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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


想い深き流れとなりて 〜3、いたずら小鬼の狂詩曲

 ――三途の川が浅くなるということは……、この世に生者と死者が混在してしまうこと……
 菊坂静の胸の中で、焦りを含んだ声が弾けた。
 ――駄目だ……、出てくるな、僕の中から出てくるな……!
 静はきつく胸を押さえ、強く念じた。二度、三度、念じた頃だろうか、静の中のざわめきは不満げな雰囲気を残しながらも鎮まった。
 往来を歩く人々が、青ざめた顔の静をちらと振り向いて通り過ぎて行く。静は小さく息をついた。
 小学校の桜の下の霊たちに、三途の川が浅くなっていたという話を聞いてから、静の中の「もの」はざわめき続けている。昼といわず夜といわず表に出てこようとするのだ。それが慌てるのも分からないではないのだが、静にとってはそれが表に出てくるのもまた脅威でもある。
 胸の中のざわめきが一応ながらも鎮まったのを再び確かめ、静は足を進めようとした。その時。
「すみませーん、誰かゴンタを捕まえてくれませんか?」
 そんな甲高い声が聞こえた。
 ふと見れば、少し先の古本屋の前に、籠を持った少女が立って叫んでいる。さして人通りの多い道ではないが、通りがかる数人の人は、皆それを興味深げに振り返るだけで、足を止めようとはしない。
「どうしたんですか?」
 静が声をかけると、少女――近くで見ると、どうやら少女ではなく、静より少し年下の少年のようだった――は、きらきらと目を輝かせて静を見上げた。
「こんにちは。ゴンタを捕まえてくれませんか?」
 その顔は、あたかも静がそれを引き受けることを確信しているかのような期待に満ちている。
「ゴ……ゴンタ? 犬、なのかな……」
 飼い犬が逃げて困っている、という状況なのだろうか。静はあまりに少なすぎる情報をなんとかつなぎ合わせようとした。彼が手に持っている籠を見る限り、ゴンタは小型の室内犬なのだろう。
「そのゴンタの毛の色とか長さとか、あと、首輪とかはしてるの?」
「ええと……、髪の毛は緑色で、短いです。首輪はしていません」
「緑?」
 にこにこと返ってきた答えに、静は思わず首をひねった。緑の犬なんて聞いたことがない。それに髪の毛って何だろう。
「なんか、ゴンタを探してくれとか何とか聞こえてきたけど……ここ?」
 静が頭をひねり続けていると、そこに新しい声が降ってきた。見れば、静と同年代くらいの茶髪の少年が人の良さそうな笑みを浮かべている。
「あ、あなたもゴンタを捕まえてくれるんですか?」
 少年は再びあの期待に満ちた顔を、新たな客に向けた。
「いいよ、協力するよ。で、俺「も」ってことは、こちらも?」
 茶髪の少年は愛嬌のある目をくりくりさせて静の方に目を向けた。
「そうです。この人もゴンタを捕まえてくれるんです。えっと、お名前は……」
 少年は相変わらず無邪気に答えると、そこで初めて静を振り返った。
「菊坂静です」
「静さんですね。僕は李煌(リーファン)です」
 少年はまたまたにこりと微笑んだ。
「どうぞよろしく……」
 何となく反応がずれている気がする、と胸の中だけで溜息をついて、静はとりあえず挨拶を返す。
「俺は弓削森羅(ゆげしんら)。どうぞよろしく」
 茶髪の少年はこの奇妙な流れを気にする風もなく、かといって無理に話題に割り込んだ、という風もなく、ごく自然に人なつこい笑みを浮かべた。どこかで聞いた名だと思いながら静も微笑みを返した。
「あら、あなたが弓削森羅くん?」
 と、そこに耳に心地よい女性の声が聞こえてくる。
「静くんもこんにちは。李煌くんはお久しぶりね」
「あ、シュラインさん! あの時はありがとうございました」
 振り向くと、昨日も会ったシュライン・エマがコケティッシュな笑みを浮かべていた。李煌がいち早く声を上げたところを見ると、シュラインは過去にも李煌の手助けをしているらしい。
