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想い深き流れとなりて 〜3、いたずら小鬼の狂詩曲
暦の上では秋が立ったとはいうけれど、頭の上には真っ青な空が広がり、入道雲がにょきにょきと湧いている。そして、容赦なく照りつける、白い太陽。
「日傘でもないと、とても外を歩けないわね」
日傘あっても暑いけど、とくるくると頭の上で傘を回しながら、シュライン・エマは思わず呟いた。用事は終わったとはいえ、あまりぶらぶら歩きをしたくなる気候とはいえない。シュラインは、足を緩めることなく、歩を進めた。
「すみませーん、誰かゴンタを捕まえてくれませんか?」
一本向こうの通りから、ふと聞き覚えのある声が聞こえて来た。確か、以前、草間興信所に悪意の書を探してくれと頼みに来た見習い魔術師、李煌の声だ。言葉の内容から察するに、また何か面倒なものを逃がしてしまったのだろうか。
それにしても、ゴンタとはまた、昔の教育テレビに出て来たキャラクターを彷彿とさせる名だ、そんなことを思いながらシュラインは声のした方向へと歩いて行った。
通りを一本向こうに入ると、案の定、古書店の前に籠を持った李煌が立っていた。そして、そのすぐ近くに、シュラインと同じように李煌の声を聞きとめたらしい少年が2人。しかもそのうちの1人は、昨日小学校の桜の幽霊騒ぎで一緒に調査したばかりの菊坂静(きっさかしずか)だった。
「そうです。この人もゴンタを捕まえてくれるんです。えっと、お名前は……」
李煌が嬉しそうにもう1人の茶髪の少年に向かって静を紹介しているのが聞こえてくる。が、どうやら肝心の名前を聞いていなかったらしい。李煌はくるりと静の方へと向き直った。
「菊坂静です」
「静さんですね。僕は李煌です」
もう片方の少年に紹介するのかと思いきや、李煌はそのままにこりと静に挨拶を返す。
「どうぞよろしく……」
静の方も、戸惑いがちにそれに何とか返事を返していた。
「俺は弓削森羅(ゆげしんら)。どうぞよろしく」
見事に無視されたような形になったわけだが、茶髪の少年は気を悪くする風でもなく、流れに乗って自らも名を名乗った。その名に、シュラインはあら、と目を丸くする。先日、興信所を訪ねて来た幽霊の一件で、直接顔を合わせはしなかったが、学園側でフォローをしてくれた高校生がいた。草間から聞いただけだが、確かその名を弓削森羅といったはずだ。
「あら、あなたが弓削森羅くん?」
シュラインは、そのまま声をかけていた。
「静くんもこんにちは。李煌くんはお久しぶりね」
森羅と一緒に振り向いた2人にも、挨拶をする。
「あ、シュラインさん! あの時はありがとうございました」
李煌がきらきらと目を輝かせてにっこりと笑う。どうやら今度も助けてもらう気満々のようだ。
「こんにちは。ええと、どこかで……」
森羅の方は、首をひねりつつ挨拶を返してきた。
「会うのは初めてね。ほら、こないだの朱美さんと愛実さんの件で」
言えば、森羅も思い出したらしい。
「ああ、あの時はどうも」
ぱっと顔を輝かせ、ぽんと手を打つ。
「夕霧さーん、ゴンタを捕まえてくれる人が来てくれましたよー」
奇妙な縁での再会にわいわいやっている3人を尻目に、李煌は店の奥へと駆け込んで行った。
「それにしてもゴンタって言われたらさあ、のっぽで工作好きなおじさんの相棒を思い出すんだけど」
その後ろ姿にちらと目をやって、森羅が呟いた。どうやら森羅もシュラインと同じ連想を抱いたようだ。
「のっぽで工作好きのおじさん?」
だが、静の方はわからなかったらしい。目を瞬かせながら森羅を見返している。まあ、静の年なら知らなくても仕方ないか、とシュラインは心中密かに溜息をついた。それがどんなことであれ、ジェネレーションギャップを感じるのは少々寂しい。
「あ、知らない? いや、知らないならいいんだけど」
