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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


化物屋敷後編―地方の章 怪―


 夏の、短命で豪胆な嵐が東京を思う様嬲って過ぎた。
 空には青色が戻り、少し曲がった標識と透明な雫を滑らせる樹木の青葉だけが、その勢いを物語っている。
 草間は今日も空調一つ入れず、雑多なものが山積になったデスクを前に、片足を組みながらある書類を見直していた。
 書類の傍らには、「重要」と書かれた大型の茶封筒があり、草間が今見ているのはその中身にあたる。
 書類に書かれた内容に一通り目を通すと、草間は使い慣れた黒電話に手を伸ばした。
 随分長い間、コール音だけが響いていた。
 かけ直すか。
 そう思いはじめた時に、ようやく通話がなされる。
「……ああ。俺だ。今いいか」
 二言、三言、言葉を交わす。現在の状況などの確認がすむと、草間は数瞬の間をおいて、言った。
「屋敷の変遷がわかったんだ。今、聞けるか。……ああ。そうだ。いわく? いや。それが不思議とそんな話は出てこない」
 相手が尋ねることに端的に返事を返しながら、草間は改めて書類を見直す。
「いいか。その屋敷が建てられたのは、大正8年。震災前のことだ。商いを生業にしていたある主人が、公的にも私的にも使用できる屋敷を欲して、意匠に建てさせた。場所はやはり、郊外の山間だったようだが、これを、昭和初期になって今の土地に解体移築したらしい」
 相手から、返答があった。
「……そうだな。震災からも戦火からも逃れたということになる。だが、特に文化財などには指定されていない。その地域は―――だ。移築されてからというもの、数年毎に持ち主を点々としているんだが、ひとつおかしな点がある」
 草間は、書類を見ながら目を眇める。
「あの依頼人。確か、化物屋敷を買ったばかりのような言い方をしていたが、ここ数年、少なくとも公的には屋敷の持ち主が入れ替わった形跡はない。現在の持ち主であるはずの日崎康三郎という人物に連絡を取ろうとしたが、本人は完全看護の病院に入院中だ。それで、その息子に問い合わせたところ、父親がそんな屋敷を所有していたこと自体知らないという」
 俺には、さっぱりこの事態が把握できない。
 そう言って電話口で頭をかき回した草間は、大きくため息をついた。
「ああ。ああ、そうだな……。こっちも、引き続き調査を続けてみるよ。……分かっている。そっちこそな。……いいか。くれぐれも気をつけろよ……労わりィ? ……あぁ、わかった、わかった、考えておく」
 何度か頷き、通話を終える。
 改めて書類を見直そうとしたが、言いようのない焦りを感じて、それを投げ出した。
「何事も、なければいいが」


1
 その朝。山は白い空気を纏い、夏のものとは思えないほどの冷気が山に降りた。
 空は曇天。雲が流れ行くその先までをも見事に鉛色に染め成して、朝だというのに陽の気配がなく、薄暗い。
 半ば朽ちかけた屋敷の門は、かつての堅固だったであろう姿をその中に晒し、やってくる者を飲み込もうと口を開けている。
 朝方、急用の為、調査員の一人が東京へ戻り、今その前に立っているのは三人だけだった。
「しかし、このような山間に随分と大規模な建築を行ったものだね」
 そう言いながら敷居を跨いだのは、ゆるりと着流しを纏う男。瀬崎・耀司 (せざき ・ようじ)。
「ほんとね。だけど、資産家の道楽としては珍しいものではないでしょう」
 答えたのは長い黒髪をきっちりと引き結び、涼やかな目で注意深く辺りを伺うシュライン・エマ(しゅらいん・えま)。
「確かにそうなのです。……それにしても、昭和初期に解体移築されたということでしたが」
 最後に続いたのは、マリオン・バーガンディ(まりおん・ばーがんでぃ)、柔らかな茶の髪を綺麗に整え、仕立ての良い服を身に着けた青年だ。少し歪んでしまった首もとのタイを直しながら、屋敷を仰ぎ見た。
「……まるで最初からこの場所にあったようですね。当時の大正の様式を寸分違わず再現しているのなら、移築を行った意匠も相当の腕前なのです」
 しかし、何故わざわざ神の山に移築など行ったのでしょう、とマリオンは首を傾げる。シュラインを振り返り、聞いた。
「シュラインさん。草間さんがお会いになった依頼人さんと、日崎康三郎という人物は、同一人物なのですか?」
 それとともに、風がどう、と啼く。乱れようとする髪を押さえ、シュラインは少し考えた。
「どうかしら。今朝きた状況報告の電話では、そうは言っていなかったわ。けれど、本人は病院で入院中だということだから、本人とは考えにくいわね」
「……確かに。万一本人だとしても、生霊か、残留思念という形しか考えられないのです」
「……なるほど。それほどに執着されれば、この屋敷も本望だろうがね」
 瀬崎が小さく笑い、三人、それぞれに屋敷を仰ぐ。
 灰色の天が見下ろす中、禁域に建てられたそれは、どこか鈍色の空気を纏って、重苦しく沈黙している。
「お昼に、またここに集まりましょう。人数が少ないから、手分けする他ないわ。図面は各自、一枚ずつ持つことにして、気付いたことがあったら書き込むなり、チェックを入れて欲しいの」
「承知した」
「わかりましたです」
 頷く二人を顔を眺め、シュラインは少し瞳を和らげ、言った。
「二人とも、くれぐれも気をつけて」
「もちろん。だが、それは君もだね、シュライン君」
「そうですよ。何か危ないことがあったら、すぐにこのベースに戻ってきましょう」
「……そうね。そうするわ。何か、進展があればいいんだけど」
 生真面目にシュラインが息をつくと、マリオンが柔らかく笑った。
「ゆっくり、焦らず、なのです。頑張りましょう」
 そしてそれを皮切りに、化物屋敷の調査は始まった。


