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<東京怪談ノベル(シングル)>


秋天之聲


 名を呼ばれ、藤宮永は反射的に返事を返す。
 振り向けば、そこにいたのは、永が教えている書道教室の生徒のひとりである、白髪雑じりの初老の女性だった。
「はい? どうされましたか?」
 身丈の違う彼女が告げるであろう言葉を確りと聞き止めるため、永は僅かに膝を屈め、彼女の目を覗きこむような姿勢をとって微笑んだ。
「先生、アタシね、一昨日まで山形の方に行ってきましてね」
「息子さん方と温泉でしたっけ? お孫さんも喜ばれたでしょう」
「まあ、孫もね、もう来年小学校なんですよ。ねえ、早いものでしてねえ」
「ええ、本当に。時の経つのは実に早いものですね」
「それでね、先生。アタシ、先生にもお土産を買ってきたんですよ」
 孫の話を嬉しそうに語る彼女の言葉に、ひとつひとつ丁寧な相槌をもって聞き入っていた永は、そこで、はたりと目をしばたかせる。
「お土産? ……私に、ですか?」
 確認の意味もこめて訊ねると、彼女は「そうですよ」と頷きながら、手にしていた一枚の卓布を持ち上げた。
「これね、先生。しな布っていうのはご存知?」
 差し伸べられたそれは、濃紅と群青とで美しいグラデーションをつけた織のなされたものだった。
「しな布ですか。これはまた、素晴らしい……」
 眼鏡の奥の双眸をゆったりと細め、卓布を手に取りながら、永は感嘆の息を小さく吐き出す。
 永よりも随分と長い時間を歩んで来た彼女は、祖母が孫を見るような目で永を仰ぎ、うんうんと頷いて、そうして帰途に着いていった。

 永は卓布を自室へと持ち帰ると、早速、それを部屋のあちらこちらへと移し置いては、満足そうに頬を緩めていた。
 素朴な織の成されたしな布が持つ味わいもあってか、それを一枚敷いてみるだけで、部屋の中にある空気ですらも優しいものになっていくように思える。
 窓辺に敷き、その上に一輪挿しを置いてみた。
 季節はこれより秋へと移り変わっていく。コスモス、モミジアオイ、ニシキギ、ススキ。秋を報せる花々を生けて飾り、そうして秋の月を眺め仰ぐ――そうした時間に、この卓布は充分たる存在感を主張してくれるだろう。
 
 そも、しな布とは科布と書き、藤布・楮布・麻布と同様、原始織物の一つとして数えられる織物だ。
 山間部に自生する喬木であるしなの木を原料にした樹皮繊維で織られたしな布は、歴史的に見れば北方、アイヌ文化圏に属する織物である。故に、しな布の『しな』は結ぶ・縛るという意味を持つアイヌ語を語源としているという。
 実に1400年余の歴史を誇るこの織物は、今となっては新潟や山形といった、雪深い山里で継がれているばかりなのだとされている。
 この卓布を土産にと持って来た彼女の笑みを思えば、永の表情もまた自然と綻びを覚える。
「……ほんまによろしいものですわなあ」
 どかりと床に腰を据えて、永はしばし卓布と一輪挿しとに目を奪われていた。

 ――――なんでやろ? 機織は女の人の仕事やのに、なんで父なんやろか?

 不意に、子供の時分に抱いていた疑問が頭を過ぎる。
 永は浮かんだ記憶に目を細ませながら、自答するかのように口を開けた。
「そうやなあ……ほんなら教えたろか」
 誰に向けたものでもなく、ひとり、静かに、そうごちる。
 風が卓布の端をさらりと舞わせた。

 
 布という字は巾と父を意味する音符で形成されたものである。木槌を手にした父という意味を含んだ字面であるというのだ。
 まだ幼い時分より、永は文字に関する意味等を調べ、それを知るのが好きだった。漢和辞典を手始めに、あらゆる書物に手を伸ばしては、欲するままに知識を吸収していくのだ。それは同年代の子供達がゲームや漫画に夢中になるのと同じで、永にとっては知識欲をも満たしてくれる興味深い遊びの一種だったといえようか。
 ともかくも、その中で、『布』という文字に関する意味等を調べていた矢先、件の意味を含んだものであるという記述を目にしたのだった。
「なんでやろ? なんで男の人なんやろか」
 布を織るのは女性が担う仕事だと認識していた永にとり、この疑問は中々に厄介な難題であった。なにしろ、木槌を手にした男という意味合いは、それまで抱いていたイメージからは随分とかけ離れたものであったのだから。
「ってか、なんで木槌なんやろか?」
 小さな疑問は、積み重なっていけば、やがて大きな壁を創り出すに至る。
 子供だった永は、はたと行き詰まり、小さな唸り声をあげて腕を組んで思案に耽ったのだった。
 むろん、歳を重ねた今となっては、その意味も答えもなるほどと把握する事が出来る。
 
 
 日本においての織り物に関する歴史は、弥生時代にまで遡るともされている。
 紡錘を用いて繊維を撚り、これで糸を作り出す。出来た糸をかせで巻き、織機で織る。こういった工程を経て、布はようやく形を成す事が出来るのだ。
 こういった作業は永が抱いていたイメージの通り、確かに女性が主流となって継いでいくものだった。
 現在ではなんという事もなく手にする事の出来る布も、古代においては貴重な物であったのだ。
 後に学んだ流れとして、布というものが出来る前の時代では、樹皮や動物の皮等が衣服の材料として用いられていたという。植物繊維を編んで作った編布は、しかし、非常に目の粗いものであったとも伝わっている。
 この難点を解決すべく生み出されたのが織機であり、これで織られた布は織布と称されていた。
 苧麻、大麻、木綿が主たる原料として用いられた植物繊維。対し、動物繊維とは絹を指す。
 機織りは女性が担う仕事。そして、樹皮や皮等をなめしたりするのは男性の仕事であったとされている。
 なるほど、故に、『木槌を手にした父親』が由来となった字面であるのだ。それを知った時には、まさに目から鱗といった心境であったのを、今でも色濃く覚えている。
 物が持つ歴史とは、かくも深いものなのだ、と。そうして改めて、文字が持つ魅力――その面白さを再認識したのだ。
 己の中にある知識欲というものが、留まる事なく増幅していくのを、しみじみと感じ取りながら。


 風がかたかたと窓枠を鳴らした。
 ふと現実へと立ち戻った永は、ゆるゆると首を動かして、いつの間にか時間が経っていたのを知った。
 窓の外にある風景は、既に、夕暮れの刻を間近に見た色を浮かべている。
 幾分強くなった風から逃れるために、永は窓に手を伸ばして空を仰ぐ。
 西の空がぼうやりとした紅と、織り交じるように、薄っすらとした青とで覆われていた。対し、東側に目をやれば、そこには既に夜の気配が息吹をあげているのが判る。群青にも似た色を浮かべ、糸くずのような月が白々とした光を放っていた。
 秋の気配を感じさせる風が、空を静かに震わせている。
 庭先で伸びているススキが、その風を受けてさわりと鳴った。
「……月見にはまだ少ぅし早いけどな」
 呟いて肩を竦めつつ、永は自室を後にした。
 卓布を敷き、その上にススキを飾って、欠けた月を仰ぎ見ながらの晩酌も良いものだろう。

 のんびりと廊下を歩き、和装の袖に両手をいれる。
「今度、あのバアちゃんに、またちゃあんと礼をせんとなあ」
 永は、いいもんを貰うたわと微笑み、やがて、板張りの廊下の向こうへと消えていった。



 ―― 了 ――




 
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.

2006 September 14
MR