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<東京怪談ウェブゲーム 神聖都学園>


フルムーン





 月齢は十三。明後日の夜にはまた月が満ちる。
 闇と静寂が吹き抜ける学園の屋上に立ち、神聖都学園の制服を纏った少女は夜風にさらわれる髪の毛を直そうともせずに闇の奥を見据えている。
 歳の頃は十代後半。高等部の生徒であろう。華奢な銀縁の眼鏡の奥の目は切れ上がり、整った横顔は石膏像のように美しく、冷たい。彫りの深い目元に薄いブラウンの虹彩は外国の血を思わせる。緩やかにウェーブのかかった栗色の豊かな髪は後ろで無造作に束ねられ、冷たい風を孕んでふくらんでいた。
 やや顎を引き、拳の中に固く握り締めたロケットペンダントを小さく軋ませながら少女は自問する。
 祖父は今度こそ来てくれるだろうか?
 私を殺しに。
 それが私と、祖父との約束。
 三年前に交わした、何よりも大切な約束――。
  


 「なあ。明日って満月じゃねえか?」
 「ってことは・・・・・・また出るのかな、例の狼男みたいな奴」
 「あたし新聞で見たんだけどー、今まで狼男が目撃された地点をつなぐと、ちょうどうちの学園を中心にして円を描いてる感じになるんだって」
 情報通の女子生徒の発言で休み時間の教室は俄然盛り上がりを見せる。女子生徒は得意そうに新聞の切抜きを取り出してクラスメイトたちに示した。
 「ここが最初の地点。ここがその次・・・・・・。ね? しかも、段々学園に近付いてるでしょ?」
 「ってことは明日はここにそいつが現れるのか?」
 (じょ、冗談じゃないわよ)
 「そういや三年のフィアノ・サクラダって女子、夜になると時々校舎に入り込んでるみたいだな」
 (ややや、やめてってば〜!)
 「フィアノ先輩って、あの天才科学者の孫娘だろ? なんか関係あんのかな? 桜田がその狼男みたいな奴を呼び寄せてるとか――」
 生徒たちの会話を遮ったのは甲高い女性の悲鳴であった。ある者は驚いたようにびくっと身を震わせ、ある者は目をぱちくりさせたが、「またか」とでもいうかのように呆れ顔を作った者が大半であった。
 「先生さー」
 廊下に出た幾人かが腰に手を当ててそこに倒れた女性を見下ろした。「オバケが苦手なら立ち聞きなんかしてないでさっさと行けばいいじゃんよ」
 教室のすぐ外には、たまたまこの教室のそばを通りかかって話を聞いていた響カスミが白目をむいて倒れていた。



 「ねえ、ちょっと」
 という声に高等部の女子生徒が振り返ると、そこには見慣れぬ女性が立っていた。歳の頃は二十代後半。学生ではない。黒い髪に切れ長の青い瞳という容貌には中性的という形容がよく似合い、どこか異国の風情が感じられる。この学園の関係者なのだろうか。
 「高等部三年のフィアノ・サクラダさんの教室は……」
 女性の問いに女子生徒はちょっと眉を寄せた。明日の夜は満月。こんな時期に“あの”フィアノを訪ねてくるのは単なる好奇心であろうか。
 「この建物の四階の一番端ですけど」
 と教えた後で、女子生徒は背の高い女性を斜めに見上げる。「何の用? 超優等生だけど、あんまりいい人じゃないですよ」
 「慣れてるわ、そういう子には」
 女性は軽く苦笑いし、会釈して四階へと足を向けた。


 
 教えられた通りに四階に上がったシュライン・エマであったが、フィアノ・サクラダの第一印象は調査を進める上であまりはかばかしいものではなかった。
 「やめといたほうがいいですよ。超怖いって噂ですもん」
 「お高くとまってるって感じ。天才科学者の孫娘だか何だか知らないけどさー」
 「下手に話しかけたら噛み付かれますよ」
 神聖都学園の生徒たちが口にしたそれらの印象は間違ってはいないようだ。授業中の高等部三年の教室を覗くシュラインの目にも、彼女がとっつきやすい人物であるようには思えない。接触することはできても話を聞き出すことは難しそうである。
 ハーフであろうか。クオーターかと予想していたのが、それにしては外国の血が濃いように思う。当節の女子高生には珍しく化粧っ気のない顔はそれなりに整っており、きつい目元がクールな容貌を際立たせている。無造作に束ねた髪からルーズにこぼれ落ちる後れ毛すらモデルのようにサマになっていた。
 不意にフィアノの髪の毛がさらりと揺れた。一瞬、眼鏡のレンズが鋭い光を放つ。
 目が合った。
 磨き抜かれたレンズの向こうからシュラインを見据えるきつい瞳。しかしその程度のことに怯むシュラインではない。軽く目を細めただけで真っ向からフィアノを見据え返す。するとフィアノはすぐに目を逸らした。その口許がかすかに笑みを形作ったように見えたのはシュラインの錯覚だったのだろうか。
 シュラインはすぐに教室のそばを離れた。フィアノはこちらに気付いていた。それにも関わらず、半ば無視するようにすぐに視線を戻した。余裕の表れか、それとも単にこちらの素性と目的を見抜く眼がなかったにすぎないのか。恐らく前者でも後者でもないだろうが、強いて言えば前者に近いだろうという印象をシュラインは抱いた。
 今日のシュラインは仕事で大学の学園を訪れたのだが、友人から聞いた狼男のような人物とこの学園の生徒の繋がりの噂を思い出したのである。仕事を済ませた後でカスミに話を聞くつもりでいたのだが、ガードの固そうなあのフィアノのことをカスミがどれだけ知っているか、だ。実のある情報が得られるかどうかは分からなかったが、何もしないよりはマシである。シュラインはカスミとの待ち合わせ場所に指定した応接室へと向かった。



