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『仔猫の着ぐるみ狂想曲』
昔々ある所に魔女が居ました。
魔女は魔法の天才で、その魔女が作る魔法薬や魔道具は飛ぶように売れていました。
魔女はとても美しく、また性格も良かったために荒地の魔女やお菓子の家の魔女たちとは違って人々から愛されていました。
そんな魔女にももちろん想い人はいました。
魔女が住む国の王子様でした。
そしてまた、王子も魔女を好いていたのです。
王と王女は王子のためという事以外にも優れた魔法使いである魔女を宮廷魔法使いとして召したい何度も打診していました。
しかし魔女はそれをその度に丁重に断っていました。
王と王女はもちろん宮廷魔法使いとなってもこれまで通りに民たちの為にその魔法を使う事も許すと伝えていました。寧ろ積極的に魔女にはこの国が誇る宮廷魔法使いとして民たちの為に魔法をふるって欲しいと望んでいたのです。
民あっての国であり、そして優れた宮廷魔法使いの存在はそうした事からも他国へと伝わり、それが戦争回避の布石へとなるのですから。
しかし魔女はやはりその宮廷魔法使いの打診を断るのです。
どうして? と、皆は思っていました。
魔女が王子様と好きあっている事は実は皆が知っていた事なのです。
ですが皆が知らない事がありました。
それは魔女が大の猫嫌いだという事と、
そして魔女にとっては困った事に王子様は、猫が大変大好きだという事なのです。
さあ、本当に魔女は困ってしまいました。
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【1】 ええ、ええ、でもね、だからってこの恋を逃そうとは思わないわ。
「ふにぃー?」
「どうした?」
論文用の研究資料はもっぱら大学院の図書館で調達しているが、大学院の図書館と言えどもいつでも痒いところに手が届くようには欲しい本が蔵書として保管されている訳ではなかった。一昔前ならきっと教授棟などに出向いて片っ端から教授たちなどに尋ねて回らなければならなかったのだろうそんな資料探しも、今のご時世ではネットなどという便利なものがあるわけで、その本の名前で検索すれば、ネット通販やそれを所有している図書館などの名前が表示される。幸運な事にも探していた本は葛の住む地区の図書館に蔵書として置いてあるという事がわかり、今日はこうして朝からその図書館に足を運んだ訳なのだが、でもそれだけで用事を済ますのも何となくもったいないな、という事でお昼まで蘭のセンサーに引っかかった絵本や紙芝居を読んであげる事にしたのだが、しかし『北風と太陽』の紙芝居を読み終わったところで蘭がしゅぅった、と嬉しそうに、そして得意満面という笑みで手を上げた。
「太陽さんがキラキラと強い日差しを発してたら絶対にコートを脱いじゃいけないのなのー」
「何でだ?」
暑いからコートを脱ぐ、それは至極当然の事では?
今度は葛が小首を傾げる。
しかしこの葛の疑問に蘭は指紋が見えそうなぐらいに得意げにぴーんと伸ばした右手の人差し指を葛に突きつけて、ころころと花が咲いたように笑いながら言った。
「紫外線対策なのー♪」
がくり、と項垂れる葛。
おかしいと思ったのだ。『北風と太陽』はもう何度も読み聞かせてあげた事のあるお話にも関わらずにそれを持ってきた事を。
なるほど。そういえば前に朝の連ドラで『北風と太陽』の紙芝居をヒロインが読んでいるシーンであいつが蘭に何かを言ってったっけ。
額の前髪を右手の人差し指で掻きあげながら蘭を見ると、至極凄い科学的な事を口にした事に対する自負の様な得意満面の笑みが浮かんでいて、それがちょっと、おかしかった。いや、かわいい。
ひょっとする一週間ほど悩んだ末に鶏と卵、どちらが先に生まれたのかの答えとして、鶏が先に生まれたと結論付けて、両親と姉に理路整然と子どもの考えそうな根拠を口にしていた小学校低学年の頃の自分もこんな表情をしていたのかもしれない。
―――それを思うと、胸の辺りに温かで柔らかな感触が広がったのを葛は感じた。
独り暮らしをし始めた当初から一向に変わらないあの連続メールに今日はいちいち返事をしてもいいかな? という生まれたばかりの動物の赤ちゃんを見ているような優しい気分になっていると、今度は蘭が『桃太郎』を持ってきた。
………余談だがちょっとしたお茶目で割れた桃から桃太郎が出てきたシーンで蘭におじいさんが喉が渇いているから、早く桃太郎をどけて、おじいさんに桃を食べさせないとな、などとこれまた誰かが冗談めかして言いそうな事をお話の間に割り込ませて言うと、頬を膨らませた蘭に怒られた。
「もう、持ち主さん、ちゃんと読んでなの!」
やっぱり、まだまだ子どもだ。
お昼まで居た図書館でたくさん持ち主さんに絵本や紙芝居を読んでもらってすごいご満悦。
「わーい、なのぉー♪」
「あ、こら、蘭。階段で飛び跳ねるな。落ちるぞ」
背中で持ち主さんの少し笑いが含まれたお叱りを聞きながら蘭は三段飛ばしで階段の下に着地した。
