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夢に飲まれし者
●囁く声
「その想い叶えたいか?」
誰かがそう呟いた。
誰だろう、そう考えるまもなく声は更に続けられる。
「愛する人がだろう? その人と契り交わしたくはないか?」
とても魅惑で甘美な誘い。耳元で囁かれているような優しい問いかけに、三下忠雄(みのした・ただお)は思わず頷きかけた。
だが、次の瞬間はたりと動きを止める。
あの人に寄せる思いは叶えてはならぬもの。……ゆえに、誰にも報せていないはず。
「待って、何故君はそのことを知ってるんだ?」
「……我は汝の想いに寄せられ、黄泉より参りしもの。汝の想いしかと受け止めた、再び日が昇りしとき、汝の想いは叶うだろう」
「ちょっと待って……!」
がばり、と身を起こす。手を伸ばした先にはただ暗闇と古ぼけた壁が見えるだけだった。
「今のは……夢?」
外はまだ月の輝きが美しく、漆黒が覆う大地を優しく照らしていた。
もう殆ど見えなくなった東京の星を見上げながら、忠雄は再び瞳を閉じた。
「おはよう、三下くん」
「うわぁあっ! すみません!」
聴き慣れた声に反応し、忠雄は飛び起きると同時に頭を下げた。
「どうしたの、三下くん……そんなに驚いて」
布団の脇に腰を下ろし、彼を見つめていた碇麗香(いかり・れいか)はきょとんと小首をかしげた。
おかしい、麗香さんならこんな仕草をしないはずだ。
そう思いつつも、自分の体にしなだれ掛け潤んだ瞳で見つめてくる麗香の姿に、忠雄は思わず抱きしめた。
「へっ、へんしゅうちょ……!」
「三下くん、麗香って呼んで……」
「れっ、れいかっ……」
「れいかぁ……」
「……このアホ、寝言で上司を呼び捨てにしておるぞ」
へらへらとだらしない笑顔で眠る忠雄を一瞥し、嬉璃(きり)はため息をひとつ吐いた。
「それで、三下さんは大丈夫なんでしょうか?」
心配げに見つめる因幡恵美(いなば・めぐみ)に、嬉璃は問題ないと苦笑いを浮かべた。
「そこの隅に変な違和感を感じるぢゃろ? あそこに黄泉への亀裂の跡が見えおるわ。大方、常世(とこよ)から迷い込んだ鬼女に魂でも吸われたのぢゃろうな」
忠雄の部屋はあやかし荘の北東、つまり鬼門の位置にある。そのうえ仕事柄かそれとも本性なのか殆ど部屋の掃除をしていない。かび臭い汚れた部屋は時として黄泉への入り口と波動をあわせてしまうことがある。黄泉から這い上がり空腹状態の鬼が、部屋に転がっていた餌を喰ってしまったのだと嬉璃は言う。
「幸いなのはこやつを喰った奴がワシよりずっと神格がひくく、弱い者ということぢゃな。こやつを喰っている途中、ワシの守りに触れて、魂の一部を食べられただけに済んだようぢゃ」
忠雄の首元に小さなお守りが掛けられている。魔物に好かれ易い彼のために、と嬉璃が誕生日にプレゼントしたお守りだ。
「それで、三下さんはずっとこのまま寝ている状態なんでしょうか?」
「そうぢゃな……この部屋の穢れを祓い、魂を喰った奴を倒せば喰われた魂は持ち主の元へ戻ってくるはずぢゃ」
「ということは……この部屋のお掃除と……鬼女さん探しですか。ちょっと大変そうですね……」
「なぁに、問題ない。ワシの『ぢょうほうもう』を使えばあっという間ぢゃ!」
そういって、嬉璃は懐からプリペイド式のPHSを取り出した。
「ああ、それから」
電話中に、掃除道具を取りに行こうとした恵美を嬉璃は呼び止める。
「牛乳が確か切れておったはずぢゃ。夕飯ついでに買ってきてもらえんか?」
「牛乳、ですか?」
「こやつがあっさり飲み込まれる……つまり、ヒトに近しく夢で男を誘うとくれば、相場はひとつぢゃろうて」
そう言って嬉璃はにやりと笑みを浮かべた。
●お掃除の準備
「え? 大掃除じゃないんですか?」
エプロン、三角巾、箒の三点セットを装備した樋口・真帆(6458)はきょとんとした表情で首をかしげた。
「うむ。掃除も勿論するのぢゃが、それより先に手伝ってもらいたいことがあるのぢゃよ」
「他に何かあるんですか?」
きょろきょろと辺りを見回す真帆。
だが、いつもの忠雄の部屋に変わりはない。いや、少しだけ妙な感じは真帆も感じていた。
部屋に流れる空気にどことなく親近感を感じるのだ。同種族が存在した残り香のようなものを察知し、真帆はやや表情を固くさせる。