 応接室への道中、すれ違った生徒たちに声をかけてフィアノの家族構成などを調べたシュラインが応接室に入ると、すでにカスミが到着していた。ソファにちょこんと座って身を硬くしているさまは教師の威厳とは程遠い。彼女が資料として用意したのであろう、ソファの間に配置されたガラステーブルの上には狼男のような人物の事件に関する新聞記事の切り抜きが並べられている。そしてカスミの向かい側には以前の調査で一緒になったことがある陰陽師の榊遠夜が控えている。艶やかな黒髪に白い肌、漆黒の瞳という容貌は神秘的に整っているが、その顔にはどこか色が乏しい。遠夜はシュラインに気付くと軽く会釈した。遠夜の他にもう一人、桜塚詩文(さくらづかしふみ)という女性も調査に加わることになっていると聞いたが、それらしい姿は見当たらない。
 シュラインは挨拶もそこそこにカスミが集めた資料を手に取った。意外なことに、狼男のような人物による被害は一切ないらしい。人間への暴行・傷害どころか器物の損壊もなく、夜の街をただうろついているとのことである。狼男といえば凶暴かつ残虐と相場が決まっているのに、一体どういうことなのか。
 「カスミさん」
 シュラインはわずかに色のついた遠視用の眼鏡を外し、顔を上げて問うた。「例のサクラダさんっていう生徒、半年前に編入してきたそうですね?」
 「ええ、今年の四月半ばに。この学園を選んだのは彼女自身の強い希望だそうよ」
 「新学期が始まってから? それに、三年になって編入なんて妙ね」
 「半年前・・・・・・ですか」
 遠夜がふと別の記事を手に取った。狼男のような人物が初めて現れたのは今年の五月だという。時期的にはフィアノが編入してきた少し後といったところだ。遠夜の手の中の記事に素早く目を通したシュラインの眉がぴくりと持ち上がる。
 「そもそも、サクラダさん一家はどうしておじいさんを置いて日本に来たのかしら」
 シュラインは顎に指を当てて独りごちる。「それはね」と口を開いたのはカスミだった。ようやく教師らしい面を見せられるとでも思って張り切っているらしい。が、彼女の答えの内容は多分に頼りないものであった。
 「よく分からないの。何せ彼女、あの性格でしょう。友達とお喋りすることも少ないみたいなのよ。彼女自身もかなりの優等生だから周りの子と話が合わないのかも。頭のよさはおじいさん譲りかしら、日本語もペラペラだし」
 「なるほど。手がかりにはなりませんね」
 「でもね、でもね」
 顔の筋肉ひとつ動かさない遠夜の指摘にやや怯みつつもカスミは懸命に言葉を継ぐ。「一度だけ、“おじいちゃんについていけなくなった”ってこぼしてたことはあるんだって」
 「彼女のおじいさん、天才科学者だそうですね? 研究分野は何なのかしら」
 「それもはっきりしないんだけど」
 とカスミは声を落とした。「細菌とか病原菌を専門に扱う科学者だって噂。それにね、戦時中はこの学園の敷地に細菌研究所の支部が設置されていたそうなの。偶然かしらね」
 シュラインの青い瞳がやや見開かれ、丹念に整えられた遠夜の眉が軽く持ち上がった。



 「サクラダさん、かなりきつい方のようです」
 校舎から出た後で遠夜が誰にともなく呟いた。「何者をも寄せ付けない。そんな印象を受けました」
 「同感」
 シュラインも肯く。「ガードは固そうね。本人に事情を聞くのは無理そうだから、ご両親から攻めてみるのも一案だけど」
 「反対はしません」
 「あんた、陰陽師だったわね。どうなの、サクラダさん。彼女も何かの能力者?」
 「いいえ」
 抑揚のない声で言い、遠夜は小さく首を横に振った。「サクラダさんは正真正銘普通の人間です」
 「そう」
 シュラインは青い瞳を軽く瞬かせた。てっきり呪術師の端くれか、それでなければ人狼の類なのかと思っていたのだが。 「普通の人間とは意外ね。まあ、それはともかくとして」
 どちらからともなく二人は足を止めた。そして、
 「あんた、何なの?」
 「あなた、何者ですか?」
 と、背後を振り返った二人の声が期せずして重なった。校舎を出た直後から自分たちを尾行している者の気配に気付かぬ二人ではない。
 「人に名を尋ねる時は自分から名乗るのがマナーよ」
 尾行者は慌てて物陰に隠れる様子もなく、赤みがかったブラウンの髪を手で梳き上げながら散歩でもするかのような足取りで二人に歩み寄る。北欧系の血が混じっているのだろうか。細身ながらも均整のとれた体つき、肩と胸の開いた服に短めのスカート。どこか幼げに整った顔はあどけないのか大人の色気をたたえているのか、それすらも判然としない。艶やかな長い髪から漂うのは甘い芳香。タバコの臭いと客の体臭を消すために夜の店で焚き染められる香のにおいだとシュラインは敏感に察した。
 「遅れてごめんねー。早起きはきついのよ。ほら私、夜の仕事でしょ」
 女性は形のよい唇を持ち上げてくすりと笑んだ。「私、桜塚詩文。よろしくね、かっこいいお姉さんに可愛いボク」
 シュラインは短く名を名乗ったが、その視線は油断なく詩文を観察している。心霊的な能力は持ち合わせていないものの仕事柄人外のものに関わる機会も多くあるシュラインは、詩文がただの人間ではないことを直感していた。シュラインの視線に気付いたのかどうか、詩文はさらりと髪を揺らして首を傾ける。その後でとびきりの営業スマイルを向けられたものの、そんなものに動じるシュラインではない。
 「桜塚さん。私たちはこれから――」
 「“詩文”でいいわよ、お姉さん」
 「それでは詩文さん」
 シュラインは眉ひとつ動かさずに応じた。「私たちはこれから二手に分かれ、明日の午後にでも合流してサクラダさんの両親に話を聞きに行こうと思っています。あなたはどうしますか」
 「私? 私は何もしないわ」
 「何ですって」
 シュラインが鋭く聞き返す。詩文は緩慢に首を傾け、後ろで両手を組んでふふっとかすかに笑んでみせた。
 「知ってる? 人狼は愛しい人をその牙で引き裂き、血の涙を流すのよ」
 シュラインの隣で遠夜がわずかに眉根を寄せた。
 「彼が何を求めているのか分からないけれど、私は見守る。残酷かも知れないけれど、彼女が死を望むのなら止めはしない。もし彼が・・・・・・その人狼が人として死を望むのなら、私の牙で引き裂いてあげる」
 ルージュを引いた形のよい口許からこぼれる白い歯。そのうちの上の犬歯だけが人より長いように見えるのは気のせいだろうか。
 「あなたも人狼の類なのね?」
 シュラインは単刀直入にそう問うた。直感とはいえ半ばハッタリであったのだが、当たっていたようだ。その証拠に詩文の口許に絶えず湛えられていた笑みが一瞬だけ消え失せた。
 「そうよ」
 だが、詩文の唇はまたすぐに微笑の形に持ち上がった。
 「だからこそ、私は人狼を見守る。万が一あなたたちが二人の邪魔をしようとするなら戦闘も辞さないわ」
 「・・・・・・本意ではありませんが」
 ややうつむき、呻くように言った遠夜の目が低く詩文を捉える。「どうしても避けられないのならば、やむを得ない」
 詩文は遠夜の視線をかわしてにこりと笑った。
 「それじゃあ明日の・・・・・・満月の夜に、この学園の屋上でね」
 そして踵を返し、高いヒールの音を小気味よく響かせて詩文は立ち去った。



