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CoralRain
強く雨が降り注ぐ中、アドニス・キャロルは宵の街中を歩いていく。
通りかかった店先のラジオが、台風の接近を告げていた。強くなる一方の風雨のせいか、まだ更けるには早い時間というのに、辺りは既にひと気がない。濡れたアスファルトに、ネオンの照り返しが鈍く映っていた。
見上げた空には、墨のように黒い流れが渦巻いている。うなじにはりつく、えりあしまで伸びた長めの銀髪。素肌に下げているロザリオが酷く冷たい。垂れたしずくはシャツの下の肌を滑り落ちていく――がもうすでに全身ずぶぬれで、今さらどうとも思わない。
視線を感じた。頭を巡らせてみれば、赤い傘の下からこちらをじっと見つめてくる女性と目が合った。恋人と待ち合わせなのだろうか、銅像の元に立っている彼女は、傘も持たず全身ずぶぬれで歩いているアドニスを、ぽかんとした目つきで見つめている。
悪戯心が沸いて、アドニスは片目をつむってみせた。途端に、傘の影で顔を赤くする彼女。
と、後方から待ち合わせの相手らしき男性が走ってくるのが見え、アドニスはそのまま彼女の前を通り過ぎた。しかし感じる熱い視線はしばらく背中に張り付いたままだった。
――タバコが吸いたい。
濡れ鼠のまま、アドニスは思う。
――くちびるが寂しい。
タバコの代わりにキスでなぐさめてくれる恋人は、今傍にはいないから。
今宵の逢瀬の始まりは、つい先ほどかかってきた、恋人からのコールだった。
ねぐらにしている廃墟で今日も鬱々としていたアドニスを、彼は見透かすかしていたのだろうか。あの時、恋人モーリス・ラジアルは電話の向こうで笑っていたように思える。
凛として、どこか潔癖な彼が、彼との会話の中では態度がわずかにほどける。声の語尾が少しだけ柔らかくなる。
そのほのかな甘さが、アドニスは好きだった。
『財閥所有地の一画に、私がスタッフとして参加している植物園があるのです。今晩、一緒に行きませんか?』
「……今晩? この雨の中をか。どう考えても、明日の夜明けまでは止みそうにないがな」
『今宵、手塩にかけて育ててきた、私の月下美人が咲きそうなのですよ。スタッフに言って、夜間特別に温室を開けてもらえることになりました。……私の花を、ぜひキャロルに見てもらいたい』
「……俺に?」
『ええ、貴方に』
明日は新月で、身体の調子もすこぶるいい。ましてや、恋人にそんな言葉をささやかれたら、重い体も軽くなろうというもの。
それで、車で迎えに行こうかというモーリスの誘いを断って、アドニスは「たまには迷惑をかけずに行くよ」と単身植物園へと向かうことにし――その結果が、全身ずぶぬれというわけだ。
オマケに、自分で思っていた以上に気持ちが浮き立っていたのか、夜の開園時間前に辿り着いてしまったアドニスは、門の前で開園とモーリスの到着を待つハメになってしまった。
「……仕方ないですね」
アドニスに遅れること数刻、ようやく到着したモーリスは、全身ずぶぬれのアドニスを見、慌ててタオルを車のトランクから取り出す。それでアドニスの雫をぬぐいつつ、終いには苦笑した。
「驚きました。門の前にどこか見覚えのある人が立っているなと思ったら、キャロルだったんですから。……貴方という人が、珍しいですね、今夜は」
「たまにはいいもんだ、雨の中の散歩も。モーリスもするか?」
「謹んで遠慮させていただきます」
「なんだ、相変わらずつれないな、モーリスは。……なぁ」
「なんですか、キャロル?」
「向こうから来た時、……俺がここにいること、すぐ分かったのか?」
「ええ。大分向こうから気がついていましたよ」
「……そうか」
黒っぽい服装で、周囲に埋没してしまっていたはずのアドニスを、モーリスはすぐに見つけ出したらしい。
たったそれだけの言葉で、アドニスの気持ちは再び浮上する。
拭うタオルの陰で、フッと笑みを漏らしたアドニスに気づき、モーリスはもう一度「仕方ないですね」と言った。
温室の中は蒸していた。どうやら湿度と温度は常に一定、亜熱帯に近い温度に保たれているらしい。