「こんにちは。ええと、どこかで……」
 森羅もどこか心当たりのあるような顔で、シュラインに返事を返す。
「会うのは初めてね。ほら、こないだの朱美さんと愛実さんの件で」
 そのシュラインの言葉で、静もはっきりと思い出した。先日の件では、直接顔を合わせなかったが、殺し屋に狙われていた大川愛実のフォローをしてくれていた高校生がいた。草間から名前を聞いただけだが、確かにその名は弓削森羅といったはずだ。
「ああ、あの時はどうも」
 森羅も思い出したらしい。その顔がぱっと晴れた。
「夕霧さーん、ゴンタを捕まえてくれる人が来てくれましたよー」
 奇妙な縁での再会にわいわいやっている3人を尻目に、李煌は店の奥へと駆け込んで行った。
「それにしてもゴンタって言われたらさあ、のっぽで工作好きなおじさんの相棒を思い出すんだけど」
 その後ろ姿にちらと目をやって、森羅が呟いた。
「のっぽで工作好きのおじさん?」
 何かそういうはやりの漫画でもあるのだろうか。静は思わず目を瞬かせながら、森羅の顔を見た。
「あ、知らない? いや、知らないならいいんだけど」
 森羅は軽く照れ笑いを浮かべて手を振った。
「確かに、妙にフガフガ愛らしい名前ねぇ」
 後ろでシュラインがくすくすと笑う。
「でしょ! でしょ! やっぱりゴンタっていったらアレですよね」
 森羅が、我が意を得たり、とばかりに手を叩いた。どうやらこの2人の間には、静の知らない何かが共有されているらしい。
「わざわざ済みませんねぇ。うちのゴンタが手間をかけてしまいまして」
 どこかのんきな声が聞こえて、店の奥から細身の青年が姿を現した。どうやら彼が李煌の言う夕霧らしい。
「いえいえ。……で、そのゴンタというのはどういう犬なんですか?」
「犬?」
 静の質問に、夕霧は目を瞬いた。そして、李煌の方を振り返る。
「駄目じゃないですか、李煌くん。ちゃんと説明をしないと」
「はい、ごめんなさい」
「ごめんなさい、うちの子がお騒がせして。ゴンタというのは小鬼のことなんです。まあいわゆる天の邪鬼というやつの仲間だと思っていただければ結構です。ただ、本を書き変えるのを専門にしているだけで」
 軽い溜息の後に、夕霧は説明を始めながら3人を中へと案内した。とりあえず腰を落ち着けるよう、店の片隅に並んでいた丸椅子を勧める。
「小鬼かぁ……」
 椅子に腰を下ろしながら静は1人呟いた。どうりで李煌と会話がかみあわなかったはずだ。
「普段は、ごく罪のない悪戯をする子なんです。悲劇ものをハッピーエンドに書き変えるのが主なのですが、それも一晩程度で自然に元に戻ります。まあ、その程度の悪戯なので、たまにはストレス解消も必要だろうと、時々散歩に行かせるのですよ」
 そうしている間にも夕霧の説明は続いた。
「今回は半月程前に散歩に出たのですが、まだ帰ってきておらず、かつここ数日は本に入り込んだ形跡もないのです。本に入っているなら、居場所を突き止める術もあるのですが、そうでないとなると僕たちではお手上げなのです。それに……、どうも暴走しているようなのです」
「暴走というと?」
 軽く言い淀んだ夕霧に、森羅が身を乗り出した。
「ゴンタは普段は悪戯する書物はちゃんと選んでいます。けれど、学術書や事実を記した書のような、書き変えてはいけない書物に手を出してしまったり、人に取り憑いてしまうこともあり得ます」
「人に取り憑くとどうなるんですか?」
 今度はシュラインが口を開いた。
「端から見れば、文字通り『人が変わった』ようになるのは確かですね。あと、その時のゴンタの状態にもよるのですが……、そうですね、何かの強迫的な考えに取り憑かれたようになる可能性が一番高いですね」
「つまりは、恐慌状態に陥っているような感じですか?」
 静が聞くと、夕霧はゆっくりと頷いた。
