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幻のモナ・リザ
「……明日10時より、財閥の会計担当との接見。今年度の決算と、来年度の予算についての報告があります。そして12時よりランチを兼ねたミーティング。これは新規事業参入による指針についてが議題でして、正式なものは来週以降に場が用意されるそうです。また14時からは……」
「もういいですよ、モーリス」
延々と続く予定の羅列に、セレスティ・カーニンガムが苦笑しつつ音を上げる。軽く頬杖をついていた手を、降参とばかりに上げてみせた。
「私が大変多忙なのは、よく分かりました」
「分かっておられません、セレスティ様」
断固とした態度で不満を顕わにしたのは、セレスティのお抱え使用人であるモーリス・ラジアル。
本来ならば、秘書業は彼の役割ではないものの、続く残暑に弱っている主人を見かね、手を貸していた。
あれだけ『これ以上仕事を押し付けるおつもりですか?』などと言っていたのに、いざ役割を振られると、主人が戸惑うほど完璧に、モーリスは仕事をこなしてしまい、お陰でそれまで以上の仕事がセレスティの前に積みあがる事になった。
それでいて、決してこなせない分量でないところが小憎らしい、とセレスティは苦笑する。もちろん分かってやっているのだ、彼は。
気の置けない信頼関係の発露が、意外なところに現れていた――主人と使用人、さてどちらにとっても、それは幸福なことだっただろうか?
「お忙しいのがお分かりならば、目の前の書類に早く手をつけられたらいかがですか」
「分かっていますよ……でもこれは明日の分ですよね?」
「ええ。でも今やれば、明日は少し楽が出来るでしょうに」
「そうしたらあさっての分を持ってくるのでしょう、モーリスは」
返事はない。ただ声もなく、小さく唇の端でモーリスは笑う。
それを見て、敵いませんね、とセレスティもまた笑った。
時計は20時を回っている。
場所はセレスティが主に書類の整理に使っている執務室。限りなく明るさが抑えられているこの部屋で、二人は静かに会話を続けていた。
窓の外に見える夏の名残の明るさと、かすかに揺れるカーテンによって演出される、わずかながらの涼しさ。その合間から覗く月は、今宵は半月だ。庭園から聞こえてくる虫の声も、随分とにぎやかになってきた。
日が落ちればようやく、エアコンをつけなくても楽な季候になってきた。セレスティは暑さにも弱いが、冷房もあまり得意ではない。ようやくほっと一息つける季節が巡ってきた、というところだろうか。
「しかし……夏というのはこんなにも長いものだったでしょうか。早く暑さが去って欲しいものだと思いませんか、モーリス」
独り言めいた問いを投げかけつつ、セレスティは長い髪をかきあげ、襟元をくつろげながら、気だるく首をめぐらせた。
モーリスは沈黙を保ち、視線をやや伏せる。
と。
遠慮がちなノックの音と共に、「よろしいですか?」と都合を伺う声がドアの向こうから届く。
「どうぞ」とセレスティが答えると、そのドアが薄く開き、隙間からするりと飛び出た一つの人影。
「お仕事中、失礼致します、セレスティ様」
「……ああ。どうかしましたか、マリオン」
彼、マリオン・バーガンディは、セレスティの視線を受け、わずかにはみかみつつぺこっと頭を下げる。
「セレスティ様に、ぜひお見せしたいものがあるのです」
「……またですか? 今度はセレスティ様を、どんな厄介ごとに巻き込もうというのでしょうね」
脇から口を挟んだモーリスだったが、途端マリオンからきつく睨まれる。
「会いに来たのはセレスティ様にです。モーリスは関係ないのです」
低い位置からの挑戦的な視線に、モーリスはフッと鼻で笑うことであしらう。
「後から来たくせに、何を粋がっているのやら。今は私が、セレスティ様と話をしていたのですよ?」
「こらこら、二人とも」
主人の寵愛を取り合う二人を、やんわりとたしなめるセレスティ。ひとつモーリスに対しうなずいて見せ、そしてゆっくりとマリオンに視線を巡らせた。
「話を聞かせてください、マリオン。貴方の話はいつでも興味深いですから」
「はい、ありがとうございます、セレスティ様!」
主人の艶然とした笑みに、マリオンは頬を紅潮させる。
脇のモーリスはやれやれと肩をすくめて見せるものの、その場を立ち去ろうとしない。ぱたんと手帳を閉じ、彼もまた話を聴く態勢を取る。
――そう、彼もまた、マリオンの話に毎度興味を惹かれ、楽しみにしている一人だった。
■□■
