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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


地下室のアクアリウム


 錆付いた重い鉄の扉の向こう側から、ひそやかにこぼれる緩やかな旋律。
 そしてかすかな水の跳ねる音。

 ロウソクを灯して近付いて、そっと扉をノックして。
 もしもロウソクの火が消えなかったら、美しい世界を見せてあげる。
 もしもロウソクの火が消えてしまったら、終わりの世界を見せてあげる。



「地下室に水死体?」
 残暑という言葉がひどく白々しい、蒸した8月末の午後。
 草間の怪訝な顔を前に、依頼人の青年――峯崎悟志は居心地悪そうにソファでもそりと身じろぎつつ頷いた。
「ええ、と……なんと言いますか……祖父にですね、面白いモノを見せてやるから来いと、ええ、呼ばれたわけなんですけども……そこでなんというか、はい」
 いかにも『世間知らずの坊ちゃん』といった風情の彼は、要領のえない言葉を途切れがちに口にしながら、視線を彷徨わせる。
 彼がここの扉を叩いてから既にかなりの時間が経過しているのだが、いまだに草間は彼の依頼内容が見えていない。
「その水死体ってのは知り合いの誰かなのか?」
「めっそうもありません……ええ……全然、初めて見る方で……警察の方は、その、別荘荒らしとかそういう類の輩だろうと言ってましたが……」
「だが、お前さんが知らなくても祖父は知っているんじゃないのか?」
「はあ……そうかもしれませんが……ええと、あいにく祖父はいませんで」
「居ない?」
 その言葉に、ぴくりと草間の表情が動く。
「僕をですね、呼びつけたのにですね……どこにも居ないわけです。そこら中にいろんなものを残したまま消えちゃったんですね」
 ことの重大さを本当に理解しているのか疑いたくなるほど、相手の返答はボンヤリしている。
「ソレはどういう意味だ?」
「ええとですね……つまり、その、たぶんですね、祖父の失踪と水死体と閉ざされた扉と僕が見るはずだった面白いモノがですね、関係してるんじゃないかなぁと、はい……思うわけですけども……」
 ここに来てようやく、峯崎の言わんとしている事を汲みとることに成功する。
「つまり、その別荘まで行ってソレを探れと、できれば祖父も見つけてくれと、そう言うことか?」
「はあ……そうしていただけますと有難いと言いますか……ええ……まあ、何だか謎ばかりで申し訳ないんですけど……」
 恐縮しながら頭を下げた彼の、縋るような、でもどこか気の抜けた言葉に、草間はどっと疲労を覚えながら頷きを返した。
「分かった。その依頼、引き受けよう……」
 その言葉に晴れやかと言えなくもない笑顔を浮かべ、青年はもう一度ゆっくり頭を下げた。
「よろしくお願いします、怪奇探偵さん」
 とどめの一言に、草間は最後の気力を失った。
 歩き方だけは美しい峯崎の背中が興信所の扉の向こうに消えるのを見送りながら、溜息すらつけない。
 そろそろ使い方どころか存在すら知らない人間が出てきてもおかしくないだろう黒電話に手を伸ばすこともなく、ずぶずぶとソファに沈む。
 いつまでもいつまでも。
 既に事務所最古参になりつつある事務員が来てくれるまで、事態はそのまま凍結していたのである。
「お疲れさま、武彦さん」
 肩でも揉みましょうか。
 そう苦笑を洩らしながら、シュライン・エマは事の次第を説明し終えてぐったりとのびる草間のために調査員のファイルを棚から引き出す。
「会うだけで気力を削ぎ落とされる相手ってのはどうにもな……」
 シュラインの差し出してくれたファイルから連絡のつきそうなメンバーを過去のデータからリストアップしつつ、もう一度草間は深い深い溜息をついた。



「それでは、長旅になるでしょうし、私が車を手配しましょうか?」
 にっこりと微笑む好事家兼財閥総帥であるセレスティ・カーニンガムの申し出を受けた調査員は3人。
 さらに案内係にと呼び出された峯崎。
 5名を乗せた車が突き進むのは、目の醒めるような鮮やかなグリーンが延々と視界いっぱいに広がる森だ。
 まるでめくらましを掛けられた緑の迷宮のその先、どこからともなくやってくるひんやりとした空気に包みこまれた状態で『屋敷』は佇んでいた。
「それでは、ええと……中をご案内しますね」
 峯崎の頼りない笑みに導かれるまま、調査員たちは古く軋んだ門をくぐる。
「ん……いかにも『事件の舞台』になりそうな雰囲気漂ってるわね」
 すらりとした肢体を淡いブルーを基本としたチュニックに白のクロップドパンツといった機能的な服で包んだ光月羽澄が、木々の色を映してなびく長い髪を掻き上げる。
 肌に冷気が纏わりつき、視界はクリアにも拘らず、まるで霧の中にいるような不可思議な感覚だ。
「でも空気はおいしい、かな」
「それに、久々に水絡みの依頼だからな。こういう時期なら歓迎したいところだ」
 その隣を、営業と配達をかねてフラワーショップを出てきたはずの藤井雄一郎が歩く。
 ちょうど20歳離れた羽澄と並んでも、さほど年の差を感じさせない無邪気さと好奇心の輝きがその瞳に見てとれる。
「地下室で水死体で失踪……ある意味、夏らしいと言えば夏らしいのかもしれないけど」
「まあいくら水絡みだからって、水死体ってのはいただけないか。危険な夏の香りって感じだ」
 ここで実際には何が起こり、何が起こっていなかったのか。そして何が起ころうとしているのか。
 峯崎の話を聞く限りにおいては、どう考えても不可解な状況はそのまま不吉な予感に繋がってしまう。
「でも、あるはずのない死体と、消えた老人……1引く1がゼロなら計算そのものは簡単なもの、だよね」
 炎天下と呼べるさなかにも、式服をまとって平然としている榊遠夜が彼等の後に続く。
「その彼は等価交換の原則に乗っ取って、あの場所に現れたのかもしれないんだから」
 目を凝らすほど、屋敷は捉えどころのないもので覆われているのが分かる。
 水底の神殿。
 過ぎるのは、そんなお伽噺のようなフレーズ。
「あら、舞台がここだけに限定しているとは思えないけど?」
 くすりと笑う羽澄の視線が軽く榊に向かい、
「しかもこの世には、1から1を引いたのに何故か3になったりマイナスになったりすることだってあるからな」
 藤井の言葉がそこに上乗せされた。
「でもその余剰分は必ずどこかから来てるはず。そのからくりを調べなくちゃいけない、だよね?」
 2人の視線と台詞を受け止めた榊は木々の合間からこぼれ落ちる陽射しを手で遮り、空を仰いだ。
 遠い島のきらめく海のように、蒼く深く澄んだ色。
 いつからこの空はこんな色をたたえる様になったのだろう。
「……お前たちは情報を……」
 チカラを乗せた呟きにより、彼の傍らからふたつの影がするりと二手に分かれた。ひとつは翼をもって空へ羽ばたき、ひとつはしなやかな肢体を伸ばして森の向こうへ。
 ――地形を調べておきたいのよ
 出発前にシュラインから受けた言葉を思い返す。
 地図だけでは分からない、この別荘を取り囲む場所の正確な位置関係と、そして見えざるものの手によって施されているだろう呪の発見のために。
「この間も思ったんだけど」
「なに?」
「あの子たち、どっちもすごくキレイね」
 くすりと目を細めて笑う羽澄は、まるで彼女自身が仔猫のような印象を与える。
 榊は自分に向けられた言葉の意味がわからず、一拍置いて、ほんの少しだけ眼差しを和らげた。
「……ありがとう……」
 特殊な自分の目を通して彼女の背後に一瞬浮かんだ『翼を持つ狼のシルエット』、それが何かを問うことはしない。
 ただ心の中だけでそっと、キミと連れ添うその子も充分キレイだと、そう付け加えておいた。
 彼等だけが分かるやり取りの先では、峯崎と、ステッキを手にしたカーニンガムの2人が優雅に疑問点を挙げつつ歩く。
「しかし、祖父は一体何を見せてくれるつもりだったんでしょう……」
「もしかすると、悟志さんがここに来た時点で、おじいさまの面白いモノを見せたいという願いは既に叶えられているのかも知れませんね」
 冷静さの中に仄見える好奇心でもって、そうコメントする。
「そうでしょうか?」
 ゆったりとたゆたう水面のような微笑みに、峯崎は首を傾げた。
「おそらくは、そういうことになりそうですよ?こちらは既に特殊な磁場をもってしまっていますから」
「特殊……」
「あ、そういや、なんだってこんなところに別荘なんか建てたんだ?」
 ひょいと間に言葉を挟んできた藤井を見上げ、峯崎は今度は逆の方向に首を傾げる。
「はあ……ええとですね……祖父には壮大な野望がありまして」
「壮大な野望?」
「緑に囲まれた白い屋敷をですね、マイ水族館にしたかったんですね」
「マイ水族館って」
 キュッと榊にもらったお守りを握り締めながら、遠くを見るように彼は語る。
「祖父はですね、こう……水に対する憧れがやたらと強い方で……本当は海洋冒険家になるつもりで会社を起こしたのだと言ってました」
「おや、それは素晴らしい行動力ですね」
 微笑ましげに目を細めるカーニンガムの横で、藤井が真顔で峯崎を見やる。
「では地下室もそのために?」
「ええと……おそらくは、その計画の一部ではあったかと……はい」
「あんたのお祖父さんはどんだけ物好きなんだ?」
「ええとですね……何と言いますか、ええ……祖父はこうですね…子供がそのまま大人になったような人なんですね」
 つまりこう言う人をいうのだろうか。
 そんな失礼な考えが一瞬過ぎった羽澄と榊ふたつの視線が背後から向けられていたのだが、幸いにもそれには気付きもせず、藤井はぐるりと辺りを興味深げに眺めていった。



