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<東京怪談ノベル(シングル)>


覗き見る者―閉鎖世界―


 錬金術という名の科学が、かつて存在した。
 金属を練ることによってよりよいものを精製する。非金属から金を精錬する技術がそれであり、現在の視点から言うと、それは科学であると言明される。

 だが、歴史に残る錬金術師が目指したものは科学とは非なるものだった。
 錬金術師と呼ばれる者どもは、こぞってある一つの物質に焦がれたのだ。
 
 「賢者の石」

 哲学者の石、天上の石、赤きティンクトゥラ、第五実体。

 呼び名は幾多にも上り、その存在についての雑多な説も後を絶たない。
 彼らはそのひとかけらの石に、元素をまったく違うものに作り変える力を求め、限りある人の枠を取り払い、死ぬことのない命を与える力を求めた。

 彼らが求めたのは、神によってしか与えられないであろう、全知全能の力。

 人として、賢者の石をつくりあげたものの名は歴史にはなく、ただ一人伝説的な神人、ヘルメス・トリスメギストスのみがその奇跡をつくりあげたという。
 

 19世紀。原子の存在が発見され、物質の構造が明らかにされた後、賢者の石の探求も廃れたが、神秘を追い求めた根はいまだ現の世に根付き、密やかなる鼓動を繰り返している。



 +
 世界は閉じている。宇奈月・慎一郎 (うなずき・しんいちろう)はそう考える。
 すべてにおいてそうではないが、世間一般の大衆と呼ばれるほとんどのものに対して、世界は情報を開示せず、秘匿し続ける。
 それは、生きとし生けるものの中で、とりわけ抜きん出た知恵の実を取り入れた人間にとっても、その情報が必要のないものだからだ。人間には必要のないもので構成されていると神が判断を下したが故、世界は閉じている。
 それが世界の均衡を保つ黄金率であり、人に許された境界線であり、限界であるとされてきた。
 そして、その世界に生きるものとして、慎一郎もそれを守り続けた。
 つい、先日までは。

 出来上がったばかりのそれを厳重にトランクに抱えもち、慎一郎はイギリス-ヒースロー空港に降り立った。
 ほんの2日前のことだ。
 直通便を利用したとはいえ、12時間という長時間の拘束による体の軋みはなかなか取れていかなかった。首を右に、左に鳴らしながらもスーツケースを押し、列車にのり、パディトン駅を経由し、さらにターミナルから”Tube”という案内にしたがって地下鉄に降りた。
 その日は都心に泊まり、次の日、昼を過ぎたころからまた移動を開始した。何度も乗換えを繰り返し、交通手段を変えながら、ようやく探り当てた目的地である片田舎に到着したのは、次の日の昼。
 つまり今日だ。
 日本を出た時と、服装以外はほとんど変わらぬ出で立ちで、慎一郎はそのストリートに立っていた。
 異国の町は、騒がしくもなく、静か過ぎることもなく、ただ、長閑だった。
 舗装された車道から一段高くなった石畳の歩道の端には、風にゆるく揺られてキコギコと音を立てる標識が右往左往しており、その擦れた表面に” Church Street W25”と刻印されている。
 では、近くに教会があるのだろう。
 慎一郎はふと、言いようのない感情を覚えて、ただ口元だけで苦笑した。
 ――――あのような手記を残した父が、よもや神の御座である教会の名を持つ場所で、暮らしていたとは。
 皮肉なものだ、と思った。思って、ほんの数十秒だけ、その場に佇む。
 だが、それだけだった。
 手元にある、小さなメモ。そこに記されたアパートメントの名を便りに、彼はスーツケースを引きずっていく。その重みが、妙に両肩に圧し掛かった。

『すまない。
 だがもう帰れはすまい。
 帰ったなら、ああ

 いや、私はなぜ帰らないのだろう。
 何故なのかわからない。
 ただ、帰ってはならないのだ』

                  ある研究者の手記 抜粋

 昼を過ぎたアパートメントの狭苦しい階段通路には、明かりを取り入れる窓も僅かしかなく、光は堆積しつつある埃ばかりを照らしていた。
 所々、剥げて地肌を覗かせるその段を踏みしめながら、慎一郎は思い出していた。――――父の手記を。