今日は秋晴れのお天気。
風は仄かに優しい涼やかさを含んでいて、
風に揺れて枝や葉を擦り合わせた音色を奏でる木々の音楽は大気に乗って優しく蘭の耳朶を愛撫している。
自然の歌声が、温もりが、肌が触れる自然の感触が、嬉しかった。
「わぁー、赤とんぼさんなのー♪」
飛んでいる赤とんぼを生まれたばかりの仔猫が追いかけるように蘭は追いかけた。
銀色の瞳を輝かせて、若葉色の髪を揺らして、軽やかに小さな体躯で空を自由に飛ぶ赤とんぼを追いかける。
持ち主さんは階段の下に置かれている木製のベンチに腰を下ろして、携帯電話で何やらやっていた。
それを視界の端に入れながら蘭は空を縦横無尽に飛びまわるたくさんの赤とんぼを追いかけた。
赤とんぼの数は多かった。
そのうちの一匹に蘭は心を奪われる。
とても綺麗な赤色のとんぼだった。
そのとんぼは追いかけてくる蘭にこっちだよ、と優しく語り掛けるように空で旋回する。
そしてそれに誘われる蘭。
赤とんぼに追われるんじゃなくって、
赤とんぼを追いかけている♪ えへへへなのー。
と、その赤とんぼがぴぃーんと伸びた棒に止まった。
ビー玉みたいに綺麗な目が蘭を見ている。
蘭は立ち止まって、その目に向かって伸ばした指をくるくると回した。
くるくるくるくる。
でもだけど、
「あっ、なのー」
残念そうな声がつい口から漏れてしまう。
小さな小さな生垣の向こう、そこから空に向かって出ていた黒い棒。
だけどそれが突然動いて、赤とんぼが逃げてしまったのだ。
ぴーんと伸びていた棒はふにゃり、と柔らかくなったり、丸まったり、伸びたり、曲がったりして、それがまるでダンスのようで、見ている蘭の興味をいつの間にか独占していた。
くすくすと蘭が笑っているとひょっこりとその棒の持ち主の顔が生垣の向こうから出される。それは黒猫の顔だった。
「こんにちはなのー」
元気良く挨拶すると黒猫の切れ長な青い瞳がやんわりと細められた。
それはきっとこの黒猫流のこんには、の挨拶なのだろう。
「何をしているのなの?」
小首を傾げる。
風が揺らす木々の奏でる音色が優しく静かに図書館の駐車場に響き渡る中で、凛々しいバリトンがそれにスターカットとして紛れ込んだのは折りしも蘭の目の前に居る黒猫が口を開いたのと一緒だった。いや――――
「探し物を探しているのだよ。元気な坊や」
「ふにぃ?」
自分を指差して、小首を傾げる蘭。さらりと揺れた前髪の奥で銀色の瞳がかわいらしく瞬きする。
黒猫はくっくっくと声を低くして笑った。
「この世界の猫とは喋らないものらしいね。それが私には至極不思議でたまらないよ」
「猫さんの世界の猫さんは喋るのなの?」
ここら辺は子ども特有の柔軟性と、そして蘭の無邪気なまでの無垢さの賜物であった。
蘭は見事にこの黒猫と喋る、という状況に適応している。
「私は喋っているだろう?」
「あ、そうなのなの」
「猫とは本来は喋るものなのさ。この世界で行われている猫の会議ではこの世界の猫だって喋っているのだろうね」
口を両手で隠して照れ隠しに笑う蘭に黒猫は鷹揚に頷いた。
「ところで坊やは猫は好きかい?」
この疑問に蘭はにこやかな顔を頷かせて、背負っていたクマリュックから一冊のアルバムを取り出した。
そこには玩具のピアノを弾く蘭とその周りで小鳥と一緒に戯れる猫たちや、散歩中にお昼寝中の猫を写真に撮ろうとしている蘭を撮った写真とか、蘭が撮った猫の写真とかがある。
黒猫はそれを見て、なるほどなるほど、と紳士らしく静かに丁寧に笑った。
「坊やにならば頼めるだろう。坊や、いや、お友達よ、よくお聞き。私は私の国の泥棒ネズミたちを探している。この私に出会い、そしてこうして私と会話が出来るお友達は資格があるという証拠。物語の主人公となるね。だからお友達ならばあの憎き泥棒ネズミどもと出会うかもしれない。その時はどうか私の名前を呼んでおくれ。それを忘れずにいる事が私がお友達に願う願い事だ」
「うん、わかったのなのぉー♪」
しゅたぁ、と元気良く手を上げて蘭は黒猫に頷いた。
【2】 猫を嫌いにする魔法薬か魔道具を作れですって? 冗談。私は愛する人のために自分が変わる方を選ぶわ。
駐車場の片隅の方で何やら黒猫と戯れている蘭を優しい瞳で見守っていた。
やがて黒猫は優雅に尻尾を振りながらどこかへと消えて、お気に入りのクマリュックを背中に背負った蘭がこちらに向かって走ってくる。
「だから走ると危ないって」
葛はくすりと笑ってベンチから立ち上がると、小さな同居人の負担を軽くしてやるために自分からも近づいていった。
「あの黒猫、蘭の友達だった?」
「今お友達になったのなのー」
「そっか」
「そうなのぉー」
紅葉のように小さな手がごく自然に葛に差し出されて、そしてそうするのが当たり前のように葛もその手を握る。
この手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから。つい先日読んだ、大物小説家が執筆したゲームの小説の文章を思い出した。家に帰ったらまた蘭に読んで聞かせてあげようか?