 他の調査員たちとは別荘で落ちあうことを約束した上で、シュラインはCASLL・TOと共に、裏路地を抜けた場所にひっそりと佇む一軒のカフェに来ていた。
 木目調を取り入れたセピア色の店内は、間接照明によってほのかなオレンジ色に染まる。
 ゆったりとした『くつろぎ空間』の演出。
 だが、今日のここはいつもとは違う空気に包まれている。
 平日ということで控えめな客数であることがある種の幸運ではあったが、それでも幾分奇妙な緊張感が彼女たちの席周辺を取り巻いていた。
 そしてもちろん、わざわざ出向いてもらった若い刑事が浮かべる表情もまた、他の客たちと大差なかったのである。
 3種類のケーキにアイスを乗せた『カフェ特製デザートプレート』が鎮座ましましているにも拘らず、彼の視線はあらぬところを泳いでいる。
「はじめまして。今回、どうしてもお話を伺いたくて、シュラインさんとご一緒させて頂きました。よろしくお願いします」
 なんとしても事件を解明し、峯崎の祖父を助けなければならない。
 そんな使命感に燃え、非常に気合の入った顔で深々と頭を下げるCASLLを前に、その言葉の真摯さはさておいて、片山の心臓はドキドキといらぬ緊張をする。
 彼が直視を避けてしまっている相手。
 ありとあらゆる現象における全ての原因は、今、目の前にいる強面というよりは凶悪な造形をした青年にあるのだ。
「現場の状況を是非とも詳しくお聞かせ願いたいのです」
 CASLLがずいっと身を乗り出した分だけ、片山の身体もずいっと後ろに下がる。
 実に典型的、かつキレイなパーソナルスペースのやり取りが目の前で展開されている。
「あ〜……エマちゃん……?」
 ついに救いを求める声が刑事からこちらに発せられた。
 微妙なパーソナルスペースの綱引きに、一端終止符が打たれるらしい。
「この手の正確な情報なら、まず片山さんかな、と思って。それで、CASLLさんが知りたいことも含めて一度しっかりお話が聞きたかったの。忙しいのにごめんなさいね?」
 怯えさせてしまったと密かに落ち込むCASLLと戸惑う片山の双方を取り持つように、シュラインは申し訳なさそうに微笑んで見せた。
「いや!いやいやいや、エマちゃんのためなら『年中無休でどんとこい』ではあるんだよ、うん」
 助けを求める子犬のような目から一転、力強く拳を握り締めてみせる。
「でもまぁ、今回はというか、今回もというか、色々と情報は集まってるんだけどねぇ、その種類が何とも」
 やはり職業柄というものなのか。
 現場写真や資料を広げた瞬間から、片山は刑事の顔になる。
「不可能犯罪ってことになりそうでイヤなんだ。そろそろこの手の事件を専門に取り扱う機関に渡すべきかって話が出てたくらいだから」
 シュラインは、遠慮なく甘いものと引き換えに差し出された情報を手に取った。
「ん〜……確認したいんだけど、とりあえずこの『招かれざる客』は水死で間違いなのね?」
「正真正銘、間違いなく溺死だね。問題なのは、彼の身元が現在進行形で判明していないことと、発見された状況が密室だったこと、そして彼が海水をたらふく飲んでいたってことなんだよねぇ……」
 しみじみと現状を説明する声には、どうにも途方に暮れた感が漂っている。
「身元不明のまま……別荘荒らしとかの前科もなしなの?」
「うん、なし。今のとこね。もしかすると常習犯なのかもしれないけど」
「あの……現時点で、何か物理的なトリックが使用された形跡はないのでしょうか?」
 CASLLも資料のひとつを手にして眺めた。
 事切れた男から滲み出た水だけが辺りを濡らすだけの、何ひとつ散乱していない、キレイな場所がそこには写っている。
 ミステリ小説には時折、超常現象としか思えないような事態を引き起こしながら、ソレを理論的に解明するという手法がとられるものだ。
 真っ当な推理小説的可能性。
 『針と糸』とは言わないけれど、大掛かりかつオーソドックス、そして超常現象と見紛うばかりのトリックが施されてはいないのだろうか。
「今のところは見つかってないかな。もしあったとしても、その解明はきっと名探偵の役割になるよ」
「名探偵ならいいんだけど……怪奇探偵の出番かもしれないところがちょっと問題かしらね」
 この事件のスタンスは、名探偵を必要とする世界か、怪奇探偵を必要とする世界か。
 写真を並べながら、シュラインの思考はあらゆる可能性を検討する。
 榊や羽澄たちに依頼した調査内容はどんな結果を出しているだろうか。
 開かずの扉の原因はもう調べはじめただろうか。地下室の状態は抑えただろうか。地形はどうだろう。いろいろなものが残されているという屋敷は、どの程度まで調べが進んでいるだろうか。
「現場に何もないというと、被害者には争った形跡もなかったんですか?自殺か他殺か、殺害現場は発見場所と同じなのか、とか」
「あ、もしかしてCASLLさん、推理小説とか読んでるほう?それともエマちゃんの影響かな」
 基本的な質問内容を押さえた聞き方に、刑事は初めてCASLLに対して緊張の入らない笑みを浮かべた。
「そういう痕跡は見つかってないよ。本当の意味での現場もいまだ見つかっていないし、鑑識の話では、いきなり湧いて出てきた、そうとしか見えないってことだった」
「やっぱり現場を実際に見てみた方が良いですよね。思いがけない発見があるかもしれませんし……」
「その前にもう一箇所、寄り道をしてからになりそう、かも」
 関係者一覧のリストを手にしたまま、シュラインは予定の追加を口にした。



 榊とカーニンガムは、峯崎から預かった鍵を持って今回のメインともいうべき現場へと向かっていた。
「これはまたずいぶんと……」
「屋敷を包みこんでいた冷気は、この下からみたいだ」
 人が2人並べば塞がってしまうような狭さの階段。地下室へ続くその道は、不思議と涼やかで心地良かった。
 どこからともなく潮風が吹いてくる、そんな錯覚に陥る。
「階段、平気?」
「ええ……普段でしたら少々難儀するところだったのですが」
 日常の大半を車椅子で過ごすカーニンガムにとって、誰の手も借りずにステッキだけで急な階段や広い邸内を歩き回るのはかなり厳しい。
 だが、ここではその不自由さがほとんど感じられなかった。
 極微量ではあるが、確かに水の気配が漂ってくるのだ。そして確実に、水の浮力とも言うべきモノがこの場に存在している。
「一体このチカラをどこから引き寄せたんでしょうか……」
 空間そのものに干渉するモノ。
 あらざるもののチカラ。
「多分あの扉の向こう側から、だよね」
 榊の瞳がすぅっと細められる。
「やはりそうとしか思えませんか」
 黒の瞳と青の瞳が互いの領域で視る世界。
 かつてこの場所に流れていた時間が、二重写しの映像として蘇る。
 幾度となく行き来する、ひとりの老人。
 その手には三叉の燭台が握られ、ロウソクがゆらゆらと炎を灯す。
 影。揺れる影たち。ほのかに照らし出される彼の顔は、どこか淋しげで、そしてひどく期待に満ちているのだ。
 時には彼は壁に向かって絵を描く。脚立を用いながら、天井まで届く絵を。そしてまたロウソクを灯して階段を昇り、降りる。その繰り返し。
 彼の幻に重なるように、2人はゆっくりと扉の前に辿り着く。
 榊が峯崎から借り受けた鍵束からひとつを選び、差し入れる。カチャリと軽い音。けれど何の手ごたえも得られないのだ。
「開かずの扉……鍵もあるし、鍵穴もあるのに、隔てられた一枚の壁。流れが宿る場所……」
 閉ざされたままのただ1枚の扉。
 いつのまにか老人の影は扉の向こう側に消えていた。
 それを追いかけるように、唐突に2人を追い越して背後からやって来た若い男の影が、閉じかけた扉の隙間に滑りこむ。
 次の瞬間。
 開け放たれた扉の向こう側から、大量の水を伴って若い男だけが吐き出され、横たわる。
「なるほど……こうして招かれざる客だけが、ここに留まったのですね……」
 この場所に刻まれた記憶に、カーニンガムは得心がいったように頷く。
「その客、手にナイフを持っていたね……帰ってきた時には失くしていたみたいだけど」
 吐き出された青年。
 戻ってこない老人。
 消えたナイフ。
「つもりこの向こうが、この屋敷一帯をひとつの異界に変えるものが潜む場所になるわけですか」
 数日を経ていながら、いまだしっとりと濡れる扉に指を這わせ、水の記憶を求めてカーニンガムは触れる。
 招かれざる客が横たわっていた、その時の水が残っていることを祈りながら。