「こちらの本を見ていただきたいのです、セレスティ様」
持参してきた本をマリオンは開き、執務机の上に置いた。
そこに書かれていたのは、とある一枚の絵についての文章だ。その由来、作者等について軽く触れられている。
「……なるほど。この絵は現在、行方不明なのですか?」
文章の最後に目を留め、セレスティがマリオンを見やると、彼は一つ、こくんと頷いた。
「そうなのです。作者は今や世界的に有名な人物ですが、若くして死去してしまったのです。また生活があまり裕福ではなく、有力なパトロンを得ることも出来なかったので……」
「なるほど。絵があまり世に残っていない、というわけですか」
モーリスが口を挟んだ。
わずかにムッとした視線を投げかけたマリオンだったが、モーリスがそしらぬ顔でそっぽを向いてしまったせいか、そのまま再び視線を本へと落とした。
「それで……この本で触れているこの絵、これは作者が今よりもっともっと無名の頃に描いたものです。そのせいか、行方が分からなくなってから久しいのです。私も、記録上でしか存在を確認した事がないのです」
「でも、この本ですと、どんな絵だかよく分かりませんね」
本に載っているのは、模写というにもはばかられるような小さな略画のみだ。しかしこれでも詳細な方なのです、とマリオンはため息をつく。
「素晴らしい芸術品が失われるのは、とても悲しいことなのです。一度失われた芸術は、二度とよみがえる事が出来ないですから」
「で? その話がセレスティ様とどんな関係があるというのですか」
「もう、モーリスは少し黙っていて欲しいのです!」
あくまで笑みを崩さないモーリスは、もちろんマリオンをからかうのが目的なのだろう。
――それでいて、ひょっとしたら一人話題から外されるのが、少し悔しいのかもしれませんね。
内心、セレスティは二人を見比べ、彼らに気づかれないよう小さく笑った。
「……あの、セレスティ様。セレスティ様は占い師ですよね?」
「ええ、そうですよ」
「それに、長く生きてもいらっしゃいますよね? だから、ひょっとしたらこの絵の行方をご存知ないかと思ったのです」
わずかな風に、カーテンが膨らむ。3人の間をすり抜ける、薄い風。
そうですね、と答えてから、セレスティは瞑目した。
長く長く生きてきた時の流れを振り返る。――過去の出来事に想いを馳せ、思い出を泳いでいく……。
「……多分、分かります」
「本当ですか!」
ぱっと目を輝かせたマリオンに、セレスティは優しく笑って見せた。
「確かなことは言えませんが、多分この絵を私は見たことがあります」
「じゃ、じゃあ見つけることが出来ますか?」
「そうですね、覚えているものならば大丈夫でしょう」
「では私の力でご案内するのです! セレスティ様、ぜひご一緒にいらしてください!」
マリオンはセレスティの返答に、ぱっと笑顔を輝かせた。
懐古趣味の気がある彼のこと、念願だった幻のアンティークを手にすることが出来るかもしれない、と期待を抑え切れないのだろう。彼はウキウキとした表情を隠さず、今にもスキップして飛び跳ねそうだ。
そして、傍らのモーリスはやれやれとため息をついて――だがまなじりは優しくゆるまっている――セレスティを見た。
「セレスティ様。お出かけは結構ですが、明日に響きますからお早いお戻りをお願い致しますよ」
「その言葉、そっくりそのまま返しますよ、モーリス」
首を傾げたモーリスに、セレスティはぱちりと片目をつむってみせる。
「あなたも来るのですよ、モーリス」
「……私も、ですか?」
「この絵を見たのはかなり寒い時期だったのを、今思い出しました。……避暑に丁度いいと思いませんか?」
■□■
「……セレスティ様」
「なんですか、モーリス」
三人はマリオンの能力とセレスティの道案内により、世紀までもさかのぼった、とある外国の地にいた。
先ほどまでの暑さが嘘のように肌寒い。――それも道理だ、窓の外は一面、白銀の雪景色である。
これでは避暑というレベルを飛び越えてしまったのでは、などとモーリスは思うが、もちろん主人の前でそんなことは口にしない。
そして、これほどまでの気温の差をものともせず、マリオンは喜色満面で画廊へと出かけていった。
画家は画廊に絵を売り、そして生計を立てる。絵の所在さえ分かれば、入手は容易だ。直にマリオンはあの絵を手にして、この屋敷へと戻ってくるだろう。
――そう、問題はそこではない。「この」屋敷だ。
「セレスティ様、私たちが今いるこの屋敷は、どうされたのですか……?」
