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<東京怪談ノベル(シングル)>


nocturne



 暗い暗い座敷。
 暗闇に浮かぶ誰かの手。その手に握られたサジ。そのサジの上で、こちらを見ている……まなこ。
 桃色の――それ。

 はっ、と遠逆和彦は瞼を開けた。
「……っ」
 唇を噛んでから息を吐き出す。
 見覚えのある天井。それで安堵した。あの独特の、薬のようなニオイのする場所じゃない。血生臭い実験のおこなわれていた場所じゃない。
 全身は汗をかいており、和彦はべっとりと額に張り付いていた髪を払った。
 最近また夢をみるようになった。みたくもない、過去のゆめだ。
(もう随分昔のことなのに……)
 起き上がろうとして、「ん?」と思った。腰が重い。
 布団を捲ってぎょっとした。
 和彦の腰に抱きついている神崎美桜が居たのだ。勝手に潜り込んでいたらしい。
(美桜が入ってきたことにも気づかなかったのか……。なんたる油断)
 いくらなんでも油断しすぎだ。
 白いワンピース姿で眠る美桜を見て、彼は嘆息した。
 夏は色々な声が彼女に聞こえるという。そのせいか、美桜は自己防衛でお盆のあと、三日ほど眠り続けていた。厄介なことに、その間、夢遊病なのか敷地内をさ迷っているのだ。
 あちこちで寝るのはまだいい。四六時中傍に居るのだから、少し気を配ればいいだけの話だ。
 まるで起こすなと言わんばかりだと……和彦は様子を眺めていた。
 無理に起こすことだってできた。だが……。
(自分でやらなきゃ……ダメだ)
 力ずくでやっても、本人のためにならない。
 この間だって、大地の影響だとかで体調を崩したばかりだ。今は聞きたくない声のために眠っている。
 そんな自分を、美桜自身は嫌わないのだろうか? もどかしく、煩わしく感じないのだろうか?
(変えたい、ってもっと強く思わないのか……な)
 幼い頃の自分の姿を思い出す。ほとんど喋らず、ただ命令だけをきいていた愚かな自分。
 憧れた。学校に潜入すると、周りの者を……心の奥底で憧れた。
 あんなふうに、普通に生きてみたい。妖魔に狙われず、戦わず、ただ普通に、起きて、学校へ行って、帰って、眠りたかった。
 だが『普通』って、どうやったら手に入るんだろう? どうすればなれるんだろう?
 普通の生き方がわからない時点で、自分はもうダメなんだと思い知らされた。ほかの生き方がわからないし、やっても失敗する。
 美桜に逢って、恋を知って、自分も人並みに生きられるんだと思った。
 変わりたい、と思った。今までの自分を、何も言えずにただ耐えているだけだった自分を変えたいと。
 そっと美桜を見つめた。
 そんなに心を聞きたくなければ、その手の連中に相談すればいい。力をなくす方法だって、山ほどあるだろう。
 和彦にはわからない。彼女は何が欲しいのだろうか?
 腰にしがみついている美桜は、眉間に皺を寄せている。そんな表情が少し笑えた。可愛い。
「……和彦さんは……私の事、本当は好きじゃないんだ……」
 ぶつぶつと言っている美桜の言葉に彼はきょとんとする。どうやら寝惚けているようだ。寝言、である。
「好きじゃないって……好きでもない相手とこんなところで暮らす男はいないと思うんだが……」
 まともな神経ならば、この屋敷で一週間も過ごせばうんざりするだろう。
 移動にかかる時間、距離。広すぎる敷地。それが常の人間ならばいいだろうが、日々を細々と暮らす人間はすぐに飽きる。
 はっきり言って、ここは「不便」なのだ。豊かすぎて、不便など……贅沢に違いないが。
 彼女は頬を膨らませた。
「……どーして……頼ってくれないのぉ……」
「…………」
 和彦は思案し、寝言に真面目に答えた。
「頼り方を、知らないから……かな」
 一人で大抵のことはできるようにならないといけない。そんな環境で育ったのだ。他人に頼る生き方などしたことがない。それに――。