 邸内を徹底的に調べるといった3名とは別に、藤井は一度屋敷の外へと踏み出してみる。
「マイ水族館を目指してんのに、どうして水槽のひとつもないんだか」
 そんな疑問を抱きつつ、中庭から続く緑の迷宮へどんどん踏み込んでいく。
 別荘を覆う植物たちは、まるで半分眠っているかのようにひっそりとしている。
 だが、けして禍々しいものや病んだモノは感じられない。むしろひどく透明で、浄化されすぎた水に沈んでいるかのような感覚に包まれる。
 今にもコポリと水泡が足元の地面から昇ってきそうだ。
「ちょっと話を聞かせてもらいたいんだが、いいか?」
 思わず声を抑えつつ言葉をかけると、精霊たちも、植物たちも、とろりとしたまどろみからほんの僅かだけ覚醒する。
 なぁに。どうしたの。あたしたちに、ボクたちに、わかることがあるかしら、かしらかしら……
 連なる声が漣となる。
 梢が揺れ、木漏れ日が波となり、葉擦れの音が波紋のように広がっていく。
「解る範囲で構わんから、ちょっとだけ付き合ってくれ」
 ザワザワさわさわ……質問をうながす様に、木々が揺れる。
「この間、ここの主人が消えただろう?どうやって消えたのか、どこに行ったのか、目撃してるなら教えて欲しい」
 しばしの沈黙。
 そして。
 まどろみに浸りながら、植物たちは語る。
 あの日見たモノを、あの日聞いたモノを、あの日感じたモノを、ふわふわとした夢現の言葉に換えていく。
「歌が聞こえるのか……でも、祖父さんはこの屋敷から出てはいないんだな?外に繋がるような隠し通路や地下通路もない?」
 肯定のさざめきが返ってくる。
 歌だけが聞こえている。
 ずっとずっと、数日前から屋敷を包みこむような歌だけが聞こえて来ているのだという。
 歌ってみてくれないかと頼むと、彼等は小さく頷き、遠慮がちに声を揃えて音を紡いだ。
「……そっか……随分とキレイな歌だな……」
 ホンモノほどじゃないけどね、うんとチカラは落ちてしまうけどね、でもね、でもとてもやさしくてキモチがいいの……いいの、いいの、ステキステキここちよくてすきだいすき……
「お前たちには心地いいのか」
 ソレは水を含むからなのか。それとも淡い夢を見せてくれるからなのか。
「もし再現できるなら、ちょっと俺の仲間に聞かせてやってくれるか?」
 類稀な推理能力と共に、特殊ともいえる声帯模写の能力を持つ司令塔。
 数回しか見たことはないが、硝子を操り、不思議な振動を生み出すことが出来る少女。
 『音』が今回の事件に大きく関わるというのなら、彼女たちに提供出来るものがあるかもしれない。
 ……言いよ、きみのためならかまわないよ……その時は呼んでね、声をかけてね?そしたらまた歌ってみるから……それまでおやすみおやすみおやすみ……
「ああ、ありがとな」
 再び眠りに落ちていく植物たちにぞっと礼を言い、藤井は踵を返した。
 その彼の頭上を、鷲の影がゆっくりと旋回する――



 珍しいモノや面白いモノが好きだったというだけあり、その書斎にはあらゆるものが詰め込まれていた。
「やっぱり、この手の趣味のヒトって収集するものもすごいのね」
 自身のバイト先である骨董品点と思わず比較ながら呟く羽澄の隣で、峯崎はほわほわと笑う。
「本当に子供みたいな人ですからねぇ……コレって決めると、端から端まで全部揃えたくなるみたいで」
 ハイネのローレライや東西の人魚伝説に関連する書籍はもちろん、銅像や石膏の彫刻品、硝子工芸にカメオまで並ぶ。
 棚を変えれば、更に何冊もの神話や民間伝承の類の書籍がぎっしりと詰まり、更には丁寧にファイリングされたフィールドノートまで収まっているのだ。
 子供と違うのは、ここがホコリひとつない完全に管理された場所だということだろうか。
 徹底した研究者の横顔が見えてくる。
 そんな場所での探しもの。
 羽澄はぐるりと四方を囲む本棚の端から順に触れていく。
 指先に絡むごく細い硝子の鎖がわずかに振動し、特殊なものが持つチカラの気配を追いかける。
 追いかけながら、ふと引っ掛かっていたことを思い出す。
「そういえば、まだ聞いてなかったんだけど、ひとついい?」
「あ、え、ハイ。なんでしょう?」
 珍しげに机の上に重なる本に手を伸ばしていた峯崎が、慌てて羽澄の方を振り返る。
「あの日、お祖父さまは悟志さんを地下室に呼んだの?」
「ああ……ええと、そうですね……あの地下室の前で待っているって、そう言ってくれました……はい」
「あの地下室、やっぱり水族館になる予定だった場所だと思っていいの?」
「ですね……詳しくは分からないんですけどね……ええとですね、祖父は結構ギリギリまで秘密にして驚かすのも好きでしたから」
「他に呼ばれた人はいないの?」
「はあ……イトコ達や他の親戚はあまりここへな呼びたがらなくて……せっかくこんなに素敵なんですけどね」
 なんとなく、その理由は分かる気がした。
 多分本来の意味でここを楽しんでくれるのは、彼だけだと感じていたのだろう。
「それじゃあ、あそこで何がアナタを待っているはずだったのかしら」
「なんだったんでしょうねぇ……」
 2人の視線は、再びそれぞれの見たいもの、興味ある対象物へと向けられ、背中合わせに言葉だけがやり取りされる。
「悟志さんはなんだったらいい?」
「僕は……そう、ですねぇ……なんだったら嬉しいのか良く分からないんですが……」
 でも浪漫あふれるものだとステキですね。
 そうコメントしてみせる。
「じゃあ、方向性を変えて……ここに地下通路なんてモノはある?あの有名なオペラ座のような、ね」
「見取り図にないような隠し部屋も、ですよね?」
「あるいは絵画の裏にこっそり作られた覗き窓とか壁の裏の通路とかも、ね」
 くすくすと面白そうに笑みをこぼしあいながら、ひとしきり思いつく限りの例を互いに挙げて。
「……ええと……というわけで、ここがからくり屋敷だってことはなかったかと、ええ」
 そういうところには浪漫を求めなかったのだと、彼は笑った。
「それってちょっと残念ね」
 そう返すのとほぼ同時に、書棚に触れる硝子の鎖が僅かに震えた。
 それに反応したのか、不意に本と本の隙間から1枚の便箋がひらりと舞い落ちてくる。
 慌てて拾いあげて裏を返せば、透き通るほど白い紙面に流れるような細い文字が綴られていた。
 美しい世界を見せてあげると囁く言葉。
 終わりの世界を見せてあげると歌う言葉。
 歌うように、誘うように、たゆたう水面のごとき不安定さで手招きする言葉。
「美しい世界……終わりの世界……」
 呟いた羽澄の瞳が揺らぐ。
「これって暗号なのかしら。それともただの……」
 違う。ただ詩を綴っただけという代物であるはずがない。
 まるでロウソクに灯された炎のように、ゆらりと移ろいながら心に響く奇妙な感触をもう一度自分の中で確認する。
 知っている気がするのだ。
 いつかどこかで聞いたような気がして仕方がない。
 これとまったく同じ内容ではないけれど、これにとてもよく似たモノを――
「あ、それはおそらく祖母のモノですね」
「あら、お祖母さま?その方はいまどこに?」
「ええと、ですねぇ……ええ……実はその、祖母はいないんです」
「ソレはどっちの意味で?」
「亡くなったと聞いてましたが、いなくなっただけかもしれません」
 またしてもいないのか。
 草間から依頼の経過を聞いていた羽澄の表情が一瞬険しくなる。どこで誰が何と繋がっていくのだろう。
 だが思考の海に沈むより先に指に絡む硝子がまたしてもリンとなり、それに導かれるように、するりと壁の中からこの世にあらざる猫が姿を現した。
「キミ、榊くんの……」
 その口には1冊の本らしきモノを咥えている。
 けれど、2人がそれを何か視認するより先に、猫は再びするりと、今度は床下へ消えてしまった。



