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■音は渡る■
それは奇妙に誇らしげだった。
ちらちらと不安定に明滅する古い型の外灯の光の端近くで曇った姿を晒している。張り出した枝が生い茂っていることで極端な雨の跡だとか傷みだとかは見られない。
それは廃棄されたのだと知れる艶の失せたピアノ。
そろりと遠慮がちに足を進めて千住瞳子はその蓋を開ける。白と黒の交差は閉ざされていた分まだ鮮やかに瞳子の眸に映った。
「……こんなところに」
形を辿って指を滑らせれば微かにざらついて、埃はそれでも隙間から入り込んでしまうのだと知れる。
「ピアノ、ですね」
「はい」
近場ではチケットが取れず、槻島綾の都合が着くということで二人揃っての遠出と相成った今回のコンサート。代わりのように休日分を取れたお陰で公演後も時間に余裕はあったけれど、でも近場の方がよかったかも、だけど一緒にドライブ、なんてそんな風に考える程の距離。
橋を渡ればすぐに大きな通りに出ると往路で確かめていた瞳子達は、河川の向こうに広がる水田と木々の深さに誘われるようにして帰路を変更したのだ。
河川一つ間に挟むだけでまるで異なる空気の質。
瞳子と綾はその危うい清々しさを窓を開けて感じながら本来の帰路を河川の向こうに望んで、そうして日も落ちようかという薄暗い時間。
静かに車を進めていたのだけれど、懐かしさを感じさせる古さを残す中で寛ぎ語らっている内にふと瞳子が見つけたのが、ピアノ。
思い出したように立ち並ぶ外灯の光を薄闇の広がる中で僅かに照り返し、土埃に汚れたそのピアノは河川に向かう緩やかな下りのすぐ手前で鎮座していたのである。
奥行きのない、四角い枠を思い浮かべればそこに収まる形のそのピアノ。全景を収めつつ瞳子は滑らせていた指で鍵盤をひとつ押す。
あれ、と呟いた綾に少しだけ困った風に笑ってみせたのは予想通りに音がずれていたからだ。捨てられる前から扱われることも少なかったのかもしれない。
ぽんとまた鍵盤を叩く。
響く音に小さく耳を擽っていた虫の声が一瞬止まり、またさざめく。とん、とん、ぽん。虫も声を潜め、高め、潜め、繰り返し。
調子の悪い外灯の下で調子を外して鳴るピアノ。
何度か指を動かす間に知らず唇が綻んだのは瞳子本人ではなく傍らの綾が気付いた。楽しそうな様子に彼も笑みを刷く。
恋人が優しげに横顔を見ているのも気付かぬ様子で瞳子は鍵盤にどんどんと指を走らせていく。きちんと音を合わせられているものとはまた違う、不思議な親しさを覚える音がまるで「こんなのはいかが」と呼びかけているような気さえしてくるのだ。
楽しいよ。と囁かれている、そんな。
思い出したように明滅する外灯の光の円の端。
そこでピアノは演奏者を待っていて、見つけてくれた瞳子に誇らしく己を示しているように。
そしてその場所を満たすのは水田に育ち揺れる青草の波。
草の香りと河川の水気、夜の季節の揺れを示す気温、歌い始めたおそらくは秋を示す虫達。
街中ではそれに埋もれる程にはならなくて、遠出のついでにこれ幸いと夜の散歩と洒落込めば意外なものに出会ったものだ。
確か、アップライトビアノと称される類のはず。
方形のそれは足元の緑を絨毯のようにさえ見せて光の中に居たものだから、先に近寄る瞳子の背中は綾にはまるで舞台に向かうピアニストにも思われた。
とん、とぉん、と一音だけだった彼女の指が今は数小節を弾いては止まる。覚えのある曲、瞳子自身に解説してもらった曲。そして耳にするのさえ初めてである曲。新しい曲、古い曲。
天恵のような彼女の聴覚が拾い上げ磨き上げた音達。
