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過去との決着 その3
15年前、新宿駅のホームで起きた暴行殺人事件。その被害者は高校に入学して間もない草間武彦の同級生であった。
時効まで2週間。被害者――湯島浩太の父親に依頼され、15年前の事件を調べ始めた草間であったが、事件の風化などもあり調査は困難を極めていた。
15年前。それは偶然にも「カプセル」と呼ばれる経口摂取型の覚醒剤が流行した時期とも重なっていた。
不思議なことにカプセルの密売には、東京にあるどの暴力団も関与しておらず、警察すら密売元を突き止めることができずにいた。
そして、調査を進めると、殺された湯島浩太がカプセルの密売に関わっていた可能性が強まった。
素人がヤクザに頼ることなく覚醒剤の密売ルートを築くことは可能なのだろうか。
カプセルの製造に関して、原料となる覚醒剤を卸していた田口組。その元組員から奪った顧客名簿には見慣れた名前が載っていた。
須田正人。その名前は高校で入手した名簿に記されていた名前と同一のもので「湯島が犯罪に関わっているかもしれない」と告げた同級生の名前だった。
その線から、湯島浩太は密売による仲間割れで殺された公算も高まった。
また、新宿駅のホームに献花をしていた女性を見つけることができた。
その女性の名前は冬華。ゴールデン街で飲み屋を開いている人物だった。
「15年前、湯島くんとお付き合いしていたのは、妹なんです」
「つまり、あなたは親しくなかったって言うんですか?」
「そうではありません。わたしも親しくしていました。でも、湯島くんがなにをしていたのか、それを知っているのは妹であって、わたしではありません」
「では、その妹さんは、今どこにいらっしゃるんですか?」
「行方不明なんです。15年前から」
15年前の事情をしっていると思われる冬華の妹、雪華。しかし、彼女は行方不明だという。はたして冬華の言葉に嘘はないのか。
雪華は本当に存在するのか。本当に行方不明なのか。
草間の調査は正直なところ、当てが外れたという状態であった。かつての同級生や教師たちに監視カメラの映像を見せたが、誰1人として湯島を殺害した人物の顔を知る人間はいなかった。無論、映像の不鮮明さから顔を判別することは無理だが、その全体の雰囲気から判別してもらおうと草間は考えたのだ。しかし、それも徒労に終わった。
若干の落胆とともに草間が事務所へ帰ると、いつもいるはずの零の姿がなかった。そして、室内は派手に荒らされており、何者かが押し入ったことを示唆していた。草間が動揺を隠せないでいると、不意に事務所の電話が鳴った。
「はい。草間興信所」
「今、調べている件から手を引け。さもないと、女が死ぬことになる」
男の声で淡々と告げられた内容に、草間は零が拉致されたことを悟った。
「誰だ、おまえは!?」
「女を助けたければ、手を引け」
そこまで言うと、唐突に電話は切れた。草間は受話器を叩きつけ、近くにあった机を蹴った。これは明らかに草間たちから手を引かせようとする何者かの妨害であった。15年前、湯島が殺された理由を調べ、そして犯人を探している草間らに危機感を抱いている人間がいるということである。
こうなる可能性を考えていなかったわけではない。ジェームズがカプセルの件を持ち出してきた時点で、湯島の殺害に組織的な関与があったことも充分に考えられた。だが、零ならば大丈夫だろう、と高をくくっていた自分に腹が立った。
「武彦さん、どうしたの?」
事務所へ入ってきたシュライン・エマは、草間の様子がいつもと違うことを感じ取り、心配そうな表情をして訊ねた。草間は苛立たしげに煙草を取り出して火をつけると、大きく吸い込んだ煙を吐き出しながらシュラインに告げた。
「零が拉致されたかもしれない」
「えっ?」
驚きの声がシュラインから漏れた。零が拉致されるなど、考えてもいなかった。
零は人間ではない。第2次世界大戦の最中、旧日本軍と旧ドイツ第3帝国軍が共同して開発していた心霊兵器、霊鬼兵のプロトタイプである。その戦闘能力は計り知れず、無理に零を拉致しようとすれば、返り討ちに遭うのは必至と思われた。
「零ちゃんが……? 本当なの?」
「わからない。だが、電話で今回の手を引かなければ女を殺すと言われた。実際、零はいないしな。零がさらわれた、と考えるべきだろう」
荒らされた室内を見回して草間が吐き捨てた。この状況から判断する限り、電話の主が零を拉致したと考えるのが自然であるように思われた。しかし、並の人間が霊鬼兵である零を強引に連れ去ることなどできるのかが疑問に感じられた。
「でも、どうやって零ちゃんを拉致したのかしら? 普通の人間では無理でしょう?」
「それは、その通りなんだが……」
草間は煙草を指先で挟みながら沈黙した。
実際、草間自身も並の人間に零が拉致されるなどとは考えていなかった。だからこそ、このような状況となったわけだが、現状を目の当たりにしても、信じられないという気持ちのほうが強いことは確かだ。
「おやおや、これはどうしたんですか?」
その時、事務所に入ってきたジェームズ・ブラックマンが室内の惨状を見て驚きの声を漏らした。
「零ちゃんが、さらわれたらしいの」
沈黙を続ける草間に代わり、シュラインが答えた。
その言葉にジェームズは反射的に眉をひそめた。
「さらわれた? 本当ですか?」
「わからないわ。でも、武彦さんが、女の人を殺す、っていう電話を受けたようなのよ」
「武彦、本当ですか?」
「ああ、そういう電話があった」
渋面にも近い表情をして草間が吐き捨てた。
ジェームズは相変わらず眉根を寄せたまま室内を見回した。彼も零が拉致されることなど、ありえないと考えている人間の1人であった。
「もしかしたら、自分からついていったのかもしれませんね」
「どういうこと?」
ジェームズの呟きにシュラインが反応した。
「ちょっと面白いことがわかったのです。心配なのはわかりますが、とりあえず座りませんか? こうしていても、さらわれた人間が帰ってくるわけではありませんし」