 草間がさっきから何か言いたそうにちらちらとこちらを見ている。しかし顔を向けて「何?」と問えば「いや、別に」と何とも歯切れの悪い返事を残して視線を逸らす。とっぷりと日の暮れた窓の外を見やりながら口の端できまり悪そうにぷらぷらと揺らすのはいつもの安タバコ。シュラインはパソコンのキーボードから手を離して回転式の椅子を軋ませながら体ごと草間に向き直り、もう一度「何?」と問うた。
 「いや、さ」
 草間は斜めに首を傾け、やや視線を落としてがりがりと首筋の辺りをかいた。「今日は残業すんのかと思ってさ」
 「当然でしょ。二、三日中にまとめなきゃいけないのよ」
 シュラインは旧型パソコンの脇に積まれたバインダーやファイルの山に手を置いて軽く息をつく。「それに、学園で請け負った仕事もあるしね」
 「そんなに急がなくてもいいんじゃないか。少なくとも興信所のほうはゆっくりでいいぜ」
 「残業代なら気にしなくていいわよ。最初からあてにしてないから」
 「そういうわけじゃなくて」
 草間はタバコを口から外してアルミの灰皿に押し付けた。「残業されると電気代もネット代も馬鹿になら――いや、心おきなく残業してくれ」
 シュラインのきつい視線に気付いた草間は慌てて続きを言い換えた。その後で「まったく頼りになるな、シュラインは」などとわざとらしくひとりごちながら事務所の奥へと消えていく。シュラインはまたひとつ溜息をついてその背中を見送り、パソコンに向き直った。
 本業はあくまで興信所なのだから、仕事の合間を縫ってネットで情報を収集するのが手っ取り早いやり方だ。フィアノ本人はともかく祖父――カスミから聞いたところによれば名はゲンジ・サクラダだそうだ――は有名な細菌学者だったというのだから、国内外問わず検索すれば論文や研究内容についての情報くらいは出ているだろう。その傍ら、今回の事件に関する情報を収集することももちろん忘れない。
 今までに狼男のような人物が現れた地点は十箇所以上。最初に現れたのは学園から5キロほど離れた公園。そこで唸り声を上げ、ふらふらとさまよう狼男のような人物を見たというカップルがいたそうだ。カップルの男が恐る恐る声をかけると、その人物はひどく怯えた様子で植え込みに身を隠したという。次に現れたのはやはり学園から5キロほど離れた場所で、最初の公園よりも西に寄った地点。住宅街である。その他の地点は駅の裏だったり商店街だったりして、目撃地点には特に共通点や特徴などは見当たらない。ただ、いびつな円を描きながら学園に徐々に近付いているということ以外には。
 (最初に現れた地点にサクラダさんとの接点がないかと思ったけど、可能性は低そうね)
 ひとつあてが外れたシュラインは頬杖をついて小さく息をつく。
 (狼男が突然そこに湧いて出たにしろ、誰かによってそうされたにしろ、誰が狼男なのか)
 窓の外に目を向ければ、ネオンと排気ガスに煙る空にほぼ円形の月がぽっかりと浮かんでいる。月齢は十四のはずだから満月とさほど変わらないはずなのだが、やはり満月とは違うとシュラインは思った。満ちた月はもっと赤く、大きい。あれだけ妖しい光を放つ月ならば狼男をいざなっても不思議ではないとすら思えるほどに。
 (狼男が暴力的じゃないのはどうしてかしら。元々穏やかな性格なのか、それとも攻撃対象が特定されているからなのか……判断もつかない)
 もし後者だとしたら、フィアノが何らかの呪術の仕上げの如く自らすすんで襲われようとしているような印象も受ける。疑問は次々に浮かぶが、そもそも狼男のような人物とフィアノがどう関わっているのか、何が起ころうとしているのか、そしてそれを止めるべきなのか、現在の情報量ではどうとも言えない。
 検索して引っかかったページを次々に開いていくものの、これといって目新しい情報は見当たらない。その上、ゲンジ・サクラダに関する情報がひとつも出て来ないのはどういうわけか。白い手の中のマウスの動きにもかすかに苛立ちがにじみ始めたとき、シュラインの目の動きがふと止まった。
 そして確信した。大きな勘違いをしていたのだ。
 事件を扱った一連の記事やサイトには狼男の“ような”人物がさまよっていたと記されている。唸り声を上げ、髪を振り乱して闇の中をふらふらとさまよう様がまるで狼男のようだと。本物の狼男などではなかったのだ。狼男はれっきとした人間かも知れない!
 「思い込みって怖いわね」
 思わず舌打ちが出る。狼男が人間だとしたらますますフィアノの祖父が関わっている可能性が高いのではないだろうか。どんなに小さなものでもいい、とにかくゲンジ・サクラダの情報を得なければ。検索条件をさらに広げ、ヒットしたウェブサイトを手当たり次第に開いていくシュラインの手があるページではたと止まった。
 それはゲンジ・サクラダが発表した論文の概要であった。
 内容は――変種の狂犬病ウイルスについて。