森羅は軽く照れ笑いを浮かべて手を振った。そのしぐさがおかしくて、シュラインはくすくすと笑いを漏らした。同年代同士でジェネレーションギャップが生じるというのは、やはり奇妙なものだ。
「確かに、妙にフガフガ愛らしい名前ねぇ」
「でしょ! でしょ! やっぱりゴンタっていったらアレですよね」
助け舟を出すと、森羅は我が意を得たり、とばかりに手を叩く。
「わざわざ済みませんねぇ。うちのゴンタが手間をかけてしまいまして」
どこかのんきな声が聞こえて、店の奥から細身の青年が姿を現した。どうやら彼が李煌の言う夕霧らしい。
「いえいえ。……で、そのゴンタというのはどういう犬なんですか?」
森羅とシュラインの話題に乗り遅れて少し手持ち無沙汰だったのか、静が早速返事を返した。が。
「犬?」
静の質問に、夕霧は目を瞬いた。そして、李煌の方を振り返る。
「駄目じゃないですか、李煌くん。ちゃんと説明をしないと」
「はい、ごめんなさい」
「ごめんなさい、うちの子がお騒がせして。ゴンタというのは小鬼のことなんです。まあいわゆる天の邪鬼というやつの仲間だと思っていただければ結構です。ただ、本を書き変えるのを専門にしているだけで」
軽い溜息の後に、夕霧は説明を始めながら3人を中へと案内した。とりあえず腰を落ち着けるよう、店の片隅に並んでいた丸椅子を勧める。
「小鬼かぁ……」
どうやら勘違いを含んだままで、静は李煌と話を進めていたらしい。1人呟いた彼の声には、どことなく安堵と疲れの響きがあった。
「普段は、ごく罪のない悪戯をする子なんです。悲劇ものをハッピーエンドに書き変えるのが主なのですが、それも一晩程度で自然に元に戻ります。まあ、その程度の悪戯なので、たまにはストレス解消も必要だろうと、時々散歩に行かせるのですよ」
そうしている間にも夕霧の説明は続いた。
「今回は半月程前に散歩に出たのですが、まだ帰ってきておらず、かつここ数日は本に入り込んだ形跡もないのです。本に入っているなら、居場所を突き止める術もあるのですが、そうでないとなると僕たちではお手上げなのです。それに……、どうも暴走しているようなのです」
「暴走というと?」
軽く言い淀んだ夕霧に、森羅が身を乗り出した。
「ゴンタは普段は悪戯する書物はちゃんと選んでいます。けれど、学術書や事実を記した書のような、書き変えてはいけない書物に手を出してしまったり、人に取り憑いてしまうこともあり得ます」
「人に取り憑くとどうなるんですか?」
次はシュラインが口を開いた。
「端から見れば、文字通り『人が変わった』ようになるのは確かですね。あと、その時のゴンタの状態にもよるのですが……、そうですね、何かの強迫的な考えに取り憑かれたようになる可能性が一番高いですね」
「つまりは、恐慌状態に陥っているような感じですか?」
静が聞くと、夕霧はゆっくりと頷いた。
「ええ。ゴンタが直接人を襲うことはないのですが、そうなると憑かれた人が寝食を忘れたり、不注意で事故に遭ったりと、結果的に人に危害を加えてしまうことはあり得ます。ゴンタにとっても良い影響はありません……。ですから、ゴンタを連れ戻して頂きたいのです」
「うん、手伝うよ。それでさ、そのゴンタって店から出てどのくらいの範囲で行動するのかわかんねぇかな。ある程度絞り込めたら探すのも楽だと思うんだけど」
森羅がさっそく口火を切る。
「ええ、それに加えて彼……でいいのかしら、本を書き変えるのにかかる時間だとか、連続で可能かどうか、あと過去に暴走した時のきっかけや状況とかも詳しく教えてもらえないかしら」
シュラインは、さらに数点質問を加えた。
「ゴンタの行動範囲ですね……。すばしっこい子ですけれど、何分小さいので、そうですね、僕たちの感覚だと、自転車で行動できる範囲内といったところでしょうか」
軽く首をひねりながら夕霧が答える。
「本を書き変えるのは、その時にもよりますが、長くても数十分くらいですかね。ゴンタは書き手と読み手の想いに反応して悪戯しに行きますから……、次が見つかれば早いですし、ゆっくりしていく時もありますね。そして、あまりに強い……というより狂おしい想いにぶつかると、暴走してしまうようです」