「ええ。ゴンタが直接人を襲うことはないのですが、そうなると憑かれた人が寝食を忘れたり、不注意で事故に遭ったりと、結果的に人に危害を加えてしまうことはあり得ます。ゴンタにとっても良い影響はありません……。ですから、ゴンタを連れ戻して頂きたいのです」
「うん、手伝うよ。それでさ、そのゴンタって店から出てどのくらいの範囲で行動するのかわかんねぇかな。ある程度絞り込めたら探すのも楽だと思うんだけど」
 森羅がさっそく口火を切る。
「ええ、それに加えて彼……でいいのかしら、本を書き変えるのにかかる時間だとか、連続で可能かどうか、あと過去に暴走した時のきっかけや状況とかも詳しく教えてもらえないかしら」
 シュラインがさらに何点か質問を加えた。
「ゴンタの行動範囲ですね……。すばしっこい子ですけれど、何分小さいので、そうですね、僕たちの感覚だと、自転車で行動できる範囲内といったところでしょうか」
 軽く首をひねりながら夕霧が答える。
「本を書き変えるのは、その時にもよりますが、長くても数十分くらいですかね。ゴンタは書き手と読み手の想いに反応して悪戯しに行きますから……、次が見つかれば早いですし、ゆっくりしていく時もありますね。そして、あまりに強い……というより狂おしい想いにぶつかると、暴走してしまうようです」
「じゃあ……、例えば死亡したばかりの方の日記に入って、その想いなんかにあてられてしまうこともあるのかしら?」
 シュラインが思慮深げな顔で言い募る。
「ずいぶんと具体的なたとえですね」
 夕霧が目を瞬く。
「いえ……ね。実は、最近、幽霊騒ぎが多くて、どうも三途の川が浅くなっている、という話も聞いたことだから。直接は関係ないのかもしれないけれど、時期的にどうしても気になって」
「そうですね……。ただ、日記というのはまずないと思います。先ほども言いましたように、ゴンタはどちらかというと読み手の想いに反応します。日記みたいに、読み手のいない書き物にはあまり潜り込まないと思うんです」
 夕霧がふーむ、と唸りながら答えたその時。
「夕霧さん、出ましたよー」
 李煌が紙束を手に、店の奥から出てきた。
「ありがとうございます、李煌くん」
 夕霧はそれを受け取り、ぱらぱらと目を通しているようだった。が、次第にその顔が険しくなっていく。
「どうやら、その三途の川の話と今回の一件も関係あるようですね……。ゴンタが悪戯した本をさかのぼって調べてみたのですが、ゴンタが最後に潜り込んだのは、四日前、この近くにある公立図書館の本です。そこで、かたっぱしから『死』という言葉を消しているみたいですね……」
「『死』を消す……」
 ぞくり、と胸の中で再びざわめいたそれを、静はまた、必死で押しとどめた。
「ええ……、手当たりしだいにやっているようですから、この時点で既に暴走していたと考えるのが妥当ですね。そして、おそらく、図書館にきていた誰かに取り憑いたのでしょう」
「つまり、死を否定しようとする誰かの狂おしい想いにあてられた……と考えればいいのかしら?」
「おそらくは。ただ、図書館で膨大な量の本に潜り込んでいますから、その前まで辿るのには時間がかかりそうですが」
 シュラインの言葉に、夕霧は頷いた。
「とりあえず、ゴンタを捕まえるには、図書館の周辺を当たるしかなさそうだな。ところでさ、ゴンタが悪戯することが多い話の本って何? ひょっとしたら役に立つかもしれないしさ、持って行きたいんだけど」
 森羅が軽く髪をかきあげた。
「そうですね。やっぱりゴンタが書きかえることが多いベストタイトルはこれでしょうね……」
 夕霧はゆっくりと立ち上がると、本の山の中から古びた絵本を引っ張り出した。そのぼろぼろになった表紙には丸みを帯びたロゴで「にんぎょひめ」と書かれている。
「人魚姫の幸せを願ったことのない人なんていないでしょうから」
「わかったよ、ありがとう」
 森羅が元気よく本とゴンタの籠とを受け取った。
「じゃ、行こうか」
「よろしくお願いします。こちらではゴンタの足取りを引き続きさかのぼっておきますね」
 夕霧がぺこりと頭を下げた。小鬼の身を案じているのか、その顔は曇っていた。

