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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


ヌイグルマー

 ある朝、書目皆(しょもくかい)がなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中でプリティーな熊のヌイグルミに変わっているのを発見した。
「おお。」
 思わずカフカを引用しながら書目はちょっぴり驚いた。
 まあ、なってしまったものは仕方がない。妙に冷静な気分で、書目は事態を確かめようとした。まず、フェルト製の爪に力を込める。ぴくりと動く。原理は分からないが、ヌイグルミの体でも動くことはできるらしい。もちろん、関節もろくに曲がらないし、全身に麻痺したような感覚があるのだが。
 ようやく身をよじる程度のことができるようになると、書目は中綿を引きつらせながら部屋を見回した。
 確かにここは自分の寝室だった。朝日がほとんど入ってこない北向きの窓も、畳部屋にしきっぱなしの煎餅布団も、積み重なったホコリだらけの本の山、ちゃぶ台の上のメガネまで、どれも見覚えのあるものばかり。結局、異変を起こしたのは自分一人らしい。現に書目だってそこに立っているし……
「あれ!? なんで僕が!?」
「あー、う、いー……」
 寝間着姿の『書目』……というか『書目』の体は、象かカメみたいなノソノソした動きで、書目を……ヌイグルミのほうの書目を……ひょいと抱き上げた。『書目』とヌイグルミの書目がしばし見つめあった後、『書目』は書目を布団にそっと寝かせ……
「ややこしいなあ……」
 書目はうんざりした。頭がすっかり混乱してしまっている。
「かー、か……か……」
 まさに「ひねり出す」といった感じで、『書目』は必死に言葉を紡ぐ。
「かり……る」
 借りる?
 それだけ言うと、『書目』はふらつきながら、部屋の外へ飛び出していった。その拍子にハードカバーに蹴っつまづいて、本の山を突き崩し、大量のホコリを戦場の噴煙さながらに撒き散らす。
 と、そこで書目ははたと気付いた。
「あのー、眼鏡忘れてますよー」
 どんっ! がらどががらがん!
 ……ぐきっ。
 時既に遅し。ものすごく嫌な音がした。
「死んでんでないよねえ……」
 溜息吐きながら書目はゆだった頭を冷やしていく。
 とにかく、このヌイグルミの体のまま一生を送るのはゴメンだ。なにしろ、こんな小さな体では本が読みにくいじゃないか。あと、本棚の高いところに手が届かなくなるし。せっかく地下店舗の管理を任せて貰えるようになったところなのに。
「落ち着け、落ち着けよ僕……そうだ、まず順番に思い出してみよう。そもそも事の始まりは……」