「じゃあ……、例えば死亡したばかりの方の日記に入って、その想いなんかにあてられてしまうこともあるのかしら?」
シュラインの頭の中からは、最近続いた2つの事件がどうしても離れなかった。生と死の境界が曖昧になっているらしい今の状況が、今回の小鬼の件にも絡んでいるのではないだろうか。
「ずいぶんと具体的なたとえですね」
夕霧が目を瞬く。
「いえ……ね。実は、最近、幽霊騒ぎが多くて、どうも三途の川が浅くなっている、という話も聞いたことだから。直接は関係ないのかもしれないけれど、時期的にどうしても気になって」
「そうですね……。ただ、日記というのはまずないと思います。先ほども言いましたように、ゴンタはどちらかというと読み手の想いに反応します。日記みたいに、読み手のいない書き物にはあまり潜り込まないと思うんです」
夕霧がふーむ、と唸りながら答えたその時。
「夕霧さん、出ましたよー」
李煌が紙束を手に、店の奥から出てきた。
「ありがとうございます、李煌くん」
夕霧はそれを受け取り、ぱらぱらと目を通しているようだった。が、次第にその顔が険しくなっていく。
「どうやら、その三途の川の話と今回の一件も関係あるようですね……。ゴンタが悪戯した本をさかのぼって調べてみたのですが、ゴンタが最後に潜り込んだのは、四日前、この近くにある公立図書館の本です。そこで、かたっぱしから『死』という言葉を消しているみたいですね……」
「『死』を消す……」
静が軽く眉を寄せて呟いた。
「ええ……、手当たりしだいにやっているようですから、この時点で既に暴走していたと考えるのが妥当ですね。そして、おそらく、図書館にきていた誰かに取り憑いたのでしょう」
「つまり、死を否定しようとする誰かの狂おしい想いにあてられた……と考えればいいのかしら?」
「おそらくは。ただ、図書館で膨大な量の本に潜り込んでいますから、その前まで辿るのには時間がかかりそうですが」
シュラインの言葉に、夕霧は頷いた。
「とりあえず、ゴンタを捕まえるには、図書館の周辺を当たるしかなさそうだな。ところでさ、ゴンタが悪戯することが多い話の本って何? ひょっとしたら役に立つかもしれないしさ、持って行きたいんだけど」
森羅が軽く髪をかきあげた。どうやら森羅も、シュラインと同じ策を考えていたらしい。いくら暴走して人に取り憑いているとはいえ、本来本に潜り込む習性を持つ小鬼なら、本の中の方が落ち着くことだろう。うまく本に誘い込めれば捕まえるのも容易くなるはずだ。
「そうですね。やっぱりゴンタが書きかえることが多いベストタイトルはこれでしょうね……」
夕霧はゆっくりと立ち上がると、本の山の中から古びた絵本を引っ張り出した。そのぼろぼろになった表紙には丸みを帯びたロゴで「にんぎょひめ」と書かれている。
「人魚姫の幸せを願ったことのない人なんていないでしょうから」
「わかったよ、ありがとう」
森羅が元気よく本とゴンタの籠とを受け取った。
「じゃ、行こうか」
「よろしくお願いします。こちらではゴンタの足取りを引き続きさかのぼっておきますね」
夕霧がぺこりと頭を下げた。小鬼の身を案じているのか、その顔は曇っていた。
「あれが図書館みたいね」
蝉の大合唱を浴びながら真夏の太陽に炙られること数十分。前方に広がる公園の木立の向こうに、ようやくベージュ色の建物が垣間見えた。
3人揃ってドアの前に立てば、軽いモーター音を響かせて自動ドアは開き、図書館独特の静寂とほこりの混じった本の匂い、そして冷たい空気が流れ出た。
「ああ、涼しい。やっぱこれだよなぁ、図書館は」
森羅が大きく息を吐く。見るからに健康的なこの少年にとって、きっと図書館とは本を読んだり勉強をしたりするところではなく、涼みにくるところなのだろう。