楽しそうだと嬉しく思い、ついで立ったままの彼女の姿勢に思案する。椅子も一緒に置かれていてもおかしくはないのだけれど、本来の配置にはなっていない。
ぐるりと周囲を見回してみる。
すぐに目的のものは見つかって、位置からするとおそらくは農作業の合間の休息に使われているのではないかと思われた。つまり道具類を収めているのだろう一角にちょんと置かれていたのである。
瞳子に断って――一瞬でもきちんと声をかけるのは二人に共通した行動だ――そちらに向かう。ざくざくと意外と固い感触が足元の草から返ってくる。
「お借りします」
誰にでもなく告げてから抱えて戻る。
汚れた本体とは違って休息の度に人を乗せる椅子は、屋外ながら充分に手入れされていた。
草を踏み分けて戻る綾。
その視界の中で瞳子は、きっと本人が気付かぬ内に浮かべる類だろう微笑みを浮かべてピアノと語らって。戻って来た綾にそれが一度止まる。
あ、と慌てた様子で鍵盤の前から離れて駆け寄ってくるのを目線で制して綾は椅子を運びきるとピアノのすぐ前にと置いた。
「どなたかが休憩にでも使っておられるようですね」
「すいません……気付かなくて」
「いいえ。折角だからゆっくり聴きたい。僕がそう思ったからですよ」
相応の重量だった椅子を抱えて歩いた綾の腕は確かに少し、関節が違和感を訴えているけれど一時的なものだ。瞳子が申し訳ないと眉を下げる必要もない。
「瞳子さんの音は、聴く機会も稀ですし」
貴重です、と微笑んで促せば礼を言いながら瞳子は腰を下ろした。外灯に照らされるピアノと瞳子の黒髪。二度三度と鍵盤を叩くところまで行動を巻き戻してから彼女は綾を呼ばわった。
「綾さんも、どうぞ」
「お邪魔ではありませんか?」
「そんな、綾さんだけ立っているなんて申し訳ないです」
多少低音部が弾き辛いのではと思わせる程度に身体をずらしてスペースを作ってくれる。
「ではお言葉に甘えて」
「はい」
心持ち斜めを向いて腰掛ければ、その身体の向き以外はどこかのベンチで寛ぐのと変わらない。隣の瞳子の気配を感じながら空の色を確かめた綾の耳に、とぉん、と高い音を謳うピアノの音が瞬いた。
** *** *
夜闇が広がるのも早い時期のことだ。
じわりと裾を伸ばしたかと思えば日の鮮やかさを払い除けてしまってからどれだけ時間も経っているのか。ピアノに二人が向かったときにはかろうじて空の端に昼の名残もあったけれども。
夏を追い立てる空気が広がる中にぎこちない音が混ざりつつ溶ける。
それは瞳子の腕の先から流れ出る音色だった。
人工的な音はどこか遠く、風だとか葉擦れだとか水音だとか、そんな普段はささやかにすぎる音が代わりに補うとばかりに深く耳を探り、それにまた人の音が重なって。
親しんだ曲を幾つも短い小節で弾いていた瞳子の手。
今はただ思いつくままに音を織り上げている。唇の笑みは絶えることがない。
綾は無言のまま恋人の演奏に耳を傾けていた。手は瞳子とは対照的に一所から動く様子はなくて、当人は半ば気付き半ば気付かぬままである。
いささか遅い蝉の声がつと上がり、かと思えば恐縮した風にすぐに小さくなる。途端に瞳子の指は軽やかに跳ねて蝉を誘うように音も跳ねる。微妙に外れた音――これはつまりピアノ自体が調律からご無沙汰であったからであって、綾の隣の彼女のせいではない――さえもが馴染む曲調。
この日二人が訪れた、その為に整えられた空間で聴いたものとはまた異なる響きはなんとなし身近くて。
「綾さん?」
引き込まれる感覚で音の海に意識を遊ばせつつあった綾は、声と一緒に止まったピアノでぱちりと一度瞼を打った。瞳子の手が止まり音が一つ消えるだけで、周囲の音は違う色を見せる。