 ドアを閉めるなり、雨音は急に遠くなる。
 昨日の夕暮れ時のことだった。
 その店の雰囲気は、書目が勤める古書店「書目」によく似ていた。だが置かれている商品は、それよりはるかに異様だった。
 漆の塗られた古木の香り。虚ろな目で空を見つめる人形。毛羽だった熊のヌイグルミ。煌びやかに輝く銀の装飾品……どれもこれも、珍しくて、そして気味の悪いアンティークばかりだ。
 大口をぽかんと開けて店の中を見回しながら、書目はカウンターにクロウリーの初版をそっと載せた。貴重な本である。この雨の中配達するのは気が進まなかったが、お得意様のたっての希望とあっては仕方がない。
「配達ご苦労さん。先に中身を確かめさせてもらうよ」
 そのお得意様、アンティークショップ・レンの主、碧摩蓮が色っぽい声を挙げた。籐で編んだ椅子の上で脚を組み、チャイナドレスの裾から太股をちらりと覗かせている。
 内心どぎまぎしているのを必死に押さえながら、書目はかすかに上擦った声で応える。
「どうぞ、確かめてみてください」
「悪いね、そう時間は取らせないよ。そこの椅子にでもかけて待っとくれ」
「どうも……」
 と、書目が指さされた方を向くと、そこには中世ヨーロッパの王様が座る玉座のような椅子が、他の品々に埋もれるようにして鎮座していた。あっちこっちにちりばめられた宝石に、高そうな天鵞絨貼りの皮……装飾も豪華だ。一体いくらくらいするものなのだろうか。
「あの。これって商品なんじゃ?」
「そうさ。十字軍初期のころ、座した諸侯を悉く死に追いやったという、呪いの玉座さね」
「んなもんに座らせないでください。」
 書目の抗議も、もう碧摩には聞こえない。彼女は半ば放心状態で魔道書に没頭している。あの様子では、頭上で核爆発が起きたって、気にせずページをめくり続けることだろう。
 仕方がないので、書目は妖しいアンティークショップの中を見物して回ることにした。
 じっと息をひそめる巨木の森のような書店もいいが、この華やかなアンティークショップも悪くない。イメージは、そう……無秩序に色んな花の咲き乱れる花壇。
 さっきの椅子や、この古時計のように、圧倒的な存在感を放つ大物もある。手のひらに乗るようなオルゴールや、虫眼鏡がないと見えないようなビーズもある。真紅、ブルー、漆黒、白亜……書目の想像しうるあらゆる色たちが、不思議なマーブル模様を描きながら、温かいオレンジ色の照明に照らされて、密やかに囁きあっているかのよう。
 ぞくり、と僕は身震いした。
 その時、手元に柔らかい感触が走った。指先が陳列されていた熊のヌイグルミに触れていた。
 テディベアみたいな、本格的なやつじゃない。デパートの玩具売り場に行けば千円二千円で売っているような、安物のヌイグルミ。大の字に手足を広げて、首も胴体にめり込んで、人形というよりはクッションみたいなフォルムだ。
 そいつが、黒いビーズの瞳で、書目をじっと見つめていた。
「書目の兄さん。済んだよ……?」
 何かな、この感覚……
 何も見えなくなる。雪に閉ざされた深山に、一人取り残されたよう。
 指がかじかんで……
 動か
「あんた!」
 書目は弾かれたように顔を上げた。
 気が付けば、すぐ隣に目の覚めるような真紅の髪が揺れていた。碧摩だった。本当に目が覚めたような気さえする。
 一体いつの間に? 書目の腕を碧摩が握りしめていた。その衝撃で反射的に指を緩めてしまったのだろうか。あの熊のヌイグルミは、書目の脚に寄りかかるようにして、仰向けに床に転がっている。
「……大丈夫かい?」
「え? ……あ。すいません、商品落としちゃって……」
「……………」
 碧摩は何も言わなかった。ただ、怖い目で書目の方を睨んでいる。
(うーん。怒ってるのかなー)
 書目は熊のヌイグルミを拾い上げ、丁寧に埃を払って陳列棚にそっと戻した。
「あのー、どうでした? 本は」
「思った通りのいい品だ。頂くとするよ」
「お買い上げありがとうございまーす」
 ぺこり、とお辞儀する書目を置いて、碧摩はカウンターの方に戻っていく。
 だが書目は、商売が成立したという嬉しさよりも、さっきのヌイグルミの方に心を奪われていた。何となく、陳列棚の熊が気になって仕方なかった。ちらり、と碧摩の方に目をやる。気付いては……いない。
 書目はそっと、熊のヌイグルミを胸に抱きかかえた。
「あの、碧摩さん」
「金ならいらないよ」
 ひた、と足を止めて碧摩が言う。
 まだ、何も言ってはいないのに。
「本の代金の一部ってことにしとくよ。持っていきな」
 何か不気味だった。このヌイグルミが欲しかったのは事実だ。事実であるだけに……
 それでも書目は、何かに引き寄せられるかのように、そのヌイグルミを貰って帰ることにした。
 ただ、一つ気になったのは――
 代金を受けとって店を出る時、碧摩がぽつりと呟いた言葉。
「これも何かの縁……かね」

「気付けよ僕ぅううううううううう! 思いっきりアヤシイじゃないかぁぁぁぁぁ!!」
 中綿をボヨボヨ揺らして叫ぶも、もはや後の祭りである。
 つまり、こういうことなのだ。
 書目は「呪いの」ヌイグルミを手に入れてしまった。眠っている間にそのヌイグルミと書目の魂が入れ替わり、ヌイグルミは書目の体を使って逃亡。そして書目は煎餅布団の上でフェルトの爪をぴくぴくさせている。
「こうしちゃいられない! 僕の体を取り戻さなきゃ!」
 一念発起、書目はぴょこんと起きあがった。麻痺していたヌイグルミの体に魂がなじんできたのだろうか、かなり自由に体を動かせるようになっている。それを幸い、畳の上に転がっていたナップサックを引きずってくると、中に必要そうなものを放り込み、紐を体に固く結わえ付けた。
 ヌイグルミの体にはちと大きいが、仕方がない。
「向こうも体の自由がきくようになるには時間がかかるはず……まだ遠くへは行ってない! 急げーっ!」
 短い手足をばたつかせ、書目は部屋を飛び出した。