2 屋敷の章

 屋敷は、黒く、曇天の下に沈み込んでいる。
 人が出入りしなくなって、長い時が経つのか、屋敷は生きる気配を失っているように見えた。
 昨夜ベースを組んだ前庭を越えると、背の低い数本の木が小さな林を作り、家の母屋へと続く、緩慢に曲がりくねった石畳に濃い影を落としていた。
 石畳は平らではあったが、実は数千と思われる数の玉石を隙間なく詰め、上からコンクリートか何かを流し込んで固めた造りとなっている。その石畳を外れると、均された柔らかな土が姿を見せ、木々が落としたのであろう、青葉が数枚散っていた。
 梅雨を越えたばかりのせいか、空気は湿気を含んでねっとりと纏わりつくような風体。 シュラインはその不快さを払うように、長く、しばった髪を背後に流した。
 マリオンと瀬崎は、それぞれ調査にそれなりに思惑があるようで、今この玄関口に立っているのはシュライン一人のみである。
 だが、昼を過ぎた頃にはベースに集まらねばならない。それまでに、少しでも調査を進めておきたかった。
 できるだけ明るい場所を選び、シュラインは図面を取り出す。こうして、今一度見てみると、この建物が和風住宅の常套とされる配置で建てられているのがわかる。
 公的な部屋と私的な部屋がそれぞれ一塊となって雁行形に並んでおり、主だった部屋の隣室には必ず次の間が設けられていた。
 注意深く辺りを見回しながら、シュラインは歩を進める。
 長く、鋭角に伸びる玄関口の庇は、両側を磨かれた細い竹で支えられていた。その影に入った途端、ひやりとした空気が肌を撫でる。
 引き戸の脇にも、上にも表札らしきものはなく、引き戸にはめられている硝子は白く濁ってその先を見せない。
 シュラインは腰に巻いたポーチから預かってきていた家の鍵を取り出すと、赤錆びた鍵穴に差込み、ゆっくりとまわした。
 どことなく何かが付着した感触のある引き戸の窪みに手をかけ、引きあける。
 戸が隙間のつまった溝を削るガリガリ、という音と共に、屋敷内に内包されていた、埃にまみれた息のつまる大気が押し寄せ、シュラインを包み込んだ。
 それは、さながら見えない大きな腕(かいな)がぐん、と伸びてきて手を伸ばし、その掌で踏み込むものの体全てを捉えたような、そんな感覚だった。
 誘われるというよりは、半ば引き込まれてその先―――土を固く踏み固めて作られた玄関の三和土(たたき)に入り込む。
 そこは、玄関口としては十分な広さがあった。誰の履物も並べられていない寒々しい地面は、畳にしておよそ4、5畳はある。正面に黒い板が行儀良くはめられた上がりかまちがあり、その脇には細い通路が抜け、また4畳ほどの広さのある空間があった。こちらの地面には黒く、かつては磨かれて光を反射させたであろう石造りの床があり、細い入り口を入って左側に、玄関の正面にあった上がりかまちと同様のものが突き出していた。図面によると、この先が応接間になっているらしい。畳廊下を挟んで、客間や書院も見られる。丁度、家の西側に島のように突き出た、これが公的な用件で使う部屋なのだろう。
(入り口が分かれているなんて、本格的ね)
 一通り造りを頭に入れると、シュラインは一時玄関口まで戻る。
 目下のところ、彼女が一番この家の中で気になっているのは、先に帰宅した調査員が口端に上らせた土蔵の存在であったので、まずはそちらを優先的に調べようと思っていたのだ。
 それには、この玄関口からまっすぐ畳廊下を抜けて行く方が早い。
 靴についた土や汚れをよく払い、「お邪魔します」と頭を下げてから屋内へと踏み込んで行く。
 家の中は暗い。が、先の調査員が家に踏み込む際に開け放ったという雨戸のおかげで、畳廊下の中央部が僅かにぼんやりと明るかった。今日が晴れていればもっと調査はしやすかっただろう。
 上がりかまちに続く4畳ほどの空間を抜け、シュラインはL字に伸びる畳廊下の内、真っ直ぐ奥、北に向かって伸びる方の通路を歩いて行く。
(歌が聞こえた、っていう土蔵の位置……鬼門にあるのが気がかりだわ。何か、関係はないのかしら)
 畳廊下の周辺には、丁寧に積み重なった雨戸と、踏み荒らされた一人分の埃の後が点々と続いている。これが、恐らく先の調査員のものであろう。玄関先からここまでには、自分がつけてきた足跡しか存在しない。
 では、少なくとも、埃が積もりきるほどの間は他に人は出入りしていないことになる。 だが、確かあの老人は、化物が出るので家人が怖がって寄り付かない、とは言っていなかっただろうか。
 メモ帳に書き付けながら、シュラインは首を傾げた。ひとまずそれは置いておいて、気になっていたことを頭の中で纏めて行く。
(土蔵の前で聞こえたという童歌……ええと、なんだったかしら)
 素早くページを繰って、速記で書き留めたページを開いた。

 ――――やーい、やーい

 ――――おきてやぶりはばちぬぐい

 ――――さんどめぐってあなくぐり

 ――――かんなびおかしはよみへぐい

 ――――にどとどこにもかえられぬ

 ――――やーい、やい

 分かる範囲で、歌の詞を漢字に置き換えてみる。

 掟破りは罰拭い
 三度巡って穴くぐり?
 神奈備侵しは黄泉へぐい
 二度と何処にも帰られぬ

(これは……どういう意味かしら)