事務所の片隅に置かれた応接セットの周囲に散乱する調度品を押しやり、草間とジェームズはソファーに腰を下ろした。
シュラインはキッチンへと向かい、無事に残されていたマグカップなどを探し出し、インスタントのコーヒーを淹れて運んできた。残念なことに、この前、買ってきたばかりのコーヒー豆は、押し入った人間によって床へばら撒かれていた。
「インスタントで、ごめんなさい」
「いいえ。気になさらないでください」
シュラインからカップを受け取り、ジェームズは熱いコーヒーをすすった。
「それで、面白いことというのは?」
新しい煙草に火をつけながら草間が訊ねた。
その様子から珍しく草間が苛立っていることを、シュラインもジェームズも感じ取ることができた。
「武彦。高校の同級生に須田という男がいたのを覚えていますか?」
「須田? そういえば、そんな奴もいたな」
「この須田は、亡くなった湯島少年と中学校の同級生でもあるのですが、実は湯島少年が犯罪に関わっていたかもしれない、と証言したのは須田なのです」
「それで?」
「今日、私は例のカプセルについて調べまわりました。そこで、カプセルの密売グループに、原料となる覚醒剤を卸していたと思われる男を突き止めることができたのですが……」
そう言うとジェームズは懐から紙の束を取り出し、テーブルの上に置いた。それを手に取り、1枚ずつめくりながら記載内容を確認していた草間の顔が曇った。
「こいつは?」
「覚醒剤の購入者リストです」
そこに須田正人の名前を見つけ、草間は呻きにも似た声を漏らした。
「須田がカプセルの密売に関係していたのか?」
「その可能性は低くありませんね。リストの中でチェックがついている名前は、大量に覚醒剤を購入した人間です。須田が覚醒剤の売人でないのだとしたら、カプセルに関与していると考えたほうが、むしろ自然でしょう」
「でも、そうだとしたら、なぜ須田は湯島くんが犯罪に関係していることを教えたのかしら? そこから自分を調べられると考えなかったわけではないでしょうに」
草間からリスト受け取り、それを見ていたシュラインが言った。それは、もっともな意見であった。須田の証言があったからこそ、ジェームズは湯島が関わっていたと思われる犯罪を調べ上げ、カプセルにたどり着くことができたのだ。
もし、須田が本当にカプセル密売に関与しているのだとすれば、自分の首を自ら絞めるようなことを証言するものだろうか。
「おっしゃられることは、もっともだと思います。しかし、須田が関係していると考えれば、今回の拉致も納得が行く部分が出てくるのです」
「つまり、零を信頼させ、連れ出したということか?」
「ええ。強引に連れ去るよりも、そう考えたほうが納得できませんか?」
「確かに、それはそうだが……」
そう答えながら草間は短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。たとえ、それが事実だとしても零を人質に取られている以上、草間たちはどうすることもできない。須田の周辺を調べようとすれば、人質に危害が加えられる可能性は捨てきれないのだ。無論、拉致した連中が、零へ危害を加えられるのなら、という前提条件があるが。
「相手は人質を取ったことで、有利な立場にあると考えていることでしょう。ですが、私は違うと考えています。普通の人間が、ミス零へ危害を加えられることなど不可能なはずです。これは、むしろ我々にとってチャンスではありませんか?」
ジェームズが言いたいことを草間は理解した。零が人質に取られたことを無視し、このまま調査を続行しようと言うのだ。
草間は新しい煙草を取り出し、どこか困ったような表情をしてシュラインのほうを見た。その様子から草間が迷っていることは明白であった。零に危害を加えられる人間がいるとは思っていないが、万が一ということも考えられる。そうした最悪の事態を頭から拭い去ることができないのだ。
「武彦さん。零ちゃんは大丈夫だと思うわ。だから、このまま調査を続けたほうがいいと思うの」
そんな草間の迷いを払拭するようにシュラインが言った。少し驚いた顔をした草間であったが、すぐに真剣な表情をしてうなずいた。
「そうだな。そうしよう」
翌日の早朝からジェームズは須田への張り込みを開始した。
本当に須田がカプセル密売に関与しており、今回の零を拉致したことにも関係しているのであれば、なんらかの行動があるはずだと考えたからであった。
会社員として勤務する須田は、午前7時には自宅を出て、最寄りの駅から電車に乗って会社へと向かう。その後を尾行しながら行動を監視していたジェームズであったが、会社に着くまでの間に、おかしな点は見当たらなかった。
須田が出社したのを見届け、ジェームズは会社から離れた。須田が外回りの営業ともなれば話は別だが、内勤の人間を監視することは、さすがに不可能である。この間、どうしても監視の穴となるが、それは仕方がないと考えていた。もし勤務中に誰かと連絡を取り合っていたとしても、実際に行動するのは仕事が終わってからだろうと考えていた。
無論、須田の監視を行っていない間、ジェームズがなにもしなかったわけではない。須田に関する聞き込み調査を行い、特に草間が湯島の事件に調査を開始した数日前から、須田の行動に変化がなかったかを調べた。
時効まで残りわずか。須田がカプセル密売、そして湯島殺害に関与しているのなら、草間の調査に関して慌てるかもしれないからだ。
しかし、聞き込みといっても須田の同僚に対して行うことは避けるべきであった。同僚への聞き込みを行えば、そこから須田の耳へ情報が入る可能性は高い。そうなれば、危険を察知した須田が、すべての行動をやめ、時効が訪れるまでおとなしくなってしまうことも充分に考えられた。
そうした危険を回避するためにも、須田の身近な人間に触ることは避けなければならなかった。
それでも、なんとか判明したのは、須田はほとんど毎日、真っすぐ自宅へ帰っているということだった。2日前に同僚と新宿へ飲みに行っているが、2軒の店をハシゴしただけで、すぐに自宅へ戻っている。