「あれが図書館みたいね」
 蝉の大合唱を浴びながら真夏の太陽に炙られること数十分。前方に広がる公園の木立の向こうに垣間見えたベージュ色の建物を指差したシュラインの声には、安堵の色が混じっていた。
 3人揃ってドアの前に立てば、軽いモーター音を響かせて自動ドアは開き、図書館独特の静寂とほこりの混じった本の匂い、そして冷たい空気が流れ出た。
「ああ、涼しい。やっぱこれだよなぁ、図書館は」
 森羅が大きく息を吐く。見るからに健康的なこの少年にとって、きっと図書館とは涼みにくるところなのだろう。
 もっとも、それは森羅だけに当てはまることではないようだ。一階の絨毯スペースには子どもたちが思い思いの姿勢でくつろいでいるが、ボールやバット、虫取り網を持っている者はいても、本を手にしている者はほとんどいない。中二階の貸し出しカウンターの中では、職員が退屈そうにあくびをかみ殺していた。
「普通に考えたら、教えてもらえるとは思えないけれど……、一応聞いてみましょうか」
 シュラインがカウンターの方を指差した。森羅と静も頷いて、階段に足をかける。
「こんにちは」
 やはり退屈していたのだろう、視線が合うなりカウンターの中の中年の女性が声をかけてきた。見るからにおせっかいタイプという印象を受けるいわゆる「おばさん」だ。
「あの、ひとつお伺いしたいのですが」
 シュラインが改まって話を切り出した。
「最近、この図書館で人が暴れたというか、ちょっと騒いだとかそういうことはありませんか?」
「そうねえ……」
 それ自体は決して感心できる行為ではないが、今の状況としては好都合なことに、その女性は何の屈託もない様子で、記憶を辿っているようだった。
「ちょうど四日ほど前かしら……、ええ、四日前で間違いないわ。よくここの公園に遊びに来がてら涼んで行く男の子がいるんだけど、なんか下のフロアで叫んでたわね」
「男の子が叫んでた?」
「ええ、『コロは死んでない』とかそんなんだったんだけど、その叫び方が普通じゃなくって……、その子のお母さんは、飼い犬が死んだのがまだわからないみたいで、と言ってたけど、なんか目はすわってたし、ちょっと心配ねぇ」
 静たちは顔を見合わせた。四日前という時間の符合、そして、死を否定するというキーワード、かなり怪しい。
「できればその子に会いたいんですが……」
「夏休み中、毎日そこの公園に遊びに来てるわよ。あれ以来、友達とは喧嘩ばっかりのようだけど……、今日はまだ来てないわね」
 女性が窓の外を見下ろして言う。
「そうですか、ありがとうございました」
 丁寧に礼を述べ、3人はカウンターを離れた。そのまま、手近なテーブル席を陣取る。
「やっぱり怪しいっすよね、さっきの話」
 周囲に迷惑にならないよう、声をひそめて森羅が囁いた。
「そうですね、僕もそう思います」
 静が頷くと。
「ね、静くんて年いくつ?」
 不意に森羅が顔を近づけて来た。
「15です……。高校一年生の」
「わ、なんだ、タメじゃん。じゃ、俺に敬語なんか使うのよそうよ。呼び方も『森羅』って呼び捨てでいいからさ。てか、俺も『静』でいい?」
 よく動く目をくりくりとさせながら、森羅は矢継ぎ早に言葉を継いだ。
「は、はぁ……」 
 その勢いに半ば圧されて、静は頷いた。
「んでさぁ」
 森羅がさらに言葉を続けようとした時。
「外から言い争いの声が聞こえるわ。死んだとか死んでないとか……、例の子じゃないかしら」
 席から立って、窓の方へと移動しながらシュラインが言った。
「シュラインさん、耳いいすね」
 森羅が感心したような声を上げる。静もすぐに立ち上がって窓から下を覗き込んだ。
 窓から見える公園では、小学校低学年くらいの男の子が1人立って、何かを叫んでいた。それに向き合うようにして数人の男の子が立っているのだが、どうも多対一の争いという感じではない。1人の子が叫んでいるのに、周りはどうやら戸惑っているようだ。
「行きましょう」
 シュラインの言葉に、森羅も静も頷き合った。

