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<東京怪談ノベル(シングル)>


 管理官の休暇





 暦の上ではとうに秋。カレンダーも九月に入り、朝晩めっきり涼しくなった。とはいえ日中の残暑はまだまだ厳しい。炎天の下で捜査活動に半ば強制的に協力させられ、疲れ切っていつもの所轄の物置部屋に帰り着いた途端に襲い掛かるのは容赦のない睡魔。糸目の警部補に一言の断りもなくどさりと応接ソファに倒れ込んだ慎霰は一瞬で眠りに落ちる。
 が、あいつらは夢の中まで追いかけてくる。
 “何を眠りこけている。貴様は俺の私兵だろう。次の仕事だ、働け”
 うるせえ。
 “ほう。俺に逆らうか。貴様の運命は俺が握っていることを忘れたか”
 ・・・・・・うるせえ。
 “何度見ても笑えるわー。傑作だよねっしーんざん、キャハハハハ!”
 う る せ え っ !
 「やかましい」
 という冷ややかな声とともに背中に衝撃を覚え、寝ぼけ眼の慎霰は反射的にびくっと体を震わせる。その拍子にバランスが崩れて体がごろごろと転がった。がん、という鈍い音と腰に走る衝撃。うめき声を上げながら腰をさすり、目を上げると腰に手を当てた桐嶋克己管理官が呆れ顔でこちらを見下ろしていた。
 「寝ている時くらい静かにできんのか、ガキ」
 「・・・・・・誰のせいだと思ってんだ」
 ソファから蹴落とされた慎霰は応接テーブルに肘を乗せて半身を起こし、斜め下から桐嶋を睨みつける。桐嶋は向かい側のソファに悠然と腰を下ろし、傍らの書類ケースからA4のクリアファイルを取り出した。
 「今度のヤマだ。また妙なものが関わっているらしい。行ってこい」
 「いつまでこき使う気だ!」
 慎霰はテーブルの上にがたんと手をついて怒鳴った。この部屋の主である警部補が出したティーカップが小さく浮き、赤みがかった琥珀色の液体がちゃぷんと音を立てる。
 「あの事件は解決しただろうが! もうてめぇの命令を聞く義理はねぇ!」
 「それは道理だ」
 意外なことに桐嶋は腕を組んであっさり肯いた。重いがけぬ素直さに慎霰は拍子抜けしてしまう。
 「が」
 しかしその直後に桐嶋の顔に浮かんだのは、悪事を思い立った悪の帝王のようなあの凶悪極まりない笑みであった。「俺は貴様の弱みを握っている。あれをばらまかれたくなければ俺の命令を聞くのが賢明というものだろう」
 「ふざけんな! 第一、てめぇは約束破ってあいつに写真を見せやがったじゃねぇか!」
 「知らんな。俺はデジカメに入っていた“データ”を見せただけだ。貴様は“写真”を見せるなと言っただけだろう」
 桐嶋の言い分は屁理屈極まりないものであったが、舌戦で桐嶋に勝てるわけもなく、慎霰はお粗末な応接ソファに八つ当たりの蹴りを食らわせるしかない。
 「あっ、しーんざんっ!」
 軽やかな足音とともに物置部屋に入ってきたのはもう一人の宿敵である少女。紫色の瞳をした彼女は白い髪を揺らして慎霰の肩に後ろから飛びついた。
 「うわっ、さわんじゃねぇよ馬鹿野郎!」
 慎霰は悲鳴を上げて少女の手を振り払う。少女はひょいと後ろに飛んでその攻撃をかわし、後ろで両手を組んでいたずらっぽい笑みを浮かべる。
 「また来てたんだ。よっぽど桐嶋さんが好きなんだねーキャハハハハ!」
 「うるせぇ、好きで来てるんじゃねぇよ!」
 「あれーそうなの? もしかしてこれのせい? ほんっとステキだもんねー、これ」
 少女は胸ポケットから例の写真を取り出してひらひらとさせる。かぁっと頭に血を上らせた慎霰は写真を奪わんと少女に飛び掛るが、少女はひらりと慎霰をかわして高らかに笑い続ける。