すぐにじわりと肌が湿っていくのを感じ、アドニスは閉口した。どちらかというと暑さには弱い方だ。
一方のモーリスはとちらりと視線を流してみれば、彼はいつものように平静な顔をしたまま。たまに立ち止まっては門外漢のアドニスに、植物の簡単な説明などをしてくれる。暑さを感じていないわけではないだろうが、それを傍に悟らせない。
さすがモーリス、汗もかかないのか――とアドニスは変なところに感心してしまった。もちろん、そんなわけはないのだけれど。
「……いや、そんなストイックなところも魅力だよな」
「この花は夏の終わりから冬に咲く花で、……キャロル? どうかしましたか」
「いいや。……で、なんだって?」
二人はところどころで立ち止まる。アドニスが色鮮やかな花や青々とした葉に目を止める度、モーリスは植物の生態について語ってくれる。
その声はいつも以上には真剣で、真摯だ。そこに不順な色など少しも滲まなくて――恐らく、仕事場ということでいつも以上に気を引き締めているのだろう。ちっとも甘い態度を見せてくれない恋人にやや焦れながらも、アドニスは案内に従って奥へと進んでいく。
そして。
「……これが月下美人?」
「ええ、ここまで大きく育てるのに3年程かかりました」
わずかに高くなった段の上にその鉢は置かれていた。こぶし大の白いつぼみが、今にもほころびそうだ。
と、静かに傍らを伺ってみれば、モーリスもまたわずかに目尻を赤く染めていた――恋人はよほど開花を楽しみにしていたらしい。
「よかった。まだ完全に開花はしていませんでしたね」
「そんなにすぐ咲くのか」
「ええ。……月下美人は大抵夜に花を咲かせ、そして日の昇る前にしぼんでしまうのです。耳を澄ますと、花びらがこすれあう音が聞こえることもあるのですが」
へぇ、とばかりにアドニスは耳を済ませてみるが、聞こえるのは温室にたたきつけられる雨音ばかり。
本当に小さな音ですから、と慰めにもならない言葉をモーリスは続けるが、実のところ彼は自分自身を励ましているのかもしれなかった。
――少しばかり、妬けるな。
「なぁモーリス」
「なんですかキャロル……ん」
隙を見つけたとばかりに、アドニスはモーリスの身体を後ろから抱きしめた。彼はびくりと身体を緊張させるが、次第に力をぬき、アドニスの胸に身を預けていく。
「まだ花が咲くまで時間があるんだろ。……だったら、俺の方見てろって」
「……珍しいですね、キャロルがそんなことを言い出すなんて」
「今日は本当に気分がいい。たまには俺から言い出してもいいだろ」
ふう、と長い息を吐き出したモーリスは、その言葉に観念したのだろう。抱き込まれた格好のまま、上を見上げる。
そこにあったのは、モーリスより身長の高い、アドニスの端正な顔。彼の切れ長の瞳は、やさしい光をたたえてモーリスを見つめている。
「気分がいいのは、月が隠れているからですか、キャロル?」
「まぁ、それもある、が」
「が?」
「モーリスの意外な一面を見れて嬉しかった、ってのもあるな」
「……本当に、今日の貴方はどうかしていますよ、キャロル」
二人はそのままずるずると床に沈んでいく。
床に座り込む体勢のまま、二人はしばらく寄り添っていた。聞こえるのは降りしきる雨の音と、そして互いの息遣いと鼓動。
と、モーリスが囁く。
「……月下美人は」
「ん?」
「開花の時、とても強い香りを放ちます。その香りで、花が咲いてる事に人は気付くのです。それはとても濃密な香りで……太古の昔から、誰をも引き付けて止みません」
「じゃあきっと、俺は今晩その香りに酔ってるんだな」
「……キャロル、まだ花は咲いていませんよ」
「でももうすぐ咲くんだろ?」
くすくすと、二人は近い位置で笑いあう。
ふとアドニスは花を見た。
温室の奥で、いま一人孤高に咲こうとしている月下の女王。彼女のまとう、純白で気高い雰囲気が、少しモーリスに似ていると思った。
――どんなに強く抱きしめても、凛とした芯は決して崩れない、強いひと。
弱い俺を常に支えてくれる、愛しい存在。
ぬるい空気に、甘い香りが漂い始めた。徐々に濃密になっていく空気に、二人は静かに溺れていく。
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