念のため、ジェームズは2軒の店を当たったが、2軒とも単なる居酒屋で、店の人間の話によれば、須田は常連であり、2日前に訪れたときも、特におかしな点はないということであった。
翌朝、シュラインは歌舞伎町のゴールデン街を訪れた。午前中の早い時間ということもあり、店が開いていない可能性のほうが高いといえたが、その心配は杞憂に終わった。ゴールデン街の中ほどにある「雪華」は、すでに看板を出していた。
この辺りの店は明け方までやっているところが多い。恐らく「雪華」も同様だろう。いったい、いつ休んでいるのかと思いながら、シュラインは店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
扉を潜ると同時に柔らかな声がかかった。カウンターの内側には昨日と同じように和服を着た冬華が立っていた。和服の柄が昨日と違っていることから、自宅へ戻っているのだろう、ということが窺えた。
「あら、昨日の……」
シュラインの顔を見て冬華が驚いたように言った。まさか2日連続で来るとは思っていなかったのだろう。シュライン自身も訪れるつもりはなかった。しかし、草間が受けた電話で「女が死ぬことなる」と零を名指ししていなかったことから、もしかしたら零だけでなく、冬華も拉致されたのではないかと考え、その安否を確認するために寄ったのだ。
それでなくとも、雪華は15年前の関係者であるとも言える。この店をシュラインが訪れたその晩に、零が拉致されたことを考えると、冬華も関係しているのではないか、と疑いたくもなる。
「今日も、調査ですか?」
「いえ。今日は別の用事で近くにきたものですから」
それは嘘だった。だが、冬華が零の拉致に関与しているとなった場合、調査を続けていると名言することは控えたほうが良い。普通の人間が零に危害を加えることが難しいとはいえ、どのような手段に出るかがわからないからだ。
「なにか、お飲みになられますか?」
「では、ギムレットを」
冬華は小さくうなずくと、慣れた手つきでシェイカーにドライジンとライムジュースを注ぎ、軽くシェイクしてカクテルグラスに移した。
ライムジュースではなく、フレッシュライムを搾ったほうが風味が良いのだが、あえてジュースを使用したのは、そのほうが甘口で飲みやすいと考えたためだろう。
「ギムレット……湯島くんも好きでした」
一口、シュラインがカクテルを飲んだところで不意に冬華が言った。驚いたようにシュラインが顔を上げると、冬華はどこか懐かしいものを見るような表情で、シュラインの手元にあるカクテルグラスを見つめていた。
「犯人は見つかりそうですか?」
「難しいと思います。時効まで、残り10日ですから」
事件の話を冬華がしてきたことに驚きを感じながらも、シュラインは嘘とも本音ともつかない言葉を返していた。以前、草間が言っていたように、15年間も逃げ続けた犯人を2週間という限られた時間で特定することは、不可能に近い作業であるといえる。しかし、それもあと一押しという印象をシュラインは感じていた。
自分たちが調査を開始したことで、止まっていた時間が動き出した、そんな印象を受けるのだ。零の拉致にしてもそうだ。草間たちの調査が事件の核心に迫りつつあるからこそ、犯人が焦って零を人質にし、手を引かせようとしているのだと考えるに至っていた。
「そうですか……」
そう呟き、冬華は沈黙した。その様子から冬華が事件に関与している可能性は半々だとシュラインは思った。彼女の思い出に土足で踏み込むような真似をしていると思う反面、どこか冬華が事情を知っているのではないか、と疑いを持つシュラインがいた。
ゴールデン街を後にしたシュラインは新宿駅で草間と落ち合った。
シュラインが冬華の許へ行っている間、草間は新宿駅の職員などに湯島の事件について訊ねてきた人間がいなかったかを聞いて回っていた。しかし、シュラインが訪れた以降、そうした人間は来ていないという答えが返されたのみだった。
草間にしろ、シュラインにしろ、調査の過程で事務所の名前と連絡先が記された名刺を残してきている。そうしたところから事務所の場所が伝わり、零が拉致されたのではないかと考えたのだが、その推測は外れたようであった。
電車に乗り込み、空いている席に2人は腰かけた。通勤時間帯が終わったことで車内は非常に空いている。
「例の女性はどうだった?」
「可能性としては半々といったところ。疑わしくも見えるし、事件のことを忘れたがっているようにも見えるの」
「そうか」
草間は懐から煙草を取り出そうとしたが、車内が禁煙であるとシュラインから窘められて断念した。
これから2人は須田が通っていた中学校に向かい、当時を知る教師に新宿駅の防犯映像を見てもらうつもりでいた。草間が知る限り、あの映像に映っていた男たちの中に、高校時代の同級生はいなかった。そこで須田の中学時代に着目したのだ。
当時を知る教師がいなかった場合、あるいは良く覚えていなかった場合などは、須田の同級生を当たってみるつもりでいた。
30分ほどして最寄りの駅で電車を降りた2人は、歩いて須田が通っていた中学校へと向かった。
受付で来訪の旨を伝えると、突然の申し出にも関わらず、当時、須田の担任をしていた教師が快く応対に出てくれた。
「須田くんのことと、おうかがいしましたが?」
職員室の隣にある進路指導質と札がかけられた部屋に通され、椅子に座ると初老の教師が言った。
「はい。須田正人さん。ご担任なさっていたそうですね?」
「ええ」
真剣な表情をして教師は答えた。すでに15年前に起きた殺人事件の調査であることは伝えていた。その被害者が湯島浩太であることも含めて。
「須田くんが、湯島くんの事件に関わっているのですか?」
「それは、まだわかりません。ですが、まったくの無関係ではないと思っています」
そうシュラインが答えると、教師は信じられない、とでも言いたげに首を振った。
「1つ、見ていただきたい映像があるんです」