 瀬崎が言っていたように、確かにこれは脅し歌だ。それも、恐らく禁忌を破った者を戒める歌。
 かんなび、は神奈備(かむなび)。神が坐す神聖な場のことだろう。そこを侵すものは黄泉で償いをする。そうして二度と現世には帰れない。
 そういうことなのだろうか。
 この歌が、シュラインにはどうにもこの屋敷が化物屋敷である理由や、この土地に伝わる昔話を反映しているように思えてならなかった。
 そして、民話や昔話は、口伝や写しを経て多少脚色は為されているものの、大体が実話の何かを基にして派生していることが多い。では、村に伝わる二つの昔話とこの童歌、化物屋敷を繋ぐものはなんだろう。
(キーワードは……土蜘蛛のような気がする)
 頼光が倒した土蜘蛛の元が異質な姿をした人であったように、この村に伝わる土蜘蛛もまた、人なのではないだろうか。だが、そうだとすればこの場合、話の伝わり方がおかしい気がする。土蜘蛛は人を襲う、や殺す、ではなく、はっきりと食らうのだ。
 ここに一つの不整合がある。
 ならば、とシュラインは発想を転換した。
 逆、なのではないだろうか。
 土蜘蛛は、まつろわぬ民。山間を移動して、大和の勢力から隠れ続けた闇の民だ。彼等は都から落ち延び、この村に辿りついた、としよう。だが、恐らく村の人々は彼等を匿いはしまい。
 その頃の村などは、現在など比べ物にならないほど閉鎖的で、帝に歯向かう者の命よりも、自分達の生活をこそ守ろうとしたはず。では、土蜘蛛を虐殺したのは、彼等ではないのか? だが、虐殺したものの、帝にそれを突き出すほどの勇気はなかった。
 土蜘蛛は当時、奇妙な妖術や呪いを使う、などという噂が囁かれていたという。保身のためにそれを殺したとはいえ、今度はその死体の処遇に困るはずだ。
 だから、山に捨てた。
 大量の虐殺は村で行われ、山は死体を覆い隠すに絶好の場所だ。もしくは山ですべてが行われた。それ故に山は禁忌。そうは、考えられないだろうか。
 だとすれば、村の人々が山を秘める理由にも一応の納得がいく。自らの恐ろしい醜聞を覆い隠す為に、山を神聖化し、誰も近寄らないよう、掟をしいた。
 その風習はとっくの昔に力をなくし、形さえもなくしつつあったが、習慣だけは今も澱のように村に吹き溜まり、村は閉じている。
 だが、ここでまた村人たちに誤算が起こる。土蜘蛛は死してなお、何らかの形でアヤカシとなり、今度こそ本当の化物となって、人を食らったのではないだろうか。
 これが土蜘蛛。人食いだ。つまり、そう考えるのならば、伝わっている話は、退治と人食いが逆なのだ。
 旅の僧というのが自分達のこと。この時、まだ人だった土蜘蛛は村人によって殺された。
 その後に現れたのが化物となった土蜘蛛。化物は八本の足を持ち、人を食らったので土蜘蛛と呼ばれた。この時に食われたのは、村人。
 そこまで考えを進めて、シュラインは背筋がすぅ、と寒くなるのを感じた。
 その考えで通すのであれば、土蜘蛛は今も退治されず、この神の山と呼ばれるどこかに潜んでいることになる。
 それは、仮説とはいえ空恐ろしい考えだ。
 だが、そう考えると推測でしかないが、もう一つの昔話、水の救済譚にも繋がりのようなものが出てくる。
 雲は蜘蛛に繋がるし、雲は雨を呼ぶ。
 水不足に困っていた村人達は、もしやすでにアヤカシとなり、神格化した土蜘蛛に人身御供をささげ、雨を乞うていたのではないのか。
 化物を神に奉り上げ、贄を捧げることによって富や豊作、水などの恵みを得る話は日本の各地に残っている。
 だが、だとすればそんな血生臭い歴史が、この山の中で……?
 推測というものは、考え出すときりがない。だが、シュラインは急にこの屋敷がひどく禍々しい何かに思えてきて、一度体を抱え、しっかりと二、三度頭を振った。
 この山に、何かがあるのは間違いのないことだ。
 家を元々あった山間からこの神のいる山に移すからには、恐らくこの山に何らかの理由があるのだ。
 この家の持ち主が資産家だ、という点も気になる。持ち主が数年後とに変わっている、と草間は言っていたが、その理由はなんなのだろう。
 草間に、確かめてみる必要がある、と思った。
(けれど……まずは土蔵ね。土蔵を確認してから、一度外に出て、武彦さんに連絡を入れよう)
 考えを纏め、気持ちをしっかりと持ち直したシュラインは、畳廊下の先――更にL字に折れている黒い廊下へと足を運んだ。



3 神社の章

 水が忙しなく跳ねるような、甲高い音が時折聞こえてくる。
 木々に囲われた山道を、その道には不似合いに見える着流しを纏って歩く瀬崎は、そんなに渓流が近いのだろうか、と首を巡らせた。
 陽射しが隠れている為、朝だというのに山は薄暗く、枝の深い場所に至ってはさながら夜のようであった。
 この世の原初の頃、地には夜がなく、あまりの苦しさに訴えにでた人や獣どもの願いによって、天の神は空を覆い隠す巨大な黒を織ったという。 
 だが、夜をかぶせるには、まだ早いであろうに。
 そう思って瀬崎が首をこきり、と鳴らした時、また甲高く尾を引いて音が奔った。それで合点がいく。
 なるほど、あれは鳥の声なのだ。それも、姿は見えないが随分低い位置で声がする。
 では、この近くにやはり清流があるのだろう。
 そう検討をつけて、瀬崎はまたゆるりと歩き出した。
 調査すべき屋敷から外れてこの山の道に入り込んだ事に、しかとした理由はない。ただ、いうなれば呼ばれたとでも言おうか。
 山に足を踏み入れた時から薄々感じていた近しいものの気配が、この周辺には二つある。
 すなわち、禁忌の匂いとでも言うべきものが。
 その一つは、やはり屋敷から。そちらにはシュラインが向かうのが見えた。故に、瀬崎はもう一方を目指したのだ。
 途中、共に屋敷の門を出たマリオンとも別れた。彼は柔和な顔で、少し考えがあるのだ、と言っていた。恐らく、有力な情報を持って帰るのだろう。
 以来、その微かなもう一方の匂いをたどって、瀬崎はここにいる。
 神の山とされるだけあり、この現代にあって尚、この山の信仰は生きているようだった。奥深くなってくると、申し訳程度の山道はあるものの、人に即して作られたものではないことがわかる。
 だが、仕事柄、様々な遺跡なども巡る瀬崎は、むしろこういった道ならぬ道を行くのに長けていた。
(……しかし、あれが戦火も、震災をも免れた屋敷だったとは。さながら、依頼主は屋敷の初代の主、といったところなのか)
 瀬崎は、先から依頼人を真っ当なる人間だとは考えていない。
 そう考えるには不自然な点が多い上、なにより屋敷の放つ臭気というものがある。あの屋敷を化物屋敷と知っていて購入するからには、やはりどこか人の枠からは外れた者であるのだ。
 最も、大正から息吹き続けた屋敷の主とあらば、人ならぬものである方がしっくりくるというもの。人でないからこそ、永代屋敷を、ひいてはこの土地を無粋なるものの手から守ることができ得るのだ。
 旧き怪異をこの上なく好ましく思う瀬崎にとって、こうした土地がいまの日本に残っていることは僥倖である。ただ、一つ引っかかるのは。
 この山が留めるものが、ただ旧い記憶と息吹だけではなく、どこか忌まわしい、生命に仇なす何かであるのでは、という懸念だった。
 依頼人が何故屋敷の化物退治を依頼してきたのか、その真意を図らねばならない。
 老人は、本当に化物の殲滅を願っているのだろうか?