『もう、逃げ切れない。
 あれが追って来た』

                  ある研究者の手記 抜粋

 強大な何かに追われた彼は、追うものを”あれ”と書き記した。何者であるのか、その名を知らなかったのか、知っていても文章にさえ記すことができなかったのか、どちらかは知らない。
 ただ、彼は一度もその狂おしい追跡者の名を書こうとはしなかった。
 ただ、すまなかった、と。事情も何も伝えることが適わず、こうしてすべてを闇に葬っていく自らを許してくれ、と、そう書いてあった。
 何も明かさず、自分だけが連れ去られることで、この恐ろしい研究を永遠に人の目に触れないようにしたのかもしれない。願わくば、誰も自分のように囚われては、くれるなと。
 ――――ならば、僕はその父の最期の想いをも、踏みにじってしまうのだろうか。

 慎一郎は必死で追い求めた。父を追った何者かを、追った。
 魔術師であった父から受け継いだ蔵書の端から端まですべてを洗い直し、原書にも手をつけた。とりわけ参考になったのは”エメラルド陶片”と呼ばれる紀元前200年頃、中世ヨーロッパにて記されたという魔道書で、原典はアラム語、あるいは古典ギリシャ語により表されている。いわば、その当時の錬金術の主要書といえるものであった。
 その明記は、短く、簡素であり、真理にもっとも近い。――例え、禁忌を犯そうと、父さん……僕は必ず貴方を連れ戻す。それだけを頭に、ここまで奔った。

 ふと、顔を上げると、慎一郎の前に、古ぼけて、くすんだ金字があしらわれた扉が姿を現していた。部屋番号が刻印されたプレートが貼り付けられていたのだろう、形だけを残したみすぼらしいはげ痕だけが、父がそこに暮らしていたことを物語っている。
 すっかり錆びを含んだノブに手をかけ、ゆっくりと回した。――ぎぃ。なんなく、開く。
 
 主を失って久しい部屋は、ほこりくさい空気を抱えもって静かに沈黙していた。
 がらんどう。
 その言葉は、きっとこういう時に使うのだ、と妙に感慨を覚えながら思った。

 元からそうだったのか、部屋の中にはほとんど家具と言えるものがなかった。恐らく、父はここを「家」ではなく、「実験室」として使用していたのだ。小さな部屋だ。
 休まるものは何もおいておらず、ただ、長方形の部屋の片隅に申し訳程度の木机と椅子が所在なさげに鎮座している。
 父は、あの机で手記を書いたのだろうか。
 持ち主を失った部屋はその機能をも失い、だが、この場であったのであろう、禁忌の一片は何一つ刻んでいないように見える。
 それさえも、「あれ」は父ごと持ち去ってしまったのだろうか。

 ――――だが、あまりに何もなさすぎる。

 机だけが残された部屋を、慎一郎はもう一度見回した。トランクは入り口に置いたまま、中央まで歩み寄り――――ふと気づいた。匂いがする。
「……これは」
 入り口からでは見えなかった壁のある一角に、妙に真新しい壁紙が貼られてある。その横に、暖房器具のものだろうか。素っ気のない灰色のパイプが曲がりくねって上へと伸び、その天井に黒ずんだしみが大きく広がっている。
 一見、水漏れによって侵食された壁の一部を申し訳程度に隠したようにも見えるが、慎一郎はそうは思わなかった。

 ジャケットの内ポケットより小型の万能ナイフを取り出し、その奇妙な壁の一端に刃を差し入れる。できたささくれからそろそろと壁紙を剥がし、ある一点を見つけると勢いをつけてめくりとった。

 それが、傷痕だった。

 隠された壁の内を縦横に走る赤茶けた無数の筋。
 何らかの法則に従って描かれたであろう、魔方陣の施行痕も見つかったが、これについてはすでに内容が読み取れるものではない。――――無残に焼き切れている。

 目を眇めてその傷痕を存分に検分した慎一郎は、傍らの椅子を引き、素っ気無い木机の上にモバイルを取り出した。

 軽快なキータッチで特定のプログラムを立ち上げ、相手との通信が適うのを待つ。
 ほどなくして、画面上に見知った人物の姿が浮かび上がった。

『はろー、慎一郎。元気でやってんの?』

 猫倉甚大。
 慎一郎の趣味とも言える古書店巡りで知り合った、ある本屋の店主見習いだが、彼はいつ見ても底抜けに明るい。
 少しだけ、気分が和らぐのを感じた。

「ええ、おかげさまで。甚大クンもお元気そうで何よりですよ」

『うっわ、すっげ。本気で喋ってるじゃん。これどういうコンピューター?』

 はしゃいだ様子で画面を無茶苦茶に触ったらしく、画面が僅かに乱れる。苦笑しながら、慎一郎は真顔に戻って言った。

「話を急いですいませんが――――見つかりましたか?」
『あー、それね』

 甚大は垂れ目を細める。
 遠く、離れた日本で、彼が脇にあるもう一方のパソコンを操るのが見えた。

『色々、調べたよ。うちの本も全部洗いなおしたけど、慎一郎が言ってたような場所はなかなか見つからなかったんだ。諦めてたんだけど、じーちゃんが一個見つけてくれたよ。ねぇ、でも』

