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迷想館の午後 -A Perfect Day for Sweet-
雲はうろこ。木々は秋色。
芸術をするにはもってこいの季節。
それから、ふらりと散歩に出かけて、寄り道したりうっかり道に迷ったりしてみるにも、秋はうってつけ。
今日も例外なく、ふらりと出かけて道に迷った人物がここに一人。
「迷子には、出逢いがあるのです」
ある意味『迷子』も特技の一つに数えられるマリオン・バーガンディは、知らない場所に出て困るどころか、むしろそんな状況を楽しんでいるかの様子で、のほほんと独り言。
陽射しはさほど強くなく、微風が冷気を孕んで心地良い、秋のはじめ。散歩日和の午後。
色の入った眼鏡と仕立ての良い茶系のスーツといういつものスタイルで出かけたマリオンは、行きつけの骨董品店を覗いたり、路地裏からひょこっと現れた猫を追いかけたり、見慣れない小道に入ってみたりしているうちに、どんどん出発地点から半径を広げていき、気がつくと知らない街にいた。トンネルを抜けるとそこは見知らぬ街だった、というくらい見事に、気がつくと知らない場所にいたのであった。
さて。と足を止め、マリオンはしげしげと辺りを観察した。観察というよりは鑑賞が近いかもしれない。マリオンは、芸術家が風景画を眺めるときのように、はじめは全体像を捉え、次に世界を構成する要素を一つずつ確かめていく。
なだらかな丘陵地帯になっており、マリオンが今いる頂点から、一望の下に街を見下ろすことができた。体力のないマリオンにとってはいくらかきつい坂道だった。中世の城が城壁内の町々を見下ろすような具合で、赤茶けた屋根の大きな屋敷が、太古の昔からそこにあったように、堂々と建っている。どのくらい大きいかというと、ぱっと見、規模がわからないくらいだった。屋根の上で風見鶏がくるくる回っており、まるで神戸の異人館みたいだった。
「ふむ? これが噂の麻生邸とやらかしら」
マリオンの主ほどの資産家ではないが、日々芸術と学問に浸って生きていくくらいはわけのないお金持ち。当代は道楽好きの好々爺――マリオンは、風の噂を頭の中で反芻した。
ぐるりと館の周りを一周してみることにし、マリオンは左側に回り込んだ。と。
犬の散歩をしているのでもない限り、気づかずに通りすぎてしまいそうな、小さな古ぼけた立て看板が出ていた。
『迷想館』、と読める。
マリオンはくんくんと鼻を鳴らした。むむ、これは上質な紅茶の香り。
「ははあ、道楽爺さんの喫茶店って、ここのことみたいですね」
上質な紅茶があるなら、美味しいスウィートもあるのに決まっている。なぜなら美味しいお茶と美味しいお菓子はいつもセットなのだ!
そんなわけで、マリオンはご機嫌の体で迷想館の扉を開けた。
こんな怪しげな名前の、ぼけぼけした喫茶店、普通の人間なら足を踏み込むのも躊躇いそうなものだが、もちろんそんなことを気にかけるマリオンではない。
「こんにちはぁ」
屋敷の一部を改装して作ったらしい、小ぢんまりとした喫茶店だった。一歩足を踏み入れるなり、紅茶の香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。店内にはバッハの鍵盤曲が流れていた。
人気はない。お休みかしら、と店の中をきょろきょろ見回していると、
「いらっしゃいませ」
奥のほうから人の声が聞こえた。間もなく声の主が姿を現した。
「やあ、申し訳御座いません。平日のこの時間にお客さんなんて滅多にいらっしゃらないものですから……」
暗に仕事サボってました、言いつつやって来た店員は、(外見年齢上は)マリオンとそう年の変わらない青年だった。こざっぱりした髪型と身なりに、人の良さそうなすっきりとした顔立ち。間違いなく初対面で好印象は受けるのだけれども、無特徴といえば無特徴な人物だった。
「ここ、麻生さんのお屋敷でしょう?」
「そうですよ。祖父に御用でしたか?」
「ううん、道に迷ったの。折角だから美味しい紅茶とスウィートでもいただいていこうかと思って」
「それでしたら、どうぞ、お好きな席におかけ下さい」
マリオンは青年の勧めに従って、窓際の南を向いた席を選んだ。屋敷の一番良い場所を惜しげもなく改装してしまったのか、窓から見える景色は、都内にありながら絶景の一言に尽きた。模型のような街は、ぐるりを緑に囲まれていた。
「それにしても、迷ってこちらへいらっしゃったなんて、申し合わせたようですね」
店員の青年は、お冷のグラスと、『迷想館』の刻印が入った革張りのメニューをマリオンのテーブルに置いた。
「本当にねぇ。私の迷子は、言ってしまえば趣味みたいなものなのですけれど、趣味で迷っている人がこんなところにもいたのね」
「はぁ、僕の趣味ではなく、祖父の――つまり店長の趣味なんですけど」
「素敵な趣味だと思う」
メニューを広げると、ドリンクの欄には様々な種類の紅茶が、スウィートの欄には、小難しい(しかしマリオンにとっては馴染み深い)横文字が細々と並んでいるのだった。
「わぁ、凄い。このメニュー」
これ全部食べられるかしら、と頭の中でさっと勘定するマリオンである。
「何かお好みのものがありましたらご注文下さい。少々時間はかかりますが」
「時間に余裕のない人は、迷って喫茶店に来たりしないものだから、大丈夫。それより質が大事だと思うのです」
「ええ、まったく」
青年はほっとしたように笑った。
マリオンはとりあえず紅茶を注文すると、スウィート欄と睨めっこを開始した。
こうも美味しそうな甘味類が揃っていると、何を頼んだものやら……季節のデザート、モンブラン。スウィートポテトや洋梨ゼリーも捨てがたいけれど……、むむ、チョコレートムース! ザッハトルテ! やっぱりチョコレートに勝るものなし、か……!