 「そんなにその写真が欲しいか。ならば最初からそう言えばいい」
 笑いを含んだ桐嶋の声が飛んでくる。「何せ俺の手元にはデータがあるからな。いくらでもプリントしてやるぞ」
 二人の笑い声の合唱が高らかに響く中、慎霰は頭をかきむしりながら部屋の中をぐるぐると歩き回るしかない。
 そう、すべては一枚の写真から始まったのだ。
 少し前の、夏の盛りの頃の話。痴漢魔や強盗犯が怪奇に遭遇し、その結果逮捕につながるという事件が頻発していた。どうやら天狗の妖具が関わっているらしいと知った慎霰は独自に調査を進め、妖具を用いて“天誅”を働く真っ赤な天狗面をかぶった男と対峙した。しかし不覚にも返り討ちにあってしまい、意識を失って倒れている顔を桐嶋に激写されてしまったのである。
 意識が失われれば筋肉も弛緩する。顔の筋肉とて例外ではない。意識不明で倒れている慎霰の瞼は半開きで半分白目をむき、口もだらしなく開いて、あまつさえよだれさえ垂れているというそれはそれは美男子とは言い難い顔であった。そんな顔を桐嶋に激写され、あまつさえ天敵であるあの少女にその写真を見せるぞと脅されたのでは赤天狗を追う桐嶋に協力せざるをえなかった。
 そして無事赤天狗を捕らえ、妖具も取り戻し、写真も破り捨てて、めでたく一件落着と思ったのだが。
 ネガやデジタルデータさえあれば写真はいくらでもプリントできるということまで頭が回らず、いまだに慎霰は桐嶋の“私兵”としてこき使われるのみならず写真をネタに笑いものにされる日々を送っているのであった。
 「しかし暑いな。おい、冷房はもっと強くならんのか」
 桐嶋はこの部屋をたった一人で統括する糸目の警部補に声をかける。警部補は「ここは窓際貧乏部署ですから」と苦笑してみせた。
 「ならば仕方ないな。喋ったら喉が渇いた。おい天狗、飲み物を買って来い」
 「はぁ? ふざけんな、俺はパシリじゃねぇ!」
 「克己さん、お飲み物ならすぐご用意できますよ。ぼくの紅茶ではご不満ですか」
 警部補はコールド用のティーポットを示して桐嶋に微笑みかける。しかし桐嶋は首を横に振ってソファの肘掛に頬杖をつく。
 「おまえの紅茶は甘味が足りん。天狗、ひとっ走り行って駅前のコーヒーショップでキャラメルマキアートを買って来い。ガムシロップは三つだぞ、忘れるな。それからミルクレープにタルトタタンをひとつずつだ」
 「いい加減にしやがれ!」
 頬杖をついたままドアの方向を顎でしゃくった桐嶋に激昂した慎霰が掴みかかる。「このクソ暑いのに俺だけ外に行かせる気か! 飲み物くれぇ自分で買いやがれ、大体てめぇには部下がわんさかいるんだろうが! そいつらに買いに行かせろよ!」
 「馬鹿者。暑いからこそだ。あいつらに買いに行かせたのではぬるくなってしまう。貴様ならひとっ飛びで行って来られるだろうが」
 「あっ慎霰、あたしもあたしも」
 少女が紫色の瞳をきらきらさせながら元気よく挙手する。「あたしカフェラテ。あとねーあとねーブルーベリーレアチーズ!」
 「ぼくはクレームブリュレかガトーショコラを・・・・・・いや、失敬。冗談です」
 眼光で射殺そうとしているのではないかと思うほどすさまじい目つきで睨む慎霰に気付いて糸目の警部補はごほんとひとつ咳払いをする。
 「まったく、暑さにはかなわん」
 桐嶋はわざとらしくネクタイを緩め、大きく息をついて背もたれに体を預ける。「頭の回転が落ちてきたようだ。これではうっかりあの写真を警視庁のオフィシャルサイトにアップしてしまうかも知れんな」
 真一文字に唇を結んだ慎霰の顔が膨れ、耳まで紅潮する。握り締めた拳がわなわなと震えたが、かろうじてそれを押さえ込んだようだ。その様子をにやにやと見守る桐嶋と目が合うと罵声が喉までこみ上げてきたのか、ごくんと何かを飲み下すように喉仏が大きく動いた。