 二本脚で歩くというのは至難の業である。
 熊のヌイグルミのクーちゃんは、身を以てそのことを実感していた。彼はヌイグルミとして長年人間を見てきたが、誰も彼もいとも簡単に歩いていたのは、今となっては驚愕に値する。自分も人間の体さえ手に入れれば、あんなふうに俊敏に歩けるのだとばかり思っていたのに。
 仕方がないので、クーちゃんは四つんばいになり、獣のように臭いを嗅ぎながら、表通りを進んでいた。
 車も走る広い通りである。あちらこちらにある水たまりをものともせず、歩道に這いつくばるクーちゃんの姿は、さぞかし異様だったに違いない。
 集まる集まる、暇な野次馬たち。もう十重二十重にクーちゃんを取り囲み、人垣を作ってしまっている。
「……やっば」
 書目がクーちゃんを発見したのは、そんな時だった。
 通りの騒ぎを聞きつけて、物陰からそっと表通りを覗き込めば、この有様。
 非常にマズい。人垣の中からは、「アレって書目さんちの皆くんじゃ……」などという声が聞こえてくる。顔見知りのご近所様がやまほどいるこの界隈で、あんな奇行をされては明日から街を歩けなくなる。
「カンベンしてよぉ……早く止めさせなきゃ!」
 書目は一気に物陰から飛び出すと、車の途切れた隙を見計らい、一気に道路を横断する。歩道にできた人垣もものともしない。小さな体を幸い、足下を縫うように駆け抜ける。
「見つけたーっ!」
 書目の叫びに、
「げっ」
 クーちゃんが青ざめる。
 慌てて逃げようとするクーちゃんだが、四つんばいの姿勢からそう俊敏に逃げられるはずもない。モタモタしている隙に書目はクーちゃんの背に飛びかかり、フェルトの爪をしっかりシャツに食い込ませてしがみついた。
「やめろっ、放せっ!」
「いーやーでーすー!」
 組み合ったまま暴れる二人。と、そのとき。
「ぬ……ヌイグルミが喋ってる……?」
 はっ!
 書目ははたと気が付いた。よくよく考えてみれば、奇行をしている人間と、動いて喋るヌイグルミなら、きっと後者のほうが異様に見えるに違いない。下手をすれば……
 新保町の怪奇! 生きたヌイグルミを捕獲!
 →専門家による調査開始
  →解剖
   →飛び散る中綿
    →ギャアァァァァァ……(SE)
「ひー!」
 書目は震え上がった。慌てて周囲を見回せば、化け物を見るようなめで自分を見つめるご近所様方の姿。
「え、えーと、えーと、その……」
 書目の頭部の中綿が、フル回転で言い訳の言葉を探し……
「コ、コレハ腹話術デス! 上手デショ!!」
 もう少しマシな言い訳ないのか。と書目は自分でツッコミ入れた。
「くっそお!」
 いきなりガクンと書目の体が震える。気合い一発、クーちゃんが四つ足で走り出したのである。振り落とされそうになりながらも、書目は短い手でしっかとシャツの裾を握って放さない。
 書目は内心ほっとした。とにかくこれで、野次馬からは逃れられる。
 あとでフォローするのが大変そうではあるが……

