の原点とも言われている社だ。建御名方命が最初に居を構えた場所として知られているが、その建立がいつであるのか、厳密には判明していない。
 諏訪大社は諏訪市の上社本宮。茅野市の上社前宮。下諏訪町の下社春宮、秋宮の4社から成り立っている。上社は諏訪湖の南東。下社は北側に位置している。
 雷が落下したのでもなく、悪戯にしても1晩で4本の御柱を、誰にも気づかれることなく引き裂くことが果たして人間にできるのか。
 諏訪大社の歴史は古く、西暦927年に記された延喜式神明帳には、すでに名前が載っている。御祭神は建御名方命、八坂刀売命のご夫妻が奉られている。古事記の国譲りの場面で、大国主命の息子として最後まで抵抗し、諏訪の地まで逃げてきて幽閉された神である。
 だが、諏訪大社に関する文献はたいして残されていないのが現状でもある。
 上社前宮に漂っていた禍々しい雰囲気から、文献も残されていない、伝承も曖昧な諏訪大社だが、その起源や成り立ちのどこかに、今回の事件の原因が隠されているような気がした。さらに詳しい話を聞くため、諏訪の歴史や風習などに詳しい人物から話を聞くこととなった。

 諏訪へきて2日目、律花は諏訪市内にある私立高校を三下とともに訪ねていた。
 律花が通う大学の紹介によれば、この高校で社会科を専攻する教師の1人が、日本でも有名な諏訪大社の研究者であるということだった。
 授業の邪魔にならないよう、放課後に訪ねようと考えていたのだが、先方からの申し出もあり、午後1時に高校を訪れた。紹介されたのは小林という50代の男性で、歴史を研究する傍ら、この高校に非常勤講師として勤めているということであった。
 その研究は学校側にも認められているようで、校舎の片隅とはいえ研究室を与えられるという非常勤としては破格の待遇をもって迎えられている。
「はじめまして。秋月律花といいます。今日は突然、申し訳ありません」
「白王社、月刊アトラス編集部の三下です。今日は急な申し出にも関わらず、ありがとうございます」
 そう言って三下は小林に名刺を渡した。
「そうかしこまらんでください。教師といっても非常勤で時間を持て余していますから」
 にこやかに答えて小林は人数分のコーヒーを淹れると律花たちの向かいに腰掛けた。
「教授はお元気ですか?」
「ええ、とても。今は来年から始まる発掘の準備をしています」
「そうですか。それはなによりだ。あの人から発掘を奪ってしまったら、なにも残りませんからね」
 豪快に笑い、小林は居住まいを正した。
「秋月さんたちは、諏訪大社を調べていると伺いましたが?」
「はい。諏訪大社の起源や歴史、あとは御柱祭についても調べています」
 御柱が裂けたことについて調べているとは言わなかった。御柱祭は諏訪に住む人間にとって特別な行事である。その御柱が避けた原因を、興味本位だけで調べていると言えば、相手に悪感情を抱かせるのではないか、と律花が判断したからだ。
 また、御柱が裂けたことに霊的なものが関係している可能性を話すことで、胡散臭く見られて必要な情報を聞き出せないことを危惧したということもあった。
「歴史ですか。それは難しいですね」
「それは、どういうことですか?」
 コーヒーをすすり、苦笑いを浮かべる小林に律花は鸚鵡返しに問うた。
「すでにご存知かもしれませんが、この諏訪大社というのは歴史が古いわりに、記録がほとんど残されていません」
「それは存じています。確か、西暦927年に記された延喜式神明帳が最古のものだと聞きましたけど?」
「公的な記録としては、それが最古ということになりますね。もちろん、民間伝承という形ですと、それより古いものもいくつかありますが」
 小林はうなずき、言葉を続ける。
「諏訪大社の建立起源というものは明確にはされていませんが、神話によれば建御名方命が現在の上社前宮がある場所に、居を構えたのが始まりとされています。諏訪大社と呼ばれるようになったのは、平安時代以降でして、諏訪氏が大祝を務めるようになってからですね」
 平安から江戸時代にかけて上社では諏訪氏が、下社では金刺氏が大祝を務めた。延喜式によると古代においては神社の中の最高位である名神大社とされていた。1871年に国幣中社、1896年に官幣中社となり、1916年に官幣大社となって、1948年には諏訪大社の号が用いられるようになった。
「上社前宮だけ、御神体がないのは、なぜなんですか?」
 それは以前から律花の気になっていたことであった。上社本宮の御神体は社殿の背後にそびえる守屋山という山で、下社春宮と秋宮は御霊代と呼ばれる翁媼人形を共通の御神体としている。2月1日に春宮へ遷した御霊代を、8月1日に秋宮へ遷座する行事を「お船祭り」といい、そうして御霊代は春宮と秋宮を半年ごとに行き来する。