 「くそっ」
 そして慎霰は激しく舌打ちし、鼻息も荒くずかずかとドアに歩み寄った。「買ってくりゃいいんだろ買ってくりゃ! キャラメルナントカにナントカクレープにタルトナントカ・・・・・・」
 「キャラメルマキアートにミルクレープ、タルトタタンだ」
 「あーっ苛々する、呪文かそりゃ!」
 慎霰は金切り声を上げて拳を壁に叩きつける。みしりと音を立てて天井からパラパラと鉄筋の破片が落ちてきた。「カタカナばっかり並べんじゃねぇ! とにかくそれを買ってくりゃいいんだろうが! 冷たいうちに持って来てやるからな、首洗って待ってやがれ人間!」
 捨て台詞とともにばたんと荒々しい音がしてドアが閉まる。――桐嶋は慎霰の足音が遠ざかったのを確認してネクタイを締め直し、小さく息をついて立ち上がった。
 「お出かけですか?」
 警部補が気付いて顔を上げる。桐嶋はちらりと彼を振り返った。
 「私用だ。今日は非番なのでな」
 「なるほど」
 すべてを心得た警部補は相槌に微笑を添えた。「今日は年に一度のお休みの日でしたね。ごゆっくりどうぞ」



 一時間後。慎霰が到着したのは駅前のコーヒーショップではなく、都心から少し離れた場所に立つ二十階建ての高層マンションであった。
 ――桐嶋の自宅マンションである。
 初めからこのつもりだったのだ。激昂して署を飛び出したのも半分は演技(半分は本当に腹が立っていたからだが)。飲み物とケーキを買いに行くという口実で署を出てしまえば後はどうにでもなると踏んでのことだ。そして署の駐車場に停まっていた桐嶋のリムジンの運転手にちょいと催眠をかけて桐嶋の自宅の場所を聞き出すことも、慎霰の力をもってすればたやすかった。
 要は桐嶋への復讐である。写真のことで馬鹿にされ続け、桐嶋に顎で使われ、おまけにパシリにまでされて黙っていられるほど慎霰は人がよくない。はじめは肉弾戦で衆目の前で打ち負かしてやろうと思っていた。桐嶋とて所詮はただの人間、舌戦ならばともかく肉弾戦なら天狗の慎霰に利がある。しかし桐嶋もそこは百も承知であろう。不利と分かっている勝負を受けるわけがない。妙な理屈を並べられて勝負を回避されてしまうのがオチだ。
 そこで慎霰は今回の復讐計画を立てたのである。
 あの桐嶋とて人の子。大事な物や恥ずかしい物、人に見られたくない物のひとつやふたつあるはずだ。自宅に忍び込んでそれを奪うなり壊すなり皆に見せびらかすなりすれば桐嶋に失意や屈辱を与えることができる。仮にそういう物が見つからなかったとしても、家の中を荒らしてやることはできる。それに、もし人に知られたくない秘密でも掴むことができれば逆に桐嶋を自分の子分にすることも可能――。そこまで考えると慎霰はこみ上げる笑いを押さえ切れない。
 「目には目をだ。俺が受けた恥、倍にして返してやっからな!」
 慎霰は腕まくりをして翼を羽ばたかせ、桐嶋の部屋がある十三階へと飛んだ。部屋に妻や子供がいるかも知れないなどという可能性は最初から頭にはない。あの男は絶対に独身だと確信している。
 


 所轄の駐車場で待たせておいたリムジンには乗らなかった。自宅までは電車とバスを乗り継いで一時間弱といったところ。この炎天下を駅まで歩き、冷房の弱い電車に乗るのはリムジンでの送迎に慣れている人間にはやや酷であろうが、桐嶋はスーツを着たまま黙々と駅まで歩いた。
 駅員のアナウンス、列車が出入りする轟音、携帯の着信音、無遠慮な話し声。混然と渦巻く雑踏に背中を押されるようにして電車に乗る。車内はほどよく空いていたが、桐嶋は席には座らずに乗降口のそばに立った。