「お、少年たち発見。嬢ちゃんと依頼人はまだ探索中か?」
 ちょうど付近の探索から戻ってきた藤井と、パソコンを繋げる場所を探して歩くカーニンガム達がばったり扉の前で行き会う。
「光月さんならいま書斎にいたけど……」
「そっか。んじゃあ、まずはお前たちと情報交換、だな」
 半分引きずり込まれるカタチで、2人は無駄に立ち並ぶ1階の部屋のひとつに藤井と共に移った。
 そこは、ゲストルームと呼ぶにはいささか趣味に走り過ぎている。
 淡く波打つエメラルドの絨毯に、海色のグラデーションを施した壁紙。中央に置かれた硝子のテーブルを取り囲むように、大小さまざまな海洋生物の石膏像や標本らしきもの、硝子の彫像がずらりと並んでいた。
 カーニンガムが持参したノートパソコンを開き、なにかを打ち込んでいる間、2人はこの海底に沈んでいるかのような錯覚を与える部屋を探る。
「屋敷に残っているアレコレを調査すれば何か分かると思ったのは確かなんだが……いっそ清々しいくらいに偏ってるよな」
 森に囲まれていながら、不可視の水に浸かってまどろむ場所。
「そっか……この屋敷全体がひとつのアクアリウムなのかも」
 閉じられた匣の中に湛えられた水とひとつの世界。
 ずっと何かに似ていると思っていた。
「なるほど、屋敷そのものが水槽代わりの幻の水族館か」
「だと思う……でも……」
 子供のようなヒト。そう評される道楽者。けれど彼が望んでいたのは、そんな単純でカワイらしいものではなかったはずだ。
「面白いことが分かりましたよ」
 ようやくパソコンから顔を上げたセレスティが、2人を振り返る。
「お、ようやく声が掛かったか。さっきから何をやってたんだ?」
「趣味の深い方というのは、それだけで有名になるものです。そして噂が噂を呼び、貴重なものや珍しいモノが集るようになる……更に有名になる。そうして、いわゆるネットワークが完成するのですよ」
 こんなふうに。
 そう微笑んで、カーニンガムは僅かに椅子をずらしてモニター画面を彼等に公開する。
 展開されるひとつひとつの窓に羅列されているのは、好事家たちの噂話と、数々のオークション履歴、それから。
「お祖父さまはアクアリウムの建設というよりも、通路を繋ぐ方法を探っていたみたいですね」
 水妖に関する都市伝説や、それによって引き起こされたと去れる事件の噂、さらに召喚方法と言った呪術的な側面へのアプローチ。
「ほほお?これはこれで随分とまた気合の入った偏執狂だな」
「ですが、何か目的が別にありそうですよ。この事件の初めの方に、ごらんください……」
「お」
 セレスティが指し示す先には、ひとりの女性の名前が大きく記されていた。
 ソレが何を意味しているのか考えるより先に、榊の肩にふわりと重みが掛かった。
「響……それは?」
 どこからともなく姿を現し、猫は額を榊の頬に軽く擦り寄せてから、ぽとりとその手の中に1冊の本を落とす。
「日記帳、か?」
 赤いベルベットの表紙に金の飾り文字で『DIARY』と記されたモノを、横からしげしげと藤井が覗きこむ。
「ええ……その画面にあるのと同じ名前……」
「同じ?」
「峯崎スイって署名されてる……多分、消えた老人の奥さんだよ」
 鍵の掛かった女性の日記帳からは、扉の向こう側の匂い、ほのかな潮の香りが漂っていた。



 シュラインとCASLLが訪れた峯崎の祖父の通常住居は、これもまたむやみやたらと古めかしい、けれど確実に豪邸と言わしめる日本家屋だった。
 レトロな使用人の女性に案内された部屋からは、よく手入れされた庭園が眺められる。
 ふっかりとした革張りのソファは、草間興信所のものとは比べものにならない心地良さだ。
 いつかこういう応接セットが置けるくらいの事務所になればいいのだが。
 いや、どうだろう。せめてこの半分くらいでもいいかもしれない。家電製品を一新して、あの留守録のできない黒電話の他に新しい電話機も導入して、毎月の家賃のやりくりに頭を痛めないくらいの余裕と規模を……
 そこまで考えて、最近の事務所の収入と支出の関係が現実的数字として思い浮かび、シュラインはついふぅっと大きく溜息をついてしまった。
「どうしたんですか、シュラインさん?ご気分が優れないのでしょうか?」
 そわそわと気遣わしげにCASLLが顔を覗きこんでくる。
「ん、何でもないの。ゴメンナサイね?ちょっと見果てぬ夢を見てしまったわ」
「見果てぬ夢ですか……」
 思わず稼動してしまった事務員としての思考モードを無理矢理強制終了する。
 そのタイミングで、応接間の扉が開いた。
 和装の似合う初老のキレイな女性が静々と入り、丁寧に峯崎悟志の母であると自身を紹介したのだが。
 顔を上げた瞬間、彼女の表情が一変した。
「あら。あらあらあらあらあら!」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、目の前の佇む男が幻ではないのかしらと自分の頬までつねり、そしてぱぁっと輝いた。
「まあまあまあ!あなた、CASLLさん!あの俳優のCASLL・TOさんでしょう?」
「は、はい……た、たしかにそうですが」
「まあまあ、ホンモノがいらっしゃるなんて。どんな御用ですの?ロケかなにか?」
 胸の辺りで祈るように手を組み、キラキラと輝く視線がまっすぐ注がれる。
「あ、あの……えと、ですね……」
「先程、ご案内くださった方にも伝えたのですが、こちらのご当主である峯崎総一郎様のことでお話を伺いにきたのですが、よろしいでしょうか?」
 気おされえてうろたえるCASLLの隣で、営業スマイルを全開させたシュラインがさりげなく交渉を口にする。
「それから出来れば、峯崎総一郎さんのお部屋も拝見したいのですが」
 きらきらの眼差しが微笑ましくてたまらない。
「ええ、もちろんですわ。わたくしで分かることでしたら何なりと。もし必要でしたら父の部屋にもご案内致しますから」
「では、お願いしてもよろしいでしょうか?お忙しい中、大変ご迷惑をおかけしてしまうのですが」
 シュラインの言葉にも、彼女の笑顔は崩れない。それどころか拍子抜けするくらいあっさりと快諾してくれる。
 この分だと、あらかじめ用意していたあらゆる『言い訳という名の理由』が無用の長物となりそうだ。
「ただ条件がありますの。よろしいかしら?」
「ええ、当然だと思います。どのような条件ですか?」
「ええと……あの、CASLLさん……良かったら後でサインいただけます?この間出演されていた映画、わたくし、舞台アイサツの回に参りましたのよ?絶妙かつ芸術的にチェーンソーを振り回して登場なさっている姿、今でも目に焼きついておりますわ」
「あ、は、はい……そんなことでよければ喜んで」
「まあ、有難うございます」
 彼女は夢見心地で微笑みながら、いそいそと2人を峯崎総一郎の部屋へ案内すべく、せっかく座ったはずの席をすぐに立つ。
 まるで少女のようにはしゃいでいる姿が可愛らしく映る。
「あ、あの……シュラインさん……私はどうしたら……」
 凶悪犯でも裸足で逃げ出しそうな表情ではあるが、捨てられた子犬のような目だと思えなくもない相手に、にっこりと彼女は微笑み返す。
「取って食われたりはしないでしょ?大丈夫よ。純粋なファンだってことじゃない」
「そう、ですよね……そうですね、ファンは大事にしないといけません」
 こくこくと、自分に言い聞かせるように何度も頷く姿に、何故かやはり子犬が重なってしまう。