「紅茶をお持ちしました。……あのう、お決まりになりました……?」
マリオンがあまり真剣な顔つきでメニューを睨んでいたせいか、店員の青年は、おずおずとマリオンの顔を覗き込むように言った。
「うううん、さながら荒野のイエスのように誘惑が多いのですけれど、チョコレートムースとザッハトルテは捨てられません。でも秋のメニューは、秋に食べるべきだと思うのです」
「そうですね、洋梨でしたら山形から直送で良いものが入っていますよ」
「というわけで」
マリオンは、ぱたんとメニューを閉じた。
「洋梨ゼリー、と」青年はメモに書きつける。
「と、チョコレートムースとザッハトルテ!」
「はあ、三つですか?」
「そう、三つ」
「かしこまりました」
青年は特に驚いた風でもなく注文を聞き届けると、奥へ引っ込んだ。
マリオンはメニューから店内へと視線を移した。ボックス席が二つ、テーブルが四つ。テーブルの数に対して空間は広く取ってあるので、小ぢんまりしているとはいえ窮屈な印象は受けない。かといって不安になるほど開けた空間でもなく、計算し尽してこのサイズなのだということが伺える。音楽はバロックから古典音楽を中心に流しているようだ。壁には、主張しすぎない程度の絵画が掲げられており、どれも知名度の高い作品とは呼べなかったが、見る者が見ればその価値はわかるものだった。
これでスウィートが美味しければ文句なしです、と、マリオンは美味しい紅茶を啜りつつ、期待に胸を膨らませる。
ほどなくして店員の青年が戻ってきた。
「少々お時間をいただきますので、退屈でしたら何かお好きな音楽でもかけましょうか?」
「ううん、今の音楽でいいのです。それより、話し相手になってほしいな」
「喜んで」青年はにこりと微笑んで、マリオンのはす向かいに腰を降ろした。親しくもなければまったくの他人というわけでもない、適度な距離だった。
「お名前は?」とマリオンは店員に訊ねた。「僕はマリオン・バーガンディといいます。マリオンでいいよ」
「外国のお方ですか? 日本語、お上手ですね」さっきから流暢な日本語を喋っているというのに。微妙にズレた返答をする青年。「僕は麻生清春と申します。お好きなように呼んで下さい」
「それじゃあ清春さん。麻生の名を冠するからにはこちらの跡継ぎなのかしら?」
「そういうことになっているみたいですね」
「ふぅん。私の主が、ひょっとしたらお宅の麻生宏時さんと顔見知りかもしれません」
「祖父は顔が広いですからね。マリオンさんのご主人も、顔の広い方なんでしょうね」
「ええ、そりゃもう。財界から政界、はては美術界まで。私は美術品管理の仕事を請け負っているのです」
「それは気が合いそうだなぁ」と清春は微笑した。「僕の専門は音楽ですが、芸術なら何でも好きなんです。現代芸術はわかりませんけどね」
「私も、古き良きものが好きです。好奇心は旺盛なほうだけど、新しいものに好奇心を発揮するのは、主にスウィート類なのです」
「それは良いお客様ですね。うちのパティシエ、『独創的な新しいスウィート』を生み出すことに心血を注いでいるので、贔屓にしてやって下さい」
「その話、もっと聞かせて」
マリオンは目をきらんと輝かせる。
「パティシエについてですか? どうも、祖父がフランスに旅行へ行ったときに、どこかの店から引き抜いてきたらしいんですけど。けったいなメニューを編み出すのに日々試行錯誤してるんですよねえ、彼。良く味見をさせられますよ」
「清春さん、私、毎週来てもいいかしら?」
「毎週と言わず毎日来て、味見役をしてやって下さいな。正直言って、毎日新しいメニューなんか試食させられていると、どれが美味しくてどれがそうでないかわからなくなってきてしまうんです。それこそ前衛芸術みたいなものですよ。良いんだか悪いんだか、判断基準が曖昧というか……」
「清春さん、いいなあ」
「そうですか?」
「いいなあ」
「はあ、恐縮です」
心からいいなあと思う。毎日新しいメニューを考えてくるパティシエ。そんなのむしろ、うちに引き抜いてしまいたい。ご主人様、麻生のお爺さんに交渉してくれないかしら。引き抜くのは無理にしても、せめて週一で出張してもらうとか。
真剣に迷想館のパティシエ抜擢大策略を頭の中でめぐらせていると、ところで、と清春が言った。