 電車は大儀そうにがたんと身を揺すらせてホームを出発した。
 窓に頭をもたせるようにして外の景色に目を投げる。駅周辺のビル群がはじめはゆっくりと、そして徐々に速く後ろへと流れていく。
 一年に一度、夏の終わりの休暇。桐嶋はお抱えの運転手すら遣わずにその一日を過ごす。その理由を知る者はあの署の警部補くらいのものだ。
 電車がレールの継ぎ目を乗り越える規則的な揺れと音に身をゆだね、桐嶋は目を閉じる。景色が次々と移り変わって後ろに流れていくのを感じる。頭に浮かんでは過ぎる思い出のように。
 


 高級マンションにはつきもののオートロックや本人認証システムも慎霰の神通力の前では無力だ。防犯カメラに姿を残さずに行動することも容易である。手始めに慎霰は十三階の桐嶋の部屋のバルコニーへと飛び、窓の鍵を念力で開けてあっさり室内へと侵入した。
 「さてと。どこから探・・・・・・」
 腰に手を当て、きょろきょろと室内を見回してぽかんと口を開ける。――なんだこの広さは! 二十畳はあろうかというフローリングのリビング、涼やかなガラスのテーブル、惜しげもなく配置された一目でそれと分かる艶やかな革張りのソファ。恐る恐る部屋の中央に歩み寄ればテーブルの下に敷かれたカーペットの上に足が深く沈む。カーペットというよりは絨毯だ。清潔なクリーム色の壁紙にはシミひとつなく、大きなガラス窓は夜景が売りのホテルのそれかと思うほどに徹底的に磨き抜かれている。部屋の角に置かれた観葉植物は成人女性ほどの丈はあろうか、熱帯植物のような鮮やかな葉を茂らせていた。
 が、そんな細かい所まで慎霰がチェックするはずがない。
 初めて海水浴に来た子供のような歓声を上げるやいなや、重厚なソファに力いっぱいダイビングしていた。
 「すっげーフカフカ! すっげー!」
 大いにはしゃぎながらクロールの要領でばたばたと手足を動かす。それに飽きるとボヨンボヨンと尻で幾度か弾んだ後でひょいとソファから降り、勝手知ったる他人の家とばかりずかずかとキッチンに入り込む。シンクは水滴ひとつなく磨き上げられ、洗いっぱなしの皿など見当たらないが、もちろん慎霰の目には入らない。形や大きさごとに分けられた食器が整然と鎮座する食器棚を開けて適当なグラスと皿を探し、一人暮らしにしては大型の冷蔵庫を開ける。
 「うわっ何これ、すっげーうまそう! あいつこんなの食ってやがるのか。こんなん見たことないぜー」
 酒のつまみにでもするつもりなのだろうか、ケーキやムース類に混じってローストビーフや重厚なチーズ類なども並んでいる。慎霰は冷蔵庫に半分体を入れる感じでそれらを次々とあさり、無秩序に皿に重ねていった。右手に食べ物てんこ盛りの皿を、左手にストレートのオレンジジュースの瓶を持ち、口には皿に乗り切らなかったフランクフルトウインナーをくわえてリビングに戻る。ちなみにこのフランクフルトは加熱して食する物なのだが、慎霰はお構いナシのようだ。
 「乾杯!」
 グラスになみなみとジュースを注ぎ、氷も三つほど放り込んで高々とグラスを掲げる。喉を鳴らしてぐびぐびと一気に飲み干せばほどよい甘味と酸味、そしてきーんとした冷たさがほてった体を癒していく。
 「ぷはー、うっめぇ!」
 炎天下でこき使われた後の一杯はたまらない。手の甲で口許を拭い、エアコンのリモコンを探す。ガラスのテーブルの上にそれらしき物を見つけて操作ボタンを適当に押せばかすかな稼動音とともに壁際のエアコンから冷風が吹き出してくる。送風口の下で両手を広げて冷たい空気をめいっぱい吸い込んだ後ではたとその場に固まった。
 (・・・・・・俺は何しにここに来たんだ?)