「だからぁ! 死んでない! 絶対死んでないんだ!」
 自動ドアが開くと、外の熱気と共に、甲高い男の子の声が飛び込んでくる。幼さを残した声、本来はどことなくほほえましく思えるはずの内容ながら、そこにはどこか背筋が寒くなるような鬼気迫る響きがあった。
「どうしたの?」
 シュラインがよく通る、それでいて柔らかい声色で声をかけた。少年たちが一斉にこちらを振り向く。叫んでいた男の子の顔が、静にもはっきり見えた。三白眼のつり上がった目には明らかに尋常でない色が宿り、何かに憑かれていることは間違いなさそうだ。
 静たちは足を緩めず、そのまま少年たちに近寄った。
「どうしたの?」
 再びシュラインが、優しい声で尋ねる。
 厄介な仕事を代わってもらえると思ったか、周りをとりまいていた少年たちがばらばらと去って行った。
「……死んでないんだ。絶対に死んでない」
 シュラインを睨み据えてそういう少年の手には、からからにひからびた蝉が握られていた。少年があまり強く握りしめるので、羽が欠けてぽろぽろとこぼれ落ちる。
「……そう、大丈夫よ」
 シュラインがなだめるように言うと、少年はぎょろりとした目をシュラインから森羅に、そして静に向けた。が、静と目が合った途端、びくりと身をすくませた。その小さな身体が、かたかたと震え出す。自分の中の死神の存在を恐れているのだと、直感的に静は察した。
 次の瞬間、少年はくるりと踵を返すと、脱兎の勢いで駆け出した。まるで前も見えていないという勢いで、このままでは道路にでも飛び出してしまいかねない。
 そう思ったときには、静も地面を蹴っていた。自分でも思いがけないほどに伸びた腕が、しっかりと少年を捕まえる。
「うわああああああ」
 まさしく恐慌状態に陥って、少年は静の腕の中で激しく暴れた。
「大丈夫、大丈夫、誰も傷つけたりしないよ、絶対に」
 静は少年を抱きとめる手に力を込めながらも、何度も何度も優しく囁いた。
「怖くないよ、怖くなんかないよ、大丈夫……」
 何度も何度も繰り返す。自分は魂を狩りに来た死神などではないと、心で念じ、この身体の温もりがこの子に伝わるようにと。 
 そうしてどれくらいの時間が経ったろうか。不意に、少年の身体から力が抜けた。
「あれ……」
 少年のつぶやき声を聞いて、静は手の力を緩めた。
「僕……」
 自由になった少年は、目をしぱしぱと瞬いて、不思議そうに周囲を見回した。まさにその顔は「憑き物が落ちた」顔だった。
「ゴンタならこっち来たよ」
 森羅が人魚姫の本の表紙を軽く叩いて、それを籠の中へと入れた。
「そう、よかった」
 静も小さく息を吐く。
「あ、蝉……。死んじゃった……」
 ふと、手の中の蝉に気づいたのか、少年がぽつりと呟いた。
「そうね……。お墓、作ってあげましょうか」
 シュラインが優しく少年の肩を叩く。少年は口を引き結んだままで、小さく頷いた。
 誰もが黙ったままで、蝉の亡がらを公園の隅の木の根もとに埋めた。そこに太めの小枝を刺して、少年はそれをじっと見据えたままで手を合わせる。
「蝉、死んじゃったんだね」
「そうだね」
 ぽつりと漏らした少年に、3人はそれぞれゆっくりと頷いた。
「コロも……、死んじゃったんだ」
 抑揚のない声で、少年はさらに呟いた。
「そう……、悲しいわね」
 シュラインが穏やかに返す。
「でも、きっとコロも、死んでも君たちと楽しく過ごしたことは忘れないでいるよ」
 静が言うと、少年は初めて顔を上げた。
「本当?」
「ああ、本当だよ。だからあんまり悲しそうな顔してると、コロがかわいそうだぞ」
 森羅が悪戯っぽく片目を閉じた。
「そっか……」
 少年の顔がぱっと晴れた。
「じゃあ、僕、もう悲しそうな顔しないよ。お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう」
 少し張りの戻った声でそう言うと、3人に手を振りながら少年は帰って行った。
「さて、俺たちも帰るか」
 森羅が本の入った籠を掲げてみせた。
「ええ……、あ、静くん、血が出てる」
 それに頷いたシュラインが、静の腕を指差した。
「あ……」
 どうやら、先ほど少年が暴れたときに何度か引っ掻かれたらしい。
「大丈夫です、このくらい」
「駄目よ、手当はきちんとしておかないと。本屋に戻って薬箱を借りましょう」
「あ、これくらいなら何とかなるっすよ」
 森羅が持ち物の中からごそごそと符を取り出して、静の腕にかざした。ほどなくして、傷はきれいに消えていった。
「へぇ……、符術ねぇ。見かけによらないわね」
「ええ、まあいろいろとありましてね」
 シュラインが感心したように言うのに、森羅はひひひ、と笑って返した。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして……、でも『ございます』はいらないっ!」
 静が礼を述べると、森羅はびしっと指を突きつけた。
「は、はぁ……」
「ま、戻るとしましょ」
 シュラインがくすくすと笑った。