そう言ってシュラインは部屋の片隅に置かれていたビデオデッキにテープを挿し込んだ。それは15年前の犯行を映したものだった。人が殺される瞬間を記録した映像というのは、何度、見ても陰鬱な気分になる映像だ。
画面の下側から2人の男に小突かれるようにして湯島と思しき人物が現れた。湯島を含む3人は周囲にいる人々を気にするでもなく、ホームの先端へ向かって歩く。その後ろから別の2人が警戒するように辺りを見回しながら歩いてくる。そのことから湯島の殺害に関わったのは最低でも4人だということがわかった。
ホームの先端で湯島と2人の男がなにかを言い争っているようにも見える。男の1人の右手に長い棒状の物体が見えた。それが凶器に違いないと認識した瞬間、最上段から勢い良く振り下ろされた凶器が湯島の頭部に叩きつけられた。反射的に頭を押さえてホームに倒れ込んだ湯島へ、2人の男は容赦なく蹴りつけた。
しばらくして男たちは攻撃を止めると、身動きすらしなくなった湯島を残して立ち去った。時間を確認すると、現れてから立ち去るまで5分と経っていない。これでは仮に目撃者がいたとしても、男たちの顔を満足に覚えているとは思えなかった。突発的な犯行だったのか、それとも計画的なものだったのかは不明だが、鮮やかな手口には違いなかった。
そこでシュラインは映像を止めた。
「この中に、見覚えのある顔はありませんか?」
部屋に入ってから初めて草間が口を開いた。
非常に不鮮明な映像で、顔の判別は難しい。それでも、全体の雰囲気などから判別できないかと、期待しての質問であった。
「少し、巻き戻してもらえますか?」
教師の言葉にシュラインはリモコンを操作した。
映像が犯行開始まで戻り、再び同じ場面を映し出した。
「これ……」
そう言い、教師は画面に映る1人を指差した。
「私が受け持った生徒に、良く似ています」
「本当ですか!?」
ためらいがちに発せられた教師の言葉に、草間は驚きの声を漏らした。
「ちょっと、待ってください」
そう言って席を立つと、教師は部屋を出て行った。
しばらくして名簿を手に戻ってきた教師は表紙を開き、その中の1ページに写った写真を草間とシュラインに示した
「この生徒です」
そう指し示された写真の顔は、確かに防犯映像にある男の顔に似ているようにも見えた。しかし、決定的に似ている箇所があるというわけでもなく、雰囲気の似た他人という見方もできた。
「確かに、似ていると言われれば、そんな気もするけど……」
どこか戸惑ったようにシュラインが言った。それは草間も同感だった。
写真の下には、畠山涼一と名前が記されていた。
「このページ、コピーさせていただいてもよろしいですか?」
「わかりました」
「お手数をおかけして、申し訳ありません」
再び教師が席から立ち、名簿を手に部屋を出て行った。
夕方になり、ジェームズは会社から出てきた須田の尾行を開始した。
須田は近くの駅から電車に乗り込んだが、自宅とは別方向の電車だった。最初、同僚と飲みにでも行くのかと考えたジェームズだったが、須田の周囲に同僚らしき人物の姿は見えなかった。
ジェームズは若干の緊張を感じた。須田が動き出したかもしれないと考えたからだ。
須田は六本木で電車を降り、駅から少し離れたところにある雑居ビルへと入って行った。
雑居ビルには数軒のクラブや飲み屋が入っているようだった。ビルの入口から数段の階段を下りた位置にエレベーターがあった。
ジェームズがエレベーターの表示盤を見ると、ちょうど三階で停止したところだった。「club pied-de-poule」となっている。フランス語で千鳥格子という意味だ。
1度、エレベーターの前を離れたジェームズは通りへ戻った。須田が1人で入って行ったということは、この店で誰かと会う可能性は高いと思われた。それは、もしかしたら零を拉致した人間かもしれない。
相手がいるとしたら、それが誰なのかを確認したい、という衝動にジェームズは駆られた。だが、ジェームズが店に入れば顔を見られる可能性も考えられる。そう考えると店へ入るのは躊躇われた。このままビルの前で待っていれば、一緒に現れるということも考えられる。しかし、もし相手が須田との関係を知られたくない人物だとすれば、店へ入るのも出るのも別々ということもある。
以前、話を聞くために会った時のことを須田は覚えているだろうか。その可能性は五分五分だろうとジェームズは考えた。慎重に行動すれば、須田に顔を見られずに済むかもしれない。ジェームズは決心してエレベーターに戻り、ボタンを押した。
3階でエレベーターを降りると、そこはすぐに店のホールだった。
「いらっしゃいませ」
黒服の男が近づき、言った。入口のクロークには日本人とは思えない白い肌をした女性がおり、ジェームズに目を向けている。その雰囲気から、ジェームズは普通の会社員が飲みに来られるような店ではないことを理解した。
「おひとりでいらっしゃいますか?」
「待ち合わせです」
とっさにジェームズは言った。こうした店に1人で飲みに来る男はそうはいない。1人であると答えれば、それだけホステスがつき、人目につくと思ったのだ。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
黒服に案内され、ジェームズは通路を進んだ。途中、須田の座るボックス席の横を通り、ジェームズの心臓が跳ね上がったが、幸いにも店内が暗かったため、気づかれることはなかった。
通り過ぎる瞬間、ジェームズは須田と同じ席に座る男を見た。男は須田と同年代のようで、少なくともヤクザには見えなかった。しかし、純粋なカタギにも見えない。須田のようにスーツ姿ではなく、トレーナーにジーンズとラフな格好をしている。
ジェームズが通されたのは、須田たちの席からボックスを3つ挟んだ場所で、途中の1つに客がいた。ジェームズは須田が見える位置に腰を下ろした。
店内の喧騒もあり、須田たちの会話は聞こえそうにもなかった。だが、ジェームズは相手に気づかれないように注視し、男の顔を脳裏に刻み付けた。