「ああこれですか。何をそんなに驚いているのです、モーリス」
モーリスの戸惑いをよそに、セレスティが笑う。
雪深い異国の地で、今二人はとある屋敷の一室にいた。
趣味のよいアンティーク調の家具で調えられた、一見して贅を尽くされていると分かるこの建物。広さこそセレスティの現在の屋敷とは比べ物にはならないが、それでも決して狭くはない。今二人がいるのはソファと安楽椅子が据えられたリビングだが、モーリスがちらりと廊下を覗くと、扉がいくつも並んでいたのが見えた。あとで探りを入れる必要があるだろう。
「心配はいりませんよ、ここもまた私の屋敷です」
「……セレスティ様の?」
「ええ。別荘と言った方がいいかもしれませんが。……以前、生活の拠点を日本へと移す際、ここの屋敷も処分してしまったのですが、内心とても惜しいと思っていました。今こうして再び訪れる事が出来て、私はとても嬉しい。マリオンのお陰ですね」
しばらくここでの生活を堪能しましょう、とのセレスティの言葉に、一旦は頷きかけたものの、モーリスはすぐに渋い顔になる。
「どうしたのです、モーリス。この時代の通貨などもちゃんと用意してありますよ? この頃はすでに、私の事業は安定していましたから」
「そうではありません、セレスティ様。……明日からのお仕事、どうされるおつもりですか」
「……ああ」
苦笑するセレスティに、モーリスはやはり、とばかりに食い下がる。
「逃げるおつもりだったのですね。……そうは行きません。明日からの仕事内容は私の頭の中にちゃんと入っていますから、書類決済などはきっちりやっていただきます」
「……やれやれ、やり手秘書には敵いませんね。今度からはもっと仕事の遅い者を秘書にすることにします」
「そうしてください。私もそ知らぬ顔して仕事をサボろうとする主人など、もうこりごりだと思っていますので」
そして二人は、言葉と裏腹な満面の笑みを共に浮かべ、互いの顔を見やる。
と。
「ただ今戻りましたです、セレスティ様」
部屋へとマリオンが入ってきた。外套についている雪が、外の荒天を示している。暖炉の火を見てホッと息をついたマリオンは、外套を脱ぎぶるりと身体を振るわせた。
「どうでしたか。目的の絵はありましたか」
「はい! セレスティ様のお陰です、ありがとうでした」
ぜひ見てください、とマリオンはいそいそと絵を持ってくる。梱包を解き、そして慎重な手つきで1枚の絵をそっと取り出す。
―― 一人の少女の絵だった。
暗闇の向こうからこちらを見返っている。戸惑っているのか、それとも喜んでいるのか。大きく見開かれた目が可憐だ。
そして彼女が首に巻いている赤いスカーフ。闇の色に引き立てられ、それは鮮やかさを増して見る者に迫ってくる。
大きさは10号ほどだろうか。一辺50cmほどで、さほど大きくはない。色使いも抑えられていて、派手さもない。しかし、その絵は決して忘れられない強い印象を、見た者全ての心に残すだろう。
マリオンがこの絵に執着するのも頷けた。
「……いい絵ですね」
セレスティがため息と共に感想を漏らす。モーリスは無言のまま、じっと絵を見つめたままだ。
そしてマリオンは、そうでしょう、とまるで自分が褒められたかのように笑みこぼれた。
「この絵は現在、『幻のモナ・リザ』と呼ばれているのです。もちろん、それだけの名画という意味ですが、その真偽を確かめる事は現代では出来なくて。……でもこうして、私自身の目で確かめる事が出来ました。確かにこれは素晴らしい絵なのです」
「マリオン。なんでしたら、この絵を描いた画家を呼んで来たらいかがですか。ぜひ話を伺いたく思います。……ねえ、モーリス?」
突然話を振られたモーリスは、一瞬ハッとした後、慌てて首を縦に振る。迂闊な表情を見せてしまったのが悔しいのか、その頬がかすかに赤い。
「はい、私も出来ればそうしたかったのです。……でも、それは無理でした」
「なぜ?」
「画廊の主人に聞いたのです。この絵の作者はもう、絵を描かないでしょうと。……もう既に、この世を儚んでどこかへ隠居してしまっていたのです。その行き先は画廊の主人にも分からない、と」
マリオンの声のトーンがわずかに下がる。いとおしそうに絵を見やった後、小さく首を振る。
「作者は、この絵の少女が好きだったのです。つまり、この絵はこの子に宛てた、作者からのラブレターだったのです。……でもこの少女は先日、病で……」
しんしんと、窓の外では雪が降りしきっている。
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