  学園の屋上に立ったフィアノは眼鏡を外し、すっと目を上げた。
 月齢十四の月はほぼ完全な円となり、闇の中で静かな輝きを放っている。
 「月の光ですら狂いそうに痛いだろう」
 そしてフィアノは闇の奥に向かって語りかけた。自分からはまだ見えないが、近くに祖父がいると確信しているかのように。首から下げたロケットペンダントを握り締めながら。
 「おいで、おじいちゃん。私が楽にしてあげる」
 それが私の責任だから。私はおじいちゃんが大好きだから・・・・・・。閉じたフィアノの瞼にうっすらと涙がにじむ。
 妙な連中が自分や狼男のことを嗅ぎ回っているのは知っている。無駄なことだとフィアノは内心で嘲笑う。止めることなどできないし、止められる筋合いもない。誰かに危害を及ぼそうというわけではないのだから。
 どうせあの連中は明日ここに来るつもりであろう。どうせなら見届けてもらうのも悪くない。



 翌日の昼過ぎ、シュラインは遠夜と合流してサクラダ家に向かった。
 「サクラダさんのおじいさんについてネットで調べてみたんだけど、論文が一件ひっかかっただけだったわ。彼の名前はゲンジ・サクラダ。桜田源治」
 興信所の激務の合間を縫って情報を集めたせいだろうか、事務的な口調で調査結果を報告するシュラインの目の下にはメイクでも隠し切れないくまが貼りついている。「あれだけ調べて一件しか出て来ないっていうことは、まったくの無名か・・・・・・あるいは、情報が外に漏れないように厳重に管理された極秘の研究でもしていたか」
 「天才科学者という触れ込みですから、恐らく後者でしょう」
 遠夜は即答した。シュラインも首肯を返す。
 「それに」
 シュラインは苛立ちを浮かべた表情で顎に手を当て、小さな音を立てて親指の爪を噛んだ。「狼男はれっきとした人間かも知れない」
 遠夜も気付いていたのだろう、小さく肯いただけだった。
 「例えば何かの細菌やウイルスで神経に異常が起きた可能性もあるんじゃないかしら。私が見つけた論文の中身はまだ言ってなかったわね」
 シュラインはちらりと遠夜を流し見た。「発表されたのは戦後少し経ってから。源治さんは狂犬病ウイルスについて研究していたらしいの」
 遠夜は黒い瞳をすっと細めた。ようやく事件の全体像を垣間見た気がした。
 ――狂犬病。神経組織に異常を来たす病気だ。極端に闇を好み、わずかの光さえも忌み嫌う。満月の光にすら痛みを覚え、苦しみの声を上げながら闇の中を彷徨い歩く・・・・・・。狼男の姿そのものだ。それが今回の騒動の真相だとしたら? 月の明るさに耐え切れずに闇の中をさまよい歩いたのだとすれば満月の夜に現れた理由の説明もつく。
 ただ――通常、この病気は犬や野生動物、家畜から発生する。人間が感染するのはそれらの動物に噛まれた時だけだ。狼男の正体が狂犬病感染者だとしても、その人物はどこからウイルスに感染したのだろうか。それに、狂犬病に感染すると性格が獰猛になり、誰彼構わず猛獣のように襲い掛かるというのが普通である。今回あちこちで目撃されている狼男のような人物の行動とは一致しない。
 「源治さんの論文は変種のウイルスについての研究。宿主が仮死状態になるといったん活動を休止して覚醒を待つ変種のウイルスを発見したらしいの。ウイルスは生きた細胞にしか寄生できないから、宿主をできるだけ長く生かそうとするんでしょうね」
 「そしてまた宿主が仮死状態になると休眠し、覚醒すれば活動する・・・・・・の繰り返しですか?」
 「動物実験の段階では宿主の蘇生は一回きりだそうよ。それに・・・・・・サクラダさんのおじいさんって言ったら、年齢的に八十過ぎなんじゃないかしら。もしかしたら九十近いかもね。若かったのは六十年くらい前だわ」
 シュラインの言わんとすることを察しかねたのだろうか、遠夜はわずかに眉を寄せる。
 「可能性のひとつでしかない」
 シュラインは足を止めて遠夜に視線を向けた。「でも――六十年前といえば、戦時中よ」
 戦争。細菌学者。極秘の研究。これらの先に導き出されるものを想像することは難くない。二人はどちらからともなく足を速め、サクラダ一家が暮らしているという賃貸マンションへと向かった。



 昨日学園の生徒たちから聞いた限りではフィアノの母は日本人、父はアメリカ人とのことだった。祖父の源治は日本人で、日本人の妻とともに日本で研究を続けていたが、戦後にアメリカにわたってそこでフィアノの母を生んだのだという。
 シュラインの発案で、家には「娘さんが夜の学園に出入りしている件について一度ご両親にお話を伺いたい」とカスミを通して学園から連絡を入れてもらっている。しかしインターホン越しに応対したフィアノの母は二人との面談を拒んだ。
 「娘は今学校に行っています。騒ぎを起こしているわけでもないんでしょう。私と夫からよく言って聞かせます。お引取りください」
 「待ってください」
 インターホンを切られそうな気配を察してシュラインが言葉をかぶせた。遠夜はインターホン越しに感じられる母のわずかな息遣い、かすかな気配にまで神経を集中させながら二人のやり取りに耳を澄ませている。
 「最近世間を賑わせている狼男のような人物の件についてはご存知ですね?」
 母は歯切れの悪い相槌を打った。
 「お嬢さんが学園の屋上に現れるのは決まって満月の頃の夜。生徒たちはお嬢さんが狼男を呼び寄せているのではないかと噂しています。放っておくわけにはいきません」
 シュラインの隣で遠夜はすっと目を細めた。インターホンの向こうで母が小さく言葉を詰まらせるような気配を敏感に察知したからだ。
 「こちらも少しは調べました。桜田源治さんは天才と呼ばれた細菌学者で、狂犬病のウイルスについての論文を発表していますね?」
 「源治さん、大戦中は軍事細菌研究所にでも勤めていたんじゃありませんか」
 遠夜が初めて口を開いた。ひゅっと音を立てて息を吸い込むような音がインターホン越しにはっきりと聞き取れたが、遠夜は構わずに言葉を継ぐ。
 「戦時中、神聖都学園の敷地内には細菌研究所の支部が設置されていたと聞いています。それが源治さんの勤めていた軍事細菌研究所だとしたら――」
 「その通りよ」
 遠夜の言葉を遮ったのは母の震える声であった。「フィアノの祖父・・・・・・私の父はかつて軍事細菌研究所で狂犬病ウイルスの研究を手がけていたわ。ちょうどあの学園の場所にあった施設でね。でも父はもういない」
 「どういうことですか?」
 「死んだの。私たち家族が日本に来た少し後に、アメリカで。これでいいでしょ、父と狼男の件は関係ありません」
 母は一方的にそう言ってインターホンを切る。ブツッという音の後には静かなノイズだけが残り、遠夜は軽く舌打ちした。
 