「さあ、祖父の部屋はこちらですわ」
 通された場所は、まさしく趣味の部屋と言わんばかりの凝りようだった。
 硝子戸の陳列棚にスライド式の書棚、壁から天井にかけてはセピア色の海洋図らしきものが描かれている。
 海洋冒険家を目指し、一代で財を為した貿易商であり美術品のコレクターでもあった男の部屋。
 マントルピースの上には、時代を感じさせる背景とともに若い男女が並んで微笑む写真がポートレートになって飾られていた。
「あの写真のお2人はどなたなのでしょう?」
 どことなく興味をひかれてシュラインが問いかけると、彼女は遠い日の記憶をなぞるように目を細めた。
「アレは若い頃の父と母ですわ。といってもわたくしは母のことをほとんど覚えておりませんの」
「覚えていらっしゃらないというのは」
「あ、もしかして、その……」
 つい何か言おうと口を開いたはいいが、言葉を選びきれずにCASLLはそのまま俯いてしまった。
「よろしいんですのよ?多分亡くなったわけじゃありませんし。もちろん離婚したとか別居したとかでもありませんわね……」
「多分、というのは……お聞きしてもいいのかしら?」
「ええ、構いませんわ」
 ほわほわとどこか懐かしげに目を細め、彼女は語る。
「私の母は……悟志の祖母であり、父の妻だったヒトは、もしかすると人間じゃなかったのかもしれませんわ」
「あの、それは一体どういう……?」
「わたくしにも本当の所は分かりませんの。でも、父が海の世界にのめり込んで行ったのはひとえに、泡になって消えた人魚姫を取り戻すため、と見えたのは事実ですわね」
「泡になった人魚姫、ですかぁ」
 CASLLが想像出来るのは、かつて読んだことのある悲しくキレイな童話のストーリーばかりだ。
 これまで関わったことのない世界でもある。
「……ということは、アナタも人魚の血を引くものなんでしょうか?」
「あら、そう言われてみれば……母が人間じゃなければ私も人間じゃないってことになってしまいますわねぇ」
 いっそ無邪気にも見える軽やかさにつられて、思わずCASLLもシュラインも笑みをこぼしてしまいそうになる。
「おかしな話かもしれませんけどねぇ……父の研究を見ているうちに、何となくお伽噺を信じたくなったのかもしれませんわ」
 水の世界の、キレイなお伽噺。
 恋した男の、情熱の物語の欠片。
 結局彼女からそれ以上の話は引き出せず、CASLLは約束どおり照れながらもサインとツーショットを残し、シュラインと共に礼を述べて峯崎家を辞した。
 消えた人魚に恋焦がれる男。
 追い求めたロマンス。
 そして、人ならざるものの血を引くのかもしれない者たち。
「実際、どこまでが本当だったのでしょう?」
「全てが本当かもしれないし、全ては嘘かもしれない……それでも確実にひとつの鍵を手に入れたことになるわ」
 峯崎総一郎によって紡がれた、長く遠く不可思議な恋物語。
 ローレライの伝説は悲恋から始まる。人魚姫の物語は悲恋で終わる。ならばセイレーンはどうなのだろう?
「そろそろ別荘にいきましょうか?」
 そう言葉にした瞬間、2人の前に黒塗りの高級車が滑りこんできた。
 まるでたった今提案された言葉が、もう数時間も前に確定された事実のごとき絶妙なタイミングで。
 しかもその車の後部座席には、何故か彼の愛犬であるかわいらしい仔犬がつぶらな瞳をキラキラ指せてチョコンと座っていたのである。
「最近のお迎えシステムは、未来予知能力でも付加されているんでしょうか」
 実に神妙なカオで、CASLLはポツリと呟いた。



「お?どうした、セレスティ?思い出し笑いか?」
 日記の解読に取りかかったはずの彼が、不意にくすくすと楽しげに笑みをこぼすのを、藤井は不思議そうな顔で見やる。
「いえ、何だかとてもほのぼのとしたコメントを頂いてしまったものですから、つい……」
「いかん、いかんぞ?楽しいことは全員で分かち合うべきだ。さあ、なんだ?何が面白かったんだ」
「本当にたいしたことじゃないんですよ?」
 なおもくすくす笑いながら、タネ明かしをしようと口を開きかけた時、
「シュラインさんから連絡が入ったわ。今こっちに向かっているみたい」
 携帯電話片手に、峯崎を伴った羽澄が部屋の扉を開いた。



 ずっと昔に出会った時の心のまま。
 ずっと昔に別れたままの姿で。
 美しい世界に浸りながら私はあなたの夢を見る。
 例えどれほどの時間が流れても、あの日の幸福を夢見て祈る……



