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<東京怪談ノベル(シングル)>


夏の氷とオデン汁

「あー、そこ行く長髪のおにーさん。カキ氷はいかがっすかねぇ」

 頭上に広がる青があまりに濃くて、広いある日。
 宇奈月・慎一郎(うなづき・しんいちろう)は妙に気の抜ける声にそう呼び止められた。

 ふと、時間が空いたので、運動がてら散策に出かけた。
 梅雨が明けたばかりの空気は嘘のように湿気を振り払い、代わりに熱気を纏っている。
 体の中いっぱいにそれを吸い込むと、喉が俄かに渇いてくる。小さな頃のように、足と手を存分に使ってこの中を駆ければ、息が上がるのは目に見えている。
 夏の盛りが訪れつつあるのだ、と思った。
 そんな折の、出し抜けの声。それも、ずいぶんやる気がなさそうだ。
 だが、その声に聞き覚えがあった。
 光を避けて、慎一郎は声の主を仰ぎ見て、予想通りの姿に顔を綻ばせた。
 知人、猫倉・甚大(ねこくら・じんだい)だった。
 自宅でもある古書店、猫又堂の涼しげな軒先から顔を覗かせ、ひらひらと手を振っている。頭には、洗いざらした風なタオルを無造作に巻いていた。
 いつのまにか、この辺りまで来ていたのだなぁ、と思いながら、慎一郎は甚大に近づく。
 そして近づくにつれて、かの甚大の頭の上でこの猫又堂では見慣れないものが揺れているのを見つけた。
 透明な風鈴がゆらり、ちりり、と揺れ、鳴き声をあげている。その隣に、白地に赤枠、紺の力強い文字で『氷』と書かれたノボリがはためいていた。

「……ははぁ、また何を始めたんですか、君は」
「氷。食べてかない、氷。いいの入ったんだけど。もらいもんだけどさ。慎一郎運がいいよ」

 にやり、と笑ってそう答えると、甚大は日ごろは味も素っ気もなく閉ざしている門戸をばーん! と勢いよく開け放った。彼の祖父が見ていたら中の本に痛みがくる、とどやしつけるくらいはやりそうだ。
 だが、そんなことはおかまいなしに、甚大は店の奥の方から竹作りの長椅子を持ち出してくる。それを店先に出すと、「さ、座って」と頷いた。
 慎一郎がどう答えるかには興味がないらしい。
 小さく笑って、慎一郎はおとなしく腰をかけた。

「あー、ねー、ねー、しんいちろー」

 そうして店の奥に行きかけて、甚大が引き返してくる。どこに置いてあったのか、右手には空っぽのギヤマンの皿を乗っけていた。
「どうしたんですか、甚大くん」
「んー、盛りなんだけどね。荒波コースがいい? 雷コースがいい? 入道雲コースがいい?」
「……それ、本当にカキ氷の盛りのコースですか?」
「当たり前でしょ」
 当たり前ではないと思う。
「はぁ、まぁ」
 だが、そうは言わずにとりあえず頷くと、再び「どれにすんの」と急かされた。慎一郎は考える。
「あらなみぃ〜♪ かみなりぃ〜♪ たいふうのめぇ〜」
「……一つ違いませんか?」
「もー、いーから早くしろっての」
 …………怒られてしまった。
「えーと、それでは入道雲コースでお願いできます?」
「おーいえー♪ もこもこ一丁ー」
「って、もこもこ?」

 のりのりで答えると、甚大はまた奥へと帰っていった。……一体どんな盛りで出てくるのだろう。
 素朴な疑問を覚えながら、とりあえず腰をかけて待つことにした。

「あー、慎一郎ー」

 また呼びかけられる。
「シロップなんにするー?」
「……上にかけるものですか?」
「そー。それ」

 軒に守られて、慎一郎に吹き付ける風は涼しかった。澄んだ風鈴の音と、その風を受けながら、慎一郎は少しだけ考える。

「――――かけるものは、なんでもいいですか?」
「まぁ、大体のものは揃えてるけどねっ」
 何でもいったんさい、と自信満々に答える甚大の声。だけど、これは用意してないんじゃないだろうか、と思いながら言ってみた。

「では、おでんの汁でお願いします」

 少しだけ沈黙があって、そのうち「……5分ほど出かけてくるから待って。いいから待ってろわかったな」という声が返ってきた。




「……おでん屋の親父寝てたっての」
 頬を膨らせながら、タッパいっぱいにおでんの汁を持って帰ってきた甚大は、少しばてていた。
「わざわざ買いに行ってくれたんですか?」
「いや、買ってないけど。もらったんだけど。こんなくそ暑い中おでんの汁たぁ、おめぇ酔狂な坊主だなぁ、なんて言われちゃったよ、俺」
 俺じゃないんですけどねぇ! と言いながら甚大はタッパをずい、と慎一郎に突き出して渡すと、ずかずかと店の奥に消えていった。
 忙しない青年だ。
 苦笑しながら軒先に出ると、先ほど甚大が据え置いた竹造りの長椅子が暇そうに鎮座していた。
 少しだけ突き出た軒は具合のよさそうな黒い影をその周辺に落とし、相変わらず風鈴が気まぐれに揺れている。
 長椅子の表面は畳ばりになっており、座ると気持ちがよさそうだったので、座ってみた。脇に朝顔柄の団扇が置かれていたので、なんとなく手にとって扇いでみる。
 それだけで、随分冷えた空気を感じられた。
 ふと、地面に目を向けると、あらかじめ甚大が水を打っておいたのか、アスファルトは黒く湿っていた。先ほどは気づかなかったが、あの青年はあれで意外と気が利くらしい。