もっとも、それは森羅だけに当てはまることではないようだ。一階の絨毯スペースには子どもたちが思い思いの姿勢でくつろいでいるが、ボールやバット、虫取り網を持っている者はいても、本を手にしている者はほとんどいない。中二階の貸し出しカウンターの中では、職員が退屈そうにあくびをかみ殺していた。
「普通に考えたら、教えてもらえるとは思えないけれど……、一応聞いてみましょうか」
シュラインはカウンターを指差した。
「こんにちは」
やはり退屈していたのだろう、視線が合うなりカウンターの中の中年の女性が声をかけてきた。見るからにおせっかいタイプという印象を受けるいわゆる「おばさん」だ。
「あの、ひとつお伺いしたいのですが」
シュラインは改まって話を切り出した。
「最近、この図書館で人が暴れたというか、ちょっと騒いだとかそういうことはありませんか?」
「そうねえ……」
それ自体は決して感心できる行為ではないが、今の状況としては好都合なことに、その女性は何の屈託もない様子で、記憶を辿っているようだった。
「ちょうど四日ほど前かしら……、ええ、四日前で間違いないわ。よくここの公園に遊びに来がてら涼んで行く男の子がいるんだけど、なんか下のフロアで叫んでたわね」
「男の子が叫んでた?」
「ええ、『コロは死んでない』とかそんなんだったんだけど、その叫び方が普通じゃなくって……、その子のお母さんは、飼い犬が死んだのがまだわからないみたいで、と言ってたけど、なんか目はすわってたし、ちょっと心配ねぇ」
シュラインたちは顔を見合わせた。四日前という時間の符合、そして、死を否定するというキーワード、かなり怪しい。
「できればその子に会いたいんですが……」
「夏休み中、毎日そこの公園に遊びに来てるわよ。あれ以来、友達とは喧嘩ばっかりのようだけど……、今日はまだ来てないわね」
女性が窓の外を見下ろして言う。
「そうですか、ありがとうございました」
丁寧に礼を述べ、3人はカウンターを離れた。そのまま、手近なテーブル席を陣取る。今は待つしかないようだ。
「やっぱり怪しいっすよね、さっきの話」
周囲に迷惑にならないよう、声をひそめて森羅が囁いた。
「そうですね、僕もそう思います」
静もそれに頷いた。
「ね、静くんて年いくつ?」
不意に、森羅がぐい、と静に顔を近づけた。
「15です……。高校一年生の」
「わ、なんだ、タメじゃん。じゃ、俺に敬語なんか使うのよそうよ。呼び方も『森羅』って呼び捨てでいいからさ。てか、俺も『静』でいい?」
「は、はぁ……」
「んでさぁ」
そこから微笑ましい少年たちの会話に――とはいってもやや森羅の方が一方的な感はあるが――突入したのを片耳で聞きながら、シュラインは何気なく窓の外に目を遣った。この暑いさなか、子どもたちが何人か公園に入って来たところだが、なんだか様子が変だ。1人の男の子の周りを、少し離れて数人の子どもが取り囲んでいる。
シュラインは、窓の外へと神経を集中させた。
「だから、どう見たって死んでるじゃないか」
「死んでない! 死んでない!」
困ったような声でそう言う仲間の言葉を、1人の方の男の子がすごい剣幕で否定している。
「外から言い争いの声が聞こえるわ。死んだとか死んでないとか……、例の子じゃないかしら」
よりよく様子をみようと席を立ちながら、シュラインは静と森羅にもそう伝えた。
「シュラインさん、耳いいすね」
静と森羅もすぐに窓際へと寄って来た。窓越しに状況を確認したようだ。
「行きましょう」
シュラインの言葉に、森羅も静も頷き合った。
「だからぁ! 死んでない! 絶対死んでないんだ!」
自動ドアが開くと、外の熱気と共に、甲高い男の子の声が飛び込んでくる。幼さを残した声、本来はどことなくほほえましく思えるはずの内容ながら、そこにはどこか背筋が寒くなるような鬼気迫る響きがあった。
「どうしたの?」
シュラインはできるだけ柔らかい、それでいて力のある声を練り上げた。少年たちが一斉にこちらを振り向く。叫んでいた男の子の顔が、シュラインにもはっきり見えた。三白眼のつり上がった目には明らかに尋常でない色が宿り、何かに憑かれていることは間違いなさそうだ。