 忌まわしい過去の出来事が脳裏に過ぎり、軽く頭を振る。助けを求めても、誰も助けてくれなかったあの日々。
 美桜の髪に彼は手を伸ばす。いつだって、触れたいのを我慢しているのだ。歯止めがきかなくなったら、怖い。ここから連れ出してしまう、きっと。
「……何も言ってくれないと、寂しくて浮気しちゃうんだからぁ」
 涙を一筋流してそう洩らした彼女の言葉に、和彦は伸ばしかけていた手を止めた。そして、引っ込める。恐れるように。
「……なにを」
 呟く。
「何をそんなに俺に求めるんだ……。俺はもう、おまえにやれるものなど、持っていない」
 この身体と、心しかない。
「何も言わないと言うが……おまえも、何も言わない。寂しい寂しいと、そればかり言う。
 ――おまえは本当に俺が好きなのか?」
 美桜は満たされない。だが、同時にそれは和彦にもいえることだ。
 和彦とて、満たされないままだ。それは日に日に彼の心を占める割合を大きくしていた。
 彼には美桜の生活が理解できない。
 まるで夢の世界のようだ。たくさんの動植物に囲まれて、過ごす。夢物語としか思えない、そんな生活だ。
 最初は戸惑いしかなかった。こんなところで暮らしていたのか、と驚いた。
 自分は、元々なんの取り得もない男だ。妖魔退治ばかりしてきたせいもあって、口数も少ないし、どう感情表現すればいいのか困る時も多い。
 こんな自分でも必要とされるなら、と……いつも思っていた。彼女を守りたいし、幸せな顔をしているのを見ると嬉しい。
「……俺は、おまえが考えるほど、できた人間じゃない……!」
 唇をわななかせ、和彦は顔をしかめた。
 彼女が義理の兄の言うことを聞き、彼に甘やかされるのがまず嫉妬の対象になるのだ。
 その甘えに慣れてしまっては、彼女は兄無しでは生きていくことすらできない。実際、今の状況がそうだ。たった一人で生きろと言われて、彼女にそれができるか? できるはずもない。
 彼女がたくさんのものに影響されやすいのも知っている。だがそれが憎い。
「……憎い」
 美桜がこうして眠るのも、はっきり言って憎い。苛立つ。
 彼は美桜に囁いた。
「だって……大地に影響を受けるとか、清浄な空気の中でなければダメだとか……全部、この屋敷が『核』じゃないか」
 この屋敷から出ては生きていけまい。そう和彦にいつも思わせる。
 だが和彦はわかっている。彼はこの中では暮らしていけない。鳥篭の中で暮らすことはできないのだ。
 だから彼女に強くなって欲しくて。こんな場所でなくても生きていけるようになって欲しくて。
(そんなの……俺の我侭なのに)
 それを思うたびに自己嫌悪に陥る。
 彼女が慕ってくれているのは知っている。不安だというのもわかっている。
 だが、どうしろというのだ?
 自分にはこの身体と、心しかない。もう彼女に捧げた。それなのにこれ以上求められてもわからない。何を与えればいいのかわからないのだ。
 彼女の想いに応えられない自分が情けない。
「…………」
 彼は震える手で顔を覆う。頬を伝って涙が流れた。
「……好きって、愛してるって……何度言ったって…………! おまえは満足できないじゃないか……!」
 嗚咽を堪える彼は自嘲気味に笑う。
 浮気されたなら、自分はもう彼女には用無しな存在だろう。されたとしても、文句は言えない。



 目覚めた美桜は顔をあげる。視線が合った。
 じっとこちらを見ている彼の腰にしがみついていたことに気づき、美桜は恥じらって顔を赤らめる。彼は哀しげに微笑んだ。
「…………おはよう」
「お、おはようございます」
 なんだろう。なんで彼はこんなに辛そうな顔をしているのだろう?
 だが彼はすぐににっこり微笑んだ。先ほどの表情が嘘のように。
「おなか空いたな。美桜の作った朝ご飯、食べたい」
 そう言われて美桜はすぐさま起き上がった。
「は、はいっ! すぐ作りますね!」
「うん」
 珍しい。彼はこんな我侭はいつも言わないのに。
 和彦は窓から外を眺めた。その、青い青い空を――――。