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〜旭落ち、朝日、昇らじ
風が、随分と優しくなった晩夏。
いや、もう初秋になろうとしているのか。
折からの小雨が止んだ事を感じた月子は、大きく窓を開け放った。
わずかに湿った涼風が頬を撫で、虫達の鈴音が運ばれてくる。
何とも言えぬ、秋の風情。
「過ごしやすくなってきた、って事かな……」
口では至って散文的に、月子はそう呟くと床に入った。
月を覆う雲は、晴れぬまま。
目を伏せると、やがて睡魔より早く、微かな雨音が月子の神経に触れてきた。
それに応じて、虫達の声も潮引くように消えていく。
少しだけそれを残念に思いながら、月子の意識はゆっくりと眠りの園へと運ばれていった――――
「……き様?山吹様――――」
篠突く雨に気を取られていたのか。
ふと気が付けば、女房の心配そうな視線が、やや遠慮がちに注がれていた。
「どうか、しました?」
わずかに重い頭を振り、向き直る。
「ああ、いえ。その……あまり外の風に当たられますと、お体に障られるかと……」
ややまごついた、しかし心底から心配そうな表情に、意識せずに表情が緩んだ。
「大丈夫です……少しくらいは、ね」
そう言って下がらせると、視線は自然と外へと泳ぐ。
春とはいえ、暖かくなるのはまだ少し先のこと。
屋内にいるのならともかく――――
知れず、溜息が出る。
漫然としていれば、脳裏に浮かぶのは京を落ち延びていった、荒々しくも力強い背中。
そしてそれに付き従う、生命力に溢れた姫武者。
「旭将軍」と謳われた名将を総領に戴き、京を平氏の手から奪回した木曽源氏だったが、今や太陽は、ハッキリと落日の中にあった。
戦のことなど素人の女御にも、察することが出来たのだ。
京を出る時、夫もその傍らにあった姫武者も、それが分からなかったはずはない。
背中を追うことは、山吹自身の体が許さなかった。
ここしばらく、山吹の病んだ身体は床から出られる事すら稀であった。
彼女にはもはや刀を振るうどころか、一緒に歩く力すら不足していたのだ。
己の無力を、口には出せなかった。
出せば、夫は必ず無骨に、不器用に、しかし精一杯の優しさでそれを否定しただろう。
しかし、それは結局、最愛の夫を困らせるだけの事にしかならない。
だからあの日、簡潔な挨拶と共に背を向けた戦装束のあの人に、山吹は一言。
「行ってらっしゃいませ」
そう、言っただけだった。
敢えて戦場に連れて行く事をせず、生き残る事を願ったのが男の優しさ。
それが分かったから、山吹は語る事をしなかった。
これまでずっとそうしてきたように、あの背中を見送るだけであったのだ。
けれど、それは正しかったのか。
最後のひとときくらい、自分の思いの丈をぶつけ、泣いて縋っても良かったのではないか。
しかし、そうすれば彼には二度と会えぬと、自分で認めてしまう事になる。
堂々巡りの思索に囚われたまま、床の中の山吹は再び溜息をつく。
歌を詠もうか、などと考えもしたが、その気も一向に湧いて来はしなかった。
ふと、雨中の静かな寺の中に、足音が響いた。
「山吹様!総領が、総領様が――――!」
聞いた瞬間、山吹は全身が沸騰する音を聞いた。
病など、己の身など。
顧みる余裕など、ありはなかった。
旭将軍、敗死――――。
その、山吹自身の死刑宣告とも取れる言葉を聞いたのは、大津・秋岸寺の床の上だった。
思い通りにならぬ身を押し、旅を繰り返した山吹の身体は、その時点で完全に力を失ってしまっていた。
軽く咳き込むと、紅いものが混じる。
白雪に染まる庭と視界で合わさり、それは一際鮮やかに、儚く映った。
「あ……っ……」
一度溢れた涙は、止まらなかった。
激情が胸を突く。
名を呼んでも、どれほどの想いを込めても。
もう、あの太陽のような笑顔が山吹に向けられる事はないのだ。
袷の胸元を握りしめ、身を震わせる山吹の視界の向こうで、溶け損なったまま松の枝に積もっていた雪が、音を立てて地に落ちた。
「――――……うわ」
ゆっくりと意識を取り戻した月子は、不機嫌そうに上体を起こした。
周囲は、まだ暗い。
身体がわずかに汗ばんで、気分はあまりよろしくなかった。
何か、ひどく辛い、哀しい夢を見ていた気がする。
軽く、乱れた髪をかき上げて思い出そうとしたが、手の平に乗せた砂のように、それはこぼれ落ちて記憶の奥底へと消えてしまった。
「ちぇっ、何が何だか……」
言い差して、月子は目尻に手をやった。
静かに流れていたのは、涙。
何故か、胸が締め付けられた気がして、袷の胸元を握りしめる。
空は徐々に紫を帯び、夜明けが始まろうとしていた。
旭が昇る。
何故かは分からない。
しかし、今日の朝日は一際強く、月子の心まで照り焦がすように輝いている気がした。
「さて、と!」
今日もまた、一日が始まる。
自然とほころんだ顔を力強く引き締めて、月子は布団を跳ね上げた。
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