「…………水の、匂いがするな」
 ふと、本物の沢の音を聞いた気がして、瀬崎は首を巡らせた。すると林立する木々の隙間、下方にほんの一筋、水の線が見て取れる。
 加えて、細い路地のように並び立っていた木々の枝が組み合って一種のアーチを作り出し、その先にほんの僅かに何の障りも無く空を覗ける空間が開いていた。
 そこまで歩を進め、瀬崎は大きくなった沢の音に、空を仰ぐ。やはり、曇天。光は見えず、辺りは薄暗いままだ。
 正面に目を戻すと、彼方此方(あちこち)と曲がりくねっていた山道はこの林の出口から急にスッと真っ直ぐになり、少し歩いた先の地面は白い石造りの小さな橋になっていた。それで、こんなにも水音が聞こえるのだろう。
 そのまた橋の先には、所々が剥げ落ち、くすんでしまった朱の鳥居が広く、どっしりと足を開いて構えている。傍らに背の高い石碑が建てられており、これに文字が刻まれていた。
 所々苔生し、読み取りにくくはなっているが滝沢神社と読み取れる。
「水神、か……?」
 呟き、その鳥居をくぐる。先は砂利道で、両側には先ほどまでの山道よりも更に密集して木々が薄暗い小道を作り出していた。道の奥には、木から荒く切り出され、ただ組まれただけの、朱の鳥居よりも粗雑で歪(いびつ)な造りの鳥居が暗闇の中に連なって浮かび上がっている。ここからでは、この道がどこまで続いているのか伺い知ることはできなかった。
 しかし、なんと水の匂いが濃厚なことか。
 かつて、水不足の伝承があったとは想像しにくい。これが真に神の御技なのだとすれば、現在にまで残る信仰にも頷ける。だが、奇妙だ。
(滝沢とあるが……祭神は龍なのか? しかし、それにしては龍に関する伝承は聞いていない)
 僅かな違和感が、脳裏を奔った。皮膚を薄く、尖った氷の刃で殺がれるような薄い感覚。
 草履が土の代わりに小石を蹴る音を聞きながら、瀬崎はゆっくりと淡い闇に踏み込んで行く。
 沢の音は、だんだんと近くなった。
 やがて、目下に一つの清流が姿を現す。
 ごつごつとした岩肌がその急な流れを区切り、水はその間を縫うように先を目指して流れている。跳ねた水が白い飛沫となって先を争うように進み行くその先には、彼等の終着点があった。
 流れ落ちるそれは小規模な滝となり、沢を作っていた。深い碧が折り重なって穏やかに水を湛える。
 その沢に臨む一角に突き出た岩肌の先に、小さな社が建てられているのが見える。
 瀬崎は、沢を巻いて続く小道の草を踏み固め、社の前で立ち止まった。
 木と、土壁で作られた小さな社の頭部には、屋根を巻くようにほつれて、風化した注連縄がだらしなく垂れている。
 社の両脇に挿し飾られた笹もとっくに力を失いしな垂れ、青々としていたのであろう葉はすでに茶褐色に枯れ果てていた。
「これは……」
 瀬崎は、ここにきて初めて眉を顰めた。もしや、と思いながら、神が坐すその社の戸に無遠慮に手をかける。
 これは、おかしい。
 重く、軋んだ音をたてて社は暴かれた。その奥には黒ずんだ蝋燭が数本、かつては燭台であったのだろう、朽ちて折れた鉄の上に転がっており、ご神体であると思われる鞠ほどの多きさの龍を象ったご神体の像は、恐らく青銅なのだろうが、すでに変色して、表面が剥がれ落ちていた。
 ――――神は、死んでいる。これは、虚ろの社だ。ある意味がない。
 いや、それとも。
 瀬崎には、ある種の予感があった。
 それが故に、社に鎮座する形のみの偶像を手づかみ、台座から取り除いた。
 目を、眇める。
「……そうなのか。僕は少し思い違いをしていたようだ。事は、単純ではない。この山をいま息吹かせているのはやはり、神ではないのだね」
 独白は、水に混じり少し苦い色を含んだ。
 竜の台座の下には、古ぼけて滲んだ二枚の札が斜めにこびり付いている。

 ”――――――”

 複雑な紋様と共に書き付けられた、その言葉の意味を瀬崎はどこかで見たことがあった。
 悪鬼退散の封じ札だ。これが貼られているからには、この社は水神の社などではない。何かしらの害為す化物を封じた、要の社なのだ。


4 過去の章―壷―

 マリオンが、広大な屋敷の門を出て、左回りに外向きを歩いて一周し、再度玄関から反対側に位置する主人の居室近くまで来たのは、丁度懐中時計の針が長針にして5つ程動いた頃合だった。
 マリオンが最終的に目指していたのは主人の居室であり、それは茶室のすぐ近くにあった。先の調査員からは、茶室の脇から屋敷に入れる場所がある、と聞いていた。加えて、シュラインが玄関から土蔵を目指す、ということだったので、マリオンは敢えて外回りをもう一度確認し、ぐるりと一週半して、目的地まで戻ってきたのだ。
 軽く息をつき、マリオンは、先ほど携帯で草間に連絡を取った時のことを思い出す。
 気になっていたのは、この屋敷の公な所有者であるとされる日崎康三郎氏の入院。そして、依頼人の言葉。
 日崎氏が自ら依頼を持ちかけたのだとすれば、それは何かしら超常的な力が働いていると見て相違ない。本人は現在完全看護の病院で入院中だというのだから、通常、草間の興信所まで出向き、依頼をすることなど不可能なのだ。できたとして、それは生霊か、残留思念か――どちらにしても並大抵の思いではない。
 だが、それほどに思い入れのある屋敷について、日崎氏は息子にさえその存在を漏らしていない。
 マリオンはそこに、何か隠された事柄があるのではないのだろうか、と考えた。
 それで、草間に聞いてみた。
『その日崎康三郎という人と、依頼人は同一人物だったのですか?』
 答えは、NOだった。
 その息子に依頼人の背格好や特徴を伝えたが、本人とはどこも一致する箇所がない。依頼人は、日崎氏ではない可能性の方が高い。
 可能性の全てを否定できないのは、草間自身がその老人の顔をはっきりと確かめたわけではないから、ということだった。老人は目深くハンチング帽を被り、最後まで皺を深く刻んだ口元しか見せなかった。
 マリオンは、思う。
 やはり、依頼人は人ならぬものなのではないか、と。
 引っ掛かりを覚えるのは、やはり神の山の一部をわざわざ買い取り、屋敷をその一角に移築した、という事実。そこには、そうしなければならない何らかの理由があったのではないだろうか。つまり、この場所に、屋敷が建つことにこそ、意味があった。
 屋敷は数年毎にその持ち主を変えているという。依頼人はその屋敷に沿う何かであり、何らかの理由ができ、屋敷を神の山に移築させた。
 その何かの部分があまりに明確にならないので、マリオンは1つのことを試そうとして、この主人の居室を目指したのだった。
 茶室に面する裏庭から、恐らく先の調査員が辿ったのであろう張り出し縁から屋敷内に足を踏み入れる。
 そこにはすでに二人分ほどの踏み荒らされた埃の後がついており、すでにシュラインが内部に探索に入っていることを示していた。
 それに少し頷き、マリオンは畳廊下を抜ける。
 そこでL字型になっている廊下を、右に曲がるのではなく、真っ直ぐ進んだ。張り出し縁に面する雨戸はすべて取り払われていたものの、こちら側にはまったく陽の入り込む場所がないらしく、板敷きの廊下の先は、昼間だというのに闇が凝っていた。
 手早く小型の懐中電灯を取り出し、それで先を照らすと、濛とした微細な埃が無数に空間に舞い散っているのが見えた。どことなく息苦しいような気分になりながら、マリオンは慎重に前へと歩を進めた。
 途中、突き当たって左、もう一度右、と廊下は迷路のように折れ曲がり、闇は次第に深くなる。
 それと同時に、辺りの静けさも増して行く。もはや、鳥や虫の気配さえも届かない。
 化物の気配も――今はまだない。
 やがて、廊下にも終わりがくる。
 薄黄色い人工的な灯りが照らす小さな範囲で確認し、マリオンは目の前にある唐格子が主人の居室への入り口だろう、と思った。
 その窪みに手をかけると、考えていたよりもずっと軽い手ごたえがあり、するすると格子が開く。
 先に光を入れて照らすと、屋敷に足を踏み入れた時よりもずっと凝縮された空気が舞い上がり、宙を浮遊している。
 足元に2畳ばかりの板敷きがあり、その先に少し黒ずんだ畳が今も形を残して敷かれていた。奥の右側に床の間。正面には、窓があるのだろう。開いた襖の先に楕円の明かり障子が見える。
 光が小さい分、できるだけ細かく当てる範囲を決めて部屋の構造を覚えこみ、マリオンはその居室の造りを把握していった。
 部屋には、この家の主人が実際にこの部屋でくつろいでいたのだろう、影が見え隠れする。細い木割り、袋床が用いられ、人が住みやすいよう、軽妙な数奇屋風の意匠が展開されていた。
 天井が通常の和屋敷よりも高く思えるのは、近代に建てられたものだからなのだろう。「……移築の年代が分かって、本当に良かったのです」
 その居室の丁度中央まで足を進め、ポツリ、呟き、マリオンは深く息をついた。呼気を整え、ゆっくりと彼は両手を軽く開く。
 長き時を生きるマリオンには、絵や写真などに干渉する力の他に、もう一つ強大な力が存在する。
 それがこれだ。
「私が知りたいものを、見せてください」
 薄く瞼を押し上げ、開いた両手を空虚な空間へと伸ばす。誰の目にも見えない、彼にだけ明らかなその扉を押し開けた、途端。