くすり、と笑ったのは、普通の児童文学とも違ったその小説のお話に一々リアクションを取る蘭のその言葉が面白かったから。
蘭の小さな手が葛の手にかける圧力も、また葛の体温にとけるように裡に伝わってくる蘭の体温もひどく心地良かった。
てっきり今年も、そんな張り切って大丈夫なのだろうか? とついつい心配してしまいそうになるぐらいにガンガンに熱い太陽と調子を合わせるお調子者の地球は秋をすっ飛ばして夏から冬に変わるのだろう、と思っていたのだが、9月に入った途端に秋の色が濃くなり、過ごしやすい気温となった。
そんな柔らかな秋の気温の中、この手を繋いでどこまでも歩いていけるような気がするのはおそらくは気だけでは無い。
試しにどこまで歩いていけるのか歩きたくなる気分についついなってしまう。
そしてこの小さな手の持ち主はきっと、そうなったらどこまでも自分にくっついてきてくれるのだろう。とても優しく、無邪気に笑いながら。オリヅルランの花言葉は守り抜く愛であり、そしてこの子はとても自分の事を好きでいてくれるから。
それがとても嬉しくって、そして騎士に守られるお姫様、そんな自分のシチュエーションに葛は少し照れくさそうに隣を歩く蘭には内緒で口だけで笑った。
お昼ごはんはパスタ専門店でお食事。
お店の角の席に座って、葛はミートソースパスタ。蘭は玩具のついたお子様セット。
やがてすぐに二人の注文した品が同時にテーブルの上に並べられて、二人で仲良さそうにくすりと笑いあいながらいただきますをする。
パスタに葛はフォーク先を入れて、くるくるとそれをまわして、上手にパスタを巻いたフォークの下に左手に持ったスプーンをそえて口に運んだ。ミートソースが絡んだアルデンテのパスタはとても美味しい。
と、ガチャガチャとなかなかに四苦八苦している音が隣から聴こえてくる。葛のように上手にパスタをフォークで巻こうとして、だけどフォークを上げると、パスタがそこからするすると解けて皿に落ちてしまうその光景を見る蘭の口はアヒル口。
葛はくすりと笑う。
自分もそうだった。
家族で外食に行った時、いつも家ではお箸で一緒にパスタを食べるも店ではそれでも食べ難そうにしながらもフォークでパスタを食べていた姉が、しかしいつの間にか自分だけ上手にフォークでパスタを巻いて、そのフォークの下にスプーンを添えて、そうしてパスタを上品にお洒落に口に運ぶという女の子らしいお洒落なスキルを会得していた時にはなかなかにショックだったもので、ましてや上手にレモンの輪切りを両手に持った割り箸で綺麗に絞って料理に味をそえる、などというこれまた上級者テクニック(女の子検定で言うなら2級のスキル)をやはりいつの間にか自分だけ備えていた時には本当にそんな姉を羨望したもので、そして自分はいつだってそんな姉の真似をしようとして、姉はその度に真似しようとする自分の事を嫌がらずにいつも上手に優しくそれを教えてくれた。
―――そんな昔の思い出を、本当に今日は良く思い出す。
葛はくすりと笑いながら蘭の方に身体を寄せて、いつか姉がそうであったようにとても優しく蘭に聴こえてくれるように願いながら声を紡ぎ、蘭のフォークを持つ手にそっと自分の手を重ねた。
食後の運動としてはお店から家まで歩くだけでも充分であったけど、何となくこのまま帰るのもやはり忍びなくって食後のお散歩がてらにウインドウショッピングをする事にした。
秋物の服やコート、ジャケット、それにスカートや、かわいらしい子ども服に靴、それに秋の遠足も近いためかリュックなどが綺麗にウインドウに飾られていた。
センスの良いバルーンアートやポップなどと一緒に服などが飾られている光景は本当に見ているだけで嬉しい。
そこら辺はやはり女の子の特権だと葛は思う。
と、偶然通りがかった店のウインドウの向こうに一体の人形が飾られているのが見えた。
「ちょっと良い、蘭?」
立ち止まる葛の顔を見上げた蘭の顔がにこりと笑う。
ひょっとしたらあれかも、葛はそう思ったのだ。
つい先日聞いた話だった。何でも大学院の教授のお兄さんの奥さんが、その教授の結婚式の為に夫婦で上京して、ちょうど今葛が居るこの街についでに遊びに来たのだそうだが、その時に彼女は一体のビスクドールを買ったそうなのだ。
だけどそれは実は二体セットの物であった。
しかしその時には一体しか買うお金がなく、また彼女もそれで満足していたのだと言う。だけれどもつい先日、彼女は亭主を、教授の兄を失った。
そして彼女は、その寂しさは人形も同じはずであったのだ、と想い、その人形の対の人形を求めたのだが、しかし数十年ぶりにこの街にその人形を求めてやってきた時には、その店は無くなっていたのだった。
その教授に葛は頼まれていた。ひょっとしたらその店が店じまいをする時に残っていたかもしれないその人形を他の店に譲ったかもしれないからもしもそれらしい人形を見たら教えて欲しいと。
携帯電話を取り出して、教授からメールでもらったその人形の写真と、ウインドウの向こうにある人形とを見比べる。
「うん。間違いない、かな」
葛は呟いた。
心臓は早鐘のように脈打っていた。その音色が自分の事のようにその偶然を嬉しがっているのはきっと勘違いじゃない。
「ごめん、蘭。このお店に寄っていきたいんだけど、良いか?」
「うん、なのぉー」
蘭は快く応じてくれて、そして二人で手を繋いで入った。
アンティークの品物が所狭しと置かれているそのお店は、射光シールが貼られたウインドウから入ってくるだけの明かりを光源としているレトロな雰囲気が伝わってくるお店で、店主の小柄な老人は葛と蘭を仲の良い姉弟だと思ったのか、とても微笑ましそうに微笑んだ。
「あの、すみません。実はあのウインドウに飾ってあるビスクドールの事でお伺いしたい事があるのですが」