 太陽の光がゆっくりと西に傾く頃。
 豪奢という言葉以外が浮かばないようなシャンデリアに見下ろされたリビングルームに、依頼人と6名の調査員が集う。
 大理石の大きな円卓の上にずらりと並べられたのは、現場写真と資料のコピー、屋敷見取り図、それからカーニンガムのノートパソコンと全員の調査結果だった。
「それじゃ、はじめましょうか?」
 シュラインの宣言により、場の空気がピンと張りつめる。
 海水によって溺れてしまった身元不明の青年。
 鍵ではない何かによって閉ざされたままの扉。
 少なくとも隠し通路や隠し扉は存在しないらしい屋敷。
 海底を模したとしか思えない部屋とコレクションの数々。
 謎はいくらでも提示されている。
 そして、1枚の便箋と1冊の日記帳に綴られた言葉たちがそれら全てをひとつに繋げる役割を持っているのだ。
「まずは今回の現象が完全に物理解釈じゃ説明不可能かどうかの検証かしら?」
 彼女の視線が榊に向けられる。
「扉はどうだったのかしら?鍵はあったけど開かなかった?取り外せば何とかなるって代物かしら?」
「鍵じゃ手ごたえがなかった。抉じ開けられるものでもなさそう。それから汕吏で確認はしたけど、この付近に湖はもちろん、海水が流れ込んでくるようなものは一切なかったよ」
「これは地下室で採取したものですが……水そのものがこの世界のモノではありませんでしたね……異世界の、それも妖の生み出すものに近いでしょう」
 透明な液体が半分ほど入った小壜をゆっくりと手の中で転がしながら、カーニンガムが付け加える。
「なお、蛇足かもしれませんが。遠夜さんと2人で一度確かめに行きましたが……地下室に続く階段の扉は、あの青年が扉の内側からはじき出された時に鍵が掛かったと思われます」
 かくして密室は出来上がる。
 そこに『針と糸』は存在しない。
「ん、有難う。気象情報とかも含めて確認はしてきたけど、やっぱり物理的理論的解釈じゃないみたいね」
「ああ……やはり怪異がらみなんですね」
 憂鬱そうにCASLLが溜息をついた。出来ることなら、本格推理の世界であって欲しかったと密かに思いつつ。
「ま、いいじゃないか、青年!怪奇探偵の出番だからって落ち込むな!前向きにいくぞ、前向きに!」
 バシバシと元気付けるように、隣に座る藤井が彼の背を思いきりよく叩く。
「は、はぁ……」
「羽澄ちゃんの方はどう?」
「こっちは書斎で発見した詩と研究内容を示す資料を提供しますね」
 羽澄は、書斎から見つかった便箋と一緒にファイル一式を順に開いていく。峯崎総一郎の書き貯めたらしい資料たちだ。
「海洋生物というよりも、ローレライ、セイレーン、人魚……海に関わり、歌う魔物の伝説がほとんどだったわ」
 数え上げればきっと、この両手では足りないのかもしれないモチーフたち。そして、ソレにまつわる物語もまた無数に枝葉を茂らせる。
「そして、その研究と対を為すのが、都市伝説の収集ですね。これをご覧下さい」
 カーニンガムがプリントアウトした紙を広げる。
「ここには、峯崎スイさん……悟志さんのお祖母さまのお名前もあります」
 そこに記されていのは、どれよりも長く詳細な記録だった。
 遠い昔、まだ若かった彼女は、夫との旅行中に海辺に隣接する水族館で消えてしまった。
 行方不明のまま、数十年。
 峯崎総一郎が作り上げたリストの中で、ただひとつ、悲痛さを伴って綴られている物語。
「……ああ、なるほどなのです。悟志さんのお母様も仰ってました。泡になった人魚と再会するために、この研究を続けているのかもしれないと」
「つまりアクアリウムに消えた奥さんを探すために、もう一度同じモノを作ろうとしたってことよね?」
 CASLLの言葉を受けて、羽澄が髪を掻き上げながら首を傾げる。
「何だか、この屋敷そのものが水の底に沈んでいるみたいだもの。長い時間を掛けて、ちょっとずつ変質させたって感じ」
「それじゃ祖父は……何十年も昔にいなくなった祖母のためにこんな大掛かりなことを?」
「……あちらの世界と何らかの原因で繋がったからと言って、次の出現をただ闇雲に待つことなんてきっとできない、と思う」
 榊は視線を落とし、現場写真を一枚ずつ撫でていく。
 身元不明の青年。弾かれてしまった水死体。彼は老人の後を追いかけた。招かれざる客の名前が今なら分かる。分かるけれど、それは意味をなさない。ただ写真から伝わってくるのは、彼が幾度となくこうして誰かの家に入り込んでいるという事実だけだ。
「それに、ちゃんと異界の扉を管理できなければ、正確な手続きを踏めないために犠牲者は増えていく……」
 しかし、異分子が吐き出されるなら、帰ってこない峯崎の祖父はそこに留まることを良しとされたのだろうか。
「生きているのなら、それに越したことはないんだけど……」
 ただ生きるだけの人形になっているのだとしたら悲しすぎる。
 数ヶ月前、彼等はまったく同じメンバーでひとつの事件に当たった。
 そして、少女達を取り巻く過酷な現実と、哀しい夢の境界に触れたのだ。
 どれほど数多くの怪異に関わろうと、それぞれの事件が持つ性質、寂寥とやるせなさの記憶が薄れる事はない。
「大丈夫ですよ、きっと。今度こそ我々は全員を救えるはずです。そのために最善の努力をしましょう?」
 悲劇を共有するCASLLから、労りの言葉が掛けられる。
 不意に、それまで借りてきた猫のごとく大人しかった仔犬が甲高い声で主人を呼ぶ。
「おや?何か発見したんでしょうか?」
 尻尾をぶんぶんと振って鼻を押し当てられ、急かされて、CASLLは大きな身体を折り曲げてチェストの下を覗きこんだ。
 何かが押し込まれていることは分かる。
 だが、ぐぎぎっと限界まで折り曲げてもソレが何かを見定めることはできず、その態勢のまま今度は長い腕を差し入れる。
「大丈夫?」
「代わりましょうか?」
「い。いえ……はあ……何とか……引っ張り出せないこともない、です……」
 羽澄とシュラインの申し出を丁重に断りつつ、更に腕を伸ばして。
 いやに重い匣の端に指を引っ掛け、愛犬とチカラを合わせて思いきりよく引き摺り出した。
「――っと……これは」
 かすかにホコリの積もったソレは、表面に人魚の姿を模した金の細工を施した漆塗りの大きな黒い箱だった。
 調査資料を横にどけ、テーブルの上にドンと置く。
「なんというか、本気で宝探しのノリだな、この家」
「祖父はそういう浪漫は求めるタイプだったのかもしれません」
「うむ、浪漫を求めたのならしかたないか」
「ええと、では開けさせていただきますね?」
 褒めて褒めてとじゃれ付く子犬を片手で撫で回しながら、CASLLが代表として匣の蓋を持ち上げる。
「これは……燭台にロウソク……でしょうか?」
「同じものだ」
 榊が自身の目を通して見た老人の姿、地下室の扉を開いた時に手にしていたものとまったく同じモノがいくつも詰め込まれている。
「確かに、私たちの見たものと同じようですが……何故こんな所に押し込められていたのでしょう?」
「まあ、これで探す手間がひとつ省けたわね」
 閉じた扉へのアプローチ方法としてロウソクをもちいるつもりでいたシュラインが、この展開に小さく肩を竦めて笑った。
「ひとつ、興味深いお話があってね。ロウソクって『命』を表すと言われているの。そのヒトの寿命、そのヒトの人生、それがこの一本のロウソクに託される」
 ロウソクの炎は、命の対価。
 夢のような理想の世界へと、行って帰ってこれるだけのチカラを示すもの。
「そういえば、そんな解釈の出来るマザーグースがありますね」
 どこか懐かしげに、カーニンガムが微笑む。
「マザーグース……そうね、確かにアレに近いのかもしれないわ」
 行って帰ってくるために必要な物。
 危機回避のために必要な物。
 そんなキーアイテムが、今こうして自分たちの前に姿を現している。
「あ、更に日記まで掘り当ててしまいました。しかも真っ黒です」
「赤い表紙のものとお揃い?ということは、こっちはお祖父さんのものかな?」
 CASLLの横から羽澄が手を伸ばすと、鍵の掛かっているはずの日記は容易にその中身をさらした。
 だが、ほとんどが白紙なのだ。
 どこまでもずっと白紙で、ただ、ちょうど真ん中に当たる部分にのみ、短く文字が綴られている。
 読み上げる羽澄の声。
 行動を起こすための道具は全て揃った――後はもう、あの場所へ向かうだけなのかもしれないという想いが全員の中に降りてくる。
「そろそろ日が暮れるね」
 榊の言葉に、窓の外へ視線を向ければ、硝子を隔てた世界は1日の終わりを示すように赤く燃えていた。
「それじゃ、地下室へ行く前に、お嬢さん達2人にちょっとコレを聞いてもらっとくか」
 パンっと両手を打って藤井が立ち上がる。
「藤井さん?」
「私とシュラインさんに、なに?」
「お嬢ちゃんが見つけた便箋の詩、それに近いモノを彼女たちが披露してくれるから聞いてやってくれ」
 振り返ってニカッと笑い、そうして窓を開け放つと、外に向かって大声で飛びかけた。
「眠いところ悪いが、このお嬢さん達にひとつ歌を頼む」
 呼んだ?呼んだね?いいよ、いいよいいよこの歌だよ、うまくは歌えないけどねけどね、ね、ね……聞いて教えてあげるこの歌を………
 涼やかな旋律が風に乗ってリビングに流れ込んできた。
 どこか眠りに誘うような、自分の内側の一番深い所にまで浸透していくような、そんな歌が部屋を満たしていく――



 あの夏の日。
 彼女の手を離してしまったことを後悔している。
 だから私は求めた。
 ロウソクを灯し、命の対価を支払い、今一度扉を開くために。
 ノックは3回。
 歌に身を任せ、その一歩を踏み出すのだ。



 地下室の固く閉じた扉。それを取り巻く滑らかな壁に描かれたのは凍れる絵画だ。
 各々が手にした燭台の上で、灯るロウソクの炎がゆらゆらと揺れる。その明かりに、時折細い硝子の鎖が反射してキラキラと光を放った。
 揺れて、揺れて、冷たい地下の壁に異質な影を作っては不安定さを演出し続ける。
「あの……悟志さんを残してきて良かったんでしょうか?」
 番犬代わりに仔犬を彼に託してはきたものの、CASLLは幾分心を残して階段を振り返った。
 彼は地下室には同行せず、そのままリビングで帰りを待つことになっている。
「何かあったら困るだろ?」
「ですが……お祖父さまは悟志さんに見せたいものがあったと言ってたみたいですし」
「命はひとつしかないんだから……何が起こるか分からない領域に、今の時点で彼を関わらせちゃいけないと思う……」
「そう、ですよね……」
 ただの宝探しの冒険だったら良かったのに。そう思いつつ、藤井と榊双方から宥められる形でCASLLはようやく振り返るのをやめる。
「皆さん、準備はよろしいですか?」
 カーニンガムの問いかけに全員が頷きを返すのを確認し、シュラインは羽澄と並んで扉の前に立つ。
「それじゃ、羽澄ちゃんお願い」
「了解」
 ロウソクと一緒に掘り出された黒い表紙の日記に記載されていたのは、この扉への正式なアプローチ方法だ。
 彼は見つけて欲しかったのだろうか。
 面白いモノを見せるといって孫を呼びつけ、自らは姿を消した老人は、本当は何をしたかったのだろう。
 その答えがこの向こう側にある、のかもしれない。
 羽澄はゆっくりと深呼吸を繰り返し、それからそっと扉をノックする。
 1回、2回、3回……
 風向きが変わる。
 ロウソクの炎が揺れて。
 揺れて揺れて揺れて。
 うっすらと開きはじめた扉の向こう側から歌が流れ出す。
 植物たちが紡いでみせたものと同じ、けれどそれ以上の支配力をもって、歌は彼等の聴覚に侵入し。
 そして――
「皆、燭台から手を離さないで――」
 シュラインの声を最後に、扉は開け放たれ、意識があふれだした水に飲まれて暗転する。