「道に迷ってこちらへいらしたとか? どちらへお住まいなんですか?」
清春の問いに、「そうだな、あそこら辺ですね」とマリオンは指差した。「気持ちの良い天気だったので散歩に出たのです。今日は素敵な迷子でした」
「素敵な迷子?」
「道に迷った先で、何か真新しいものに出逢うのは素敵でしょう?」
「僕はどちらかというと、困りますね。目的地に時間通りに辿り着かないと困ったことになりますし」
「時間は、あまり重要ではないのです」そもそも時間という概念がすっぽ抜けているマリオンは、見様によっては達観しているとも取れる余裕な態度で、答える。「迷うのも人生の一部でしょう?」
「まあ、僕なんかは、迷ってばかりですね」
「それでいいのです」マリオンはうんうんと頷いた。「こことこことあそこに目的地があって、それらを直線で結ぶのは退屈なのです。世の中にはそういう人達を偉いとする風潮もあるようですけれど、人間なんて、自分で思っているほどは自分の人生を支配できていないんですから」
「お若いのに、哲学的ですね?」清春は関心した様子で言った。「それとも諦観なんですか? それは」
「哲学も諦観もしていないのです。私は長生きなので」
マリオンはさも当然というように頷き、清春青年は、言葉通りに『長生き』を受け取ったようだった。
「私が迷うのは主に道で、心が迷うとか、そういうことはないのですけれどね」
マリオンはメニューに刻印された『迷想館』の文字を辿りながら言う。
「随分お強い心の持ち主なんですね」と清春。
「もちろんその場では選択できないことはありますけれど、何しろ時間はありますから。多少困ることはあっても、解決できないことはないのです」
「僕もマリオンさんみたいにのびのび生きるべきかもしれません」
「私からすれば、十分のびのび生きているように見えますけれど?」
「否定はしません」清春青年は人差し指で頬をかいた。
「失礼ですけど、お仕事は何をしていらっしゃるの? まさか日がな一日、ここでウェイターをやっているわけでもないでしょう」
「僕は一応学生です。まだ夏休み中なんですよ。呑気なものですよね、世間では新学期だの何だのと慌しいのに」
「なるほどなるほど。学生さんには、オンとオフというものがあるのでしたね」
かくいうマリオンは、しょっちゅうオフみたいなものである。
彼の年頃の若者なんて、オフ時はあくせく働いて金を貯めたり、南にバカンスにでも行ったりしていそうなものだが、クラシック音楽が流れる喫茶店でのんびり客の話し相手などしている辺り、同じ空気を感じるマリオンである。
さて、他愛ない迷子談義に花を咲かせていると、いよいよお待ちかねのスウィートができあがる時刻。
たった一人の店員であるらしい清春青年が、客との歓談を切り上げて持ち場(なんてものがあるのかどうかはさておき)に戻ると、間もなく彼の手によって銀の皿にちょこんと載った秋の芸術品みたいなデザート類が運ばれてきた。
「わぁ」
マリオンは少女のような可愛らしい仕種で指を顔の前に合わせ、花を散らさんばかりの笑顔を浮かべた。
「とても、美味しそう」
とても、で息継ぎしてしまうくらい、美味しそうだった。
渋くて品の良い色合いのチョコレートムースにザッハトルテ、対して洋梨ゼリーは、瑞々しいばかりの甘い芳香。デザートが鎮座ました皿は、シンプルだが洒落た細工入りで、お菓子が芸術品なら皿は額縁といった感じだ。
「ご注文の品になります。僕も紅茶だけご一緒してよろしいですか」
「どうぞどうぞ、美味しいものは匂いと視覚だけでも分かち合わないと」
それでは遠慮なく、と清春は向かい側に腰を降ろした。
バックグラウンドミュージックが、バッハの鍵盤曲からモーツァルトの弦楽四重奏になった。上品さの中にも滑稽な明るさが入り混じったモーツァルトのカルテットは、スウィートをいただくのにうってつけ。
雲はうろこ、木々は秋色、なんていったって秋といえば、食べ物が美味しい季節なのです。
「いただきまーす」
マリオンは日本式にぱん、と手を合わせると、上品だが底の知れぬ勢いでスウィートをたいらげ始めた。そう、食べる仕種は洗練されているのだが、食べる勢いは尋常でないのだ。「上品に早食い」をできる人間が、世界にどれだけいるだろう。