 彼の目に、なんとも言えない複雑な色が混じった。

『…………本気で行くの?』
「無論」

 その短い即答の言葉で、甚大は納得したようだった。
 パソコンを操作して、慎一郎のモバイルに情報を添付する。

 モバイルの画面上に画像が現れ、その横に簡易な地図が表示された。チチチチ、と細かい電子音が続き、プログラムが位置を特定する。

「…………島の遺跡、ですか。名はないのですね」

『ない。小さい島だし。形としては、かの有名なストーンヘンジに類似するもの、だってさ。じーちゃん、何か難しいこと言ってた。観光客とか、公にもまったく情報が開示されてないみたいで、確かにネットをどれだけさらっても出てこない。実在自体があやふやだけどね』

「では、ここに”扉”が?」
『可能性、だよ。あんたが干渉したい高次元世界に近いんじゃないか、ってこと。危ない場所だよ』

「……はい。ありがとう、甚大クン。危険に付き合わせることになってしまって、すいません」
『嫌なことならやらないっての』

 律儀に礼と謝罪を述べた慎一郎に、甚大はあっさり言った。それじゃあ、早く帰ってこいよ、と言い残して通信画面から消える。
 慎一郎は立ち上がった。

 +
 島に到達するには、さらに5日かかった。船を出してくれた男は、寡黙だが、親切な男で、この無人となった島に渡りたがる慎一郎をいぶかしんでいるようだった。別れる寸前に、帰りも船が必要だろうから、連絡してこい、と、そばにあった木切れに豪快な字で電話番号だろう、何桁かの数字を刻み、手渡してくれた。
 電波がここまで届いていればいいが、と慎一郎は思った。もし届いていなければ何がしかを練成して乗り物を作らねばならない。

 島の大地は、荒涼としていた。見渡す限り荒地ばかりで人の気配も、何もない。
 甚大が言っていた通り、人も絶えた小さな島なのだろう。だが、過去、ここに自分のような魔術師が降り立ったのだ。
 ストーンサークルは、少し歩けば容易に見つけ出すことができた。ちょうど島の中央に位置するそれらは、ストーンヘンジのように細やかな加工を受けてはおらず、どちらかというと自然のそのままに切り出した、という印象を受ける。おそらく、この島が北方に位置することも関係しているのだろう。荒々しい自然の中では、このような姿にならざるを得ないのかもしれない。
 不揃いな石の列は、遺跡の中心からほぼ東西南北に並んでおり、北側の列石のみが2列になっている。
 サークルのほぼ中心には、一際巨大な石が天に向かってたっており、その背後に小さな窪みを見ることができた。
 歩み寄り、その窪みを小さく掘ると、微かに水の匂いがした。
 慎一郎は一人頷き、少し下がるとモバイルを取り出した。
 ソフトを立ち上げ、あらかじめ覚えこませた式を施行する。大気が高圧の電流に震えたように断続的に光を発し、巨石を中心として練成陣が瞬時に広がり、大地を走る。
 光が去った後には、先ほどまで窪地が存在した場所に、人一人がようやく通れるだろう、という規模の地下に続く深い階段が出来上がっていた。
「……うまくいったようですね」
 満足そうに頷き、慎一郎はモバイルをしまって代わりに明かりを取り出し、その深みに足を差し入れた。
 色の濃い、土の匂いが鼻をつく。有害なガスなどは充満していないようだった。
 人工的な光はどこに反射するでもなく、足元の僅かな域のみを照らす。
 練成によって地中に連結された段は、ほんの数十段を降りたところでなくなり、そこからは半ば崩れ落ちたような荒く切り出された段が姿を現した。だが、自然のものであるはずはない。
 思った通り、上の遺跡はただのダミーで、真核はこの下にこそ隠されている。
 確信した慎一郎は、注意深く辺りを伺いながら、地の底へと向かった。
 初めのころは、ボロボロと落ちてくる土肌が顔を出していた両側の壁も、時を経るにつれて成らされ、積み上げられた石のそれに代わり、そこからは一定感覚にかつて松明のような明かりを灯していた跡が見えた。
 左の壁には、通路との隙間に僅かに溝のようなものが掘ってあり、そこを細い水の筋が流れている。
 水の匂いは、ここからだったのだろう。
 その筋は、暗く、闇が澱んだ先まで、ずっと続いていた。
 神か、それをも凌駕する何かか。古き時代に纏わる異形のもの。この古く、いまだ息吹を感じることができる回廊の先にそれと干渉するための何かがあるのか。