「それも、また難しい質問ですね」
 再び小林は苦笑いを漏らした。
「少し話が飛びますが、秋月さんは出雲大社をご覧になられたことがありますか?」
「はい。何度か」
 律花はうなずいた。考古学の調査だけでなく、旅行でも何度か行ったことがあった。
「では、今の出雲大社が本当の出雲大社でない、ということもご存知ですか?」
「ええ。昔の出雲大社は高さが100メートル近かったとか」
 本殿について言えば、上古時代においては現在よりもはるかに高いとされている。現在でもおよそ24メートルで、これも神社としては破格の大きさであるが、最初は約96メートル、そのうちに48メートルとなったという伝承がある。
 その伝承による想定の形は不思議なもので、空に向かって伸びた何本もの柱の上に社が建つという形になる。建築的に美しくなく、祭祀に不都合でもある。この想定は東大寺大仏殿や天皇の御所であった大極殿より巨大であったと、源為憲が平安時代に作った数え歌に「雲太、和二、京三」と歌われている。雲は出雲、和は大和、京は京都を指している。
 昭和30年、福山敏男氏は平安時代後期から鎌倉時代初期の神殿の構造を書いた絵図「金輪造営図」をもとに神殿を図面で復元し、高さ48メートル、階段の長さ109メートルという巨大神殿であったと発表した。しかし、研究者の多くは「古代の技術で50メートル近い建造物を築くことは困難」として、この復原図を疑う見方が強かった。
 ところが、2000年3月、出雲大社の境内で、平安時代後期から鎌倉時代初めの巨大神殿跡とみられる遺構が見つかった。これは1本約1・4メートルの柱を3本束ねたもので、この出土状況が「金輪造営図」に記される三本の部材を金属の輪で束ねた柱の形に一致したため、「金輪造営図」をもとにした復元図の信憑性が高まり、出雲大社には48メートル以上の巨大神殿があった可能性が高いと今では見られている。
 さて、問題は国津神である大国主を祀るためだけに、なぜそれほど巨大な社殿が必要だったのか、ということである。
「ですが、それほどの建物を、木で造ることが本当に可能だったのでしょうか?」
 考古学に従事する律花は、2000年に発掘された柱の残骸も当然知っている。しかし、それでも疑問に感じてしまうのだ。
 実際、大手建設会社である大林組の計算では、現代の技術をもってしても高さ48メートルの柱の上に、本殿を建てることは不可能だという結論を出している。高さ48メートルでも不可能なのだから、96メートルともなれば眉唾としか思えない。
「もちろん、建てることは可能でしょう。ただし、倒壊も多かったと伝えられています。そのたびに建て替えられ、倒壊するか否かで吉凶の占いにも使用されていたそうです」
「吉凶占い、ですか?」
「ええ、本殿が倒壊すると、大国主の怒りを買うと古代では恐れられていたという記述も残されています。実際、政権が交代したこともあります。怨霊というものが、信じられていた時代ですからね」
 怨霊、怨念というものは実在すると律花は考えていた。しかし、その言葉を教師と呼ばれる人間の口から聞くのは、なんとも妙な気分であった。
 だが、そこで律花は奇妙な違和感を覚えた。
 古事記によれば、大国主は平和裏に国を譲ったとされている。その交換条件として天の御子が住むのと同じくらいの巨大な宮殿を建ててもらい、そこで余生を過ごした。この話が事実とするならば、どこにも怨霊が登場する余地はないはずだ。大国主が怨霊として現れれば、それは逆恨みも同然である。そんな怨霊に怯え、政権が交代することなど、ありえるのだろうか。
「どうやら、不思議に思ったようですね」
 律花の表情からなにかを感じ取り、小林は笑みを浮かべた。
「古事記の記述は、嘘だというのですか?」
「嘘……確かに嘘となりますね。何人かの学者は、国譲りは後の世に捏造された記述である、という見方をしています。実際、出雲国風土記には国譲りの場面は登場しません」
 古事記は和銅5年(712年)に太朝臣安萬侶によって献上された日本最古の歴史書である。日本書紀のように勅撰の正史ではないが、その序文には天武天皇が「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して偽りを削り、実を定めて後葉に流へむと欲ふ」と詔していることから、勅撰といっても差し支えないだろう。
「さて、そこで出雲大社です。特に問題とするのは本殿なのですが、秋月さんは本殿に入ったことはありますか?」