「ごめんなさい、速かったですか?」
「ああ――いえ、違います。聴き入ってしまって」
「指がお留守でしたよ」
瞳子にしては稀な、先程の音のように跳ねる印象の光を眸に乗せて彼女が咎める。無論本気の語調ではなく笑みを含んだものだ。それに綾も「すいません」と返してから「ですが」
と続ける。
「ですがやはり僕は楽器には明るくないですし、一緒に弾いて乱すのも申し訳ない気がしますよ」
言いながら指先で鍵盤を一つゆっくりと押さえて戻す。
低いながらこれも微妙にずれた音でピアノが鳴った。
「そんなことないです」
綾の音が消える前に瞳子が同じように鍵盤を一つ。
今度は高めの音が先の低音を追うようにして鳴った。
「ほら」
更に瞳子が別の音を呼ぶ。
そのまま笑って促すので綾は真面目に鍵盤を選んでまた鳴らす。
瞳子が音を誘えば綾が真似て、あるいはときに別の拍子や音階へ飛び。
「こんな風に――好きな音や聴きたい音を乗せるだけでいいんです」
何気なく鳴らした一音から派生して、それは確かに曲だった。
一音ばかりが連なるものではあったけれど、綾と瞳子が奏でている曲。
「きっと、音楽ってそういうものなんです。始まりはとても身近な、なにげない――」
言いながら綾に促す気持ちで視線を向けた瞳子は言葉を切った。
手を止めたままの綾は静かな様子で瞳子を見ている。その深い色はちょうど、ピアノの傍らに佇む木の幹近くのように濃く緑を重ねていて、外灯の光がそこに小さく映り込んでいた。言葉を、いつだって丁寧に受け止めて解きほぐしてくれる人だ。
重ねた視線を互いに計ったわけでもないが、しばらくの間を置いてからゆるゆると柔らかく綻ばせる。それからまたピアノに向かう。
「当たり前の音と向かい合ったところから始まったんじゃないかな、って」
指を、一息に鍵盤の上で滑らせる。
音が駆ける獣のように指の動きを追って湧き起こった。
綾の指がそろりと鍵盤に力を向ける。
音が湧き上がり滴りの細さになったところで彼の指が押さえた音を放す。
響く、それらはどこかで鳴らされたクラクションに重なって鋭く伸びていく――
些細な音を拾い上げて足を止めることは多かった。
それは心地良いものであったこともあるし、逆であることもあったけれど、瞳子の日常でそれらは当然のものとして他の人間よりも強く在ったのだ。
音楽に出会い、一人の指揮者が作り上げる世界を知り、そうして音というものは時を経るごとに瞳子の中で大きな位置にあるようになり――けれど、それらと日常の音とが繋がったのはいつからだろう。拾い上げる音が多過ぎて今でも人混みにいるだけで気分を悪くすることさえあるのに。音に好悪があったわけではないけれど、でも今程に周囲の音について考えるようになったのはいつからだろう。
きっと昔から小さく瞳子の中に散ってはいたのだと思うけれど。
(でも)
再度促せば傍らの人は手を広げて鍵盤の上で微かに揺らす。
どこにどの指を置いたものかと思案しているのが知れて、どこでもいいんですよ、と言えば綾は笑ってそのまま音を重ねた。音が互いのものを探る。
ゆったりと、それぞれの指が音を選んで織り上げていく空間。
ぱたぱたと跳ねる音が子供の足音だと気付く。
犬の吠え声が一緒に届いてああ散歩なんだとちらりと思う。
風が吹いて草が揺れる。水の音が立って、静まったと思えば風に沈黙した虫が賑やかに。
微かな電子音の後に人の話し声。携帯電話を片手に誰か。
控えめなブレーキ、開閉音、靴音。風が吹く。葉が揺れる。虫の歌。ピアノ、と誰かの声。
頭上の外灯がぱちりと瞬く。