葛は教授の義理の姉の事を丁寧に説明し、そして出来る事ならあの人形を携帯電話のカメラで撮り、その画像をメールで教授に送る事の了承を真摯に求めたのだった。
終始人の良さそうな笑みを絶やさなかった店主は、葛の説明を聞き終えた後にこくりと頷いてくれて、それだけではなく、人形を予約品として陳列棚から下ろしてくれた。
ぺこりと黒髪を揺らして頭を下げる葛に店主は照れたように笑う顔を左右に振った。
そうして話が落着したところで、葛の手が待ってましたと言わんばかりに小さな蘭の両手で引かれて、それまでの緊張した感情から解放された事もあって、葛は思わず蘭のキラキラと目を輝かせた顔にくすりと笑ってしまった。
それは確かにこのお店は蘭にとっては宝物の宝庫だろう。葛にとってだってこのお店はすごく物珍しい物で一杯だ。
「触っちゃダメだぞ、蘭。見るだけ」
「うん。わかったのなのー」
しゃがみこんで、右手の人差し指一本立ててそう言った葛に蘭は元気良く頷いた。
うわーぃなのぉー。
お店の中は一目見た時からとても楽しそうだった。
とても綺麗なオルゴールや、銀色の鳥篭、それに硝子の花瓶に、花柄のティーカップ。
そして、
「きゅぅわぁぁぁーーーーなのぉー」
蘭の銀色の瞳がとても嬉しい予想外の驚きに大きく見開かれた。
キラキラと輝く蘭の瞳に映るのは白猫の可愛らしい着ぐるみだ。ふんわりと香る匂いもバニラアイスのように甘い香り。
「きゃぅーんなのぉー」
もう顔をくしゃっとさせて、蘭はその場で地団太を踏むように足を上下させた。両手は拳。完全に恋する乙女のようだ。それは萌えの極限の境地だった。
開けられた口の間から零れ出るのは蘭の喜びの歌。
手を触れようとして持ち主さんの言葉がもはや白猫の着ぐるみで容量を満たされていた脳裡にしかしギリギリで蘇る。
「う〜〜〜にゅぅ〜〜〜」
唇をきゅっーぅと引き結んで、それから泣きそうな顔をすると共に周りを見回して、お店の奥から出てきた持ち主さんを発見。
「持ち主さーんなのー」
ダッシュ。
体当たりのようにスカートから覗く葛の細い膝に蘭は抱きつく。
見上げた葛の黒髪に縁取られた顔に浮かんでいた驚きの表情が色濃くなった。
「あ、ぁぁ、あ」
蘭は必死に言葉を紡ごうとするけど、しかし気持ちばかりが急ぎすぎて上手く声が発せない。それがもどかしげに蘭は葛の足に顔を摺り寄せて、ますます葛は驚くばかり。
そして、
「どうした、蘭? 何か欲しい物でもあった?」
それほどまでに心を掴む物は何だろう? そんな微笑ましげな感情を滲ませた葛の声が蘭の耳に届く前にもうすでに蘭の両手は掴んだ葛の手を引いていた。
葛はくすくすと笑いながら蘭に引かれていく。まるでデパートの玩具屋があるフロアーで演じられる母親と息子の光景だ。
そして葛も驚いたように開け広げた口を片手で覆った。見開かれた翡翠色の瞳は少女のあどけなさを感じさせるようだった。
つまり、それほどまでに見た者の心を掴む白猫の着ぐるみはかわいい。萌え、なのだ!
あうあうと口を開け広げながら一方の手で白猫の着ぐるみを指差して、もう一方の手で葛の握ったままの手を引く蘭。
もう完全に白猫の着ぐるみに心を奪われていた。恋をしていた。
そんな蘭の子どもらしい姿に葛はくすりと笑いながら優しく顔を傾げて、さらりと揺れた黒の前髪の奥にある瞳を細める。
「この白猫の着ぐるみが欲しいのか?」
しゃがみこんで目線を蘭のキラキラと輝く銀色の瞳に合わせて優しく訊いてみる。
すると蘭はすごい勢いでこくこくと頷いた。なんだかそれはひどく壊れた玩具と同じような動きで見ていて可愛い。
「本当にこれが欲しいんだな」
葛はくすっと口だけで笑う。
そっと蘭の手を解いて、心地良い毛並みに覆われた白猫の着ぐるみに手を触れた。
「あっ」、と零れた蘭の声はおそらくは歓喜の声と、驚きの声と、それから批難の声。そういえば商品には触っちゃダメ、って言ってあったっけ、と葛は思い出す。
緑の髪を優しく撫でた後に着ぐるみのタグを見ると、値段は3800円だった。小サイズから中サイズのぬいぐるみと同じ値段。ついでに言うのなら今書いている論文が終わったら自分へのご褒美の為に買おうと思っていた秋物の白のカーデガンよりも2000円ばかり安い。
迷いはしなかった。
蘭の顔を見ると、その顔にも瞳にも心配そうな色が浮かんでいる。
「後で着ている所を写真に撮って、またアルバムに貼ろうな」
そう言うと、蘭の顔が本当にわかりやすいぐらいにかわいらしく綻んで、小さな身体は嬉しさを表現せんとばかりに葛に目一杯の力で抱きついてきた。
「持ち主さん、ありがとうなのー。大好きっなのぉー」
「ありがとう。当然」
後ろにふらつきながらもなんとか堪えて、緑色の髪を丁寧な手つきで葛はくしゃっと撫でてやった。愛しさと嬉しさと幸福と、そして感謝を込めて。
【3】 え? 魔女なら黒猫だろう? って。馬鹿ね。それじゃあ芸が無いから白猫にしたのよ。私はいつだってマイノリティーなのよ。
白猫の着ぐるみを入れた紙袋は蘭が片手で抱え込んでいた。
幼い子どもの短い腕ではあれだけのかさばる紙袋を抱え持つのは苦労するはずだろうが蘭はニコニコと笑いながら一生懸命それを持っていた。
葛が「持とうか?」、と訊く度にだけど蘭はふるふると首を左右に振る。
確かにそれは苦痛ではないのだろう。蘭の足取りは羽毛のように軽く、まるで今にもワルツを踊り出しそうだ。
葛は優しく細めた翡翠色の瞳で笑みの感情を表に出しながら肩を竦めた。
「当分は至極機嫌がいいかな?」
部屋の扉の鍵穴に鍵を差し込むと、待ち切れなさそうに蘭がぎゅっと両腕で紙袋を抱きしめた。がさり、という紙袋が奏でた音はひょっとしたら白猫の着ぐるみも早く出してもらいたがっているのかもしれない。相思相愛。
がちゃり、という音と共に蘭のそわそわとした気配が大きくなるのが本当にわかりやすいぐらいに感じられる。