 神田の街をクーちゃんは縦横無尽に駆け回る。
 書目だって、いつまでも振り回されてばかりではいられない。必死にクーちゃんの背中によじ登り、その首の辺りを捕まえて、まずは振り落とされないようしっかり体を固定する。
 とにかく説得工作あるのみである。
「あのーっ! 僕の体! 返してくださいよ!」
「イヤだ! さっさと離れろ!」
「なんか喋るの上手になりましたね」
「えーいうるさーい!」
 水たまりの水を撒き散らしながら、クーちゃんが突如停止する。その勢いで放り出されそうになるも、なんとか書目は踏みとどまる。ここで放されては、今度また捕まられる保証はどこにもないのだ。絶対に離れるわけにはいかない。
「俺は……俺は、ミヨちゃんに会いに行くのだ! その為には体がいるんだーっ!」
 書目が落ちないと悟ると、再び駆け出すクーちゃん。大した速度ではないはずだが、体が縮めば、それに反比例して体感速度も速くなる。猛烈な風圧が書目を襲う。だが風などに負けてはいられない。
「ミヨちゃん? あなたの持ち主ですか? なら場所教えてくれれば僕が連れてってあげますから! だから体返して? ねっ?」
「場所が分かれば苦労はせんっ!」
「へ?」
「俺はその……気が付いたらゴミ捨て場にいて……その……」
「ははあ。要するに捨てられたんですね」
 ぶちっ。
 クーちゃんの怒る音が聞こえたような気がした。
「ちがーう! 俺は捨てられたんじゃないっ! ちょっとゴミ捨て場に置かれたままうっかり忘れられただけだっ!!」
 ……往生際の悪いヌイグルミである。
 裏通りを訳も分からず駆け回り、とうとう神田川沿いの道まで出てきてしまった。秋の並木にさやさやと流れる川、優雅な風景だがそれを楽しんでいる余裕もない。
「とにかくお前の体が……あっ」
 突如クーちゃんが停止する。
 何事かと警戒し、書目がぎゅっとシャツを握る爪に力を込めると、クーちゃんの長い腕がにゅっと背中の側に伸びてきた。
 手を使えばいいことに気が付いたか!
 人間の手の力で捕まれては、ヌイグルミの書目にはもう何も出来ない。為す術もなく引きはがされ、書目は道に放り捨てられた。道の水たまりに落ちた書目は、バシャッと大きく水を跳ね上げ、そのまま動かなくなる。
「すまん……体はそのうち返す」
 最後に一言、言葉を残し、クーちゃんは不器用な四つんばいで走っていった。
「う、うーん……」
 呻きながら書目は起きあがり、クーちゃんの後を追おうと体に力を込める。が、体が思うように動かない。書目はそこで初めて体の異変に気付いた。全身が鉛のように重い。原因は……水。水たまりの水を吸い込んで、中綿が重くなってしまっている。
「しまったあっ……う、動けないーっ」
 と。
 重苦しい重低音が、書目の背を襲った。
 振り返れば、書目目がけて全速力で走ってくる、軽トラックの姿。
「!!」
 書目の全身に戦慄が走った。まずい! 運転手から見れば、道に転がっているのはただのヌイグルミである。避けるどころか、ブレーキを踏みさえしないだろう。このまま全速力で突っ込んでくる!
「に、逃げなきゃっ……」
 しかし体が……
「やば……やばいやばいっ!」
 動かない。
「た、助けてーっ!」
 瞬時――
 猛然と駆けてきた黒い影が、トラックの前を矢のように横切った。運転手は慌ててブレーキを踏み、車を止めて恐る恐る外の様子をうかがう。
 が……その時には既に、ヌイグルミの姿も、あの黒い影の姿も残されてはいなかった。

 ざばっ。
 その少し後、神田川の河岸へ、やっとの思いで泳ぎ着いた一人の男がいた。
 クーちゃんである。その手には、ずぶ濡れになった熊のヌイグルミ……書目。
「バカ、だな、あ、もう……」
 息も絶え絶えになりながら、書目は河岸にぐったりと仰向けになる。
「ほっと、けば、逃げ、られたのにっ……」
「うる……せえ……はーっ、はあ……」
 書目が轢かれそうになっていると気付いたクーちゃんは、慌てて駆け戻り、道から書目を拾い上げ、そのままの勢いで道沿いの神田川に落ちてしまったのだった。
 おかげで二人ともずぶ濡れの、擦り傷だらけである。とりあえず書目のほうは、体を脱水しないことには動けそうもない。
「とにかく、ミヨちゃんって人探すの、手伝いますから。あなただけじゃ、どうにもならないでしょ?」
「……」
「体を返すのは、その人を見つけた後でいいですよ」
「……お人好しめ」
 ずるり、と川から這いだして、クーちゃんもまた、書目の隣に寝転がる。
「人のこと言えないでしょ」
 書目が笑いながら言うと、クーちゃんはごろりと寝返りを打った。