 長い時が流れた。父が、世界と自分たちから奪われてから、長い、時が。
 慎一郎は漆黒の髪を払って、顔にかかる二つの丸いガラスの奥から闇を見据えた。

 父は、何によってこの世界から奪われたのか。何度その問いを繰り返したか知れない。何一つ重要なことも大切なことも話していかなかった父を憎みさえした。

 数という素っ気無いものにすれば一瞬であっても、慎一郎にとっては永劫にも感じられる時間。その長い時が苦痛だった。

 もはや、何が相手であろうと関係はない。
 それが許されざる大罪になろうと連れ戻してみせる。
 父には、――――語る義務があるのだから。


 やがて、回廊の終わりは、唐突に訪れた。

 長く、幾度か曲がりくねりながら深く地を貫いた横穴の回廊の先は、巨大な二つ扉によって閉じられていた。
 その黄褐色の表面には、絡み合う2対の蛇が描かれている。
 これが現すものは――――永劫の命。
 生命の樹、セフィロトと同等の意味を持つ力ある絵画だった。
 慎一郎はゆっくりとその扉に手を押し当てる。
 渾身の力を込めて、それを開いた。

 
 この、長い、長い、時。

 慎一郎は足を進める。堆積し続けた古代の大気と凝(こご)った闇の中、体全体が心臓となり、鼓動を打ち付けているようだ。

 ようやく、――――叶う。

 靴音は反響して、無人の遺跡の中に大きく、高く響き、それに合わせて、慎一郎はモバイルを取り出した。

 蟲の羽音にも似た、ヴンッ、という断続的な音が続いたかと思うと、術式の詠唱者を中心として練成陣が三次元世界に立ち上がる。
 すべての術式をモバイルに覚えこませて施行する慎一郎には、練成陣を描く必要性がない。
 高圧電流に触れたような光の奔流がサークルの中央より噴出し、堆積していた闇や澱んだ大気を振り払っていく。

「…………さぁ。父さん」

 呼びかけながら、慎一郎はとうとう、ジャケットの内ポケットから取り出した。
 それは、スーツケースの奥深くに収めておいたもの。
 父が消えてからというもの、どんな手を使ってでも作り上げることを誓ったもの。
 赤黒く、血にも似た深い輝きを放つ、奇蹟。

 ――――――賢者の石。



 陣が地へと落ち、一際光を放った。ジジジジジッ、と短く鮮烈な炎が奔り、石床の上に溶かしたての鉄のように、幾多もの円と線が交わり、焼き付いた。
 賢者の石が呼応したことを感じながら、慎一郎はとうとう最後の術式を施行する。
 凝縮された生命エネルギーを一気に開放し、過去に失われた魂の情報を元に練成する。

 父が消え去った7年前。心に誓ったのは学び続けること。諦めを忘れ続けること。

 そして、最大の禁忌とされた轍に踏み込むこと。

 慎一郎が誓ったのは、古代の異形によって持ち去られた父を、呼び戻すことだ。

 長い、長い、時の中で。
 今、それがまさに叶おうとしていた。


                    そう、思った。


「!?」



 ふと。気づけば、目の前には、もはや何もなかった。
 遺跡の姿も。時を経て作り上げた石も。自らがその地に刻んだ練成陣も。何も、かも。

 足は確かに存在しているはずなのに、その足が踏みしめる大地こそがない。手を伸ばしても何も触れるものはなく、あるのはただ、無を思わせる世界。
 呆然として、慎一郎は辺りを見回した。

 ここは、一体。

 そう、思った瞬間。

 それは、背後から来た。
 急激に迫るあまりに巨大な気配に、すべてを避けきることが叶わず、半身だけをひねって倒れこむ――が、よけ損ねた。
 自分を目掛けて一直線に駆け抜けたそれは、右腕の半分をかすって過ぎる。その次の瞬間、大量の鮮血がそれがかすった右腕部分から勢いよく吹き出る。

「あああああああああああああああ!」

 あと少しよけるのが遅ければ、右腕すべてを持っていかれていた。
 声よ、潰れよ、というほどにその衝撃と激情を喉に乗せて迸らせる。だが、それが間違った行動だとすぐ知った。