 そうだ。リフレッシュするためにここに来たのではない。それでも腹ごしらえは必要とばかりに慎霰は皿の上のローストビーフを五枚まとめて口に放り込みながら室内を見回す。キッチンの左手には格子型の木枠にガラスをはめ込んだドアが見える。右手には白い引き戸。左手のドアは方向から察するに玄関であろう。探すならば右手の戸の向こうだと見当をつけた。
 案の定、そこは桐嶋の私室らしかった。広さは十二畳ほどだろうか。グレーのカーペットにブラックのデスク、シルバーのラック。同系色で統一されたシンプルな部屋だ。デスクの上には一台のノートパソコンと電気スタンド、ブックシェルフに並べられた本。デスクに備え付けられたキャビネットを開ければ仕事用であろう資料やCD−ROM、USBカードの類がわんさか出てくる。この中を探すのはさすがに億劫だ。どこか他にそれらしい場所はないかと首を振り向けると、左手の壁、リビングとつながるドアとはまた別に、もう一枚のドアが備え付けられているのが見えた。
 まあ、これほど大きなマンションだ。いくつも部屋があるのだろうと軽い気持ちでノブを回した慎霰だったが、ドアを開けると思わず目をぱちくりさせた。
 そこは桐嶋の私室と同じくらい広さの部屋だった。ベッドやクローゼット、姿見の鏡などがあるところを見ると寝室らしい。が、不自然なのがベッドであった。
 シングルベッドがふたつ並んでいるのだ。その上、一台には大人用のパジャマがきれいに畳んで置かれ、もう一台には一回り以上小さなパジャマ――恐らく子供用であろう――がきちんと畳んで置かれているではないか。
 (まさかあいつ、子持ちか?)
 だが、母親は? この部屋に女が住んでいるような気配はない、あくまで慎霰のカンであるが。ベッドに歩み寄り、腰に手を当てて二組のパジャマを斜めに見比べる。一着はグレーの大きなサイズのもの。明らかに男物だ。桐嶋の物と見て間違いない。もう一着は白地にパステルブルーのストライプのやや古ぼけたパジャマ。大人にしては小さいサイズ、そして飾りのない角襟や味気ない袖口からは少年の物という印象を受ける。何か子供の手がかりがないかと見回した慎霰の目に飛び込んできたのはベッドのサイドテーブルに置かれた小さなフォトスタンドだった。中に入っている写真はずいぶん古びている。
 丸く切り抜かれた写真を覗き込んだ慎霰は小さく息を呑む。――写っていたのは一人の少年と一人の幼児であった。幼児のそばにかがんでいる少年は高校生くらいであろうか。切れ長のきつい目つきは桐嶋そのものである。もう一人は二、三歳の幼児。くりくりしたアーモンド型の瞳が愛らしい。幼児の手はしっかりと少年のズボンのすそを握り、少年の手は優しく幼児の肩を抱いているのだった。
 この二人の男児が桐嶋の子なら、現在三十四歳の桐嶋はずいぶん若いうちに父親になったことになる。しかし母親は誰なのだろう? もしや桐嶋はバツイチなのだろうか。この部屋にはベッドはふたつしかない。ひとつは桐嶋、もうひとつは子供のものとしても――いやいや、それもおかしい。子供は二人いるのだ。ならばベッドは桐嶋と子供二人で少なくとも三つあるはず・・・・・
 「あーっ苛々する!」
 慎霰は怒声とともにがりがりと頭をかきむしった。自分なりに推理を試みたものの、元々頭脳戦は得意ではない。動かすならば頭よりも体、論より証拠と腕まくりした慎霰であったが、次の瞬間にはその場に凍りついていた。
 「誰かいるのか?」
 という男の声とともに、がちゃんとリビングのドアが開くような音がしたのである。
 声の主は考えるまでもなく桐嶋だ。やばい。そう思いつつも慎霰は反射的にフォトスタンドを掴み、二人の男児が写る写真を懐に押し込む。さらにエアコンをつけっぱなしにし、なおかつ冷蔵庫の中身を山盛りにした皿を置きっぱなしにして、リビングと私室をつなぐドアを開けたままにしていたことを思い出す。背筋がすーっと寒くなったのは冷房のせいではあるまい。だが桐嶋とてただの人間、天狗の力を遣えば人間の目につかぬように姿を隠すことは容易だということに思い至った時には後頭部に分厚い辞書が振り下ろされていた。