 東京都内某所、草間興信所――
 相変わらずゴミ溜めのような部屋の奥で、ソファにぐったりと座り込んだ草間武彦は、ぼりぼり頭を掻きむしった。正面には、並んでちょこんと腰掛ける、書目とクーちゃんの姿。
 クーちゃんが辛うじて覚えていたのは、ミヨちゃんという名前、彼女が大きなお屋敷に住んでいたということ、庭に咲く桜の花……たったそれだけである。それだけで、持ち主の女の子を捜したいという。
「また面倒を持ち込みやがって……この忙しい時に……」
 ぶつぶつ言いながらも、武彦は立ち上がった。
「悪いが手伝ってやる暇はねえ。資料を貸すだけだぞ……資料は後で返しに来いよ、貴重なモンなんだからな」
 要するに、見つからなかったらまた来いということだ。後ろで妹の零がくすくす笑っている。
 草間武彦は、そういう男である。

 武彦から借りた資料を手がかりに、二人は東京中を駆け回った。
 だが見つからない。
 それらしい屋敷、桜の木……乏しい手がかりを元に、この広い東京の中からたった一人の人間を見つけ出すというのは、並大抵のことではない。新たな手がかりが一つも見つからないまま、資料の残りページは着実に減っていく。
 徒労感が徐々に募り、それが無視できないほど大きくなって……

 二人は、バス停のベンチに力なく腰掛けていた。
 といっても、座っているのはクーちゃんだけ。書目はナップサックの中に首まですっぽり収まって、彼の背に背負われている。これなら……まあ、多少変な目で見られることはあるが、少なくともヌイグルミの姿で歩き回るよりは目立たない。それに、こっそりクーちゃんに耳打ちするにも便利な体勢だ。
 そのクーちゃんはと言えば、太い木の枝の即席杖を、カランとベンチに放り投げる。
「……もう、ダメかもしれんな」
「いきなり何言い出すんですか」
 だが、クーちゃんは虚しい目で空を仰ぎ見るばかりだった。
「本当は分かってるんだ。俺は捨てられたんだ、ってな……
 でも認めたくなかった……自分が必要なくなったなんて……そんなこと思いたくはなかった」
 きゅっ、と書目は人知れず、フェルトの爪を握りしめた。
「一目あの子に会えたら……諦めがつくと思ったんだ。もう誰にも必要とされない、ということに――」
「僕、実家の古書店に勤めてるんですけどね」
 不意に書目が声を挙げる。
 クーちゃんは目を丸くして、後ろを振り返った。背負ったナップサックが、そんなことで見えるはずはないのだが。
「本っていうのは不思議なものなんです。誰かが買って、読み終わり、必要なくなっても……そこで本の人生は終わらない。うちのような店に持ち込まれて、また、別の誰かに見初められる。
 そしてね、本は少しずつ形を変えていくんです。印刷されたものが全てじゃない。書き込みや、汚れ。挟まれたまま忘れ去られたしおり、メモ……古くなったインクの臭い。それらも本の一部。古書の魅力そのもの……なんですよね」
 黙ってクーちゃんは話を聞いていた。秋風が、さあっ……と音を立てて吹き抜けた。
「でもそれって、本に限らないと思いませんか? 何だって、誰だってそう……
 永遠に続くものなんてないんだから。どこかから、だれかから、離れなければならなくなっても、そこで終わるわけじゃない。形を変えて進んでいけばいい。
 誰にも必要とされないものなんて、この世にないんですよ」
 バスが到着した。
 ドアが開き、二人が乗り込むのを待っている。少しの間。運転手がイライラしているのが、外からでも分かった。
 どうするんだ? クーちゃんは己に問いかける。
 このバスに乗って、次の場所へ進むのか?
 それともドアが閉じるのを待っているのか――
 その手が転がった杖を握りしめる。
 クーちゃんは杖を突いて立ち上がった。
「そうこなくっちゃ」
 彼の背中で、書目がうん、と頷いた。

