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<東京怪談ノベル(シングル)>


泡沫の虜囚【うたかたのこいびと】
 夢の中で、みなもは澄んだ水の中にいる。
 厚いアクリルの壁に囲まれた広い水槽は彼女の楽園だった。
 自分以外、水槽の中に生き物の気配はない。ただ、透き通った壁の向こうに男がいる。
 目覚めた時、みなもは男の顔を憶えていなかった。ただ、ひどく優しく笑うことだけが強く印象に残っていた。
 男は壁越しに、美しい人魚に愛を囁く。青い髪のゆらゆらと揺れるさまを愛で、硝子玉のように繊細な美しい瞳をほめたたえ、触れることのかなわない唇をなぞるように、愛しげに指で水槽の壁を撫でる。
 鱗が宝石のように光を弾くさまを眺め、男はうっとりとした声音で呟く。愛しているよ、僕の人魚姫。
 あたしもです、と答える声はしかし、男には届かない。
 彼は飽きることなく毎日のように、何時間も人魚の娘を見つめ続けていた。そのひたむきな視線ひとつで、彼女が深く愛されているのだと分かるほどに。
 それなのに、くちづけはおろか指先が触れることすらなかった。壁はどこまでも透明に冷たく二人を隔てる。
 それでも、夢の中でみなもは満ち足りていた。触れることができなくても、愛されていることは分かる。それで充分なのだと。
 しかし、目覚めたみなもは違っていた。あんなものは単なる飼育にすぎない。夢の中の自分は愛玩されているだけだ。男の目を楽しませるのが目的の、言わば彼のためだけの見世物ではないか。
 それなのに、夢の中で人魚に変化した自分は、ただ眺められるだけの自分と眺めるだけの男に満足している。その、ストイックなのにどこかいびつな関係が気持ち悪かった。

 今日も、みなもは夢を見る。
 水槽の中には彼女のために、きらきらと光る美しい石が敷かれ、清い水に揺らぐ水草は青々としている。
 夢の中の彼女はその涼やかな空間で安らいでいたけれど、みなもの目にはそれが体裁だけ整えた牢獄のように思えた。
 人魚はとらわれの見世物。観客は壁の向こうの男一人。それに幸せを感じる夢の中の自分が滑稽に見える。
 その夢をくりかえし見れば見るほど、みなもの心は冷めていった。どうしてこんな夢を見るのだろう。嫌だ、もう見たくないと思っているのに、いつしか眠れば必ずその夢を見るようになっていた。
 現実の自分の精神状態が影響したのか、次第に夢の中の彼女は水槽の中を窮屈に感じはじめていた。
 男は変わらず自分を眺めてくれるけれど、それ以上のものは何も得られない。男がくれるものは本当に愛情なのか、疑問を抱く。
 そもそも、どうして自分はこんなところにいるのか、という疑念。彼が真に自分を愛しているというのなら、こんなに厚い壁に阻まれた関係のままで満足するのだろうか?
 その問いかけはそのまま己に返ってくる。自分は本当にこの男を愛しているのだろうか?
 けれど、男が自分に微笑みかけてくれれば自然と嬉しくなったし、自分が微笑むのに男が幸せそうに笑い返してくれるのも好きだった。
 やがて、人魚は壁を叩く。男に向かって声を上げる。ここから出してください。一度でいいからあなたに触れてみたいんです。
 そうすればきっと、自分が本当にこの男を愛しているのかどうかが解る気がしたから。
 いつもなら言葉は届かないのに、何故かその時だけは男に伝わった。彼は優しく笑って答える。
「何を言ってるんだ? 君はそこを出たら生きていけないだろう?」
 それでは二人は永遠に触れ合うこともできず、ただただ互いを眺めることしかできないではないか。それでいいのかと問う声に、男はまた笑う。
「束縛に飽いたというなら解放してあげよう。けれど、外に出てどうする?」