「はい。もちろんです」
「では、本殿になにか不思議なものを感じたことは?」
 そう問われ、律花は記憶をたどった。彼女の隣では三下も似たように考え込んでいる。
 日本史、特に神代と呼ばれる時代を学ぶ上で、出雲大社は切り離せない存在だ。当然、本殿内部を拝観したこともある。だが、不思議なこと、と改めて訊かれると、そうそう思いつかないものでもあった。
 その内部構造を思い起こすように、記憶の糸をたどってみる。
 しばらくして、ふと律花は思い立った。
「拝殿との位置関係、ですか?」
 律花の言葉に、わが意を得たりとばかりに小林がうなずいた。
「そうです。出雲大社本殿は、いわゆる神社らしい造りをしていないのです」
 本来、神社仏閣の目的は神(仏)を祀り、信者に参拝させることである。そのため、参道から伸びる社殿の正面に扉があり、その奥に神(仏)が祀られ、参拝者から神や仏が正面に見えるように造られている。しかし、出雲大社本殿はこれに当たらない。扉は正面になく、入ってすぐのところに仕切りが設けられ、大国主の御神座を拝するには左側から回り込まなくてはならない。これは神社仏閣の造りとしては異様とすら言える。
「これは、非常に突拍子もない、ともすれば異端とすらいわれる考えなのですが、何人かの学者は、出雲大社は神殿ではなく、大国主を幽閉するための牢獄だったのではないか、と考えています」
「まさか!?」
 小林の言葉に律花は思わず驚愕の声を上げた。
 しかし、出雲大社本殿が大国主を幽閉する目的で建造されたと考えれば、その奇妙な造りにも納得が行く点は出てくる。神社として建造されたのではないため、扉も正面についておらず、拝殿との位置関係も無視された。内部が細かく仕切られたのは、敵の突入を危惧してのことであり、当時の本殿には監視兵が常駐し、大国主は現在の御神座がある奥の小部屋に押し込められていたと推測される。
 また建物を異常に高く拵えた理由は、救出の危険を避けるためと、大国主の命を預かっていることを誇示するためであり、牢獄だと考えれば、大国主命が死んだ後、大社の規模がしだいに縮小された謎も解けるのではないだろうか。忌まわしい建物を神社にした理由は怨霊の出現のためであり、本殿に祀られた最高の力を持つ5柱の神は、怨霊を封じ込める役目を担った神であるとも考えられる。
 そう考えられるのには理由がある。この本殿に祀られた5柱の神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神が、すべて天津神であるということだ。大国主が平和裏に国譲りを行ったのが事実であり、これらの5柱神が本当に大国主を守る脇神であるのなら、そこに子供である事代主命や建御名方命が祀られていないのは、なんとも不自然だ。ゆえに、この5柱神は脇神ではなく、大国主の怨霊を封じ込めるために遣わされたのだと考えられるのだ。
「出雲国風土記に国譲りの記述がないことを鑑みると、実際の国譲りは古事記にあるような平和的なものではなく、いわゆる侵略戦争だったのではないか、と考えられます。以前より出雲を統治していた大国主が率いる国津神と、侵略者である天津神の一族との戦いにより、国津神は敗れ、出雲は天津神が支配した。そう考えると出雲大社、そして神話に見られる矛盾にも、うなずける部分が出てくるのです」
 神話には多くの矛盾が残されている。現代の学者の多くは、それらを古代の人々の想像の産物として軽視する傾向にあるが、果たして想像だけで日本書紀、古事記といった天皇に認められる正史を編纂できるものなのだろうか。
 さて、そうした神代の大きな矛盾の1つに、実は大国主の存在がある。この神は国譲りを行い、日本の国造りを担った神として日本では最も名の知られた神の1人であるが、実際には大国主という神は存在しなかったという見方がある。
 出雲国風土記によれば、出雲にはヤツカミズオミズヌ命という巨人の水神がいた。この神は少彦名命とともに国土を耕し、鉱山や温泉を開拓し、出雲国の礎を築いたとされる神で、出雲における最も古い国津神であったとされる。このオミズヌ命が国譲り――言い換えれば天津神一族の出雲侵略の際、大国主として日本神話の体系に取り込まれ、スサノオの子孫(息子)という形になった。これは天津神一族=畿内王権が出雲侵略の正当性を主張し、オミズヌ命(大国主)とスサノオが血縁にあるとすることで世間を欺いたとすれば、国譲りも辻褄があってくる。
「さて、少しはなしが逸れましたが、本題へ戻しましょう。秋月さんは上社前宮に御神体がないのはなぜか、と言われました。ですが、私は御神体がないのは当然、と考えています。それは、どうしてだと思いますか?」