2時間ほどして店から出た男の尾行をジェームズは開始した。最初、須田とどちらを尾行するかで悩んだジェームズだったが、時間的なこともあり、須田はこのまま帰宅するだろうと踏んだのだ。
男は六本木通りでタクシーを拾うと、渋谷方面に向かった。ジェームズも走ってきた空車のタクシーを捕まえると、それに乗り込んで男の乗ったタクシーを追いかけるように伝えた。運転手はあからさまに迷惑そうな顔を見せたが、ジェームズの差し出した1万円札を見ると、無言のまま車を発進させた。
男を乗せたタクシーは六本木通りを西へ進み、青山トンネルの手前を左折して広尾小学校の前を過ぎると、恵比寿駅前から中目黒を抜けて駒沢通りへ入り、環七を渡った。
車は駒沢公園を通り過ぎ、少し行ったところで左折すると、住宅街の一角で止まった。ジェームズはタクシーのライトを消して停車させると、その200メートルほど前方で男が降りるのが見えた。
男は周囲を気にしている様子だったが、街灯がついているとはいえ、住宅街の薄暗さも手伝ってジェームズの乗るタクシーに気づいた様子はなかった。
男が建物の中に消えたのを確認し、さらに数分、車内で時間を潰してからジェームズはタクシーを降りた。建物は比較的、新しい賃貸専用のマンションであるようだった。入口にある集合郵便受けにある名前をメモし、マンションの名前と住所を控えてジェームズは待たせておいたタクシーに戻った。
畠山涼一の行方を掴むことは困難を極めていた。
これまで、草間とシュラインが中学時代の同級生を中心に聞き込みを行った結果では、母子家庭に育った畠山が中学校を卒業して間もなく、その母親も畠山を捨てて男とともに蒸発し、それ以降、畠山の足取りもぷっつりと途切れていた。
同級生らの話によると、畠山は当時、地元ではそれなりに名の通ったワルであり、暴走族や暴力団との関係も噂されるほどだったようだ。
典型的な不良であったようだが、草間の調べでは地元の暴力団に加入したという話もなく、ある時を境にして畠山の行方は杳として知れなくなっていた。それは湯島浩太の殺害事件と時期が重なっていた。
そうした点から見ても、畠山が湯島の殺害に関与していた可能性は高いと思われた。
「限りなく黒に近い灰色だな」
これまでに調べ上げた畠山の履歴を見ながら草間が呟いた。草間が座っている応接セットのテーブルへシュラインが、せっせと料理を運んでいた。事務所の中は完全ではないにしろ、昨日よりも片付いている。調査の合間を見計らってシュラインが片づけているのだ。
「この男が零ちゃんを連れ去ったのかしら?」
「どうかな? もし、そうだとしても、どんな手段で拉致したのかが気になるところだな」
答えて草間は煙草に火をつけた。
「それにしても、ジェームズは遅いな」
壁にかけられた時計へ目をやると、午後10時に近い時刻となっていた。
シュラインたちも聞き込みなどで遅くなったほうだった。日に1度、この場所で調査の報告と今後の打ち合わせを行うことは、あらかじめ決められていることだ。それをジェームズが忘れるとは思えなかった。
「すみません。遅くなりました」
その時、ジェームズが事務所へ入ってきた。
「噂をすれば、なんとやらね」
苦笑混じりに言うと、シュラインはキッチンへと戻って行った。
「遅かったな」
「ええ。ちょっと手間取りましてね」
そう答えてジェームズは草間の向かいに腰を下ろした。
「なにか進展があったのか?」
「進展と呼べるかはわかりませんが、須田と接触していた男を尾行しました。もしかしたら、ミス零を拉致した人間かもしれません」
「共犯、か?」
「須田が事件に関与しているとなれば、そうなるでしょう。現状では、可能性は半々といったところですかね。武彦たちのほうは、どうでしたか?」
「こっちは、防犯カメラに映っていた犯人の1人と思われる男がわかった」
「本当ですか?」
「これも可能性としては五分五分だな。なにしろ、映像が不鮮明すぎて顔の判別が難しいからな。全体の雰囲気で、こいつじゃないか、というのを指摘された程度だ」
ため息混じりに草間は煙を吐き出した。
「それで、その男というのは?」
「須田の、中学時代の同級生で、畠山という男だ。どうやら札付きの悪だったようだ」
そう言って草間はコピーしてきた名簿を見せた。名簿のコピーには写真が預かってきた添付されており、その写真には亡くなった湯島とともに、須田と、問題の畠山という男も学生服姿で写っていた。
その写真を見たジェームズの動きが一瞬、止まった。写真を食い入るように見つめる姿に違和感を覚えた草間が、思わず質問した。
「どうした?」
「畠山というのは、この男ですか?」
ジェームズが写真の1人を指差したのを見て、草間は訝しげに眉をひそめた。
「そうだが……良くわかったな」
写真の中学生は、先ほどまでジェームズが尾行していた男に面影が良く似ていた。こうもタイミングが重なると、単なる偶然で済ませることはできない、とジェームズは感じた。
翌日から須田への監視と平行して、畠山と思われる男の張り込みも開始された。ジェームズが控えてきた集合郵便受けの名前には、畠山の名字はなかった。しかし、偽名を使用している可能性は充分に考えられた。
マンション付近に車を止め、その車内から張り込むことも考えられたが、辺りは閑静な住宅街ということもあり、見慣れない車が長時間、止められていれば人目を引くのでその案は見送られた。代わりに男が住むマンションの向かいに、建設中のマンションがあり、そこの飯場を事情を説明して使わせてもらうことにした。
張り込みは午前7時から始められた。男の基本行動が把握できていないため、この時間から行う必要があると草間は判断したのだ。
飯場として建てられた仮設のプレハブ小屋の中で、缶コーヒーを飲みながら草間は1人でマンションの出入口を見つめていた。近くの24時間営業の駐車場に止められた車の中では、シュラインが待機している。これは昨夜、男がタクシーを利用して移動していたことをジェームズから聞き、必要になるかもしれないと考えて用意したのだった。