開けられた扉。蘭は靴を脱ぐのも億劫そうに脱ぎ捨てて部屋の中に入っていった。
その背中に何かを言いかけて、だけど結局葛の口から零れ出たのはしょうがないなー、というどこか余裕のある母親にも似た苦笑だった。
しゃがみこんで蘭が脱いだクマの靴をそろえてやる。
部屋に入ると、既に白猫の着ぐるみは紙袋から出されていた。
葛を見る蘭の顔はまるでマテをされている仔犬のようだ。
思わず、笑ってしまう。
「じゃあ、着ようか?」と、言いかけて、そこで葛の携帯電話が着信音を奏でた。愛想の無い電子音ではなく、友達がふざけて設定したその登録してある人物のカラオケの十八番である歌の着信音。
「あ、ごめん、蘭。ちょっと待ってて」
と、告げて、葛は部屋の窓際によって通話ボタンを押した。
それは件の教授であった。
教授はさっそく葛が写メで送ったビスクドールの写真を兄の妻である義姉に送り、そして今しがた姉からそうよ、そのお人形。そのお人形なのよ!!! と、興奮して泣き出さんばかりの声で電話がかかってきたそうなのだ。
それを聴いた葛の口から安堵の吐息が零れる。胸にはとても温かいぬくもりが広がった。
それから、
「では教授。私の方からお店の方へと連絡しておきます。店主さんはちゃんと取っておいてくださると仰っていましたが、連絡は早い方が良いですし。はい。いえ、そんな。私の方こそ教授にはいつもお世話になっていますから。はい。はい。では、失礼します」
と、電話を切って、ため息を吐く。私、という使い慣れていない一人称はやはり使い辛い。
さてと、じゃあ、次はあのお店に連絡をしないと。とりあえずは電話でいいだろうか? それで明日の学校の帰りに寄ってまたあらためてお礼を………それとももう一度出向く?
「あ、電話番号、聞いていない」
白猫の着ぐるみを買ってあげた蘭が今度はあまりにも早く帰りたがるからお礼の言葉もあまりきちっとできないままにお店から帰ってきてしまって、それでうっかりと電話番号を聞きそびれたのだった。
葛はこん、と額を軽く握った手で叩いた。
それから葛は両腕で白猫の着ぐるみを愛しい恋人の折れそうなぐらいに細い腰に両腕をまわしている男の子のように大事そうに抱きしめて自分を見上げている蘭の顔に視線を移し、数秒、キラキラとしていて、ワクワクとしていて、もう待ちきれないのなの♪ きゅぅーん、って本当に口以上に眼で言っている蘭に向かって両手を合わせた。
「ごめん、蘭。俺、もう一回その子の実家に行かないといけなくなっちゃって。帰ってきたら、着替えさせて写真とか撮ってあげるから。本当にごめん」
両手を合わせた格好のまま閉じた瞼を薄く開けると蘭の目には涙が浮かんでいた。小さな肩は今にもしゃくりに合わせて小刻みに上下しそうだった。
うっ、とたじろぐ葛。良心がとても痛んだ。ものすごくチクチクと胸が痛い。
「えっと、帰りに肉まんを買ってくるよ。小鈴亭の。蘭、あそこの肉まん、大好きだったよな?」
にこりと葛がちょっと固い笑みを浮かべながら顔を小さく傾げると、元気の無さそうな顔をしながらも蘭はこくりと頷いてくれた。
その事にほっとしつつ葛は再びお店を目指して部屋を出て行った。王に自分の親友を人質として差し出し、妹の結婚式に向かうために走った彼のように。
そして玄関まで持ち主さんを見送った蘭は、「いってらっしゃいなの。気をつけてなの」、とちゃんと言えたが、ばたんと扉が閉まった玄関でしゃがみこんでしまった。
「持ち主さんが帰ってくるまでお預けなの〜〜〜」
とてもテンションの低い声。聞いた人が10人中10人とも顔を哀しげに歪めそうな。
だけど、
「でも、待ちきれないのなのー」
がばぁっと勢い良く立ち上がった蘭はきゃぁーと悲鳴のような嬉しそうな声をあげて部屋まで走っていって、そこに綺麗に置いてある白猫の着ぐるみを持ち上げた。
それをじぃーと見て、にへらぁ〜と笑う。
顔が緩む。
きゃぁー、とほっぺたを初恋に頬を染める少女のように真っ赤にして、白い毛並みに顔を埋めた。本当に萌えの境地。極限。
ぱたん、とそれを腕に抱いたまま床の上に転がって、じたばたばと悶える。
それから正座して、綺麗に着ぐるみを置いて、
立ち上がった蘭は、ぱたぱたとまずは浴室まで走っていく。
浴槽にたまった水を抜いて、
空になった浴槽に洗剤をかけて、歯ブラシの大きな奴でごしごしと浴槽を磨く。
鼻歌で歌う曲は蘭が作曲したものだ。
ドッキドキ ドッキドキの白猫の着ぐるみさーん♪
白猫の着ぐるみさーん♪
ひとりで着れるかな♪
他の猫さんは喜ぶかなー?♪
猫さんの会議に入れてくれるかな?♪
そうして洗剤の泡だらけになった浴槽をシャワーで洗い、泡がついた手で額の汗を拭う。
「ふぅー、良い汗かいたのなのー」
それから浴槽にお湯を入れて、
服と下着を脱いで、
シャンプーして、身体を洗って、お風呂に入って、100数えて、お風呂から上がる。
上気した肌が綺麗に桃色に染まっている。
パンツ一枚の蘭は若草色の髪からまだ雫が垂れているのにも構わずにその雫はそのまま濡れるに任せて部屋の扇風機の前に行って、強風でスイッチON。
とても気持ちの良い風が蘭の温まった身体を冷ましていく。
濡れていた髪が扇風機の風で乾いた頃、蘭の湯上りさっぱりで温まった身体もすかっりと低温になっていた。
っていうか、だからちょっと寒い。
「はくしゅんなのー」
ずずっと鼻水を啜って、
それから指折り数える。
「お風呂に入ったのなの。シャンプーしたのなの。身体も洗ったのなの。パンツも新品なの。あ、あと歯磨きなのー」
鏡の前で背伸びしながら歯磨きして、
そうして準備はばっちり。
デートに行く男の子のように綺麗に身支度を済ませて、
えへへへへへなのー、と笑いながら白猫の着ぐるみに腕を通した。
どきどきが本当にたまらない。
ちょっと寒かった身体がすごくぽかぽかとして、
それで、
「わー、にゃ」
にゃ?
