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<東京怪談ノベル(シングル)>


木下闇に時は宿れり




 藤宮永という青年は、未だ齢も三十路に届かぬ青年であるというのに関わらず、自ら好んで和装に腕を通している。
 この日は明けきる前から蝉が鳴き、明ければ明けたで炎天がここぞとばかりに猛威を揮う、呆れる程の晴天に恵まれていた。
 しかし、永は、やはり羽織に袖を通し、夏に相応しい羽織紐をきちりと結ぶ。そうして草履を履いて莨入れを抱え持ち、暑気溢れる街中へと足を寄せていたのだった。そうして馴染みの書道具店できっちりと用件を済ませた後は、この日のスケジュールが珍しくゼロであるのを思い出し、ならばと、ゆっくりとした歩調で帰途に向かいかけていたのだった。
 そう、この日は書道教室の予約も正午前までには全て終わり、午後はこうして使いを済ませるばかりの、比較的のんびりとした一日となったのだ。
 夏の日の外出は、なるべくならば涼しい内に済ませる方が得策だとは常々思う。それにしても湿度の低いのは幸いだっただろうか。
 しかし、やはり、
「あーあー、暑うてかなわんわ」
 ぼやきつつ、永は進めていた足を止めて空を仰いだ。
 茹だる様な、というのは、まさにこの事を指すのだろう。
 湯気のようなものを立ち昇らせるアスファルトから逃れるように、永は大通りを外れて公園の中へと踏み入ったのだった。

 公園の中を、虫捕り網に麦藁帽子が駆けてゆく。やんわりと見送りながら、公園に並ぶ木立ちの中で一番枝ぶりの良さげな樹を選んだ。その下のベンチに腰を落として、道すがら買ってきたペットボトルの水を飲む。
 これ見よがしな夏の炎天も、虫捕りに興じる子供達の前にあってはひとたまりもないのだろうか。
 見守る永の視界に、大慌てで子供を追いかけ、水筒を差し出している母親が映りこんだ。
 永の、眼鏡の奥の穏やかな双眸がゆるりと緩む。
 ――ああ、ほんまにひとたまりもないわ。

 公園の中を一望すれば、自分と同様に、木下闇を選び、一時の涼を楽しんでいる人影があるのが見える。
 虫捕りに興じる幼い声、それを追う親の声。音も無く木立ちを揺する風の爪弾く唄声と、それと同じぐらいに静かにさわめく人々の話し声。
 永はゆったりと瞼を閉じて、頭上に揺れる木立ちの気配を振り仰ぐ。
 閉じた瞼にも解る葉擦れの影。浮かぶのは色とりどりの光彩。

 不思議なものだと、瞼を伏せたままで考える。
 休息とは――『休』という字面は、人が木に寄り憩う様を表した文字であるという。
 言い得ているものだと、永は小さな感嘆の息を吐いた。
 森林浴という名の恩恵は、昨今では特に珍しい言葉ではなくなった。
 森林の中で植物が発しているフィットンチッドという物質に関する研究が重ねられ、それは人体に好影響をもたらしているのだと実証されている。が、科学による実証はさておき、緑の中に身を置く事で心身共に健やかになっていくのは紛れも無い事実なのだ。
 ……そら、ここは森ん中っちゅうわけでもないし、森林浴っちゅう程の効果は無いかもしれんけどな。 
 口の端をゆるゆると緩めつつ、閉じていた瞼を開く。
 葉陰の隙間に、円く切り取られたような蒼穹が見え隠れしていた。太陽は、やはり、容赦なく燦々と地を照らし続けている。それでも、日向に居るよりはこうして木蔭に身を潜ませている方が幾分か汗も引く。アスファルトが吐き出す熱気で喉を痛める事も無い。
 人が木に寄り憩う様を表したのが『休』という字面であるという。心身の安息を得るとは、それ即ち『幸い』をも意味するのだと。
 成程、然り。
 都会にある公園の一画では、山深くある森林程の効果は得られぬだろう。が、それでもこうして身を寄せる事で、人は一時の安堵を得る。疲弊していた心がほっと息を吐き、憩いを覚えるのだ。
 頬を緩めたままで木立ちを見上げ、再びペットボトルを口にした。
 冷えた水が喉を潤していく。
 心は、周りを囲む樹木が潤していく。