「ありがとうございました。ゴンタは……、疲れて眠っているようですね」
 籠を受け取り、夕霧は深々と頭を下げた。
「ところで……、どうしてそんなに暴走なんてしちゃったんでしょう」
 静はずっと抱いていた疑問を唇に乗せた。いくら強い想いにあてられたとはいえ、あまりに狂おしかった小鬼の様子がどうしても心に引っかかる。
「ええ、あれからゴンタが潜り込んだ本をさかのぼって調べてみたのですが、どうも、暴走のきっかけはこの本のようです」
 夕霧は傍らに置いてあった本を差し出した。
「あ、もちろんこの本自体じゃないですよ……。『希望の会』とかいう宗教団体が最近出した本ですね。中身は、強い想いがあれば、どんな苦難も乗り越えられるんだ、というようなことを実例を出したり、言葉を変えたりしながら強調しているような感じで、私たちと一緒に頑張りましょうという、まあ教団の宣伝本です。直接死を否定するようなことは書かれていないんですけどね……」
「そうですか……」
「まあ、何がどうなって、というのはわかりませんが、ゴンタがあまりに狂おしい想いにあてられてしまったのは間違いないでしょう。もともと、人の心には敏感な子ですし、世相が荒れると真っ先に影響を受けてしまいます。今回のことはゴンタにも辛かったことでしょう。しばらくは、籠の中で休ませてやることにします。本当に、ありがとうございました」
 再び、夕霧は深々と頭を下げた。
 盛り上がった入道雲の向こうから強い強い夏の日差しが、じりじりと静たちの足下を焼いた。

<了>

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【5566/菊坂・静/男性/15歳/高校生、「気狂い屋」】
【6608/弓削・森羅/男性/16歳/高校生】

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■         ライター通信          ■
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こんにちは。ライターの沙月亜衣と申します。
この度は、当シナリオへのご参加、まことにありがとうございました。毎度のことながら納品がぎりぎりになってしまい、誠に申し訳ございません。
皆様のおかげで、ゴンタは無事捕まえることができました。ありがとうございます。シリーズとしては佳境に入りつつあるので、終わり方としてはすっきりしない部分も残っております。
今回もちょっとずつ違うものを皆様にお届けしていますが、間違い探し程度の違いでございます。お暇でお暇で仕方がない時にでも、他の方の分にも目を通して頂ければ幸いです。

菊坂静さま

第一話からのご参加、まことにありがとうございます。
状況的に静さんには少し辛い思いをされることも出てきたかと思いますが、前回に引き続き優しいプレイングをありがとうございました。

ご意見、苦情等ありましたら、遠慮なくお申し付け下さい。できるだけ真摯に受け止め、次回からの参考にさせて頂きたいと思います。

それでは、またどこかでお会いできることを祈りつつ、失礼致します。本当にありがとうございました。