 「いってぇな、何しやがる!」
 「それはこちらの台詞だ。キャラメルマキアートにミルクレープにタルトタタンはどうした?」
 「わけわかんねぇんだよ、カタカナばっか並べんじゃねぇ!」
 慎霰が振り向きざまに繰り出した肘打ちを桐嶋はひょいとかわし、逆に慎霰の腕を取ってひねり上げる。慎霰は舌打ちしてその手を力まかせに振りほどき、離れざまに桐嶋の鳩尾に蹴りをぶち込んだ。桐嶋は軽く呻いたが、打ち込まれた慎霰の足首をがっちりと掴んで固定する。動きを封じられた慎霰は狼狽を見せた。桐嶋はにやりと笑い、掴んだ足を高々と持ち上げて慎霰を逆さ吊りにした。
 「このっ・・・・・・離しやがれ! ただじゃおかねぇぞ人間!」
 宙吊りにされた慎霰はありったけの力で暴れるが、桐嶋の腕はびくともしない。人間にしては大した膂力のようだ。
 「それはこちらの台詞だと言っている。他人の家に無断で上がりこむのが天狗の流儀か?」
 「うるせぇな、元はてめぇが悪いんだろうが! 俺はてめぇに復讐してやろうと思っただけだ!」
 ヒュオッという音が空気を切り裂いた。慎霰が念でかまいたちを放ったのだ。しかし桐嶋とて慎霰の正体を知らぬでもない。念によって神通力を使うためには多少は目に力が入る。桐嶋は慎霰の目の動きを読み取り、かまいたちが発せられる寸前にぱっと慎霰の足首を放していた。もちろん慎霰は落下して床に頭から叩きつけられる。「ぐえっ」というあまり人には聞かせられない間の抜けた悲鳴とともに。
 「まったく」
 桐嶋は慎霰を見下ろしながらぱんぱんと手を払った。「忍び込むならもっと気を使え。あれでは鼻たれのガキとて侵入者に気付く。素人の空き巣でもここまでひどくはないぞ」
 「うるっ・・・・・・せぇ!」
 慎霰はブリッジの要領で頭の後ろに手をつき、ばねのように勢いをつけて跳ね起きた。跳ね起きざまに桐嶋のリバーを狙って右フックを繰り出す。桐嶋はすっと横にスライドしてその攻撃をかわし、ポケットに手を突っ込んだまま慎霰の首を蹴飛ばした。ベッドの角に頭を打ち付けて呻いた慎霰の右手にかちゃりという音とともに冷たい物が降りてくる。はっとした時には遅かった。対になった鉄の輪っかの片方が右手にかけられ、もう片方の輪はベッドの足にしっかりとはめられていた。
 「前回は銃刀法違反。今回は住居侵入の現行犯だ」
 桐嶋は手錠の鍵を手の中で弄び、にやにやと笑いながら慎霰を見下ろした。



 例によって散々からかわれいじられ弄ばれ笑いものにされるのかと思っていたが、意外なことに桐嶋は慎霰を放置してキッチンへ入った。戸が閉められているので桐嶋が何をしているかまではこちらからはうかがえない。ベッドの足に手錠でつながれた慎霰はあぐらをかき、膝の上に頬杖をついてむっつりと黙り込んでいた。手錠から抜け出すことは容易だ。なおかつ、神通力を使って台所に立つ桐嶋の背後を襲うこともたやすい。しかし桐嶋とてそこは百も承知のはず。なのにあえてここに慎霰を放置するというのは何か考えがあってのことか。
 「何か面白い物は見つかったか?」
 やがて半袖のボタンシャツにスラックスという普段着に着替えて戻って来た桐嶋は慎霰の前にどっかりとあぐらをかいた。桐嶋が戸を開けた拍子にチョコレートの香りが鼻をくすぐったのはどういうわけだろう。
 「俺への復讐と言ったな。俺の弱みを握ろうとでもいうのなら無駄なことだ。俺は貴様に知られて困ることなど何ひとつない」
 「けっ、どうだか」
 慎霰は腕を組んでぷいとそっぽを向いた。「おもしれー写真を見つけたぜ。あれを見せたらどう言うだろうなぁ、所轄の連中は」
 「・・・・・・ほう」
 桐嶋はサイドテーブルにちらりと目をやってから相槌を打った。大体事情を察したらしい。
 「それで。あの写真をどうする気だ。そもそも貴様はあの写真が何なのか分かっているのか?」
 「てめぇの子供だろ?」