 目が覚めたらびっしょりと汗をかいていた。まるで、たった今まで水の中に潜っていたかのように濡れていて、何故かぞっとする。
 夢は何かを暗示しているという話を聞くけれど、この夢が何かを示唆しているというのなら、それは何なのだろう。
 みなもはとらわれの人魚の絶望を思い起こす。
 あの水槽の中にいる限り、男は愛情を注いでくれるのだろう。それが本物かどうかは別として。
 けれど、あの水槽を出れば、怖いことになるような気がした。牢獄の外に待っているものは自由のはずなのに、外の世界に思いをめぐらせても少しも心が浮き立たない。
 人魚の自分が水を出ても生きていけることを、みなもは知っている。現に今、自分はこうして普通の人間のように暮らしているではないか。
 それなのに、夢の中の人魚が水槽を出ることを想像すると、たまらなく怖ろしかった。

 眠りたくない、夢を見たくないと思うのに、睡魔は夜ごと襲ってくる。
 気がつけば水槽の水は清冽さを失い、澱みはじめていた。ぬるんだ水が肌に纏わりつく不快感がリアルすぎて、吐き気を感じるほど気持ちが悪い。
 男は今日も、アクリルの壁越しにこちらを眺めている。
「君は自分の望みでそこにいるんだ」
 男の目はいつしか、鑑賞から観察へと色を変えていた。
「だから毎夜毎夜、こうして僕の夢の中に現れるんだろう? 僕にとらわれている間は何も難しいことを考えなくても済む。僕が微笑みかけている間は幸せな気分にひたれるし、愛されているような錯覚にも陥れる」
 男の言葉がぞわりとみなもの背筋を撫でた。
 違う。これはみなもの見ている夢で、男はただの登場人物にすぎない。夢の人魚はみなもの何かを投影しているだけで、現実などではありえない。
 そう。これが自分の願望だなんて、そんなわけがない。
 頭では否定するのに、どうしても水槽を出る勇気が出なかった。ここを出れば、かりそめの楽園には二度と戻れない。
 その先に待っているのは自由という名の大いなる不安。残れば束縛という名の虚しい安定。
 どちらが自分の本当の望みなのか、判然としないのは何故だ? 男の言葉を即座に否定できないのは何故だ?
 答えるように、男が笑う。初めて見る嘲笑。彼の目は観察者から元へと戻る。
 絶望する少女を手の内に収めて愉しむ、酷薄な観客の冷たい目線。
「自分が異端なる者であることを、誰よりもよく知るのは君自身だ、海原みなも。君は他者とは隔絶されざるをえない自己を嫌悪し、ゆえにいつも心の奥底で、他者の絶対的な肯定を求めている。……そんなもの、ありえはしないのに」
 観客は冷徹にそう分析する。
 言葉に解剖されていくのは夢の中の人魚であるはずなのに、汚水で満たされた暗い檻の中、見下ろした姿に愕然とする。
 見覚えのある部屋着。人魚の姿ではない。気がつけば、みなも自身が水槽の中に身を置いていた。
 嘘だ。こんなの嘘だ。叫んだ言葉は泥のような水に包まれてのろのろと浮かび、水面ではじけて濁った音を立てた。
「だから、このままここでこうしておいで。嘘でもいいなら、いつまでも愛してあげよう。僕が望むまま、そうして君が絶望の表情を浮かべて見せてくれるのなら」
 みなものあげる抗議の声を、男は笑って聞いていた。そうして気づく。自分の言葉は届いていなかったわけではない。ただ黙殺されていただけなのだと。
 嫌だ。もうここにはいたくない。そう叫ぶ悲痛な声すらも、男にとっては演し物のひとつなのかもしれなかった。
 たとえ、それが泥水にからめとられて、もう誰の耳にも届かなかったとしても。

 緑色の澱が浮かぶ水面に、ただ泡沫が浮かんでは消えていく。
 やがてそれもおさまり、汚濁した水は死んだように静まり返った。
 その底に、少女の絶望を深く沈めて。