この時間、ジェームズは須田の監視を行っている。問題なく須田が出社したところで、草間たちに合流することになっていた。
「お疲れさまです」
そう言ってプレハブ小屋に入ってきたジェームズが缶コーヒーを草間に差し出した。腕時計へ目をやると午前9時を回ったところだった。
「動きは?」
「まだない。そっちは、どうだ?」
「こっちもありません。須田が動くとしたら、仕事が終わってからでしょう」
草間は小さくうなずき、受け取った缶コーヒーのプルタブを引いた。建設作業の騒音が響く中、草間とジェームズは交代でマンションの監視を続けた。
午前10時になろうとした頃、マンションの入口から1人の男が姿を現した。それは紛れもなく昨夜、須田と会い、ジェームズがここまで尾行してきた男であった。
「動いたな」
「そうですね。行きましょう」
まずはジェームズがプレハブ小屋から出て男の後をつけた。それから30秒ほどの時間をおき、草間はジェームズを尾行するような形となった。
草間は歩きながら携帯電話を取り出し、待機しているシュラインへ電話をかけた。
「男が動き出した。いつでも出られるようにしていてくれ」
「了解」
そんな草間の読みに従うかのように、男は通りに出たところで片手を上げ、タクシーを拾った。すぐに草間がシュラインへ連絡したが、それでは間に合わないと判断したジェームズは、通りがかったタクシーに乗り込み、先行することにした。
草間はそれから1分と経たないうちに到着した車に乗り、携帯電話でジェームズと連絡を取りながら男を尾行した。男に追跡が気づかれないように、草間とジェームズは連絡を取り合いながら、場所やルートを変えてタクシーの行き先を追いかけた。
用賀から環状8号線へと出たタクシーは、通りを南下して道なりに進むと、田園調布付近で裏道へと入り、石川台から環状7号線に抜け、大田区大森に入った。
第1京浜を北上するタクシーのテールランプを眺めながら、草間は男が零を監禁している場所に向かっているのではないか、と思うようになっていた。大井から勝島にかけての湾岸地域には、多くの工場や倉庫、トラックターミナルなどが建ち並んでいる。そうした中で普段、使われていない倉庫に零がいる可能性は非常に高いといえた。
「もしかしたら、奴は零のところに案内してくれるかもな」
「そうね。それを期待しましょう」
やがてタクシーは東品川にある倉庫街へと入って行った。
タクシーから少し遅れて倉庫街へ入ったシュラインと草間は、その一角にジェームズが立っているのを見つけて車を止めた。
「この角を曲がって、3つめの倉庫に入って行きました」
「ここに零がいると思うか?」
「その可能性は高いでしょうね。ここならば、どんな人間が出入りしていても目立ちませんから」
その言葉にうなずき、草間とシュラインは車から降りた。
「武彦さん、どうするの?」
「まず、この中に本当に零がいるのかを確認する。零がいるなら救い出し、そして男の身柄を確保しよう」
「では、その作業、私に任せていただけませんか?」
「それは構わないが……無理はするなよ」
「わかっています」
そう答え、ジェームズは行動を開始した。
倉庫の裏手に回り込んだジェームズは素早く周囲を見回し、自分が草間やシュラインから見えないこと、辺りに人間の姿と気配がないことなどを確認すると壁に手を触れた。
次の瞬間、壁に触れたはずの右手が、まるで何事もないかのように突き抜けた。そのまま右手から肩、上半身と壁をすり抜け、ジェームズは何事もなかったかのように倉庫の中へと足を踏み入れた。
彼に備わった能力の1つ。たいしたものではないが、相手に気づかれないように室内へ侵入する場合などには便利に使用できる。
倉庫の中は薄暗く、うずたかく積まれた木箱やコンテナで内部は迷路のようになっていた。相手に気づかれないように足音を殺し、ジェームズは通路を進んだ。
男は倉庫の入口に近いところにいた。コンテナの陰からその様子を見つめていたジェームズは、男の近くの床に零が倒れているのを発見した。零は四肢を縛られ、まるで眠っているかのように床へ横たわっている。
辺りは薄暗いが、闇夜も見通すジェームズにはたいした問題ではない。零に外傷は見られない。なんらかの手段で気絶させられているだけのように感じられた。
ジェームズは男が零から離れるのを待った。
しかし次の瞬間、男が懐から拳銃を取り出したのを見て、ジェームズはコンテナの陰から飛び出した。
「待ちなさい!」
その声に男がジェームズのほうを振り返った。驚愕で顔が覆われている。
「武器を捨てなさい」
落ち着いた口調でジェームズが言った。
直後、銃声が反響した。
ジェームズは腹部に衝撃を受け、崩れ落ちた。床に片膝をつき、被弾した箇所へ目をやると、黒いスーツに小さな穴が空いているのが見えた。
悪くない腕だ、とジェームズは感じた。ここまで視界が悪い中で、当てられるとは思っていなかった。
しかし、ジェームズは平然とした様子で立ち上がると、素早い動作で跳躍し、一瞬にして男との距離を詰めた。
ジェームズが向かってくると想像していなかった男は大いに慌てた。男は拳銃を放り捨て、拳を繰り出した。その対応から、かなりケンカ慣れしていることが窺えた。
ジェームズは身をひねり、拳をかわすと、男が右手を引き戻すよりも早く、その手首を掴み、肘へ掌打を叩き込んだ。ゴキン、と小気味良い音を響かせて男の右肘が折れた。
短い悲鳴が男の口から漏れた。その様子を視界の端に捉えつつ、男の横っ面へ肘を叩きつける。瞬間的に脳震盪を起こし、男は床にうずくまった。その顔面につま先を叩き込むと、前歯と血が宙に舞った。鼻骨が砕け、顔面を赤黒く染めながら男はうめいた。
ジェームズは男の前髪を掴み、顔を自分のほうへと向けさせた。
「仕掛けるなら、相手を見てからにしなさい」
静かに言い放ち、ジェームズは男の顔面を床に叩きつけた。鈍い音が響き、そのまま男は動かなくなった。
小さな嘆息を漏らし、零の体に危害が加えられていないことを手早く確認すると、ジェームズは倉庫の扉を開けた。