 「待って」
 何とかフィアノに接触するために神聖都学園へと向かった二人だったが、遠夜が不意に鋭く叫んで足を止める。シュラインはやや焦燥を浮かべた表情で遠夜を振り返った。
 「式神からの報告です」
 遠夜は耳に手を当てて目を閉じ、フィアノの周辺に潜ませておいたという式紙からの念信に耳を傾ける。彼らの出す特殊な念波は彼らを使役する者にのみ感じることができるそうだ。
 「サクラダさんに何か起こったのね?」
 シュラインは目を閉じて黙りこくっている遠夜を急かす。
 「桜塚さんがサクラダさんに接触したらしい」
 遠夜の閉じた瞼がかすかに震えた。「桜塚さんはサクラダさんや狼男に危害を加える気はないと言っているそうです。ただ、狼男との関わりについてサクラダさんに話を聞きたいと・・・・・・サクラダさんも応じる気になったとのこと。真相が分かるかも知れない」
 シュラインは息を詰めて遠夜を見守った。はやる気持ちを抑えているのだろう、伏せた遠夜の睫毛がかすかに震えている。
 ――やがて遠夜は目を開いた。
 「内容は? 聞こえたんでしょう?」
 耳から下ろした手がかすかに震えていることに気付いてシュラインが性急に問う。遠夜は小さく音を立てて下唇を噛んだ。
 「やはり源治さんは軍事細菌研究所の所員だったそうです」
 そして呻くように呟き、シュラインを斜めに見やる。「戦後・・・・・・戦争に関わった人間は戦犯として処罰された。しかし研究所の人間は研究データの提供と引き換えに見逃されたらしい。特に源治さんは変種のウイルスの発見という功績のためにアメリカ軍によって保護され、奥様と一緒に逃げるように渡米したとのこと」
 黄昏が忍び寄りつつあるのだろうか、冷たい風が吹き始めた。まだ三時前だというのに太陽は斜めに傾き、白かった陽光は淡いオレンジの色を帯び始めている。
 「源治さんは日本を恨んだそうです。当然だ、お国のためだと尻を叩いて研究をさせておいていざ戦争が終われば戦犯として糾弾されたんだから」
 遠夜の声はかすかに震えていた。「渡米後、源治さんはアメリカ軍の極秘の援助の下で研究を続けたそうです。いつか日本に復讐するために変種ウイルスを改良しようと・・・・・・米軍はそこまでは知らなかったのかも知れませんが。おじいさん子のサクラダさんは幼い頃からそんな源治さんを見て育った。そして、天才と呼ばれた源治さんの血を忠実に継いだサクラダさんは――」
 遠夜はいったん言葉を切った。それから小さく息を吸った。シュラインの青い瞳が遠夜の唇をじっと注視する。
 遠夜は語ることをためらっているようだった。語りたくないのかも知れない。そして遠夜がなぜ語ることを躊躇しているのか、現時点ではシュラインには分からない。それがいっそう焦燥と不安を増幅させる。
 やがて、遠夜はわざと抑揚を抑えた平坦な声で語り始めた。
 「……なんてこと」
 シュラインは半ば呻くように言って青い瞳を伏せた。
 「殺させるわけにはいかない」
 遠夜はくるりと踵を返した。「いったん帰宅して支度を整えます、すぐ戻る。エマさんは学園の前で待っていてください。絶対に一人で屋上には行かないように」
 そして早口にそれだけ言い残し、シュラインの返答も確認せずに矢のように駆け出した。



 日は落ちた。ビロードのような闇が徐々に天球を侵食しつつある。
 「そろそろね」
 ビル群の隙間から音もなく昇り始めた月を見詰めながら詩文が呟く。もちろん傍らに着替えを準備しておくことも忘れない。
 「満月って不思議だと思わない? どうしてあんなに大きくて赤いのかしら」
 フィアノは答えない。ただ、祖父の写真を収めたロケットペンダントを握り締めながら屋上から月を見据えているだけだ。
 「安心して。私が見届けてあげる」
 詩文は夜風に乱れる髪を直そうともせぬままかすかに笑む。「大好きなおじいちゃんだものね。あなたの親代わりだったんだものね。約束を守ってあげたいわよね。おじいちゃんは死んでからも約束を忘れずに日本までやって来たんだから」
 満月がビルの谷間を離れた。雲ひとつない夜空に無言で輝く完全な円形の月。その色はややオレンジがかった暖色系であるのに、地上に投げかける光はどこか冴え冴えと冷たい。
 「おじいちゃんは来るんだろうか」
 フィアノは流暢な日本語でそう呟いた。
 「来るわ、絶対。来るように言ったもの」
 詩文が柔らかく微笑んだのと、背後に獣のような荒ぶる気配を感じるのとは同時だった。それはひどく粗く、苦しげな、悲しい気配だった。
 闇が陽炎のように揺らめく。その場からわずかな燐光が発せられた。やがてそれは緩慢に渦を巻き、人の形へと変貌を遂げる。涎を垂れ流しながら老いた犬歯をむき出しにし、白髪を振り乱して、目を血走らせた哀れな老人の姿へと。これが人狼。哀しき狼男の正体なのだ。
 「行きなさい」
 詩文がぽんとフィアノの背中を押した。「見守ってあげる。誰にも邪魔はさせない」
 フィアノは詩文を振り返って小さく微笑んだ。その唇がわずかに動く。目の前の老人の唸り声にかき消されて声は聞こえなかったが、どうやら「ありがとう」と言ったらしかった。
 「待ちなさい!」
 しかし次の瞬間、闇の中に凛とした女性の声が響いた。同時に宙を舞う幾枚もの札。結界符だと気付いた時には、闇に撒かれた符が屋上をドーム状に囲んで結界を形成していた。
 「結界を張らせてもらいました。どのような理由であれ、騒ぎを大きくするのは本意ではないはず」
 校舎につながるドアから出て来たのは、シュライン・エマと陰陽師の正装に身を固めた榊遠夜であった。