「まさかこの気配……」
「気付いたようぢゃな」
にたりと嬉璃は笑顔を浮かべる。
「どうやら、このたわけ者にちょっかいを出したアホウは、お主と同じ種族の者のようぢゃ。ならば、主の力で手助けしてもらった方が早いと思うての」
「うーん……あんまりこういうのは好きじゃないんですよねぇ……」
真帆は懐に入れてあった書籍をとり出し、ぱらぱらと本をめくり始めた。
「ええと……これ、かな」
本に書かれた力ある言葉を唱えながら、すっと左手で空を切った。
眠っている忠雄の頭上に白いもやのような物が浮かびあがってきた。在る程度大きさを保つと、もやはふわふわとその場で漂いはじめ、淡い桃色へと色を変化させていく。
部屋の掃除をしていた恵美もその手を止め、もやを不思議そうに眺めていた。
「どうぢゃ。何か掴めそうか?」
「うーん……それ程深くは繋がっていないみたいですね。これなら、探しに行けるかも」
そう言いながら、真帆はちらりと忠雄を見つめた。
深いため息を吐く真帆に、恵美はどうしたのかと問いかける。
「いえ、三下さんみたいな人が見る夢ってことは、ろくでもない内容なんだろうなぁって思って……あんまり入る気にならないんですよねぇ」
「そうぢゃな。なにやら仕事の上司を恋人と勘違いしてよからぬことをしている様子ぢゃったしな」
寝言で何度も麗香の名を呼び、ゆるんだ表情から夢の内容は容易に想像できるだろう。
「あとでちゃんと消毒しなくちゃね」
そう言って、真帆はそっと忠雄の額に手を添える。
手をつなごうとしていた嬉璃の肩へポムリと恵美が手を乗せた。
「嬉璃ちゃんはこのお部屋の浄化をお願いしたいんですよねー」
「だ、だめぢゃ。わしも一緒に夢の世界にいくんぢゃっ!」
「そういってお掃除サボろうとおもっても駄目ですよ♪」
「あのー……行っても良いでしょうか?」
恵美に羽交い絞めにされ、抜け出そうともがく嬉璃を真帆は心配げにみつめた。
「ええ、真帆ちゃんが中のお掃除をしてくれる間に、私達でお外の掃除をしておきますね」
にこやかな笑顔を浮かべる恵美。
あやかし荘最強の笑顔を向けられ、少し後ろ髪を引かれつつも真帆は意識を掌へとさせていく。
忠雄の頭上に漂っていたもやが徐々に真帆を包み込み。
やがて霞のように真帆を包んだまま掻き消えてった。
●夢の中へ
辺りは一面ドピンクの世界だった。
いや、正しくは桃色のベルベット生地だ。
しっとりと手触りがよく、汚れひとつないベルベットが幾重も空から垂れ下がり、大地を覆っていた。
ほのかに漂ってくるのはバラの香りだろうか。妙に鼻につき、バラの香水を酷く濃くしたような印象を感じる。
「何これ……」
真帆はめまいをおこしつつも、世界の中心地、力が流れてくる方へと歩みを進めていた。
そこには白いシーツがしかれたベッドがぽつんと置かれていた。
乱れたシーツと甘い香水の香りだけが残るベッドの周囲に人の気配は見当たらない。
「そこにいるんですよね?」
少し声を荒げて、真帆は気配の強い場所を睨みつけた。
周囲を優しく撫でるような風が眼前から巻き起こり、真帆の髪をたなびかせる。
「出てこないおつもりですか。それとも、人前に出られないお姿だったりして?」
わざとらしく、真帆は含みのある笑顔を浮かべた。
途端、辺りからややしわがれた女性の声が上がる。
「生意気な小娘が何の用だ。我の楽しみを邪魔しに来たとは無礼千万、即座に帰るが良い」
「手ぶらで帰ると管理人さんに悲しまれちゃいます。出来れば、そちらに要らしている居候さんをこちらへ引き取らせて頂きたいんですが、よろしいでしょうか?」
「……小娘、我の餌を横取りするつもりか」
「とりあえず姿を見せて頂けませんか? これではお話がし辛いですもの」
途端、ぶわっと強い風が真帆の足元から沸き起こった。
両手でかばいながら、薄目を開けると、漆黒の翼を背に持った、全身黒ずくめの女性が佇んでいた。
艶やかな赤い紅の唇をきりりとしめ、肌は雪のように白い。細く鋭い瞳は怖気を誘う程の眼光を放っていた。
「お邪魔してごめんなさい。そちらに、眼鏡がすごく似合う男の人が来てると思うんですが、ご存知ありませんか?」
ここは忠雄の夢。忠雄は、夢を創り上げている神ともいえる存在であり、この夢の住人であり、世界そのものでもある。
やろうと思えばこの世界その物を素材にして忠雄をむりやり夢から追い出して、目を覚まさせる事も出来る。
