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<東京怪談ノベル(シングル)>


■con tenerezza■





 床に落ちる影までもどこか朧に見せ、外から頼りなく差し込む光が窓を満たす。
 室内に光を灯そうと腕を伸ばした円居聖治はその幻想を瞳に映した。
 黒く艶めいたグランドピアノ。
 滲み込むような光を輪郭に乗せて外界に溶けてしまう、そんな気配のそれは聖治が愛おしんでやまないもの。
 知らず瞳を安らがせて見遣るそれ。今は上蓋を閉じてしまっているけれど、一度開いて音の望むままにしてやれば、室内をその声で満たすことを聖治はとてもよく知っている。
 その聖治の日々の中で多くを占める存在を、すいと柔らかく瞳を眇めて眺めてから室内に踏み入った。灯りは点けないままだ。
 一度窓際に寄り、カーテンを開く。
 街中の光は意外と鮮明には室内に届かない。
 頭上から降る控えめな月明かりと混ざり合っての眩さの行方、描く淡い道を辿るようにして振り返ればそこに夜闇の鏡のまましんと佇んでいる様。眇めた瞳が更に柔らかく穏やかになるのに合わせて口の端がゆるゆると動き綻んでいく。
 襟元をごく僅か――他人からすればどこがと問う程度にささやかに寛がせつつピアノの傍らに歩み寄ると、聖治は長く伸びやかな指を縁に添えた。
 そうしてから離れればその腕でドア近くに置いた仕事道具を持ち上げると、常の収納場所にと移動する。音を合わせる、という世間の認識だけが調律師の業務ではない。およそピアノの状態を良好に保つ為に必要な作業の程は周囲が思うよりもはるかに体力を要するし、器具も時間も必要になるのだ。結果として仕事道具はそれなりの大きさ重さになるわけで。
 ――ふ、と吐いた息で疲労を悟る。
 贔屓にしてくれる一人から紹介された人物のピアノ。
 長く手を触れずにいたとは事前に聞いて覚悟はしても、聞くと見るとは大違いとはよく言ったものだった。音の狂い、反響板の汚れ、鍵の隙間で何かが引っ掛かる、そんなことが山と出て来たとなれば聖治の疲労も増すというもの。ましてや先方の都合で完全には仕事を行う時間を取れなかったなれば尚更。
(次に伺うときにもう一度――)
 だが調律師という職を聖治はこの上なく己に向いたものだとしているし、ピアノは自身にとって最愛だ。肉体の疲労、集中による精神の疲労があったとしても倦厭には繋がらない。
 すっきりと片付いた机の上に顧客ごとのファイルを一つ、新しく広げて用意する。次回の訪問は近く約束したから調整してタッチのずれを――考えつつボールペンを握っていた手を休めると、そこで再度息を吐いた。
 癖のある短髪に指を入れる。
 それから踵を返し、いまだに灯りの入らないままにピアノが佇む一室へ。
 仕事道具を置いていた部屋も玄関も明かりは入っているのにそこだけが暗い。ドアを閉めてしまえばたとえ灯りを入れたままであっても、他の場所からは届かない光。
 そうすればもう、忍び入る仄かな光だけが空間を照らす唯一の存在だった。


 ** *** *


 細く脆く頼りない、儚いばかりの指が自分の小さな指を握り込む。その冷えた肌に不安を覚えたこと。けれど離しがたく、ぎゅうと強く握って微笑み混じりに返さされたこと。声の優しい気配と奥底の不吉な音の揺れ。秀でた感覚は幼い頃にも変わらずに声音の底までしっかと浚う。

 ――聖治の記憶の中にあるぬくもりは、辿ればそういったものをまず引き寄せた。
 それは幼心に微かな不安を抱いた感覚も伴っている。
(だからだろうか)
 身近な存在というには繊細な存在だと、出会う女性に思うのは。
 月明かりに映えるピアノのシルエットに招かれたように思い立ち、蓋を開いた白と黒の鍵盤を見下ろしながら聖治は思う。どこか感覚的な、脳裏で言葉になり損ねるような、そんな思考。
 指で無意識に上蓋の輪郭をなぞる。
 それはひどく柔らかく優しげな、誰かに触れるような。
 ともすれば恋人に触れる、家族に触れる、どちらと取るかは見る者によるとしても愛情を感じさせるのは確かなもの。
 実際、聖治にとってこのピアノはただ音を奏でる道具だというものではないのだ。
 余暇を持てばもっとも長く過ごすのはこの鍵盤の前であるし、思索の足掛かりを探すにも何某かの曲を弾いて心を寛がせてからというのは有効で、純粋に曲を弾き音を聴く行為は他のどのような存在よりも円居聖治という人間を満足させた。
 そう、恋人、と称する関係であった人よりも。