 ロウソクを灯して近付いて、そっと扉をノックして。
 もしもロウソクの火が消えなかったら、美しい世界を見せてあげる。
 もしもロウソクの火が消えてしまったら、終わりの世界を見せてあげる。



 気がつくと、ロウソクを握り締めたまま、視界が青く染まる世界に、シュラインはひとりぽつんと立っていた。
 目を凝らせば、遠くで小魚達の群れが見れる。銀に緑や青、時折鮮やかな赤や黄色を放ってきらめく魚たちが、光と泡の合間を滑りぬけていく。
 そのうえを鯨らしき大きな影が横切っていった。
 ゴツゴツとした岩の合間を縫うように海草が手招きをする。
 水独特の浮遊感は確かにあるのに、手の中のロウソクは今も不定形に揺らぎ、当たり前に呼吸できる自分がいる。
 まるで良くできたCGのように、現実味はないけれどリアルに作りこまれた映像。
 そんな印象を与える海底世界。
 ふと見上げれば、どこからともなく差し込む光の中を、コポコポとわずかな音を含んだ細かな水泡が昇っていく。
 溜息をつきたくなるほどに完成された青の光景。
 夢のごとき淡き糸紡ぎ。
「これが扉の内側……」
 美しい世界。あるいは終わりの世界、だろうか。
 けれど、穏やかな思考時間はかすかな問いによって遮られた。
『あなたの手はキレイ?』
 果てしない頭上から、ふわふわとひらひらと舞い降りてくる声。
『あなたの心はキレイ?』
 屋敷のあちこちで見ることの出来た、あの幻想生物たちの影がひとつ、またひとつを増えては言葉を投げ掛ける。
『あなたの中に潜む、その願いはキレイなものかしら?』
『ロウソクをかざして、足りる?』
『病んだ心、闇が巣食う心、罪が突き刺さった心には、この世界の本当の色は見えてこない――』
『あなたの手はキレイ?』
 微笑み掛ける魔性の存在。
「ソレはどういう意味で?」
『血で汚れていない?』『罪に染まっていない?』『幸福の掴み方と美しいモノへの触れ方をちゃんと知っている?』
 次々と舞い降りては、たゆたい降り注ぐ、美しい水妖たちの歌うような言葉の数々。
『悲しい記憶、切ない記憶、痛みの記憶、憎しみの記憶、棘のように突き刺さったままの記憶達の向こう側で、揺れる時間のその先で、美しい世界は広がり続ける』
『祈りを捧げて』
『この世界で終わりの祈りを』
『夢を見せてあげるわ……心地良い眠りをあげるわ……』
『だから、さあ、祈って……願いは何?見たいものは何?対価を支払ったのなら、望むものをあげるわ』
 やわらかな歌。
『揺れるロウソクの炎の中に、アナタは何を見るのかしら』
 深い眠りへと誘うチカラある破滅の歌。
 呑まれていく。
 取り込まれていく。
 水であって水でないモノが心の内側へと滑りこむ――


 シュラインの中で揺れる時間は、彼と出会った興信所から始まる。
 怪異に関わってしまったが故に、失われてしまった命。
 目の前にいながら、伸ばした手が届かず、張り上げた声が届かず、救えなかった者のために流す涙。
 己の罪に取り込まれた者。海に消えた少女。無残にも切り刻まれてしまった幼い命。闇の契約に取り込まれた彼女たち。
 積み重ねられ、心の底にそっと静かにたまりゆく悲劇のカケラ達。
 草間と出会わなければ、あの日あの興信所のドアを叩くことがなければ、きっと見ずに済んだだろういくつもの光景が棘となる。
 平穏な時間。
 当たり前の日常。
 誰よりも大切な人と穏やかにキレイなものだけを見ていられたら。
 やさしい時間だけをそっとそっと積み重ねていくことが出来たなら……カワイイものやキレイなものに囲まれて、ゆったりと過ごせたなら、それはとても美しい世界。
 この歌に、この眠りに、身を委ねれば、すぐそこで待っている世界。
「そうね……確かにちょっと憧れるかもしれない」
 水泡の中に蘇る記憶と、ありえたかもしれない幸福のビジョンを静かに見つめ、ロウソクの炎に視線を落とす。
 この手に、そして燭台に絡むのは硝子の鎖。
 存在を確かめるようにきつく握り締めて、シュラインは、瞳に強い光を宿して顔を上げた。
「でも、後悔はしてない。悲劇で終わらないものがあった。救いは確かにあった。得がたい経験がここにある」
 やさしい夢に惑わされて、知らない内に救いを求める誰かの声を聞き逃す方がずっと苦しい。
 ソレが分かっているから。
「草間興信所の事務員兼調査員として動ける、今この瞬間を誇りにしてるから」
 藤井が植物たちを通して聞かせてくれた歌。
 あの音色を自分の中で構築し、
「だから、眠っているわけにはいかないの」
 大きく息を吸い込んで、チカラある旋律を音に変えた――

 歌を紡げるのは水妖たちばかりではない。
 例えそこに異界の水が満たされていようとも、呪術的な束縛が存在していようとも、鎖によって繋がれた者たちの間に旋律は生まれる。
 シュラインの声。
 それに反応する羽澄の音。
 奏でる硝子の音色に声が重なる。
 張り巡らされた弦のごとく、震い、震えて。
 聴覚から全身へ、そして最も深い場所へ浸透して。
 目覚めを促す繊細で澄んだ音色が不可視の壁を貫いて、炎の揺らめきに合わせて落ちていく夢の世界から意識を引き戻す。
 魂すらも絡みとるはずの夢幻の旋律が、波紋によって掻き消され。

 そして。

「ようやく会えたわね、みんな」
 水妖の影が揺らぐ青の世界で、調査員たち全員が夢から醒めた。
「やっぱり、あの幻影は、彼女たちの歌のせいなのね……無事相殺できて良かったわ……」
「シュラインさんの歌、ちゃんとコレで繋がったわ」
「やっぱり事前に鎖で繋いでおくという案が良かったのかも」
「いやいや、遠夜さん。シュラインさんと羽澄さんとのコンビネーション・プレイが素晴らしかったんですよ」
「お、なんだ?褒めるなら、歌を提供した俺も褒めてくれ、CASLL」
 夢想の対価として支払うはずのロウソクの炎は、いまだ燭台の上で消えずに揺れ続けていた。
「いかがです?まどろみの世界に身を委ねられる方はいらっしゃらないでしょう?」
 カーニンガムに微笑まれ、あり得るはずのない光景を目にして、ザワリと水妖立ちの溶ける水の質が変わる。
 怯えにも似た驚きと動揺が広がっていく。
「別にあなたたちに危害を加えたいわけじゃない。ここに入り込んでしまったある人を探しにきただけ」
 榊が漆黒の瞳で彼女たちをまっすぐに見つめる。
 彼の吸い込まれそうな瞳から受ける安らぎが、彼女たちの中に起きた漣を鎮めてしまう。
 後に残るのはひどく穏やかな、
「ここに来た方のもとへ私たちを案内していただけますか?」
 カーニンガムの問いかけに、彼女たちは手を差し伸べることで応えた。
「そういえば……もし召喚されたアナタたちがこの空間に閉じ込められているなら解放してあげたいところなんだけど」
 けれど、そんなシュラインの提案に、水妖たちはふわふわと泡のように漂いながら顔を見合わせ、そしてくすくすと笑みをこぼして首を横に振った。
 扉の向こう側に広がる閉じた世界。
 でもここは偶然に繋がってしまっただけの、いつかはあの扉とのリンクも切れてしまう場所なのかもしれない。
 そして、もしかするともう二度と訪れることの出来ない場所なのかもしれない。
 そう考えると、もっとゆっくり眺めていたい気もするから不思議だ。
 チラリと他の仲間たちの表情に目を向けると、やはりそこに自分と似た感慨が浮かんでいるのが見てとれた。
 全身をやわらかく包みこむ美しい光景。
 宝石のようにきらめく、あり得るはずのない幻の空間。
 泳ぐように、あるいはふわりと空を飛ぶように、水妖の群れに導かれるまま、彼女たちは水底のさらなる奥へと進んで行く――