「武彦。中はOKです」
「大丈夫か? なにがあった?」
先ほどの銃声を聞きつけた草間が訊ねた。
「なにもありませんよ。単に意見が食い違っただけです」
肩をすくめ、ジェームズが答えた。
「零ちゃん!」
倉庫に入ってきたシュラインが、床に横たわる零を見つけて駆け寄った。慌てて抱き寄せるが、単に眠らされているだけだとわかり、安堵の息を漏らした。
そうこうしているうちに零が目を覚まし、きょとんとした表情でシュラインと、草間の顔を見た。
「お兄さん? どうしたんですか?」
「零、なにも覚えていないのか?」
事態が把握できていない零に苦笑を漏らしつつも、何事もなかったことに草間は安心した。霊鬼兵である零に危害を加えられる人間など、そうはいないと理解しながらも、万が一のことを考えていただけに、安堵感は大きかった。
「零にもいろいろと聞きたいが、とりあえずそれは後回しだ」
そう言うと草間はジェームズへ目をやった。ジェームズは小さくうなずくと、倉庫の中からロープなどを探し出し、それで男を縛り上げると、バケツに水を汲んできて一人の顔にぶちまけた。二度、それを繰り返すと男は咳き込みながら意識を取り戻した。反射的に身動きをとろうとするが、四肢を拘束されていることを悟り、その表情にかすかな怯えの色が浮かんだ。
「名前は?」
だが、草間の質問に男は答えなかった。
「こんなことをして、ただで済むと思うなよ」
怯えと怒りを含んだ声で男は言い放った。次の瞬間、ジェームズが無言でつま先を叩き込んだ。腹部を蹴られ、男は小さなうめき声を漏らした。ジェームズはしゃがみこみ、特殊警棒を取り出すと、それを男の眼前で振りながら言った。
「訊いているのは我々です。口の利き方に気をつけなさい」
淡々とジェームズは告げて警棒を振り下ろした。鈍い音が響き、男の口から悲鳴が上がった。左の鎖骨が砕けたのは明らかであった。そのまま立ち上がれば、鎖骨がなくなって腕を支えていられなくなったため、腕を引っ張られて激痛が男を襲うことになるだろう。
「名前は?」
再び草間は訊ねた。男の目には怒りと怯えが混ざり合っていた。素人ではない。素人ならば鎖骨を折られた時点で泣きを入れてくる。かといって拷問を受けることに慣れているわけでもない。
そうした点から草間は男が暴力行為に慣れていることを理解した。犯罪組織の人間であれば、それなりに情報をしゃべるものだ。犯罪組織の人間は暴力を振るい、脅すことを商売の道具としている。だが、それはあくまで自分たちが暴力を行使する側であって、暴力を受けることに慣れているわけではないからである。
その点、男は暴力を振るわれることにも慣れているようにも見えた。拷問されたこともあるのかもしれない。
「答えないのなら、拷問にかけることになるぞ?」
「やれるもんなら、やってみろ」
「あとで後悔するぞ」
ため息混じりに言い捨て、草間はシュラインへ目を向けた。
「ここから先は見ないほうがいい。悪いが、零と一緒に外へ出ていてくれないか」
若干、青い顔をしたシュラインはうなずき、零とともに倉庫から出て行った。
「ジェームズ」
草間の言葉にジェームズはうなずき、後ろ手に縛った男の右手へ警棒を叩きつけた。男の口から短い悲鳴が漏れると同時に、鈍い音が響いて指がありえない方向を向いた。
「次は左手だ。その次は右足。喋らなければ左足。腕を折り、足を折り、二度と歩けないようにしてやろう」
続けざまに骨が砕かれる音がした。ジェームズが男の左手に警棒を振り下ろしたのだ。男の口から小さな悲鳴が上がった。
「どうします? まだ続けますか?」
たいして感情のこもらない声でジェームズが告げた。男は鋭い目つきでジェームズを睨みつけた。
ジェームズは足に警棒を振り下ろした。膝が砕け、男の口から声が漏れた。
途端に男は激しく首を振り始めた。激痛に耐えられなくなったのだ。男は涙を流し、床に額を押しつけながら、呪詛のように許しの言葉をジェームズに向かって呟き出した。
「では、最初の質問だ。名前は?」
「は、畠山……」
「なぜ、零をさらった?」
「命令されたからだ」
「命令? 誰からだ?」
男は口をつぐんだ。それを見てジェームズが警棒を叩きつけた。反対の膝が砕け、畠山は涙や脂汗で顔を汚しながら許しの言葉を呟いた。
「命令したのは誰だ?」
「い、言えば殺される」
「命令したのは須田か?」
畠山は首を振った。なぜか畠山は怯えていた。少年時代から犯罪を繰り返し、暴力にも慣れた男が、これほど怯えることを草間は訝しんだ。
「では次の質問だ。15年前、湯島浩太を殺したのは、おまえか?」
その瞬間、畠山の表情が凍りついた。
「おまえなんだな?」
「ち、違う!」
「当時の防犯カメラの映像を見て、おまえに似ているという証言もある。おまえが殺したんだろう?」
「オレは頼まれただけなんだ!」
「頼まれた? 誰に?」
「そ、それは……」
再び畠山は口をつぐんだ。その瞬間、草間は今回、零を拉致するように命令した人物と、15年前に湯島を殺害するように畠山へ依頼した人物が、同じであることを直感的に理解した。それはジェームズも同様であったらしく、微妙な表情をして草間を見上げていた。
「ジェームズ……」
「仕方ありませんね」
短く嘆息し、ジェームズは立ち上がった。
ここから先は誰にも見られたくないという思いがジェームズにはあった。これを実施すれば確実に畠山は情報を話すだろうが、2度と社会復帰できなくなることも考えられる、と。
そして、薄暗い倉庫に畠山の悲鳴が反響した。
零を救出した2日後。シュラインは歌舞伎町のゴールデン街を訪れていた。相変わらず午前中のゴールデン街はひっそりとしており、客の姿などどこにも見当たらない。
「雪華」の前へ来ると、今日は看板が出ていなかった。休みか、と思いながらも試しにドアノブへ手をかけてみると、鍵はかけられておらず、ドアはゆっくりと開いた。
「いらっしゃいませ」
シュラインが扉を潜ると同時に柔らかな声がかけられた。カウンターの内側には、いつもと同じ位置に和服を着た冬華が立っていた。そんな冬華を見つめながら、シュラインは入口に立ったまま言葉をつむいだ。