着ぐるみを着た瞬間にだけどでも何故か、語尾が、変化………。
なの、が、にゃ。
にゃ?
「にゃぁー」
な?
おじゃまーにゃ♪
違うのなの。
と、心の中で自分で自分にツッコミを入れる。
白猫の着ぐるみはまるで蘭の為にあるかのようにぴったりと着られて、
着心地最高で、
すごく柔らかくって、
温かくって、
ふわふわで、
やっぱりバニラアイスのような甘い香りがして、
すごくすごく嬉しくって、
顔が緩んで、
だから、
「にゃぁー♪」
と、そんな歓びを音声化。
にゃぁー、って音声化。
かわいらしい仔猫の鳴き声で音声化。
にゃぁー♪
甘い甘い砂糖菓子が水に溶けるようなそんな繊細で可愛らしい鳴き声。
にゃぁー♪
とっても嬉しくって、
にゃぁー♪
本当に嬉しくって、嬉しくって、嬉しくってしょうがない想いでいっぱいの心の片隅で蘭の冷静な思考が、僕、なんだかにゃぁー、って鳴いているのなのー、と思っている。
でもそれが、
「猫さんと一緒にゃぁー♪」
って余計に蘭のテンションを上げた。
今の一目惚れして、欲しくって欲しくってたまらなくって、それを買ってもらえて、着れている蘭にとっては本当に何もかもが嬉しくって、今なら箸が転がっただけでも笑えるどころかすごく嬉しくって、
だから、にゃぁー、って語尾が自然になるのもすごく嬉しかったにゃぁ♪
「にゃぁー♪」
いつの間にか四つん這い♪
んー、と喉を気持ち良さそうに鳴らしながら背筋を伸ばして、
それから銀色の瞳でいつの間にか部屋の中に入ってきていた赤とんぼを追いかけて飛び跳ねる。
じゃーんぷ。
にゃあー、届かない………。
ぐるぐると部屋の出口を求めてぐるぐると飛んでいる赤とんぼを追い掛け回す。
にゃぁー。
にゃぁー。
にゃぁー。
ぐるぐると空中で旋回する赤とんぼを一緒になってぐるぐると追いかけていたら、白猫の着ぐるみの蘭は目を回してしまって、こてん、と倒れてしまう。
仰向け。
天井の家庭用蛍光灯の紐がぶらぶらとぶら下がっている。
それにもはや仔猫となっている蘭は興味津々。
ベビーベッドの赤ちゃんが、くるくると回る玩具を見てきゃっきゃっとはしゃぐように、あうあうと前足………両手をそれに伸ばす。
宙を掻く。
それから、そう、捕まえた仔ネズミを弄ぶ悪戯っぽい仔猫特有の笑みを浮かべて、しなやかに四つん這いで立ち上がると、壁に向かってダッシュ。
壁蹴り。
にゃぁー。
ヒモに向かってダイブ。
ぺしゃり、と紐が蘭の顔を打つ。
「にゃぁー」あぅー。
べちゃ、と床に落ちる蘭。
と、それが面白かったのか?
白猫の着ぐるみを着た蘭は、ダッシュでまたも壁を蹴って、じゃんぷ。そして今度は猫らしい俊敏性を見せて綺麗に着地。
10点満点♪
なるほど、今度は猫らしい着地に興味が移ったようだ。
「にゃぁぁぁぁ〜ぉ」
得意満面。
それを何度か繰り返して、
飽きた頃に、箪笥の上からそれまでの振動で落ちてきた毛玉がころころと床を転がる。
お話の進行具合によってはここら辺で小生意気でナイスガイなライバルの仔ネズミと仲良く喧嘩したりしたいところだけど、この部屋にはネズミはいたりしないので、真打ちの毛玉の登場♪
かくして白猫の着ぐるみを着た蘭猫はにゃぁーと鳴いて毛玉に挑んだ。
「にゃぁー」
にっこりと満面の笑みでその毛玉を右前足、左前足で転がして、でもそれがなんだか転がる、というよりも逃げる、という感じで、
それがこう尻尾がうずうずとしてくるような感じを誘うのはきっと獣として狩猟本能が誘われるからだろう。
「にゃーぉ」とても嬉しそうに追いかける。
と、右前足で横殴りに毛玉を叩いたら、毛玉が解れてしまったけど、それがまたやっぱり箸が転がるみたいに面白い。
楽しい♪
「にゃぁー」解けてる♪
「にゃーぉ」小さくなっていくぅー♪
という感じでえい、えい、えい、って転がして遊んで、追いかけて♪
でもね、気付いていなかったの。白猫の着ぐるみを着た蘭は。ふわり、ふわり、と蘭が本当に生まれたばかりの世界に興味津々の仔猫のように動いていた時に真っ白のふわふわの尻尾に毛糸が引っかかったのは。
尻尾に絡み付いた毛糸に気付いたのは右前足や左前足、両の後ろ足にたっぷりと余裕を持ちながらも毛糸が巻きついた時で。
でも、わわ、白猫のさんの着ぐるみに毛糸が絡み付いちゃったのなのー♪ って、普段ならくすくすと砂糖の結晶の綿菓子のようにふわふわで甘い甘い溶けちゃうような笑顔で上手に四苦八苦しながらも毛糸を解く事が出来ていただろうけど、でも今の蘭は猫。しかも仔猫。
だから、
「にゃぁー」
きゃっきゃと喜んで尻尾に絡みつく毛糸、毛糸に絡みつかれた尻尾を何も考えずに追いかけて、運動会♪
ぐるぐると尻尾を追いかけて、運動会♪
毛玉をえい、って両前足後ろ足で放り投げたり、蹴り上げたりしていたから、だから、身体なんかももう本当にたくさん毛糸の糸が絡まっちゃって、そうして、「にゃぁ?」、と小首を傾げた白猫蘭がぽん、とこれまでで一番強く毛玉を左後ろ足のかかとで蹴り上げたら、
毛糸が、
しゅるしゅるしゅる、って高く上がって、
すとん、と重力に引っ張られて、それが落ちた時には、
「ニャァ!?」
毛糸の糸の弛みの余裕がいつの間にか無くなっていて、蘭は動けなくなってしまいました。
「みゃぁ〜〜〜」
【4】 ええ。私は優秀すぎたの。優秀すぎる私が作ったから、あの着ぐるみを着た人物は完全に猫になってしまうのよ。しくったわ。
夕方間際の街は先ほど歩いていた時よりも人通りが多かった。