 マリオンは世界に落ちる。

 瞬時に、様々な色を有していた周囲の景色はパズルのピースのようにばらけ、霧散し、ほの暗い最下へと音も無く落ちて行った。
 その中にあって、マリオンはもう一度、今度は手を引いた。底なしに見えた闇は滑らかにマリオンの周辺に集結する。やがて、彼の前に、丁度一枚の扉を連想させる大きさの長方形が現れ、色彩のない世界を晒していた。
 マリオンは躊躇わずその世界に手をもぐりこませる。
 過去は突然の破天荒な干渉に撓(たわ)みながらも、彼を受け容れた。

 切り取られた小さな過去は、主の望む時間軸へとその身を滑らせる。

『あの壷は……どこに……あの壷は、なんなんだ』

 初めに映ったのは、頭を抱えて、苦悩する男。

『ねぇ、おかあさま。おとうさまはどうして、お家を壊してしまわれたの?』

 物の道理もわからないであろう、年頃の幼女。

『壊したのでは、ないのよ。お移しになったの。お父様は、体の静養が必要になって、もっと体に良い、美しい土地に移られたのよ……』

 宥めるように言い聞かせる母親。だが、その顔にこそ懐疑が浮んでいる。

『だんだんと、体が衰えて行くようなんだ……あの壷は恐ろしいものだ。わたしは、悪魔の壷を盗み取ってしまった……』

 あれは、この屋敷を移築した人物なのだろうか。
 マリオンはさらに過去から現代へと遡った。

『もしお前が欲しいというのなら……この屋敷ごとあげよう。だが、無事に死ねるとは思わない方がいい』

 恐らく、屋敷の内部、主人の居室。つい先ほどマリオン自身が立っていた場所の過去の風景。
 先ほどまでまだ人の姿を残していた男は、まるで肌に似せた布に針金を通したかのようにやせ細って、寝間に横たわり、背を向けた男に話していた。

『それでも欲しがるか。それも、よかろう。だが、自ら手放すことはできんからな……もし、お前が途中で命が惜しくなったのなら、誰か他の者を見つけろ。代わりを見つければ、命もそこで助かるやも』

『……できることなら、日崎。お前はつかまるな。こうなりたくなくば……』

(……日崎!)
 では、あれが日崎康三郎氏なのか。
 マリオンは捉えた核心を逃がさぬよう、散らばった空間の中から、彼の意識を探す。
 ざっ、ざっ、と風景が断続的に途切れ、すぐにまた姿を現した。先ほどとは違う男性だ。
 恐らく、あれは先ほど背を向けて座っていた――――日崎。草間によると随分な高齢ということだったが、今の彼は年若い。先ほどよりは年を取っているが、恐らくまだ四十を越えた辺りだろう。

『どうして、壷の置き場所が……! けして、誰にも見せるなとあれほどいっていただろうに』

 年若い、恐らく部下だろう男を必死の形相で怒鳴りつけている。

『神が……神が逃げてしまう。どこかで新しい主人にでも目をつけたら』


(……神?)

『間違ったのは、私か……? それともあの人か。私は富が欲しかった。だが、これ以上増やしてはならん。あの家は、私が生きている間だけでも、ああして朽ちるままに……壷が誰の手にも渡らぬことを、願うだけだ……』

 最後に見えた映像は、既に老いさらばえた日崎氏であろう、人の姿が独白していた。
 まだ、人の姿をしている。そして、何かを悔いていた。ああ、では、きっと氏は今もまだ戦っているのだ。
 そうマリオンが理解した刹那。
 ――――その聞きなれない冷たい声は、真後ろから来た。

「懐かしいものを、見ておるのぅ」

 過去のみを見据えていたマリオンの目が最大まで開かれる。思わず手でその気配を払った瞬間、周囲に凝縮、集結していた闇は音をたてて引きちぎられた。
「……っ」
 同時に、耳を劈くように鳴り響いた甲高い音。ああ、そうか。これは、きっとサイレンなのだ、とマリオンは思った。
 危険を知らせる警告の音。
 確か、屋敷をうろついた時に誰かが耳にしたと言っていた。これ以上近づいてはいけないと誰かが知らせている。
 では、これは日崎氏の残留思念なのかもしれない。
 突如として崩された時の歪の痛みを身に受けながら、マリオンは屋敷の核を覗き見たと確信した。
 過去視は成功した。
 目指す年と、人々に因縁の深い場所の検討をつけられたのが幸いした。
 だが、あの声は。
 粗くなる息に、思いのほか多く堆積していた埃を吸い込んでしまい、咳き込みながら、マリオンは素早く意識を奔らせた。
 堆い闇の中、先ほど確かな笑みを含ませていたずらのように声をかけていった、その主を探す。
 だが、どれほどに五感を研ぎ澄ませ、気配を探っても、そこにはもう誰もいなかった。 手元に落としてしまっていたらしい、灯りをとりあげ、取り出した懐中時計の文字盤を照らす。
 どうやら、昼が過ぎているようだった。
「ベースに……戻らないと」