 こうして日影を作り出し、打ち水をして自然の風を呼び、耳からも涼しさを取り入れられるように風の通り道に鳴り物を下げる。
 恐らく、過去の時代を生きた人々は、こんな風にして涼を呼んでいたのだろう。
 そんな昔のままのスタイルをいまだ保ってここにあるこの古書店を、慎一郎は改めて気に入った。
 常になく、のんびりと空を眺めていると、ほどなくして店の奥の方から甚大のダイナミックな足音が聞こえてくる。

「へい、おまちどおさま!!」

 威勢のいい声と共に現れた彼は、白くて大きい未確認物体を抱え持っていた。

「…………入道、雲?」

 なるほど、と思った。
 中華店で一般に見かける大皿と大体同じくらいの大きさのガラス皿に、これ以上物理的には無理だろうな、と思わざるを得ないくらいの氷が粗くかかれて盛り付けられている。
 ところどころくぼみがあったりするので、入道雲なのだろうか。
 むしろさっきのギヤマンの小さな皿は何だったのだろう。

「夏山コース盛り一丁!」

 しかもコース名も変更されていた。

「で、慎一郎。本気でこれにおでんの汁かけんの?」
「もちろんかけますが、何か?」

 あっさりと頷き、タッパの蓋をパッカリ開ける慎一郎に、甚大はうわ、この人本気でかけるよ、というような表情を見せた。
 まぁ、一般的にはそんな反応だろう、と慎一郎も思う。何せ自分のおでん好きは並大抵のものではないし――――生まれて初めてそうして食べる人を見た時は、確かに甚大のように思ったかもしれない。

 白く、巨大な峰のてっぺんから琥珀色のおでんの汁をかけ、水源のように少しずつ染み込んで行くそれを眺めていた慎一郎は、起き上がってくる記憶の気配を感じていた。

『それ、おいしいですか?』

 不思議そうにそう聞いたのは過去の、子供の頃の自分。

 同じくらい暑かった、いつかの夏。
 それが何歳くらいの時のことだったかなんてあまり覚えていないのに、その時周りに漂っていた空気であるとか、珍しく綻んだ父の顔の皺とか、妙に早かった木さじの運び具合とか、うるさいほど聞こえていた蝉の声が急に静かになったこととか、そういうことばかりは覚えている。
 父がおでん汁かけのカキ氷を食べるのは、大抵夕飯がおでんだった次の日のことだ。
 巨大な氷をカキ氷機にかけて、ガリガリと豪快に削り、ガラス皿いっぱいに盛ってたっぷりと汁を染み込ませる。父があれほどまでに表情を緩くする瞬間を、慎一郎は知らなかった。

 ほんの数日前に見た、光景のように思い出すことができる。

 氷におでんの汁をかけるという、あまり一般的ではない行為。
 確かに、その一見考えにくい組み合わせに、顔の表情を大きく動かす人が多い。
 だが父は無類のおでん好きで、おでんさえあれば何もいらないくらいだった。おでん中毒だ、と母はよく言ったものだ。
 ――――今の自分と同じように。

 さく。
 すっかりおでん色になった氷の一角に匙を差し入れると、湿った小気味のいい音がする。
 ああ、そうだったな。食べて、いましたね。今の僕のように、父さんも。
 
 懐かしいなぁ。

 そう思って匙を口に運ぶと、至福の味がじんわり、サッと広がって、慎一郎も顔を綻ばせた。
 きっと、いつかの父と同じくらいに、表情は緩んでいることだろう。

 その隣で、ザクザクと豪快に慎一郎のものと同じくらいの氷の小山を突き崩す甚大が、理解不能、というように半眼で首を左右に振っていた。
 彼の氷は、目も覚めるようなスカイブルーの色をしていた。
 何をかけたのか、と聞くと、半眼のままボソリと「……くじら印のおみくじサイダー(濃×2)」と呟いたので、慎一郎は首を傾げる。
「……それって、おいしいんですか?」
「あんたが聞くな! っていうかあんただけは聞くな!」

 かっ! と大口を開けた甚大の口の中までもが真っ青で、慎一郎は賑々しく声をたてて笑った。


 ――――夏のある日の、懐古の話だ。

END


Thank you the order.
Written by 猫亞 阿月