 「全部聞かせてもらったわ。狼男の正体も、彼が現れた理由も」
 目の前の状況に動じた気配も見せずにシュラインが口を開く。「その狼男は源治さんね。いえ……狼男なんかじゃない。源治さんはれっきとした人間。しかももう死んでいる。霊体ってとこかしら」
 「霊体ならば僕の力で救える。サクラダさんが死ぬ必要はない」
 遠夜の瞳がまっすぐにフィアノを、詩文を見据える。フィアノは遠夜の視線に動じた様子はない。ただ眼鏡の奥の瞳がすうと細まっただけであった。
 「分かってないのね、ボク」
 くすりと笑ったのは詩文であった。「それじゃこの子は救えないのよ」
 そして結界の張り巡らされた夜空を仰ぎ見る。
 「騒ぎは外に漏れないのね」
 ざわざわ、と風が鳴り、詩文の髪が乱れた。「――好都合だわ」
 その瞬間、ごうっと一陣の竜巻が起こった。
 シュラインは反射的に顔の前で両腕を交差させる。服の裾が激しくはためいた。ただならぬ気配。何かが起こる。シュラインは腕の間から懸命に竜巻の間を透かし見る。
 渦を巻く突風の中で詩文の髪が音を立てて逆立った。笑みを形作った唇が大きく裂け、青い瞳が吊り上がる。骨が軋むような音。白い指を突き破るようにして現れた強靭な鉤爪。服が裂け、露わになった肌の上を硬質の獣毛が覆っていく。
 そして、風がおさまった後にそこに立っていたのは艶やかな亜麻色の毛に覆われた人狼であった。
 「言ったでしょ。二人の邪魔をするなら戦闘も辞さないって」
 人狼に変じた詩文は薄く笑った。耳まで裂けた口にずらりと並ぶ研ぎ澄まされた牙が冷たい月光を受けて無機質に光る。シュラインはぎりっと歯噛みした。遠夜の力があれば倒すことは不可能ではない。しかし敵ではない者を傷つけるのもまた、二人の本意ではないのだ。
 「こっちだって人が殺されるのを黙って見ているわけにはいかないのよ。どきなさい、詩文さん。あんたもすべて聞いたんでしょう。どうしてサクラダさんを殺させようとするの?」
 「簡単よ。この二人がそれを望むから。そうすることでしか救えないからよ、この子もおじいちゃんも」
 「その通りだ」
 フィアノの眼鏡には月光が当たり、その奥の瞳の動きは二人には読み取れない。「おじいちゃんをこんなふうにしたのは私の責任。全部私のせいだ。私があのウイルスを開発したから!」
 震えるフィアノの語尾は激しく炸裂し、闇の帳の中に消えていった。
 「本当に偶然だったんだ。私は小さい頃から祖父の研究を間近に見て育った。祖父の真似事をして変種ウイルスに改良を加えているうちに、あのウイルスを――」
 早口でまくし立てるフィアノの脳裏に三年前のあの日の光景が甦った。



 <やった。よくやったフィアノ! さすがは私の孫だ!>
 ガラス越しにのた打ち回る実験動物の姿を狂喜乱舞しながら見守る祖父。その脇で表情を凍りつかせるフィアノ。ウイルスを打たれた犬が苦しみ、仮死状態に陥り、そして何度となく蘇生してまた苦しむ姿が恐ろしいのではない。それを踊り上がらんばかりの喜色を湛えて見つめる祖父が、ただ怖かった。忙しい両親に代わって自分を育ててくれた祖父に対して、初めて恐怖を覚えた。
 <次は人体実験だ。このウイルスさえあればあの国に復讐できる。苦しんで苦しんで苦しませて殺してくれるわ!>
 白苔の浮いた口角から泡を飛ばしてまくし立てる祖父をフィアノは色のない顔でただ見守る。
 <狂犬病は事前にワクチンを打たない限り助からない。そして……そのウイルスに対するワクチンはまだできていない。下手なことをしたらおじいちゃんにも感染する>
 <構うものか。そうなった時はこの私があの国の首脳の喉元を食いちぎってくれる!>
 <そう。ならばもう何も言わない>
 フィアノは栗色の髪をさらりと揺らして祖父に微笑みかけた。その頬を一筋の涙が伝っていた。
 <そのウイルスに感染したら簡単には死ねない。だから、感染したら真っ先に私を噛み殺して。そうしたら私がおじいちゃんと刺し違えてあげる。私が楽にしてあげるから……>
 消え入るようなフィアノの声は奇声を上げて喜ぶ祖父の耳に届いたのかどうか。フィアノは涙を拭って祖父の研究室を後にした。ぱたんと閉じたドアの向こうからは相変わらず狂った祖父の笑い声が響き、フィアノは己の腕をきつく抱いてずるずると座り込んだ。そしてただただ嗚咽し続けた。大好きな祖父がこんなふうになってしまったことが、身を切られるように痛かった。