5 土蜘蛛の章

 昼。
 ベースに再び集まった三人は、ぎこちない三角形を刻んだまま、今朝方からの成果を順を追って話し合った。
「……マリオン君が見た、いいえ、聞いたっていうその過去の壷のことだけど、少し思い当たることがあるわ」
 一通り話を聞き終え、シュラインが口を開いた。
「草間に連絡を取ったのだけれど、数年毎に屋敷の持ち主が変わっていると言ったわね。確かに、日崎氏がこの屋敷の所有者になるまでは数年を経て次々と持ち主が変わっていたわ。それも、持ち主が変わる時には、ほとんどの持ち主が亡くなったり、謎の失踪を遂げたりしているそうよ。そのうちの一人が亡くなった際、新聞にある記事が取り立てされているの。家の家宝が盗まれている、という記事が。本人がずっと大事にしていたものだから、と家人が死後によく遺物を探したそうなのだけれど、どこにも見つからない、と。大層高価なものだったそうだから、もしや盗まれたのでは、と警察に届け出るも、本人が処分した可能性も高いし、出所のわからない骨董品を探し出すのは困難である、と難色を示された、という」
 これはあくまで推測なのだけれど、と呟くシュラインに、瀬崎が問う。
「では、それがマリオン君が見た過去に出てきた壷であると?」
「……そう思うのだけれど。間違っているかしら」
「間違っているかどうかはわかりませんが、可能性は高い、と思うのです。恐らく、壷は、自らの持ち主に多大な富や権力などを与える何らかの呪物と見ていいと思うのです。その代わりに、持ち主から生気を吸い取るのかもしれません。なんにしろ、代償を求めるのだと思うのです。だから、数年を経ると持ち主が死んでしまい、壷は次の新しい宿主を求めるのではないでしょうか」
 マリオンの言葉に、シュラインも瀬崎も頷いた。
「恐らく、この屋敷がどこぞの山中からこの神の山に移築されたというのも、その壷が関係しているのだろう。……だが、この山は既に神の山などではない。いつからそうでなくなったのか、それとも最初から神などいなかったのか、どちらかはまだ判じがたいが」
「……神社のご神体の台座に、悪鬼祓いの札が貼られていた、ということね。ねぇ、その札なんだけれど、もしかしてこれと同じようなものかしら」
 そういいながら、シュラインは自分のメモを繰り、あるページを瀬崎に差し出してくる。
 そこには、確かに神社の社の中で見たものと寸分違わぬ紋様と文字が描かれていた。
「そうだが。これを、どこで?」
「土蔵よ。調べてみると、入り口の覗き窓の扉の裏と、通路側の二隅に貼ってあったの。もしかして、と思ったんだけれど」
 三人は顔を見合わせる。
「では、もしかして、壷は土蔵に?」
「……恐らくは。他に候補として挙げられる場所が少ない。恐らく、悪鬼祓いの札を貼ったのは日崎氏なのだろう。そして彼は、この山の信仰と壷に何らかの関係があることも突き止めた。かの依頼人は、この化物屋敷を使えるようにしてくれ、と言っていたが、恐らくそれには何か隠された思惑があるはずだ。日崎氏はそれを止めようとしていたのかもしれないが」
 だが、彼は壷と、屋敷と、この山の因縁を開放するまでには至らなかったのだ。志半ばで倒れ、今は意識もなく眠り続けている。
「じゃあ、私たちのすることはどうやら一つね」
 メモを閉じ、シュラインが言うと、瀬崎、そしてマリオンも強く頷いた。
「土蔵を、暴かなければならない」
 そしてそう、口端に言葉を上らせた途端。
 ――――あの音が始まった。