 気質が熱をさほどに求めないだけだろうか。
 そうではないと心のどこかで思っている。
 けれど誰かを求めるような感情は聖治の中には存在しない。

 曖昧な光に映える黒を改めて見、それから椅子を引くと聖治は腰を下ろしてピアノを見た。
 指を組み膝に乗せる。今は蓋に隠されている鍵盤よりも僅かに上を眺めて浮かべる笑みは感情もあからさまなものだ。それが人に向けられていれば関係も容易く知れるような、そんな愛おしさに溢れたもの。
「……貴方が最上なようですよ」
 希薄な自嘲を滲ませて語りかける。
 困った風の眼差しで聖治は佇むばかりのピアノを見詰めて唇を動かした。
 ぽつぽつと、誰に聞かせるでもなく。言うなれば目の前のピアノに向けて。
「好意はあった筈なんですが」
 過去に付き合った相手に対して確かに愛情はあった。その筈だ。
 けれどそれは常に疑問を伴っていたのだろう。その愛情の種類はなんであるのかと。親愛、という程度の感情ではないのかと。そしておそらくは、その通りだったのだ。
「友人であれば上手く付き合っていけたのかもしれない」
 けれど恋人では駄目だった。
 擬似的な、人付き合いの中での些細な芝居を思わせる――ままごと。戯れに過ぎない巷の恋愛を真似ただけのもの。それだけのものであったのだから。
 恋人であるはずの相手との関わりは、時間の経過と共に違和感を強く覚えるようになる。
 待ち合わせの前にと外出予定時間の調節も兼ねてピアノに向かう。ほんの少しの時間であっても、そちらの方がはるかに心地良くある。その事実に気付く。
 ごく僅かであるが確かなずれ。
 さよならと短い言葉を交わしたときの寂しさを覚えている。
 何かを足元に落として見失ったような、そんな喪失感。
 どこか心細く物悲しく、頼りなく、視線を落としがちに帰路を辿った。
(それもピアノに触れればすぐに消えた)
 今目の前にある黒い蓋を開けたならばそこには白と黒も鮮やかに、美しい鍵盤が存在する。
 別離の日にもそれは当然変わらなくて、帰宅した聖治は上蓋も上げて散々に音を堪能したのだ。そして鍵盤を叩く指が止まったときには喪失感ではなく充足感が胸を満たしていた。
 そのときの感覚を思い出して瞼を閉ざす。
 窓は閉めているのに屋外のどこかから犬の吠え声が入り込んでくる。飼い犬だろうか、誰かが諌める声に静かになった。
 そういった愛すべき獣達に対する愛情とも違う。
 友人へ向ける感情、ともやはり違う。
 過去の擬似恋愛で抱いた感情――好意は本物だった。恋愛感情ではなかっただけだ――の種類を推し量るのは幾度も繰り返した。今もまた繰り返す。
 明確な解は導き出せるわけでもない問いであるのに。
(……そう、たとえば)
 対話するように聖治の物静かな面差しがピアノに向かっている。
 手入れを欠かさぬ黒に薄く映りこむ優しげな顔。本人は気付かないけれど、差し込む弱い光は彼の銀髪と皺のないシャツを染め上げていた。ピアノに感じた幻想を彼自身がまとう。
(友人との付き合いに加えて、愛情を向けられる分だけこちらが返すものも増していたのかもしれない)
 思い返せば始まりが自分からであった例がない。
 歩み寄るのは常に相手から。聖治は相手の感情に頷いて、そして始まるばかりだった。
 そつのない挙措動作。
 相手が不快を覚えることはまずなかっただろうけれど、聖治は常にどこか気を張っていた。そして休息をピアノによって得る。胸の内さえ語るのはピアノに対しての方がきっと多かったのだから――辿る思考はいつもの通りで聖治は苦笑を僅かに浮かべながら瞳を開いた。
「いつ考えても同じですね」
 鍵盤の蓋に青い瞳が映り乗り、指をかけて蓋を開く。
 汚れのない白と、周囲よりも硬い黒がゆるやかに姿を現した。
 誰かと言葉を交わすようにこの鍵を叩くことの多さよ。叩き奏でる、そのときほど感情を曝け出すことはない。己の意思も情動も、人にではなくピアノに向ける。
 自然と笑みを湛えて聖治は鍵盤を眺めたまま。
「特別な相手が代わらないままでは」
 指を一本、鍵盤に伸ばす。
 ペダルを踏みながらひとつ押すと、防音とはいえ普段は控える夜の空間に伸びやかに一音が伸びた。慈しむような指の滑りに応えるようにこころなしか柔らかく、優しく。
「まだ――」
 余韻までもが聖治の心を寛がせるのだ。


 ** *** *


 早々に男所帯となった環境が尚更に、女性への距離を持たせるのかとも思う。
 記憶の中の儚い姿は知り合う異性に投影されては聖治に教えるのだ。
 違う存在なのだ、儚さをまとう美しいものなのだから、気をつけて丁重に――そういった不明瞭な声をどこかで聞いては頷いている。当然に彼の女性に対する態度は紳士の一言に尽きて。
 秋波を送られたことも一度や二度ではない。
 けれど常に聖治は気付かぬ風にして距離を取って遣り過ごしてきた。
 恋人であった人に対しての心情と、ピアノに向かう己の心情と、それらが常に後者に天秤を傾ける現実を認識してからは常にそうしている。
 女性の好意に応えられる可能性が無いことを理解していながら付き合いを承諾する、それはあまりに不誠実だと。
 
 だから聖治は今は恋人と呼べる相手を持っていなかった。

「――最近は、丁寧に扱っている方ばかり伺っていたし」
 疲れているのだろうと再び目を閉じて、その目元を指で揉み解しながら聖治は思考を切る。
 現状では堂々巡りにしかならないことを考えてしまった。
 数日前辺りで連続して意味有りげな態度を女性に取られたせいもあるだろうか。記憶の底というものは随分と深いくせに妙に浅くもあるらしい。
 それとも余程に申し訳なく思ったのか。
「どうでしょうね」
 一音を聴いただけだった鍵盤の蓋を下ろしながら呟いてみる。
 あるいは、繰り返しの思考から枝道を見つけ出したかったのかと己の意識を探ってもいいかもしれない。無意識に、何か変化を求めているのかもしれないのだから。
 けれどそれももう明日の話だ。
 充分に睡眠を取って、鍵盤を叩いてピアノと語らって、そして己を見詰め直す。今日はもう遅い。だから――


「また明日」


 微かにかたりと蓋の閉まる音。
 微笑む聖治の仕草はどこまでも優しく慈しむように。
 愛情を感じさせるばかりだった。





end.