「どうしたの?」
シュラインは、先ほどよりいくぶんゆっくりと、優しい声で繰り返した。
厄介な仕事を代わってもらえると思ったか、周りをとりまいていた少年たちがばらばらと去って行った。
「……死んでないんだ。絶対に死んでない」
シュラインを睨み据えてそういう少年の手には、からからにひからびた蝉が握られていた。少年があまり強く握りしめるので、羽が欠けてぽろぽろとこぼれ落ちる。
どう見ても生きている蝉には見えない。だが、そう言ったところで少年はかたくなになるだけだろう。かと言って、少年の言葉を肯定するには、それはあまりに生気がなさすぎた。
「……そう、大丈夫よ」
シュラインは、なだめるような声色で、言葉は曖昧に濁しつつ、しっかりと頷いた。
どうやら頭から自分のことを否定されるわけではないと知ったか、少年はそれでもまだぎょろりとしたままの瞳をシュラインに向けた。その視線は森羅に、静にと渡って行く。
が、突然その小さな身を強ばらせたかと思うと、少年はくるりと踵を返し、脱兎のごとく駆け出した。
次いで、弾かれたように静がその後を追い、少年の身体をしっかりと抱きとめる。
「うわああああああ」
まさしく恐慌状態に陥って、少年は静の腕の中で激しく暴れた。
「大丈夫、大丈夫、誰も傷つけたりしないよ、絶対に」
静が少年を抱きしめながら、何度も何度も優しく囁いた。
「怖くないよ、怖くなんかないよ、大丈夫……」
それでも少年は縛めから逃れようと、精一杯に手を伸ばす。シュラインは、その手をそっと握り、軽く叩いてさすってやった。
「大丈夫よ、大丈夫……」
少年の肌からしみ込むように、柔らかな、優しい声色で、シュラインはそう繰り返す。強ばっていた少年の手は、少しずつ、少しずつ柔らかさを取り戻していく。
そうしてどれくらいの時間が経ったろうか。不意に、少年の身体から力が抜けた。
「あれ……」
少年がぽつりと呟いた。それを聞きとめたか、静がそっと少年から手を離した。
「僕……」
自由になった少年は、目をしぱしぱと瞬いて、不思議そうに周囲を見回した。まさにその顔は「憑き物が落ちた」顔だった。
「ゴンタならこっち来たよ」
森羅が人魚姫の本の表紙を軽く叩いて、それを籠の中へと入れた。
「そう、よかった」
静も小さく息を吐く。
「あ、蝉……。死んじゃった……」
ふと、手の中の蝉に気づいたのか、少年がぽつりと呟いた。
「そうね……。お墓、作ってあげましょうか」
シュラインは優しく少年の肩を叩く。少年は口を引き結んだままで、小さく頷いた。
誰もが黙ったままで、蝉の亡がらを公園の隅の木の根もとに埋めた。そこに太めの小枝を刺して、少年はそれをじっと見据えたままで手を合わせる。
「蝉、死んじゃったんだね」
「そうだね」
ぽつりと漏らした少年に、3人はそれぞれゆっくりと頷いた。
「コロも……、死んじゃったんだ」
抑揚のない声で、少年はさらに呟いた。
「そう……、悲しいわね」
シュラインは穏やかに返した。
「でも、きっとコロも、死んでも君たちと楽しく過ごしたことは忘れないでいるよ」
静が言うと、少年は初めて顔を上げた。
「本当?」
「ああ、本当だよ。だからあんまり悲しそうな顔してると、コロがかわいそうだぞ」
森羅が悪戯っぽく片目を閉じた。
「そっか……」
少年の顔がぱっと晴れた。
「じゃあ、僕、もう悲しそうな顔しないよ。お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう」
少し張りの戻った声でそう言うと、3人に手を振りながら少年は帰って行った。
「さて、俺たちも帰るか」
森羅が本の入った籠を掲げてみせた。
「ええ……、あ、静くん、血が出てる」
森羅に頷き返し、静の方に顔を向けると、傷だらけの腕が目に入った。どうやらさっき、少年が暴れた時に何度か引っ掻かれたらしい。
「あ……」
静が今気づいた、というような顔をする。
「大丈夫です、このくらい」