 その言葉に律花は戸惑いすら覚えた。しかし、すぐに小林がなにを質問しているのか、その意図を察して驚きの表情を見せた。
「まさか、諏訪の国譲りも実際には侵略だったということですか?」
 出雲国を追われた建御名方命が諏訪へ入る際、地主神のミシャグジ神と対立し、この地においてもミニ国譲りともいうべき行為があったとされている。ここで特筆するべきなのは、諏訪地方に残る文献の多くには、建御名方命がミシャグジ神と対立し、これを征服したと明記されている点だ。しかし、建御名方命はミシャグジ神を抹殺することなく、地主神として優遇したとしているが、それが後世に改竄されたものではないという確証はない。
「私は諏訪の国譲りも、建御名方命の侵略だったのではないか、と考えています」
「ですが、建御名方命は大国主の息子ですよね? 出雲を天津神による侵略で追われたとするならば、その痛みを知る建御名方命が、本当に侵略なんてするのでしょうか?」
「そうですね。実際、秋月さんと同じ考えを持ち、この意見に反対の意を唱える人間は少なくありません。ですが、ここで1つ奇妙なことがあります。実は建御名方命は本来、大国主の神統譜には入っていないのです。それだけならばまだしも、古事記では国譲りの場面において極めて重要な役割を演じたとされる建御名方命が、日本書紀ではまったく登場していないのです」
 その言葉は律花にとって充分な衝撃であった。
「以前から、建御名方命は後世において付加された存在である、という見方が根強くありました。当然、私もこの意見に賛同しています。ただ私が思うには、建御名方命という名前は付加されたにせよ、諏訪地方を侵略した勢力があったということです。これが天津神の一族ではないか、と考えています」
「つまり、天津神の侵略が、いつの間にか建御名方命に置き換えられたと?」
「そういうことです。当時、天津神一族は日本各地の国津神を吸収し、天津神が掲げる日本神話に取り込むことで勢力を拡大させていました。その頃、諏訪を納めていたのはミシャグジ神です。天津神にとってはミシャグジ神が邪魔だった」
「そして、天津神は諏訪を侵略し、ミシャグジ神を建御名方命と同一神に仕立てた?」
「そうです。それが現在の諏訪大社信仰です。ですが、実際にはそれだけではない。侵略の際、天津神はミシャグジ神を抹殺した。しかし、大国主のように怨霊が現れ、それを恐れたために神殿を築き、怨霊を封じ込めようとしたのです。そう考えれば、諏訪大社で最も古いとされる上社前宮に御神体がないこと、そして御柱祭の起源についても説明がつきませんか?」
 次の瞬間、律花はハッとした。小林がなにを言わんとしているかに気がついたのだ。
「御柱は、ミシャグジ神を封じ込めるための4柱神というわけですね?」
「そう、私は確信しています。出雲大社の5柱神のように名前は残っていませんが、ミシャグジ神の怨霊を封じるために、4柱の神が必要だった。天津神一族にとって最も力を持つのは5柱です。大国主にはそれが必要だったが、ミシャグジ神は4柱で充分だった、ということではないでしょうか」
 それは仮説とはいえ、とんでもない内容であった。だが、それが事実だとすれば納得の行くことがいくつもあるのは確かだった。
 そこまで考え、律花はある可能性に思い至った。
 御柱が裂けたということは、すなわち長年に亘る4柱神の封印が解けかかっているということではないのか。2000年以上の時を経ても、ミシャグジ神の怨霊は消え去ることなく、あの地に残っているのではないか。
 そう考えると、背筋が薄ら寒くなるのを感じた。

 完


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 6157/秋月律花/女性/21歳/大学生

 NPC/三下忠雄/男性/23歳/白王社・月刊アトラス編集部編集員

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■         ライター通信          ■
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 九流翔です。このたびは、ご依頼いただきありがとうございます。
 遅くなりまして申し訳ありません。
 2回目ということで、このような内容になりました。これらの情報は史実を基にしておりますが、当然ながらフィクションです。
 では、またの機会によろしくお願いいたします。