「これが……最後の一つ、ですね」
 長い坂道の下で、書目はぽつりと呟いた。
 武彦から借りた資料に載っている、最後の場所。これでダメなら、また一から手がかりを探さなければならない。祈るような気持ちで、二人は坂道を登っていった。
 夏の盛りに比べれば、街路樹の緑も色あせたようだった。落ち着いた秋の色に染まりつつある街。昨日の雨が、空の塵を洗い流してくれたのか。澄み切った夕日が、背に染みていく。温かい、オレンジの光。
「……知ってるぞ」
「え?」
 クーちゃんが声を挙げる。
「知ってる! この道、知ってるぞ!」
 言うなりクーちゃんは駆け出した。杖を突き、ままならない体で、必死に坂道を駆け上った。心臓が割れそうなほど強く脈打つ。こんな感覚初めてだった。ずっとヌイグルミとして生きてきて、動くことすら出来ず生きてきて、今彼は、生まれて初めて自分の脚で目指している。
 ずっと焦がれていた――
 あの人に、会うために。
 永久に続くかに思われた坂を、一足で登り切り、
 二人は、目にした。
 丘の上に、緑溢れる広場があった。公園だろうか。まだ夏色を留めた下生えの中に、青いベンチがいくつか。嬌声を上げて、子供が二人、矢のように駆け抜けていく。秋風と、夕日の光が、クーちゃんと書目の背中を、そっと押した。
 広場の真ん中に佇む、立派な葉桜に向かって。
「あ……」
 クーちゃんは呆然と、声にならない声を挙げた。
「まさか、もう……」
 書目が震える声で呟いた、そのとき。
 突然視界が暗転した。気が付けば、目の前に見たこともない豪華な作りの屋敷がそびえ立っていた。瞬き一つすれば、その中の一室、少女の寝室へと場面が移る。場面。そう、まるで映画か何かを見ているように、目の前に、知らない光景が広がっていく。
「ミヨ……ちゃん……」
 クーちゃんが呟きながら、一歩、歩み寄る。
 ベッドの上に、一人の少女が眠っていた。
 その小さな手に、可愛い熊のヌイグルミを抱きしめて。
 少女のベッドを取り囲む、何人もの大人達。その内の一人……医者らしい白衣を着た男が、立派な口ひげを生やした男に向かって、小さく、首を横に振る。その途端、低いすすり泣きが、部屋中を満たし――
「そっか……」
 クーちゃんの背中に負われたまま、書目がぽつりと呟いた。
「だから言ったじゃないですか……誰にも必要とされないものなんかない」
 クーちゃんはそっと、目を閉じる。
「あなたは最後まで、必要とされてたんですよ――」

 ざぁっ。
 風が吹き抜けた。
 書目皆が眼をさますと、彼は桜の木の下で、元の自分の体に戻っていた。
「あ、あれ?」
 夢でも、見ていたのだろうか?
 背中に当たる柔らかい感覚。書目はナップサックを降ろし、その中身を取り出した。さっきまで確かに自分の体だった、汚れた熊のヌイグルミ。黒いビーズの瞳をじっと見つめる。
 そうだよね、夢なんかじゃない。
(ありがとう……)
 風が囁いている。
(俺は、幸せ者だと……やっと――)
 微笑みが、書目の胸の奥から沸いて出た。
「さぁて……とっ」
 どうするかな、このヌイグルミ。熊のクーちゃん。
「うちに来る?」
 ヌイグルミが頷いたかどうかは知らない。でも分かった。
 ヌイグルミをナップサックに収めると、書目はそれを背負い、歩き出す。
 遥かな坂道の下。
 家族の待つ、神田の古書店街へと――

(終)



◆登場人物◆
6678 書目・皆(しょもく・かい)
(敬称略、受注順)

◆ライター通信◆
 お仕事二回目ー!
 大苦戦でした。原稿用紙にしますと、完成原稿が約35枚! ボツ原稿が40枚以上! ボツった方が多いのかよ。と自分でツッコミを入れたくなる感じです。
 おかげで時間も掛かってしまいまして、お待たせして申し訳ありません。でも今回ほど納期があって良かったと思ったこともありません。納期がない、普段書いてる趣味の小説だったら、多分途中で投げてたヨ……
 そんなわけで苦労して書いた物ですので、気に入っていただけるか、とても不安でもあり、楽しみでもあります。お気に召しましたら、また次の機会にも、是非ご参加くださいませ。