「駄目よ、手当はきちんとしておかないと。本屋に戻って薬箱を借りましょう」
「あ、これくらいなら何とかなるっすよ」
森羅が持ち物の中からごそごそと符を取り出して、静の腕にかざした。ほどなくして、傷はきれいに消えていった。
「へぇ……、符術ねぇ。見かけによらないわね」
感嘆の溜息とともに思わずそう呟くと。
「ええ、まあいろいろとありましてね」
森羅はにひひ、と笑って返した。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして……、でも『ございます』はいらないっ!」
礼を述べた静に、森羅はびしっと指を突きつけた。
「は、はぁ……」
「ま、戻るとしましょ」
なんとも面白いコンビだ。シュラインはくすくすと笑った。
「ありがとうございました。ゴンタは……、疲れて眠っているようですね」
籠を受け取り、夕霧は深々と頭を下げた。
「ところで……、どうしてそんなに暴走なんてしちゃったんでしょう」
静が心配そうに口を開いた。
「ええ、あれからゴンタが潜り込んだ本をさかのぼって調べてみたのですが、どうも、暴走のきっかけはこの本のようです」
夕霧は傍らに置いてあった本を差し出した。
「あ、もちろんこの本自体じゃないですよ……。『希望の会』とかいう宗教団体が最近出した本ですね。中身は、強い想いがあれば、どんな苦難も乗り越えられるんだ、というようなことを、実例を出したり、言葉を変えたりしながら強調しているような感じで、私たちと一緒に頑張りましょうという、まあ教団の宣伝本です。直接死を否定するようなことは書かれていないんですけどね……」
「そうですか……」
「まあ、何がどうなって、というのはわかりませんが、ゴンタがあまりに狂おしい想いにあてられてしまったのは間違いないでしょう。もともと、人の心には敏感な子ですし、世相が荒れると真っ先に影響を受けてしまいます。今回のことはゴンタにも辛かったことでしょう。しばらくは、籠の中で休ませてやることにします。本当に、ありがとうございました」
再び、夕霧は深々と頭を下げた。
無事にゴンタは捕まったものの、まだすっきりとしないものは残ったままだ。今起こっている異変にはまだまだ奥がありそうだという予感をかきたてて。
真夏の白い日はわずかに傾いて、それでもじりじりと空を焼いていた。
<了>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【5566/菊坂・静/男性/15歳/高校生、「気狂い屋」】
【6608/弓削・森羅/男性/16歳/高校生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。ライターの沙月亜衣と申します。
この度は、当シナリオへのご参加、まことにありがとうございました。毎度のことながら納品がぎりぎりになってしまい、誠に申し訳ございません。
皆様のおかげで、ゴンタは無事捕まえることができました。ありがとうございます。シリーズとしては佳境に入りつつあるので、終わり方としてはすっきりしない部分も残っております。
今回もちょっとずつ違うものを皆様にお届けしていますが、間違い探し程度の違いでございます。お暇でお暇で仕方がない時にでも、他の方の分にも目を通して頂ければ幸いです。
シュライン・エマさま
第一話からのご参加、まことにありがとうございます。
そして、再び李煌がお世話になりました。
今回お寄せいただいた推察も、かなり核に近いところを突いておられて、少しどっきりでした。いつもながら、鋭い推理に感服しております。
ご意見、苦情等ありましたら、遠慮なくお申し付け下さい。できるだけ真摯に受け止め、次回からの参考にさせて頂きたいと思います。
それでは、またどこかでお会いできることを祈りつつ、失礼致します。本当にありがとうございました。
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