「今日は休みですか?」
「いいえ。そういうわけではないの。どうぞ、お入りください」
冬華に促されてシュラインは2日前と同じ席に座った。
「なにを、お飲みになられますか?」
「ソルティ・ドッグを……」
「かしこまりました」
そう冬華は答えると、カクテルグラスの縁に塩を盛り、ミキシンググラスに氷とウォッカ、グレープジュースを注いで軽く混ぜ、それをカクテルグラスに移した。
目の前に差し出されたグラスを手に取り、シュラインは口をつけた。
「畠山と須田が自供しました」
不意にシュラインは言った。
だが、冬華は驚いた様子もなく、静かにシュラインを見つめながら答えた。
「そうですか。2人は警察に?」
「いえ。まだ、こちらで身柄を確保しています……自首する気はありませんか?」
恐らく、冬華には殺人教唆の罪が問われることになるのだろう、とシュラインは思った。畠山に湯島の殺人を依頼したことへの償いをしなければならない。
冬花は答えず、おもむろに煙草を取り出した。
「なぜ、湯島を殺させたのですか?」
「……雪華の仇ですから」
煙を吐き出しながら、ポツリと冬華は言った。
「仇?」
「雪華は死んだんです。覚醒剤中毒で」
その瞬間、シュラインは奇妙な納得をしたような気がした。
「でも以前、妹さんは行方不明だと……」
「そう思いたいんです、わたしが。でも、もうどこにもいません。骨すら残りませんでしたから」
重度の覚醒剤中毒者が死亡した場合、その遺体を火葬すると骨がもろくなり、箸でつまめないほどになるという。これは覚醒剤の混ぜ物として使われている、樟脳が原因だとされているが、定かではない。ともかく、覚醒剤中毒者は死んでも骨が残らず、灰だけになると言われるのは、その辺りのことである。
「妹さんは、中毒者だったのですか?」
シュラインの問いに冬華は小さくうなずいた。
「妹に覚醒剤を教えたのは、湯島くんでした」
「カプセル、ということですね?」
再び冬華がうなずいた。
湯島と雪華が恋人同士であった、という以前の冬華の証言を信ずるならば、その発言も理解することができた。ジェームズが調べたように、湯島が本当にカプセルの製造、密売に関与していたのなら、周囲にカプセルの使用を強要した可能性は否定できない。
また、湯島自身も重度ではないにしろ、覚醒剤中毒者であった可能性も充分に考えられた。湯島の父親の話では、火葬した湯島の遺体は骨が残らなかったという証言はなかった。しかし、だからといって中毒者でなかったと断ずることはできない。
覚醒剤中毒者に限らず、薬物中毒者は仲間を求める傾向にある。これは主に、自分が社会から逸脱しているという意識が心の奥底にあるため、とされているが、そうした心理から薬物中毒者は周囲の人間、恋人や友人に薬物を勧め、中毒者としてしまうことが決して少なくない。
「では、なぜ湯島の殺害現場に花を供えていたのですか?」
それはシュラインにとって大きな疑問であった。少なくとも、これまでの冬華の言動から見て、湯島に対する愛情のようなものを感じこそすれ、憎しみは感じなかった。だからこそ、彼女が湯島を殺したとは考えなかったのだ。
「一種の贖罪、でしょうか。妹は湯島くんを愛していました。でも、わたしも湯島くんが好きでした。けど、妹が死んだとき、彼を好きだという気持ちよりも、わたしから妹を奪ったことへの憎しみのほうが勝ってしまった」
「だから、畠山に殺人を依頼したのですか?」
冬華はうなずいた。
「彼らは殺すつもりなどなかったようでした。カプセルのことで揉めていたようでしたから、少し痛めつけるだけのつもりだったのでしょう。でも、結果的に湯島くんは亡くなり、わたしの望みは叶えられました」
その言葉を聞きながら、シュラインはこの2日間、冬華について調べたことを思い起こしていた。彼女の現在の旦那は、とある暴力団の組員とされている。正式に籍を入れているわけではなく、内縁の妻ということになるのだろう。
畠山が恐れたのは冬華ではなく、彼女の夫だったのだ。そして、零を拉致するように畠山へ強要したのも、この旦那であると思われた。冬華に迫る捜査の手を知り、それを食い止めるために動いたのだろう、と草間が判断していた。
「けど、憎しみは長続きしません。わたしは、すぐに後悔しました」
「だから、花を供え始めたのですね?」
「はい」
冬華の心では湯島に対する愛情と憎しみ、2つの感情がせめぎあっていたのだろう。15年前、たまたま憎しみのほうが勝ってしまったというだけのような気がシュラインはした。もし、湯島への愛情が勝っていれば、こんな事件は起きなかったかもしれない。
「自首、してくれませんか?」
再びシュラインは訊ねた。
「今日は、こんなことになるのかもしれないって思っていました。だから、看板を出さずにいたんです。もしかしたら、妹からの罰なのかもしれませんね」
冬華はどこか自嘲めいた笑みを浮かべた。その表情を見つめ、シュラインはカクテルグラスに口をつけた。
塩を盛ったソルティ・ドッグが、微妙に苦く感じられた。
完
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
5128/ジェームズ・ブラックマン/男性/666歳/交渉人&??
NPC/草間武彦/男性/30歳/草間興信所所長、探偵
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■ ライター通信 ■
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毎度、ご依頼いただきありがとうございます。九流翔です。
遅くなりまして申し訳ありません。
長らくお付き合いいただき、誠にありがとうございました。これにて「過去との決着」は終了となります。
では、またの機会によろしくお願いいたします。
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