 慎霰は得たりとばかりに顔を振り向け、人差し指で桐嶋の鼻面を指す。「意外だなぁ子持ちなんてよ。奥さんはどうした? まさかおまえ、捨てられたのか? 無理もねぇよなその性格じゃ。奥さんがかわいそうだぜ」
 「勝手に話を作るなガキ。が、半分は当たりだ」
 「あぁん? じゃ作り話じゃねえじゃねぇか」
 「当たっているのは半分だけだと言っている。もう半分は外れだ」
 桐嶋は腰を上げ、再びキッチンに戻っていった。食器が触れ合っているのであろうか、かちゃかちゃという音がかすかに聞こえてくる。やがて戻って来た桐嶋の手には直方体の薄いチョコレートケーキらしきものが乗った皿とフォークにナイフ、そしてオレンジジュースのグラスが握られていた。
 「食え。チョコブラウニーだ」
 桐嶋はナイフでブラウニーを長方形に切り分け、皿に乗せて慎霰に差し出した。先程漂ってきたチョコレートの香りの正体はこれだったらしい。
 「・・・・・・変な薬でも入ってんじゃねぇだろうな」
 「ほう、少しは頭が回るな。しかし貴様に毒を盛っても俺には何の得もない」
 桐嶋は自分の分のケーキをフォークで小さく切って口に運んだ。飲み込んでも異常がないことを確かめて慎霰は恐る恐るフォークをブラウニーに突き刺した。
 ひとくちかじって目をぱちくりさせる。甘さは控えているのにカカオの香りは充分に深い。それにしっとりとしたこの口当たりと芳醇な香り。いったん舌に乗せればゆっくりと、繭がほどけるように溶けていく。そして重厚なチョコレートの余韻はいつまでも口に残るのだった。もっとも、慎霰がそんな繊細な味覚を持っていたかどうかは分からないが。
 「うまいか。俺の手作りだ」
 「んげっ・・・・・・それを早く言えよ。食っちまったじゃねぇか」
 桐嶋の手作りと聞いて慎霰は反射的に喉に手をやり、嘔吐するかのようなしぐさを見せる。男――ただし弟分の天狗は除くが――の手作り菓子など気持ち悪くて食えたものではない。かといって女の手作りならば素直においしく食べられるというわけでもないのだが、それはここでは置いておいて。
 「何だそのリアクションは。俺が唯一作れる菓子だぞ」
 一生懸命練習したんだ、と呟いて桐嶋はまた一口ブラウニーを静かに口へと運ぶ。慎霰は薄気味悪いものでも見るような目で桐嶋を見ていた。手作りの菓子? しかも一生懸命練習した? 確かにブラウニーは美味だった。しかし・・・・・・この男が小麦粉をふるってチョコレートを湯煎にかけ、それらを型に流し込んでオーブンの温度とタイマーを几帳面に調節する姿など想像もつかない。
 「意外に簡単にできるんだ。分量と温度、時間さえ守れば――」
 桐嶋はことりと音を立ててフォークを置いた。「子供とは単純なものだ。こんな簡単な菓子でも喜んでくれる」
 「・・・・・・おまえのガキか?」
 「さっきも言っただろう。半分は当たり、もう半分は外れだとな」
 桐嶋は無遠慮に慎霰の懐に手を差し込み、例の写真立てを取り出した。
 「この高校生は俺。この小さいのは俺の弟だ、半分は俺の息子のようなものだが。こんな簡単な菓子を喜んで食べてくれた」
 「ふーん。おまえには身内なんかいねぇと思ってたぜ」
 慎霰はジュースのグラスに手をやり、半分ほど一気に喉へと流し込む。味に少々違和感を覚えたが、不快なものではなかったので構わずにそのまま飲み込んだ。桐嶋は口の端で小さく笑った。
 「それも半分は当たりだ。俺の父は早くに亡くなり、母も高校生の頃に死んだ。この弟とも血は半分しかつながっていない」
 「あ?」
 「異母兄弟というやつだ。こいつは父の愛人の子でな。それでも・・・・・・俺と半分は血がつながっている」
 慎霰はこくりと肯いた。先程から少し瞼が重くなり始めている。寝不足というわけでもないのだが。
 「こいつの母親は育児を放棄してな。俺たちが面倒を見ることになった。そして俺の母も少し後に死に、結局俺がこいつの面倒を見るはめになった」
 慎霰はまた肯き、ブラウニーに手を伸ばした。桐嶋はそれを止めずに、むしろナイフで慎霰の分を切り分けて皿に乗せてくれた。