一際強い風が橋を潜って鳴る。低い唸り。
(でも、出逢ってから)
あるいはそう思いたいのかもしれなかった。
綾と出逢って二人で過ごす時間。
その中で彼が示す瞳子とは異なる視点や考え方、逆に似通った感覚、それらの中に音に対しての遣り取りも幾つもあって。そして染み込んだ綾との交流の糧が瞳子の中に蒔かれた音、音楽に対しての意識を芽吹かせたのであればと。流されただとかではなく、影響を与え合う中で見出した、そんなものであればと。
だって、そうして見つけ出した夢があるのだから。
コンサートホールのように、整えられた音ではなく。
他の全てを遮断した上で奏でられる音ではなく。
今のように周囲に当たり前のように雑多な音があって、それらと当たり前のように歩み寄ることが出来て、そして寄り添っていける音。日々の中で生まれる音達――それは自然の手によるものだけではなく、人の発するものだけではなく、時として瞳子の気分を悪くさせるような音だとか例えば工事の音だとかも含めて――と一緒に存在出来るような。そういった音。
「それを見つけたいんです」
だって、音楽はコンサートホールから生まれたものじゃないと思うから。
取り出されて整えられた音楽がいけないのではないけれど、意識するまでもなく耳に入ってくるものが音であるのならば、瞳子はそこに馴染む音を作りたい。
いつか、そんな曲を作りたいと。
それは槻島綾という人と出逢ってから、新しく抱いた夢。
** *** *
気恥ずかしい素振りではにかんで、それでもしっかりとした声で瞳子が語る言葉を聞く。
綾の頬はどうしても緩みがちで、けれどついにそれを堪えるのを放棄した。だって別にこらえる必要はないのだから。
ありがとうございます、と微笑む瞳子の丁寧な言葉の中にどれだけの気持ちがあるのだろう。
自分と出逢ったことがそんな風に彼女の力になったなんて、と思えば綾こそが嬉しくてありがとうと言いたくもなる。こちらこそ、と自然に返すと瞳子は睫毛を震わせて瞬いた。明滅する灯火の下でなければ彼女の目元はきっと赤い。
調子の外れた音で歌うピアノは二人の指に朗々と応じていて、瞳子が触れて弾き始めた姿を思い出した。見かけこそ薄汚れてしまっていても、捨てられて音が外れてしまっていても、それでも鍵盤を叩けば歌うピアノ。
ステージに上がるピアニストさながらに弾く瞳子の周囲でさざめいた様々な音。
きっと、この人の作りたい音楽はこんな優しい世界なのだ。そう思った。
暗くなった空の下、橋で足を止めてこちらを見ている人がいる。
遅い散歩に出ていた犬と飼主が河原で座ってこちらを眺めている。
風に乗って車の音が大きく響いたかと思えば控えめな自転車のベル。
昼間であればまた違う音もあっただろうけれど、それらもきっと当然だとばかりに音楽に馴染んで混ざるはずだ。
虫の声や川の波音。木々の葉擦れ。青草の香りを運ぶ風。
それらと一緒に広がっていく。
車内の音、音楽。交通整理の声。慌しく走る誰かの足音。
夜も昼もなく、音が渡り出会い寄り添い混ざりまた広がって渡りゆく。
そしてまた車が止まり、ドアを開けて誰かがまた音を拾う。
ときに離れときに近付いて奏でていく小さなステージから、とても近しい音楽が生まれ出る姿を綾は眸に映すような気持ちで傍らの恋人を見た。
笑みを湛える唇が、綾を見上げて開かれる。
重ねるようにして言葉を乗せれば二人同時の音だった。
ありがとう。
鍵盤を叩く手も同時に止めればどこかからささやかな拍手。
――それも、ひとつの音。
end.
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