 走り去ったはずの相手はすぐに慎一郎を見つけ出し、戻ってきた。よろめきながらも、また避ける――避けきれない。
 左足をやられた。

 頭が、肩が、胴体が、体のありとあらゆる部位が。
 いまや、正体もはっきりとしないものの標的となって、少しずつ損なわれていく。

 それは、一言も言葉を発しなかったし、眼を合わせて慎一郎と意思を交わすこともなかった。いや、瞳さえ、抱え持っているのかどうかもわからない。

 それはただそこに存在するものであり、罪あるものを断罪する。
 恐らく、自らが納まるべき境界を越え、禁忌を犯した愚者を持ち去るのだ。

 血濡れになった体をせめて僅かに支えながら、慎一郎はギリ、と歯を絞った。

 あれが、父を追いかけたのだ。もはや、疑いようもない。父が犯そうとした禁忌は、恐らく自分ほどのものではなかったに違いない。彼の蝕まれ方は非常にゆっくりとしていたように思う。
 だが、これは。これでは。

 父を呼び戻すことなど不可能だ。
 賢者の石をもってしても、等価交換は為されない。そればかりか、自分までもが今、こうして奪い去られようとしている。――――世界から。

 今になって、自分の考えの甘さと、未熟さを思い知って、思った。それは、なんとつらいことだろう。

 声さえもあげることができなくなった慎一郎の気配を探る、もう一つの気配を少し離れた後方に感じる。
 なんとか動こうとしたが、腹部から大量に滴り落ちる血液から、生気までもが流れてしまうのがわかった。
 奴の力は、ただ部位を食いちぎるだけでなく、そこから生命エネルギーをも奪い取るらしい。

 血液が失われ、頭の隅々まで行き届かなくなり、次第に思考もベールをかぶったかのように霞んでいく。

 ああ、間違えたのだ、と思った。
 選ぶ道を誤ったことに気づいた時にはもう、遅くて、自分には父ほどの時間も残されてはいなくて、だから。

「…………だけど、それでも」


 もう一度だけ、……会いたかったんだ。
 懐かしいあの人に。

 やがて、気配が真後ろへと迫り、慎一郎はゆっくりと目を閉じた。



 +
 イギリスは北方に位置する、今は名もなき島の上。
 日本から来た一人の男が、血濡れの体で倒れ伏しているのを、ある水夫が見つけた。
 水夫は、数日前に彼をその島まで送り届けたのだという。
 連絡しろと言ったのに、何の連絡もないから、寡黙ながらも親切なその水夫は島までもう一度彼を探しに戻ったのだといった。
 男は、1カ月あまりもの間、昏睡し続けた。
 やがて、目を開いた時、男は、日本から駆けつけてきた友人だという青年を見て言った。

「やっぱり、世界は閉じ続けるんですね」

 それを聞いた青年は首を傾げてただ一言、「は?」と聞き返した。
 青年の反応に、男はぼんやりした顔をほんの少しだけ動かして、「…………あれ。甚大クン。どうしてここに?」と、聞いてきたので青年に激しいため息をつかれてしまった。
 
+
 後に、慎一郎は自分があの時何故持ち去られなかったのか、ということを考えた。
 父が完全に持ち去られ、更なる禁忌を起こした自分がこうして、この世界に残される事実。
 
 僅かな記憶を探っては、あの世界のことを思い出す。
 そうして、その度、極限状態の自分が感じた、あれはきっと、幻想だったのだろうと言い聞かせずにはいられない。

 ――――父の、存在を感じた気がした。

 あれの爪が、慎一郎の体を抉り取るその瞬間に、割り込んだ声が、気配が。
 空虚な無の空間の中で、確かにもう失われてしまった父のもののように、響いて、消えた。

 だけど、それはきっと自分の思い違いだろう、と慎一郎は思う。
 疑問が頭をもたげたとしても、押し込める。
 ……そんなことを思ってしまったら。

 きっと、同じ過ちを犯さざるを得ないだろう、自分をよく知るから。


「父さん…………」


 呟きは、吐息と共に空中に浮遊して、溶ける。
 彼を、諦められるだろうか。

 白い、清潔なシーツの匂いが鼻に心地よい。今は、もうしばらく休もう……。
 まどろみに戻っていく意識を感じながら、慎一郎は再びゆっくりと瞼を下ろした。
 

END
 
Thank you for the order.
Wrriten by atuki nekoa.