身体がぶつからないようにすれ違う時は相手(もっぱら男性)に背を向けて避ける。そういえばそうやって前からやっていたとはいえ意識して胸を庇うようにすれ違う男性を避けるようになったのは何時からだろうか? そんな風に考えると、自然と浮かんだ彼の顔に葛は少し苦笑めいた表情を浮かべて、尖らせた唇からため息を吐いた。
彼の為に………守る、って―――――。
でもそれは決して嫌じゃない。
それはひどく葛には扱いづらいような硝子細工の感覚だけど、そのぬくもりは心地良くって好きだった。そう、両親に左右のほっぺをそれぞれ頬擦りされているようなそんな大切な人に抱く感情。
「傍にいたい…か」
呟く声は一定のトーンの声だったけど、その響きは限りなく限りなく限りなく――――
ちりーん、とその鈴の音色はビルとビルの間の通りから聴こえてきた。
葛は足を止めてそちらの方を見る。
そこには黒猫が居た。
「こんばんは、お嬢さん」
猫が、喋った………
翡翠色の瞳を呆けたように見開いて、葛は息を呑んだ。
だけどそれもほんの数秒の事。なんせうちにはオリヅルランの化身が居るのだし。
さらさらの黒髪を指で弄いつつ彼女は小さく肩を竦めた。
「こんばんは、黒猫さん」
路地に一歩入って、それからしゃがみこんで、真っ直ぐに視線を向ける。
「さっき、うちの子と喋っていた猫だよな?」
「ほーぅ。なかなかに目聡い。賢い子は好きだよ」
「ありがとう」
ひょい、と葛は肩を竦める。
黒猫は目を細めた。
「で? わざわざ俺に話しかけてきたその心は?」
「ふむ。友達の友達に興味を持ったのがひとつ」
「蘭が聞いたら喜ぶよ」
「もうひとつには、探し物は見つけたから友達にそう伝えておいてくれるかな」
「ん。わかった」
「それから最後にもうひとつ。これが重要だ。猫好きで物語の主人公になれる資格のある友達ならばともすればあれを買うかもしれない」
「あれ?」
「私の国の魔女が作り出した魔法の猫の着ぐるみだ。それが実につまらぬ事でこの世界に流出してしまって。もしもそれが原因でこの国で問題が起これば我が国は実に苦しくなってしまうのだ。だからもしも魔法の猫の着ぐるみを見つけたらすぐさま捨ててくれと伝えておくれ。そしてキミにもそれを頼めるかい?」
頼むも………何も…………
深く皺を刻んだ眉間に軽く握った手を当てて葛は深く深くため息を吐いた。
黒猫も何かを察したようだ。苦笑めいた声で葛の感じているであろう心労を気遣うように言った。
「キミも友達も二人ともが物語の主人公になる資格を持つ者だからね」
葛はそれでももう確信してしまっている事を否定される事を願いつつ訊いた。
「それって白猫の着ぐるみ?」
【5】 猫になった魔女はしかし王子様の愛によって救われて、そうして二人は困難を乗り越えた深い愛情で結ばれて幸せになりました。
がちゃがちゃという音は玄関の方からした。
「みゃぁー」
口から零れるのはか細い鳴き声。
泣き声。
毛糸に拘束された体が動かなくって、それが切なくって、哀しくって、儚くって、みゃぁー。
部屋に走るような足取りで入ってきた葛の顔を縁取るブルネットの髪がふわりと広がった。翡翠色の瞳が驚いたように何度も瞬いて、そうして大きく見開かれて、何だか電流を流されたように葛の華奢な身体がびりびりと震えて。
ぽかーん、と開いた口が果たして零した言葉は………
それを飲み込むように葛は薄く形の良い唇を片手で覆った。
こほん、と咳払いをお芝居のようにしたのも葛。
それから、
ほっぺたをまっかにして、銀色の瞳に涙を浮かべてあうあうあう。
毛糸に拘束されて動けなくって、でも動こうとして、もごもごと身体を動かして、
それが切なくって、儚くって、哀しくって、みゃぁー。
―――な、白猫の着ぐるみの蘭に、葛はにこりと微笑んだ。普段の葛のように凛々しく、しゃんとして。ただし、そのほっぺたは思春期の少女のように赤かった。
………………。それを人は萌え、と呼ぶ。
「あ、わ、こら、蘭。動くな」
と言いつつ葛は器用に根気強く毛糸を解いていき、
そしてちりーん、と勢い良く鳴ったのは着ぐるみの首にある鈴だった。
それは本当に軽やかに澄んだ音色を奏でて、白の着ぐるみを着た蘭は楽しそうに部屋を走り回る。
「って、蘭。ストップ。フリーズ。と・ま・れ」
と、後ろから抱きつくような感じで蘭を止めようとするけど、ちりーんと跳ねるようになる鈴の音がそれが失敗した事を歌っている。
「にゃぁー♪」
と、楽しそうに鳴く蘭。
葛はため息。
額にかかる前髪を右手の指先で掻きあげて、深く深呼吸をする。
にこり、と笑う葛。
それを見て蘭の尻尾がびぃーんと伸びる。
それからにこにこと笑いながらにじり寄る葛。
後ろに後ずさる蘭。
それこそ仲良く喧嘩する二人の構図のように。
とん、と軽やかに葛の足が床を蹴る。そして蘭に飛び掛って、でも蘭は猫特有のしなやかでじゃんぷ。
部屋を走り回って、
その姿は、
「にゃぁー♪」
と、すごい楽しげ。
へやの片隅に置かれた大きなクマのぬいぐるみに抱きつくような形になってしまった葛は動きを止めて、
それから顔にかかった黒髪をしなやかに掻きあげながら本当にものすごーく爽やかな笑みを浮かべて、
そして一旦部屋から出て行く。
ちりーん、と鈴が鳴ったのは白猫蘭が葛の背中に小首を傾げたから。
それからすぐに部屋に戻ってきた葛の手にあったのは猫じゃらしだった。
ふふんと得意げに笑う葛。
にゃぁー、と鳴く蘭。
「うりゃうりゃ」
と、猫じゃらし攻撃。
それに反応してしきりに猫じゃらしに向かって猫パンチを放つ蘭。
と、その隙をついて飛び掛り、捕まえようとして、
だけど素早くフェイント!!!