 「歳も離れていたし、弟というよりは息子だったよ。よくなついてくれた。俺と一緒に寝るといって聞かないんだ。俺は昔から忙しかったからなかなかそばにいてやれなかった。このブラウニーはせめてもの罪滅ぼしさ、甘い物好きのあいつに喜んでもらおうと思ってな」
 馬鹿な兄貴だと、桐嶋は自嘲気味に笑った。
 「んでぇ」
 慎霰は再びグラスを口に運んでふたくちばかりこくりと飲み、目をこすりながら尋ねた。「俺になんでその菓子を食わせたんだ?」
 「今日はあいつの誕生日で、命日なんだ。毎年、この日だけは休暇をとって菓子を作っている」
 桐嶋は膝を立て、ジュースを一気に飲み干した。「馬鹿な兄貴さ。仕事で何日も家を空けて、あいつの異変にすら気付いてやれなかった。誕生日にチョコブラウニーを作ってやろうと材料を買って帰って来た時にはあいつは倒れていた。手遅れだったよ。ベッドに置いたパジャマはあいつの形見だ。パジャマだけでも俺のそばにいさせてやろうとな・・・・・・」
 桐嶋は淡々と語った。慎霰はゆるゆると首をかしげ、手錠のかけられていないほうの手を桐嶋の肩に置いた。
 「なぁ桐嶋ぁ。俺様はよぉ」
 不自然に間延びした口調と“俺様”という一人称に桐嶋は怪訝そうに眉を動かしたが、慎霰は気付かなかったらしい。
 「そいつはきっと幸せだと思うぜ。おまえみたいな兄貴で不満もあったろうけどさーぁ、今もこうやって懐かしんでもらえるんだからよぉ」
 「そうだな。」
 桐嶋はふっと笑った。「だからこそ」
 そして不意に語気を強め、慎霰の胸倉を掴んだ。半ば懐古に耽っていた瞳にいつも以上に強い光が宿っている。
 「あの写真を所轄の連中に見せたいのならそうすればいい。俺を笑い者にしたいならそうしろ。ただし写真は必ず返せ、絶対だ。でないと」
 さらに力を入れて慎霰の体をぐいと引き寄せる。「――俺は一生貴様を許さん」
 にへら、と慎霰が笑った。締まりのない笑みに桐嶋の眉がびりっと音を立てて中央に寄る。慎霰はもう一度にへっと笑ったかと思うと、桐嶋に胸倉をつかまれたままぐんにゃりと頭を後ろに垂らした。
 「おい。どうした?」
 不審に思った桐嶋は慎霰の体を揺らす。そして呆れた。慎霰はぐうぐうといびきをかいて眠りこけているのだった。
 「そうか。なるほど」
 桐嶋はぽんと手を打った。支えを失った慎霰はどさりと床に落ちてしこたま頭を打ち付けたが、むにゃむにゃとかすかに呻いただけで目は覚まさなかった。
 ――毎年恒例のこの儀式。手製のチョコブラウニーを桐嶋は特製のカクテルとともに楽しむ。天狗なのだからてっきり酒も大丈夫なのだろうと思って自分と同じスクリュードライバーを作って慎霰に出してしまったが、やはり未成年は未成年だったのだ。
 「警察官にあるまじき行為だ、な。許せよ天波」
 桐嶋は苦笑とともに慎霰の手錠を解き、かつて弟が寝ていたベッドの上に抱き上げてやった。慎霰はうーんとひとつ唸って寝返りを打ったが目を覚ます気配はなく、そのまま鼻ちょうちんをふくらませて眠りに落ちてしまう。もちろん桐嶋はポケットから出したデジカメで慎霰の寝顔をアップで激写することも忘れない。撮れた画像を思案顔で見ていた桐嶋だったが、やがて肩をすくめてそのデータを消去した。
 毎年、この日は決まって必ず一人で過ごす。慎霰の闖入が突発的な事態だったとはいえ、追い出して一人で時間を過ごす方法はいくらでもあったはずだ。なのになぜ慎霰を同席させてしまったのか。数少ない人間にしか打ち明けていない秘密を誰かに話しておきたいとでも思ったのだろうか? そんなことを考えて桐嶋は苦笑いを漏らし、大の字になっていびきをかく慎霰を残して寝室を後にした。



 ――さて、桐嶋の秘密を握ることにはとりあえず成功した。しかも慎霰以外にはあの署の糸目の警部補しか知らないという一等の秘密である。だがこれをもって計画完了とするか、そしてこの秘密をネタに桐嶋をからかうかどうかの判断は・・・・・・酒に酔って熟睡する今の慎霰にはできそうにないようだ。(了)