清春は向かい側で、マリオンの清々しいまでの食べっぷりをぽかんと眺めていた。ストリングカルテットの、優美だがどこかユーモラスなメロディに乗って、食すは秋の食材。
「ふぅ。ご馳走様でした」
とっても満足したけどまだまだイケるよ、という余裕綽々の笑顔で、マリオンは再び顔の前に手を合わせた。絵の入っていない額縁なんて概して寂しそうなものだけれど、マリオンの皿は、満ち足りた皿という感じだった。
「あのう、紅茶のおかわりは?」
「是非!」
「……こちらはお会計から引いておきますが、ベルギー王室のチョコレートなんて、食べます?」
「是非!!」
そんなわけで、三つのデザートにつづき、紅茶のおかわりとサービスのベルギー王室チョコレートまで、ぺろっと脅威の胃袋(あるいはスウィート専用別腹)に収めてしまったマリオンであった。
「ところで」と帰り際、マリオンは足を止めて店の奥へ目をやった。「あの扉だけ妙に浮いているね。なんだか内装にそぐわないみたいですけれど」
「扉?」清春はマリオンの視線を追って振り返り、はっと息を呑んだ。「あら、マリオンさん、見える人なんですか……」
「見える人?」
「なんとなく、マリオンさんは普通の人とは雰囲気が違うので、もしかしたらとは思っていたんですが……」清春はやれやれというように首を振った。「見えちゃったんですね。ああ」
「見えると何かまずいのでしょうか」
「いえ。マリオンさんだったら、まぁ嵐がやって来ても、世界が終わっても動じなさそうですから。またお立ち寄りになる機会がありましたら、今度は『彼』の相手もしてやって下さい」
「彼?」マリオンはきょとんと、妙に浮き立った扉に目をやった。「ふぅん、良くわからないけれど、スウィートが美味しかったので、また来るのは確実です。独創的パティシエ君に、よろしくね」
「かしこまりました。またお越し下さい」
マリオンは店の所在地を記した名刺を頂戴すると、迷想館を後にした。
暇な店員・麻生清春は、マリオンの姿が消えるまで、店先に立って彼の背中を見守っていた。
緩やかな坂を下っていくと、やがて迷想館の看板も、清春の姿も見えなくなり、あとは赤茶けた屋根とくるくる回る風見鶏を遠目に望むのみになった。
マリオンは上機嫌で、俗世間から隔離されたような世界から、彼が属するところの世界へ帰る。俗世間から隔離されているという意味では、マリオンの世界はもっと特殊だ。
どれだけ長居をしていたのやら、太陽の高度はずっと下がり、気候もやや肌寒いほどになっていた。
「ふむ。今日は、迷子と甘いお菓子にはうってつけの日だったみたいですね」
マリオンはぽつりとつぶやいた。
さて、ここから家へ帰る道を探すのも面倒くさいし。
マリオンは辺りを見回して、誰の姿もないことを確かめると、眼前に空間を繋いだ。
手っ取り早くショートカットしてしまおうっと。
蜃気楼のような空間にそっと手を伸ばすと、 マリオンの姿は、幻のように別の空間に呑まれて消えてしまう。
後には秋の小道と、無人の世界を遠くから見下ろす風見鶏だけが残された。
Fin.
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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■マリオン・バーガンディ
整理番号:4164 性別:男性 年齢:275歳 職業:元キュレーター・研究者・研究所所長
【NPC】
■麻生清春
性別:男性 年齢:20歳 職業:音大生
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。
『迷想館』シナリオへのご発注、ありがとうございました。マリオンさんが当店初のお客様です。まだ(迷)走り出したばかりの世界を構築するお手伝いをしていただく形になりました。
マリオンさんは普段から優雅に、のんびり生活しておられる印象があるのですけれども、美味しいスウィートでさらなる幸せを提供できれば本望であります。またお立ち寄りの機会が御座いましたら、扉の奥の人のお相手もしてやって下さいませ。
それでは、季節の変わり目、風邪にはお気をつけて。
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