 「そして半年前、祖父の態度が危険だと気付いた両親は私を連れて日本へ渡った」
 フィアノは胸元のロケットを壊れんばかりに握り締めて喉を震わせる。
 「私が開発したウイルスは、おじいちゃんが発見した変種ウイルスをバージョンアップさせたもの。あの変種は宿主を一度だけ蘇生させたが、私が改良したウイルスは何度でも休眠して宿主を何度でも蘇生させる。宿主の体力が続く限り……」
 「宿主は苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、死ぬほどの苦しみを幾度も幾度も味わってから死ぬわけね」
 シュラインの言葉にフィアノは唇を噛んで肯いた。そして言葉を継ぐ。
 「米軍は表に出しては言わなかったが、おじいちゃんにさりげなく目をつけていたんだろう。おじいちゃんが開発したウイルスが日本に向けてのみ使われるとは限らない。私たちが日本に渡った少し後、おじいちゃんは米軍に拘束された。そして殺された」
 フィアノの声には不思議と抑揚がない。
 「その最新ウイルスの実験台にされたそうですね」
 フィアノが再び口を開く前に遠夜が言葉をかぶせた。フィアノの口からその事実を語らせたくなかったのだろう。「米軍によってそのウイルスを打たれ、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて……」
 シュラインの斜め前方で狼男と化した源治が唸り声を上げる。むき出しになった歯の間からは細かい泡が溢れ、今にも唇を突き破ってしまいそうなほどきつく噛み締められていた。
 「だからおじいちゃんは、死んでまでわざわざ私を殺しに来た」
 フィアノは顔を上げた。整ったその顔は血の気が失せ、紙のように白かった。「あんなウイルスを開発した私に復讐するために」
 フィアノは両手を広げ、一歩一歩源治に近付く。源治は動かない。ただフィアノが近付いてくるのを待つように。
 遠夜が激しく舌打ちした。左手で足元の木片を素早く拾い、右手に持った符をその上にかぶせて印を切る。小さな木片が瞬間的に、爆発的に巨大化して符を破った。そして瞬く間に鋭利な槍を構えた式神へと姿を変じ、一直線に源治に向かって突進する。しかし次の瞬間、びゅうっという音とともに亜麻色の風が跳躍した。コンクリートを蹴って闇に身を躍らせた詩文が式神を真っ二つに噛み砕いたのだ。
 しかしシュラインは見た。遠夜の口の端がかすかに持ち上がったのを。
 すべて計算だったのだ。式神は詩文の視界を覆う目くらまし。源治を狙ったのも詩文が動くだろうと見越してのこと。遠夜は詩文が式神を狙って跳んだ瞬間に鋭い声を飛ばし、いつも傍らに控えている鷲に攻撃を命じた。遠夜の忠実な使い魔は獲物を狙う猛禽類の威嚇音を発して闇に舞う。研ぎ澄まされたその鉤爪は詩文の青い眼を精確に狙っていた。同時に遠夜もコンクリートを蹴って跳躍する。先程の木片を拾う傍ら、素早く式服の袖に滑り込ませておいた石ころを鋼より鋭い幾本もの白刃へと変えて。
 しかし次の瞬間、闇を切り裂いたのは狼の咆哮と鉤状の閃光、そして鷲の悲鳴であった。刃を投じた遠夜の瞳が大きく見開かれる。漆黒の帳を引き裂くように繰り出された狼の爪を間一髪でかわし、遠夜はくるりとひとつ回転して膝から着地した。同時にからぁんと乾いた音を立てて傍らに落下するのは強靭な前肢に叩き落された石の刃。頬の皮膚がぴっと音を立てて切れ、口許に向かって生暖かいものがすうっと伝う。遠夜は舌先に感じる鈍い鉄の味に思わず舌打ちをした。
 「いい加減にしなさい、ボク」
 美しい体毛を揺らして着地した詩文の歯には鷲の綿毛が付着し、その隙間から粘り気のある唾液がゆっくりと滴る。「お姉さん、怒ると怖いわよ」
 「……どうして」
 遠夜は激しく唇を噛んだ。詩文もシュラインも意外そうに軽く目を開いた。
 感情というものをあまり見せない遠夜の頬の上を、透き通った涙が伝っていた。
 「どうして邪魔をするんですか! 僕はただ……誰かを傷つけたくないだけなのに! 誰かの目の前でその人の大事な誰かが死ぬのはもうまっぴらなんだ!」
 何か思い当たることでもあったのだろうか、詩文の瞳が小さく揺らめいた。
 「やっぱり分かってないわね」
 しかし詩文はすぐに反論した。だがその声はかすかに震えている。「ひとりで生きることだけが幸せとは限らないのよ。大事な人の牙で引き裂かれ、その人の中で生きることのほうが大切なこともある」
 「それはあなたの理屈。サクラダさんも源治さんもあなたではない。大事な孫を殺した源治さんが苦しまないで済むとでも思うの?」
 シュラインの青い瞳に激しく力がこもり、きつく詩文を見据える。「考えてもみなさい。源治さんは狂犬病に感染したのよ。ただでさえ感染すれば錯乱する病気、死ぬほどの苦痛を幾度も味わわされた源治さんが正気なんか保っていられるわけがない」
 シュラインの言わんとすることを察しかねたのだろう、詩文はぎゅっと目を細める。
 「狂犬病っていうのは読んで字の如くよ。狂った犬のように獰猛になり、誰彼構わず襲い掛かる。でも源治さんはどう? 一度でも誰かを襲ったりした? 恐らく源治さんにはまだ――」
 「もういい!」
 フィアノの甲高い声がシュラインの言葉を遮った。あまりの迫力にシュラインは一瞬口をつぐむ。
 「あなたの言う通りだ。おじいちゃんにはまだほんの少しだけ正気が残っている。だからわざわざここまで……かつて自分が働いていた研究所まで私を殺しに戻って来てくれたんだ。誰かを殺したら私が余計自分を責めると知っていたから」
 源治が牙をむいた。唸り声がいっそう低く、大きくなる。それは威嚇や錯乱のためではなかった。ただ苦しみと、そして悲しみのためであった。
 「だからこそ、私はおじいちゃんを殺す」
 フィアノは胸元のロケットを引き千切って右手に握り締めた。「おじいちゃんが完全に錯乱して自分を失う前に、私の手でこの世から消さなければならない。それが私の責任。私の償い――」
 シュラインは唇を噛んだ。源治を行くべき場所へ導くことも、そして恐らく詩文を倒すことも遠夜ならば不可能ではないのだろう。しかしフィアノの目の前でそれをさせたくはなかった。ここで遠夜が源治を救っても、自らの手で大好きな祖父を救えなかったフィアノは一生自分を責め続けるだろう。大事な人に殺されるのと、自分を責めながら生き続けることと、どちらがつらいというのだろう? もう止められないのだ。シュラインはそう悟っていた。
 「――貸してあげる」
 詩文が長い髪の毛に手を差し込み、何やら見慣れぬ文字を刻んだ木彫りの懐剣を取り出した。そこに刻まれた文字とその意味を読み取ったシュラインが小さく眉を寄せる。
 「私の故郷に伝わる呪術を刻んだ剣よ。普通の人間の武器では霊体に傷をつけることはできないわ」
 フィアノは肯き、ロケットのチェーンを巻きつけて大事そうに剣を握り締めた。その刀から発せられるある気配に気付いて遠夜が顔を上げる。
 「手を出さないでね」
 それから三人を振り返って初めてにこりと微笑んだ。それは女子高生らしいあどけなさを留めた笑みだった。
 「おじいちゃんはウイルスに感染している。狂犬病は体液での感染。ゴーストがウイルスを持っているかどうかなんて分からないけど、もしウイルスを持っていたらおじいちゃんに引っかかれただけであなたたちも感染してしまう」
 ローファーを履いたフィアノの足がコンクリートを蹴る。制服のスカートの裾が翻るのと源治が狂った雄叫びを上げるのとは同時だった。血走った源治の目はもはや限界に達していた。