 先刻のあの子供が、母親に手を引かれて公園を後にする。
 虫籠には今日の成果がきちんと収められているのだろうか。――捕らえた虫達を、あの子供はどう扱うのだろうか。
 見るともなしに見守っている永の視界に、子供の手から放たれていく数匹の油蝉が映りこんだ。
 蝉達は再び得られた自由を謳うが如くに懸命に羽を上下させ、乱立している木々の中へと吸い込まれていった。
 子供の麦藁帽子が遠くなるにつれ、蝉達の歌声は一層の賑わいを見せるのだ。子供の帰宅を送り出しているのだろうか。それとも帰宅を喜んでいるのだろうか。
 あるいは、仲間の帰宅を皆で喜んでいるのかもしれない。
 降るように響く蝉の声。文字通りの蝉時雨に耳を寄せて、永は再び静かに瞼を伏せた。
 
 風が髪を梳いて行く。中には悪戯を好むものがあるのか。時折、永の髪は大きく舞い上がり、耳元でさわりと小さな音を立てた。
 草の匂いが鼻先をかすめる。土の匂いと、時折幽かに漂う水の気配。――夕立でも降るのだろうか。
 木々が静かに揺れている。揺れながら、その下で一時の休息を楽しんでいる人々を、ゆったりと見守っている。
 ペットボトルを一息に干して、閉じていた瞼を持ち上げた。
 空の半分を埋め尽くす入道雲が目に映る。その端側が僅かな黒を帯びているのを見つけて、永はやんわりと首を捻った。
 やはり一雨来るのだろう。然り。これ程の暑気、雨の一つも降らねば大地が干上がってしまう。
 小さな笑みを浮かべ、干したボトルをベンチから僅かほどに離れたゴミ箱へ放り遣る。
 見れば、永と同じく、太陽から逃れて来た人影達の主は、その大半がスーツ姿のサラリーマンだった。どれも暑さにうんざりとした面立ちで苛立たしげに携帯電話を睨みやったりしている。中には木蔭にありつつも、ノートパソコンなどで忙しなく指を動かしている者もいた。
 永は休めていた足をゆっくりと進め、なるべく木蔭を選びながら、しばし公園の中を散策する事にした。
「……にしても、どれもこれも忙しないやっちゃなあ」
 独りごち、くつりと双眸を細ませる。
 
 留まりを知らず流れていく時世の中にあっては、人々もまた留まりを知らずに流れていくばかりなのだろうか。ならば彼等は休息を――ひいては幸いを知る事もなく過ぎていくばかりなのだろうか。
 永は、歩んでいた足を止め、風に揺れる木立ちの姿を振り仰ぎ、耳を寄せた。
 聴こえるのは蝉の声。風の音と、公園の傍を通る車の音。遠く近く響く子供等のはしゃぐ声と、それに弾かれる水の音。
 見れば、公園の敷地内に、小さな水場があるのが知れた。それで、永は「ああ」と首を縦に振る。
 先刻から時折感じていた水の気配は、何も、夕立の報せのせいばかりではなかったのだ。
 子供達が賑やかに水と戯れている。その中に、虫捕りに興じていた、あの子供の笑顔も見つけられた。
 永の頬が穏やかに緩みを帯びる。
「……成る程、忙しないのは大人ばっかりなんやろなあ」
 笑みと共にそうごちて、未だ夕暮れていく気配すら感じられない大気の中を歩き出す。
「まあ、あれやね。……私は忙しない生き方は堪忍やけど。……限りある世、自分の速さで歩くんがええわ」
 呟きながら、肩越しに振り向き、
「そろそろ失礼いたします」
 誰にともなしにそう告げた。
 むろん、永の見せた礼に気付く者など一人としていなかった。
 が、永が休んでいた木立ちの枝が、ゆっくりと風に揺らいで頭を垂れたのだった。
 永は再びきちんとした礼を述べ、それからゆったりとした歩調で帰途へと踏み出した。


 
 ―― 了 ――




 
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.

2006 August 25
MR