 耳を深く、鼓膜まで刺し貫く警告音。
 甲高く伸び上がり、張り詰めた音はやがて尾をひいて空気に溶ける。それと共に一陣の風が起こり、その風は溶けた音と石礫のような細かい欠片を巻き上げて、一つのヒトカタを作り上げた。
 シュライン、瀬崎、マリオンが立つその数歩先に、その老人は立っていた。
 古木でできたような曲がった杖を両手でつき、土で汚れた紋付袴。顔は目深に被ったハンチング帽の為、ほとんどが隠れており、見えているのは深い笑みを刻んだ皺だらけの口のみ。
 それは、草間興信所に現れたと寸分違わぬ、依頼人の姿だった。
「貴方は……」
呟いたシュラインをつい、と一瞥し、老いた男は口を開く。
「ご苦労であった。ご苦労であったぞ、真にな。よもやこのような短期間でそこまでを導こうとは我も思いはせなんだ。力あるものを求めるあまり、どうやら人選を早まったようじゃ」
 老人は、喉の奥で潰れたようなしわがれた声を転がし、笑った。
「だがなぁ、暴かれては困るのよ。それにはまだもうちっと時が早かろう。主等はもうよい。素養にはなるまい」
「……随分と勝手なことを言ってくれる」
 皮を張っただけの棒のような黄土色の手を振りながら、実に残念そうにそう言った老人に、瀬崎は嘆息して声を張った。
「遠方から何のためにここまで足を運んだと思っている? 貴方は思惑が外れたのかもしれないが、僕達には知る権利があるだろう。何も知らずに、依頼も終えず、大手を振って帰れると思っているのかね。それならば、貴方はもう少し杜撰な仕事を行う調査機関を選ぶべきだった」
 瀬崎の言葉に、老人は鼻を鳴らしたようだった。マリオンも一歩前に進み出る。
「貴方は、なんなのです? この屋敷に封印されている、アヤカシなのですか」
「確かに、我は人ではない。アヤカシとも化物とも呼ばれもする。だが、封じられてなどおらぬ」
「では、貴方は――――土蜘蛛?」
 マリオンの言葉を次いで、シュラインがそう断じた。疑問の形を取ってはいたが、半ば確信しての言葉だった。
 老人は、僅かに意表をつかれた様子で、ほう、と呟きシュラインに顔を向けた。その、全容の見えない顔を。
 そして、先ほどよりも大きな笑みを浮かべる。
「なかなかに聡い者達が集まったものよ。主等を素養とできぬことは何よりも惜しい。だが、そうまで突き止めたのだ。この土蜘蛛の翁が、知りたくば、語ろう」
 半月型に笑みを刻んだ口は、黄ばんだ歯を剥き出しのままに、昔語りをしよう、といった。
「主等が知りたいのは壷の中身であろう」
 羽織の袖から突き出た枯れ切った腕を広げ、何から話したものか、と彼は語り出す。
「この麓の村の名は、かなし、というであろう。河が無いのでかわなし、ではない。あれは家なしの家無(かなし)なのだ。村は、その昔、帝に従わず、まつろわぬ民と虐げられ、土蜘蛛と呼ばれた者どもの集落であったのよ。流れ流れてこの地にたどり着き、居を構えたが、残念ながらそのすべてが里で暮らすわけにはいかなかった。土蜘蛛の中には先天的に手や足が長く、髪もまるで異人のように赤茶けている者どもが多くいたのだ。そのような目立つ姿でこの地に住み着いたところで、すぐにその姿は知れよう。それ故、その異様な姿を持った者どもは、皆山間の奥深い場所に集落を移したのだ。山にできぬ恵みは、里に残った者が定期的に山に運ぶ取り決めをした。そうして、どの土蜘蛛も一端は住処を得た、ように見えた」
「だが、生活はそう長く続かなかった。或る日、何者かが土蜘蛛の集落を襲ったのだ。皆、殺された。襲ったのは、そう。里に残った者どもよ」
「そんな……」
 シュラインは、知らずそう漏らした。
 里の者が土蜘蛛を惨殺したのだろう、と思ってはいたが、まさか、同族だったとは。
「惜しくなったのであろう。平穏な暮らしを追い求め、今ここにようやく落ち着いても、天帝の兵にいつ追われるとも知れぬ生活よ。更なる安堵を求めるが故、見るからに異質な姿をした異分子を切り捨てたのだ。自分達が大和の民と違わぬ姿をしており、土蜘蛛とは判是がたいと知っての裏切りよ。だが、裏切ったものの、彼奴等はかつての仲間の呪いや祟りを恐れたのであろう。神の御山などと嘯き、社を築き、悪鬼祓いの札を隠した。土蜘蛛と呼ばれたことから蜘蛛を祭神としたが、そのような神はおらぬから、雲に通じ、雨神として奉ったのだ。雨神と言えば、龍であろう。それで、社の名は滝沢というのよ」
 そのようなことをしても、罪が拭われる筈もないのにのぅ、という翁は、憂うというよりはおかしくて堪らない、といった風だった。
「仲間の裏切りにより、土蜘蛛は真の化物と成り果てた。そう、我がそれよ。同じ血をひく同族によって虐殺された、その怨念から出たるアヤカシ。因果なことに、我は小さく、矮小な山蜘蛛の形を持って生み出された。それ故、今はこの体を借りておる。いつ拾ったか忘れたが、道端で、申し訳程度土をかぶせられていた死体をもろうたのだ。新しかったゆえ、なかなかに長持ちしておる」
 死ぬことによって、土蜘蛛は確かに化物となった。だが、その姿はまだ小さく、化物としても年若い。
「我は人間が憎かった。我の根である土蜘蛛族を追って殺めた卑しい同族殺し共も、のうのうと帝の下で生きる大和の民人も。だが、我には力が足りぬ。足りぬが故、食らったのだ。やがて村の者どもが我を恐れ、食らうものも少なくなり、術者共が集まりはじめ――我は流れた」
「我はまだまだ死ぬわけにはいかぬ。更に更に力を蓄え、ゆるぎないほどに強大にならねばならぬ。故に、長い時を流れた。そうして、力を蓄えてこの懐かしき地に舞い戻った頃。ようやくに我は娘と会ったのだ。あの尊き娘と」
 そう言った翁は、恍惚として、どこか遠い時代を懐かしむようだった。
「麓の村には、盲いた娘が生まれておった。娘は、この世に生を受けた時からその病を持っており、陽の光でさえも、ぼやけたものとしか映らなかった。この娘、盲いていながらも、年を重ねると山育ちとも思えぬ器量を備えた。それが縁で、村の中でも裕福な農家の倅に見初められ、嫁にゆくこととなったのだ。だが、農家の嫁が目が見えずして居心地が良いはずもない。娘はすぐに自分の居所をなくし、やがてある晩のこと、その農家を飛び出した。村人たちが自分を探すことがないよう、娘は自分の草履を庭先に揃えて置いておいた。そうして家を逃れた娘が行ける場所などひとつしかない。娘は、この山に入ったのよ。神の山、禁則の地として野放しにされたこの山は、娘一人養うことなど造作も無い。そして、すでに山には人を食う化物も消えて久しい。だが、どことなく憚りがあり、村のものたちはけして近寄らぬ。これほどに、娘を助ける場所が他にあっただろうか」
 翁は笑う。
「だが、娘の考えは浅かった。同じように考えるものが、他におらぬと思っていたことが」
「……異人」
 思わず呟いたシュラインに、翁が先んじた。
「そう。異人よ。それも生粋の異人ではない。異人と呼ばれた山の民。これも、まつろわぬ民と呼ばれたものの一種よ。我と同じ匂いがした。だが、我を生んだ元になった集落よりももっとずっと汚らしく、矮小な集落であったわ。恐らく、我が流れた事実を肌で知り、恰好の隠れ場としてこの山に潜ったのであろうよ。娘は、彼奴等に連れ去られたのだ」「だが、娘には幸いか、災いか、彼奴等のどこか異様な様を見ることができなかった。言葉も通じた。娘には、従うことしかできなかった。彼奴らの集落に連れ帰られた娘は、やがて上等な部屋に通され、三日三晩を安楽に過ごした。娘は状況が分からないなりにも、山の民に自分が歓迎されていることを知り、気を許した。だが、三日目の夜。娘は突如引き出され、暗い暗い、穴倉の中へ放り込まれた。山の民の童が歌う。主等も、聞いたであろうが?」
「では、あの童謡が」
 瀬崎が呻く。
「娘は、儀式の贄となった。盲いた娘は、神の住む禁域を侵した。侵したものは償わねばならぬ。三度穴倉をもぐり、生まれ変わって黄泉にて償う。彼奴らは、歌が終わった時、娘の足を生きたまま砕き、手を潰した。彼奴等は、縄張りに訪れたマレビトを捉え、自らの神とする奇妙な信仰を作り出していたと見える。異人と呼ばれた者が、異人殺しをするとはな」
 柳田国男などの著書によれば、村や集落に訪れた外からの来訪者、マレビトを死に至らしめる伝承が各地に見られる。これを、外から来たもの、異人殺しの民話、と分類するのだが、その説にのっとるならば、この山では、その異人を殺したのもまた異人となるのだ。翁は、それを皮肉っている。
「娘はこうして連中の生き神となり、生きながらにして黄泉とされる陽の射さぬ洞穴で生活した。腹が減れば苔をむしり、滴り落ちる水滴を舐め。それでも、娘は生きていた。我はそれを長き間、ずっと長い間、見ておったのよ」
 日に日に、娘の瘴気が濃くなるのが分かった。娘は、すべてを憎んでいた。やがて瘴気も失い、考える力をなくしてもずっと憎んでいた。
「だから、我は娘の前に出でて、こういったのだ。終わらぬ主の呪いを少しでも広める手伝いをしてやろうと。たまり溜まった呪いをこの洞穴で朽ち果てさせるには惜しい。誰のためにこのようになったのか、そんなことはもう覚えてはおらぬであろうが、主は、人が憎いであろう、とな。娘は憎い、と答えた。ゆえに、我が壷に詰めてやったのだ。その憎しみと呪いごと。次いで、その異人共も詰めてやった。それが今だに謳うておる。娘は、喋りもするぞ。あの様になっても未だ自我を失わぬ。まったくもって、生神よなぁ」
「それが、日崎氏が手に入れたという壷なのですか!」
 厳しい口調で声を放ったマリオンに、翁はただニィと笑う。では、そうなのだ。
 疑いようもなく、あの壷には。
「この屋敷は、その壷の入れ物よ。壷は持つものに富を与え、力を与える。その代わり、与えられたものは壷に代償を支払うのだ。支払うものがなくなれば、その者は壷に食われて朽ちる。長い時、それを繰り返して壷は主人を変えてきた。壷の念が次第に強大になり、生半可な力場では御しがたくなったが故に、更に念を育てようと、当時の壷の持ち主であった者に家を移させた。大正を過ぎてできた家というものは、モダンだ、流行だ、と和を装っておってもまったく我等を封ずる礎がなっておらぬ。おかげでこれまでに成長した。此度の主はよう持っておるが、あれもまた近く終わりが来るのでな。できれば、新たに主等のような能力者たちを取り入れたかったのだが、なかなかどうして、うまくはゆかぬ」
「……では、この依頼は最初から虚偽だった。そういうことね」
 断じたシュラインに、翁は首を傾げる。
「虚偽だと。なるほど、そうなるのであろうなぁ。だが、主等、人間共の振る舞いとそう変わるまい? この世は人で溢れておる。汚らしくも、矮小な、古き血を継ぐ人共でなぁ」
 都に出たはいいが、まだまだ勝手がわからぬよ、と翁は篭った息を吐いた。
「化物共は皆、怠惰だ。それが故、この現までもが人で埋め尽くされておる。我々は重き腰を上げねばならぬ。東京は、この現世の都。この目でしかと見た。賢しらに、我等を調伏する存在もありしと聞き、小手調べに参じてみればこの様よ。まだまだ我等には力が足りぬ。呪いも足りぬ。血も、骨も、芳しく香る怨念の波動も」
 老人は手を高く天に向けて狂笑した。彼が生み出されたその歴史からして、狂っているのだ。なんと因果で、哀れで、恐ろしい歴史であろう。
「主等がこの先もこのような事柄を手がけるのであれば、いずれまた目にかかることもあるであろう。だが、今はまだ――――時が満ちぬ」
 誰もが、動く間がなかった。
 哄笑の中で、翁と名乗る土蜘蛛の化物が現れた時と同じように一陣の風が舞い、その小柄な体を巻き込んで轟、と吹く。
 借り物だ、というその体は瞬時に砕かれ、舞う風の中、くるくると回りながら、やがて微細な砂となり、消え去った。
 屋敷は、完全に沈黙している。