 二人とも、悲鳴は上げなかった。ただ、赤い月光に照らされた闇の中で無言の赤い花が鮮烈に弾けただけだった。
 木彫りの剣が源治の胸を貫く。源治がフィアノの喉笛を噛み切った。シュラインは目をそむけなかった。これから起こる一瞬一瞬をしっかり瞼に刻みつけようと、ただ二人を注視していた。
 「ごめんね」
 切断された気管からひゅーひゅーと空気を漏らしながらフィアノは微笑んだ。それは至福に満ちた、とびきり魅力的な微笑であった。
 「私、おじいちゃんを喜ばせたいだけだった。そのために一生懸命研究した。でも私のしたことは間違いだったんだね。おじいちゃんがこの国に盲従したのと同じように――」
 源治の瞳からは赤い涙が流れていた。それは血の涙であった。愛する孫の体を引き裂いて、源治は血の涙をとめどなく溢れさせていた。
 「安心して。おじいちゃんはこれで解放される。もう苦しまなくていい。永久に……」
 フィアノは祖父の胸から剣と手を引き抜いた。そして血まみれの手でいとおしそうに祖父の顔を撫で、頬に優しくキスした。
 源治の目から涙が溢れた。爪の伸びた手がフィアノの体をかき抱く。そして源治はそのまま嗚咽した。最愛の孫を抱いて、源治はただただ嗚咽し続けた。
 そして――源治の姿はいつしか闇の中に溶け入るように消え、フィアノの体が血の海の中に崩れ落ちた。



 源治の姿が消えたことを確認したシュラインが無言でフィアノに歩み寄った。詩文も変身を解き、あらかじめ準備しておいた予備の服を素早くまとう。
 「やっぱり」
 乾いたコンクリートの上に倒れた傷ひとつないフィアノの姿を確認し、彼女の手の中の汚れひとつない木彫りの刀を見てシュラインが額に手を当てる。遠夜はひとつ息をついてフィアノの手首を取った。皮膚の下の脈は弱いが、充分に規則的であった。
 「これ、ルーン文字でしょう」
 語学に長けたシュラインはそう言って詩文を振り返った。「読みはシヨンフヴェルヴィング。意味は――」
 「西洋の幻術の類ですか。二人が望んだ光景を、二人だけではなく僕たちにまで見せた。痛覚、視覚、触覚、嗅覚……すべてが幻。高等な呪術のようですね」
 すっかり落ち着きを取り戻した遠夜がシュラインの言葉を引き継いだ。詩文は小さく肩をすくめる。
 「賭けだったわ。剣がおじいちゃんに触れると同時に幻術が発動するように仕込んであったの。だから、フィアノちゃんより早くおじいちゃんが攻撃していたらこうはならなかった」
 そして詩文は倒れたフィアノを静かに抱き上げ、天を仰いだ。空へと昇った源治の姿を闇の中に求めるかのように。
 「フィアノちゃんのほうが一瞬だけ速かった。おじいちゃんの良心か、単にお年寄りが若い子の動きについていけなかっただけなのかは分からないけど」
 「気が変わったのですか? 二人が死を望むなら邪魔をしないと言っていたのに」
 「ちょっとね」
 詩文はちらりと微笑んだ。「フィアノちゃんにはおじいちゃんの思い出を抱いて生きてほしいと思った。苦しみながら、ね。そっちのほうが償いになるでしょ?」
 「ありがとう」
 遠夜がなぜその言葉を選んだのかシュラインには分からない。しかし遠夜は詩文にそう言わずにはいられなかったようだった。詩文は「どういたしまして」と微笑を返した。
 「サクラダさんが源治さんを剣で貫いたのも幻、でしょう? 孫に殺されたという錯覚で源治さんは満たされ、行くべき場所へと旅立った。サクラダさんも自分が源治さんを刺したと思っている……」
 「ワーオ、お姉さんってばあったまいいー。美人で頭も切れて、まるで私みたいじゃない」
 「真面目に答えて」
 とシュラインは腰に手を当てたが、青い瞳には笑みが浮かんでいる。「最初からここまで計算していたの?」
 「ご想像にお任せするわ」
 詩文はぱちんとウインクをして立ち上がり、踵を返した。
 「サクラダさんは日本が憎くなかったんだろうか」
 詩文の背中を見送りながら遠夜がぽつりと呟いた。「大好きなおじいさんをあそこまで狂わせたこの国が」
 「まったく憎まなかったわけじゃないと思うわ。でも、日本は大好きなおじいさんの生まれた国だもの。かつて軍事最近研究所があったこの学園に編入したのだって、一度おじいさんの故郷を見ておきたかったからじゃないかしら」 
 シュラインはその言葉をもって遠夜の問いの答えとした。
 詩文の腕の中のフィアノの手にはペンダントがしっかりと握られている。先程の衝撃で蓋が緩んだのであろう、開いたロケットの中に写真が見えた。
 それは幼き頃のフィアノと、かつての源治の姿であった。冴え冴えとした満月の光を受けて小さな写真の中で微笑む二人の表情は、幸福そうという形容しか思いつかないほどしあわせに満ちたものであった。(了)
 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
 0642/榊・遠夜(さかき・とおや)/男性/16歳/高校生・陰陽師
 6625/桜塚・詩文(さくらづか・しふみ)/女性/348歳/不動産王(ヤクザ)の愛人




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■         ライター通信          ■
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シュライン・エマさま


いつもお世話になっております&ご無沙汰しております、宮本ぽちです。
今回もご参加ありがとうございました。

興信所の激務の合間を縫っての学園までの出張、ありがとうございました。
エマさまがいてくださると手がかり集めの方法を考える必要がないのでとても助けられております。
今回は参加してくださった皆様の組み合わせもあって少々変則的なパターンでお送りしましたが、いかがでしたでしょうか…。

それでは、またどこかでお会いできる日が来ることを願っております。
ここまでご覧くださってありがとうございました。


宮本ぽち 拝