ただし、それは精神力をひどく消耗するため、真帆の腕ではまだ無理な話。
真帆が探しているものは、この夢の核となる存在だ。核の意識を外に集中させれば、夢は自動的に崩壊して、この悪夢は霞のように消えていく。
勿論、それを相手も知っているのだろう。女性はひたすらに忠雄の存在など知らないとの一点張りだった。
「そうですか……そういえば、この部屋、ずいぶんきついバラの香りを付けてますね。お休みをする場所なら、もう少し香りを押さえた方が眠りやすいですよ」
「ここは眠る場所ではない」
「え、でもベッドもありますし……」
「小娘にはまだ早いことじゃよ」
そう言って女性は含み笑いを浮かべた。何となく悟りながらも、真帆は知らぬそぶりをして、さらに問いかける。
「へぇ、私に早いことって、一体どんなことなんですか? それに、小娘なんておっしゃられてますけど、それって自分のことを年増って認めているってことですよね」
女性の表情から見る間に笑顔が消えていった。
分かり易い性格ね、と真帆は心で呟きながらも更に言葉を重ねていく。
「もうお肌も曲がり角で、精気を吸わないと大変だから、手当たり次第に夢へ侵入してるじゃないんですか? ご丁寧に、こんなおばさん趣味な空間まで作っていたら、ベストパートナー見つける前にいつかは宿主に浄化されちゃいますよ?」
「こ、こここここ……小娘っ! 人が黙っておればいい気になりおって!」
垂れ下がっていたベルベット達が、一斉にめくれ上がる。真帆は軽やかに宙を蹴り、箒を召喚してひらりと飛び乗った。
「ここあ、すふれ!」
ぽむっ。
可愛らしい音と共に、黒と白のウサギのぬいぐるみが現れた。
主人にじゃれつくぬいぐるみ達をぎゅっと抱きしめ、真帆はとりあえずはと空へ飛び上がっていく。
「……この辺はバラの香りがしないね。よし、ここなら……」
ぬいぐるみ達の背を摘み上げ、真帆はひょいと空へ放り投げた。
「えーと……、時が結びしは安らかなる眠り、ヒュプノスの息吹よこの地に安らぎの風と新しき地の創造を与えよ」
ぬいぐるみを中心に、その周りが桃から白へと色を変えていく。
色の広がりと同時にぬいぐるみ達はどんどん大きくなり、やがて真帆を軽く追い越す程の巨大なものになった。
「行ってらっしゃい、ここあ! すふれ!」
だが、ぬいぐるみは身動きをさせず、じっと真帆に顔を向けていた。
「ん? もしかして三下さんを巻き込まないか心配してるの? だいじょーぶ、三下さんはこれ位じゃぴんぴんしてるもの。だから安心してあばれちゃって♪」
にっこりと微笑む真帆。
ぬいぐるみ達は互いに見つめ合っていたが、やがて色々納得したのか、ゆっくりと歩きはじめた。
「なっ、なんじゃこれは……っ、ちょ、ちょっと、まった! ああああ危ないっ!」
可愛らしいにくきゅうのプリントがされた、大きな足が女性の眼前に迫り来る。
彼女が逃げるより先に、その足は大地へと降ろされていった。
●起床
まぶたを開け、最初に見えたものは。
すっかりと綺麗に掃除された天井だった。
電球が切れていた照明も新しいものと交換されており、柔らかな白い光を部屋全体に放っていた。
「あれ……僕は……」
鈍い頭痛がする頭を押さえながら、忠雄はゆっくりと身体を起こす。
ふと、傍らに人の気配を感じて視線を向けた。
そこには安らかな寝顔で2匹のぬいぐるみを抱きかかえる真帆の姿があった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
6458 / 樋口・真帆 / 女性 / 高校生/見習い魔女
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■ ライター通信 ■
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この度はご参加頂き有り難うございました。
真帆ちゃんの人の良さをもってしても、やはり年増のおばさんの固い頭は治せないようです。
夢の中でのお仕事お疲れさまでした。使い魔さん達もちょっと楽しかったかもしれませんね。
それではまた、別の物語にてお会いできますことを楽しみにしております。
谷口舞
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