「……壷が、持ち去られた」
 ポツリ、と瀬崎がそう漏らし、シュラインとマリオンがはっとして屋敷を見返る。
 だが、そこに先ほどまでのようなどこか重苦しく、黒い気配はない。
「屋敷は、確かに入れ物だったのだろうね。壷をあの屋敷に残していたでは僕達にどうにかされると思ったのだろう。……一時、どこぞに流れたようだ」
「……解決失敗、ということになるのかしら」
「それはどうかね。依頼自体が虚偽だったのだから、失敗、ということにはならないと思うが」
 しかし、怪談文学の終わりとしては、いささかすっきりしない終わりだね、と肩を竦めた瀬崎にマリオンが呟く。
「……あの、壷。浄霊することも壊すこともできなくて、日崎氏は助かるのでしょうか?」
「それは、誰にもわからないことだろうね」
 瀬崎は、深い声で答えた。
「日崎氏は、納得ずくで、前持ち主から壷を譲り受けた。誰が強いた訳でなく、これは彼が背負った業というものになるのだろう。清算は、彼自身が行わねばならない。壷と契約を結んだ時点で、彼は呪者なのだから」
 瀬崎の言葉に、マリオンはただ頷く。
責務が、確かに今終わったのだ。従事すべき事柄は去ってもうない。だが、関わりをもった縁が消えることはなく、知った凄惨な事実もまた消えはしない。
 だが、シュラインはそれと知っていて、あえてその場の空気を払うように、一際張りのある声を上げた。
「さぁ。東京に帰ったら、事後処理が色々待ってるわよ。あの翁という老人はきっとしばらくは姿を現さないだろうから、鍵も日崎氏に返さないといけないし……お見舞いに行きましょうよ。それが終わったら、皆でご飯でも行きましょう? きっと、草間がおごってくれるはずだから」
 業務連絡の際に、草間に冗談交じりに後日何らかの労わり期待してます、と言ったのだ、とシュラインは明るく言った。彼はおごる、などとは一言も言っていなかったが、それも方便というものだろう。
彼女の意図を汲み、二人も話に乗り込んだ。
「草間くんが? それは、きっと、過ぎた台風も戻ってくるね」
「ほんとなのです。今は金欠ではないのでしょうか」
「……そんなわけないじゃない」
 本気で聞いたマリオンに額を押さえてシュラインが呟き、三人は僅かに笑う。
 やがて、その笑いも次第に大きくなり、ただ静けさだけが湛えられていた屋敷の庭を賑わした。



だが、根は拭われず、いまだこの島の何処かにて息づいている。


END


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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【4164/マリオン・バーガンディ/男/275歳/元キュレーター・研究者・研究所所長】
【4487/瀬崎・耀司/男/38歳/考古学者】


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■         ライター通信          ■
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この度はご発注真にありがとうございました。
猫亞と申します。

化物屋敷の後編をお届けします。
結局納品期日最終まで使わせていただきました。大変お待たせしてしまいまして、
申し訳ありません。

どの方もじっくり書き込みたかった為、集合ノベルでありながらこの後編は大きく三つの章に分けてみました。
三つの章で明らかになったことが最終章で終結して真相に向かう、というものを目指したのですが、予定していた枚数を考えず、色々と詰め込みすぎたようで、なかなか消化しきれていない部分も多いような、そんな気がしております。
次回執筆への反省点として、活かしていこう、と思います。

プレイングにつきましても、反映できたりできなかったり、と……
今後はこのように、など何かありましたらお気軽にお寄せ下さいませ。

また、枚数もやはり随分超過しており、皆様に最後までお楽しみいただけるかどうかが少し気がかりですが……ご発注いただいた皆様に少しでも楽しんでいただければ、これほどの幸いはありません。

最後に、この度のご依頼をご発注いただき、真にありがとうございました。

翁という名の老人はこれ以後も姿を現す……かもしれません。
どちらかというとこの物語自体が翁が関係する怪の序章的なものですので、その内に。

どこかでお目にかかりましたら、またよろしくお願いいたします。

それでは。

猫亞 拝