『ほら……彼はあそこに……』

 どれくらいそうして漂ったのか。
 水妖のひとりに白い指で示されるまま、顔を上げた先。
 光と青の幻想が広がるそこには、水泡を生み出しながら咲き誇る白い花々に囲まれた石の祭壇が置かれ、ロウソクがその上でゆらゆらと炎を灯していた。
 そこで彼は祈りを捧げているらしい。
 隣には、あの飾られていた写真の中の女性が寄り添っている。
 数十年前と寸分違わない美しい少女のような彼女の手を取り、老人はそっと幸せな夢に身を浸しているのだ。
 何者にも邪魔されない、2人だけの世界がそこにある。
 その空気を壊してしまうことに、少なからず罪悪感を抱いてしまうほど、とても静かな光景だった。
「峯崎総一郎さん……ですね?」
 意を決し、そして出来る限りそっと、2人の語らいを妨げないようにさりげなくシュラインは声を掛ける。
 ふたつの影がゆっくりと、こちらを振り返った。
「お前さんたちは?」
「草間興信所の者です。お孫さんである峯崎悟志さんのご依頼により、あなたを探しに参りました」
「悟志に?またどうして、興信所なんぞに?」
 結構分かりやすいヒントを残したはずなんだが……そう首を傾げる老人に、おずおずといった感じでCASLLが言葉を挟む。
「扉の前で亡くなっていた青年をご存知ですか?」
「水妖たちが騒いでおったようじゃが……ワシは悟志以外を招くつもりはなかったんでな。よう知らん」
 その辺、どうなんだ?
 そう問いかけるように妻を見、それから頭上を振り仰ぐと、
『あの子は対価を払えなかった』『だからお引取り願ったわ』『ロウソクはひとりに1本だけだもの』『罪には罰を』
 美しい声で妖たちがさらりと言い放つ。
 そこには一切の罪悪感が存在しない。
「そうですね……決まり事を守れなければ排斥されるというのは、この世界の理を守るために必要なことだとは思います」
「え、でも、そんな……」
 同意するカーニンガムの隣で何か言いたげにしているCASLLの背を、無言で藤井がぽんぽんと叩いた。
 納得はできなくても、それにここで異を唱えてはいけないのだ。
 そういうルールが確かに存在してしまっているから。
 ここに自分たちのルールを持ち込むことは、本来赦される領分ではないから。
「そういうわけで、悟志さんをお連れすることも控えさせていただきました」
 シュラインによって経過の説明がなされ、老人は全てを飲み込んだ。
「ふむ……とにかく、どうもワシが迂闊だったせいでいらぬ事件に発展したようじゃ。わざわざ足を運ばせてすまなかった」
 深々と、夫婦一緒に頭を下げた。 
 イレギュラーは発生したが、本当は全て孫のために用意した宝探しゲームのようなものに過ぎなかったのだと彼は言う。
「本当は悟志に見せてやりたかったんだが……そして聞かせてやりたかったんだがなぁ……」
「あの……過去形で話されてますけど、帰るつもりはないんですか?」
 思わずCASLLが問いかける。
「帰ってどうなるのだね?ワシはな、ずっとずっと待っていたんだ。この日が来てくれるのをずっと」
 ずっとずっと何十年間もずっと、生涯でただひとり惚れた女のためにここまで来た。
「ワシにとっては、妻のいないあの世界こそが終わりの世界じゃ」
 殊更強く彼女の肩を抱き寄せて、無邪気な彼は愛しそうに視線を注ぐ。
「なのに引き離されたのは……」
 どうしてなのかという疑問が榊の口からこぼれると、ソレを拾い上げるように水妖たちがさざめく。
『この子はこのニンゲンに恋をした。このニンゲンもこの子に恋をした。でも、本当にソレは恋だったのかしらって思ったから』
『声と引き換えにしてまで添い遂げても……裏切られないとは限らないから』
 狂おしいほどに追い求めたものは、本当に愛だったのか。
 水妖たちはひっそりと囁き交わす。
 ヒトと妖が本当に長い時を共にできるのか。
 愛しい同胞はいつかニンゲンの世で悲しい最期を遂げてしまうのではないか。
 だから。
「だからあの日、彼から奥さんを引き離したの?悲恋の物語が始まってしまう前に?」 
 確認する羽澄に、彼女たちはあっさりと頷きを返す。
『そうよ』
 人魚姫の姉達が妹に短剣を託すよりもずっと確かな方法を、彼女たちは採ったのだ。
 それを責めることは出来ないし、責める権利を持つ者はここにはいない。
「でも、根性で祖父さんはここに辿り着いたってワケか」
 感心する藤井に、老人はニヤリと不適な笑みを浮かべてみせた。
「幸せなんですね?」
 シュラインの問いかけにも自信をもって力強く頷く。
「僕たちの依頼人は悟志さんだけど……」
 捕らわれた心を無理に解放することはないのかもしれない。彼はここで幸福を見出してしまった。
「死んだと伝えてくれても構わんが……ワシの孫と娘だ。真実を話したとしても、当たり前に受け入れるだけだろうな」
 不幸な影はどこにもない。
 悲劇は存在しない。
 閉じた扉は開かれ、いなくなった祖父は見つけ、あの青年が見るはずだった面白いモノの正体も分かった。
「そういえば悟志さん、お祖父さまを連れ戻してくれとは言ってませんでした」
「悟志さんのお母さんも、よ」
 CASLLの言葉にシュラインの言葉が重なり。
「だとしたら、俺たちの仕事はもう終わったようなもんだな」
「そうなりますね」
「なら、僕たちは帰らなくちゃ……ロウソクが全て消えてしまう前に、ね」
 気付けば燭台の上で炎を灯すソレは、既にその長さを半分にしていた。
「最後に何か伝えることはありますか?悟志さんにでも、他の方にでも」
「いや、もうこれ以上何も語るべきことはない」
 そうして、かつて海洋冒険家を夢見た男は、恋焦がれるままに数十年を費やして、ようやくめぐりあえた妻と共に笑って手を振った。
「ああ、そうじゃ。あの別荘は悟志にでもくれてやろう。なんならあんた達の内の誰かにでもいいぞ?」
 ワシにはもう無用の長物だからな。好きなモノをもって行け。
 そう豪快に言い放った彼の言葉に、ぐらりと目が眩んだものが数名。
 そして。
 たゆたい揺れる水妖たちに手を引かれ、ロウソクの炎を道標に、青の世界からもとの世界へゆっくりと浮上して行く――
 海を内包する屋敷で仔犬と共に帰りを待ち侘びる、あの青年に全てを報告するために。



 あの人に出会えたことが幸せで。
 だからずっと不安だった。
 哀しい同胞たちの物語、そこに私の物語も綴られてしまうかもしれない。
 そう考えてしまう愚かな私……
 明日、彼と海へ行く。
 海辺に寄り添う水族館を観に行く。
 そこで私は彼に問えるかしら……

 美しい世界を、永遠という時間を、私と共に紡いでくれるのか、を……



END

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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0642/榊・遠夜(さかき・とおや)/男/16/高校生・陰陽師】
【1282/光月・羽澄(こうづき・はずみ)/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員 】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2072/藤井・雄一郎(ふじい・ゆういちろう)/男/48/フラワーショップ店長】
【3453/CASLL・TO(キャスル・テイオウ)/男/36/悪役俳優】

【NPC/峯崎・悟志(みねさき・さとし)/男/23/会社員】

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         ライター通信          
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 ご参加くださった調査員の皆様、8ヶ月ぶりのご無沙汰でございます!
 先日、都内某所でナイト・アクアリウムなるモノを体験し、水族館への愛に拍車が掛かったライターの高槻ひかるです。
 というわけで。
 大変お待たせいたしました21タイトル目の今回は、館モノとしては少々逸脱はしたものの、非常に分かりやすい情熱の発露と相成りました。
 そして、前回のネタがかなり重かったため、ダークテイストを控えめにし、ノベルの長さはともかく内容はできる限りの軽量化を測った次第でございます。
 少しでも涼やかな空気と夏の名残を楽しんでいただけましたら幸いです。

 なお、当ノベルでは、扉が空いた瞬間から個別描写というカタチで内容が分岐しております。
 あのシーンがPCさまへの解釈として近しいモノであればと願いつつ……


<シュライン・エマ様
 18度目のご参加有難うございます! 
 いつも様々な調査方法と着眼点を提示していただきまして、うっとりさせて頂きましたv
 その冷静な判断力から、今回も『まとめ役兼ツッコミ兼進行役』というスタンスで奔走しております。
 そのため屋敷の探索がほとんど出来ないまま、暑い東京で大半を過ごしていただく羽目に……
 ちなみに。プレイングにて非常に面白い対処法方を提示していただいたため、羽澄さんとのコンビネーション・プレイ披露とあいなりました。
 個別描写部分も含め、こういう解釈もありだと思っていただければ良いのですが(ドキドキ)
 
 それではまた別の事件でお会い出来ますように。