「あっ!」
ふわり、と広がった葛の黒髪。
再びそれが葛の顔を縁取った時、驚いていた葛の顔が悔しそうな表情になっている。
「不覚。猫にフェイントをかけられた!」
すごく悔しい!
「にゃぁ〜〜〜ぉ」
と、顔を片手で覆う葛に楽しそうにライオンがそうするように顔を振って鳴く蘭。
温かな橙色の光りが窓から入り込んできて、その夕日のライトの中で猫じゃらしを手にしている葛、猫らしく伸びをする蘭。
真剣に見合う二人。
と、でもそこで葛はふぅーと吐いたため息で前髪を浮かせる。
それから葛はにこりと笑った。
ちりーん、鈴が鳴る。
葛は窓の向こうの太陽を見つめた。
「北風と太陽、か」
温かで柔らかな橙色がそれを思い出させてくれた。
吹っ切れたような静かな笑みを浮かべる葛は丁寧にスカートを折って正座して座る。
白の毛並みは夕日に染められて金色に輝いていた。「みゃぁ?」
ちりーん、と澄んだ音色は仔猫が小首を不思議そうに傾げたから。
「おいで」
とんとん、と柔らかそうな太ももを叩いて、その一方で葛は猫じゃらしを誘うように振った。
「みゃぁ?」
とん、と右前足を出した蘭の銀色の瞳が優しく微笑む葛を見ている。
「おいで」
もう一度言う。
「みゃぁーぉ」
とことこと軽やかな足取りで仔猫は葛の前まで歩いてきて、そうして本当に仔猫が縁側で正座して座るお婆ちゃんの膝で丸まって眠るように葛の太ももの上で気持ち良さそうに丸まって喉を鳴らした。
「みゃぁーぉ」
白猫の背中を優しく撫でながらにこり、と微笑んだ葛。
そうして次の瞬間に断末魔のような蘭猫の鳴き声と、衣擦れの音が部屋に上がったのは言うまでも無かった。
【ending】
「ふぅー」
深くため息を吐きつつダストシュートに白猫の着ぐるみを捨てて、葛は疲れたように天井を見上げた。
本当に疲れた。
異国の黒猫の外交官の話では国家転覆を狙ったネズミはかつて天才魔女が作った魔法の着ぐるみを使ってこの世界で問題を起こそうとした。
しかし泥棒ネズミは黒猫の外交官に逮捕され、行方不明であった着ぐるみも今、葛の手によって処理された。黒猫の外交官も手伝いを申し出たが、それはそれで外交官や、今は王女となった魔女にも何かと不都合が多いだろうからと葛は丁重に断って、自分の手で処理する事にしたのだ。
それは中々に骨が折れる作業であったが無事に魔法の白猫の着ぐるみも蘭から奪取し、捨てる事が出来た。ちょっとばかし可哀想だが、でもあのまま着続ければ蘭が大変な事になるのだからしょうがない。
「今夜は蘭の大好きなハンバーグを作ってあげるか」
うん、と頷いて、葛は腕を振るう。
ボールにミート、あめ色に熱したたまねぎのみじん切り、同じくにんじんとピーマンのみじん切りを入れて、卵、パン粉、ケチャップ、こしょう、塩を振りかけて、こねて、葛の手よりも大きなジャンボハンバーグを作って、焼いて、お皿の上に置いて、デミグラスソースをかけたハンバーグの上に黄身が固まる少し前の目玉焼きを乗せて、それからハンバーグの横にケチャップ味のスパゲティー、小皿にはマカロニポテトサラダ、コーンスープもついて、デザートはうさぎさんにしたリンゴ。飲み物はオレンジジュース。
テーブルの上に広げられたのはレストランのお子様ランチよりも豪華な夕飯。
蘭の眼はとても嬉しそうにキラキラと輝いていて、その眼が葛を見る。
葛はくすくすと笑いながらこくりと頷いて、
蘭はきゃぁーっと嬉しい悲鳴をあげて右手にクマさんのフォークを持った状態で両手を合わせて、
「いただきます………にゃぁ」
ぬ、脱がしたよな、ちゃんと(どきどき)―――――ふわりと広がった黒髪、大きく見開かれた翡翠色の瞳、電流が流れたように身体を強張らせた葛の前で蘭はかわいらしく笑顔満面の顔を小さく傾げましたとさ。
お終い。
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