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<東京怪談ウェブゲーム 神聖都学園>


フルムーン





 月齢は十三。明後日の夜にはまた月が満ちる。
 闇と静寂が吹き抜ける学園の屋上に立ち、神聖都学園の制服を纏った少女は夜風にさらわれる髪の毛を直そうともせずに闇の奥を見据えている。
 歳の頃は十代後半。高等部の生徒であろう。華奢な銀縁の眼鏡の奥の目は切れ上がり、整った横顔は石膏像のように美しく、冷たい。彫りの深い目元に薄いブラウンの虹彩は外国の血を思わせる。緩やかにウェーブのかかった栗色の豊かな髪は後ろで無造作に束ねられ、冷たい風を孕んでふくらんでいた。
 やや顎を引き、拳の中に固く握り締めたロケットペンダントを小さく軋ませながら少女は自問する。
 祖父は今度こそ来てくれるだろうか?
 私を殺しに。
 それが私と、祖父との約束。
 三年前に交わした、何よりも大切な約束――。
  


 「なあ。明日って満月じゃねえか?」
 「ってことは・・・・・・また出るのかな、例の狼男みたいな奴」
 「あたし新聞で見たんだけどー、今まで狼男が目撃された地点をつなぐと、ちょうどうちの学園を中心にして円を描いてる感じになるんだって」
 情報通の女子生徒の発言で休み時間の教室は俄然盛り上がりを見せる。女子生徒は得意そうに新聞の切抜きを取り出してクラスメイトたちに示した。
 「ここが最初の地点。ここがその次・・・・・・。ね? しかも、段々学園に近付いてるでしょ?」
 「ってことは明日はここにそいつが現れるのか?」
 (じょ、冗談じゃないわよ)
 「そういや三年のフィアノ・サクラダって女子、夜になると時々校舎に入り込んでるみたいだな」
 (ややや、やめてってば〜!)
 「フィアノ先輩って、あの天才科学者の孫娘だろ? なんか関係あんのかな? 桜田がその狼男みたいな奴を呼び寄せてるとか――」
 生徒たちの会話を遮ったのは甲高い女性の悲鳴であった。ある者は驚いたようにびくっと身を震わせ、ある者は目をぱちくりさせたが、「またか」とでもいうかのように呆れ顔を作った者が大半であった。
 「先生さー」
 廊下に出た幾人かが腰に手を当ててそこに倒れた女性を見下ろした。「オバケが苦手なら立ち聞きなんかしてないでさっさと行けばいいじゃんよ」
 教室のすぐ外には、たまたまこの教室のそばを通りかかって話を聞いていた響カスミが白目をむいて倒れていた。



 「ねえ、ちょっといい?」
 という声に高等部の女子生徒が振り返ると、そこには見慣れぬ女性が立っていた。赤みがかったブラウンの髪を手で梳き上げながら散歩でもするかのような足取りでこちらに歩み寄ってくる。北欧系の血が混じっているのだろうか。細身ながらも均整のとれた体つき、肩と胸の開いた服に短めのスカート。どこか幼げに整った顔はあどけないのか大人の色気をたたえているのか、それすらも判然としない。艶やかな長い髪から漂うのは甘い芳香。彼女は知らなかったが、それはタバコの臭いと客の体臭を消すために夜の店で焚き染められる香のにおいであった。
 「高等部三年のフィアノ・サクラダさんの教室ってどこ?」
 少年の問いに女子生徒はちょっと眉を寄せた。明日の夜は満月。こんな時期に“あの”フィアノを訪ねてくるのは単なる好奇心であろうか。
 「この建物の四階の一番端ですけど」
 と教えた後で女子生徒は斜めに女性を見上げる。「何の用? 超優等生だけど、あんまりいい人じゃないですよ」
 「じゃないかと思ってたわ。ありがとね、お嬢ちゃん」
 女性はにこりと笑い、腰の後ろで両手を組んで鼻歌交じりに階段を上がっていった。


 
 女子生徒に教えられた通りに四階に上がった桜塚詩文であったが、フィアノ・サクラダの第一印象は調査を進める上であまりはかばかしいものではなかった。
 「やめといたほうがいいですよ。超怖いって噂です」
 「お高くとまってるって感じ。天才科学者の孫娘だか何だか知らないけどさー」
 「下手に話しかけたら噛み付かれるわよ」
 神聖都学園の生徒たちが口にしたそれらの印象は間違ってはいないようだ。授業中の高等部三年の教室をこっそり覗く詩文の目にも彼女がとっつきやすい人物であるようには思えない。接触することはできても話を聞くことは難しそうである。
 ハーフであろうか。クオーターかと予想していたのが、それにしては外国の血が濃いように思う。当節の女子高生には珍しく化粧っ気のない顔はそれなりに整っており、きつい目元がクールな容貌を際立たせている。無造作に束ねた髪からルーズにこぼれ落ちる後れ毛すらモデルのようにサマになっていた。
 不意にフィアノの髪の毛がさらりと揺れた。一瞬、眼鏡のレンズが鋭い光を放つ。
 目が合った。
 磨き抜かれたレンズの向こうから詩文を見据えるきつい瞳。詩文はその視線をかわすでもなく見つめ返すでもなく、微笑を絶やさずにただ受け止めた。するとフィアノはすぐに目を逸らした。その口許がかすかに笑みを形作ったように見えたのは詩文の錯覚だったのであろうか。
 詩文は教室のそばを離れた。フィアノはこちらに気付いていた。それにも関わらず、半ば無視するようにすぐに視線を戻した。余裕の表れか、それとも単にこちらの力を見抜く眼がなかったにすぎないのか。恐らく前者でも後者でもないだろうが、強いて言えば前者に近いだろうと詩文は直感した。
 しかし、ひとつ分かったことがある。フィアノは正真正銘ただの人間だということだ。少なくとも能力者や人外のものの類ではない。
 狼男のような人物と普通の少女。少女は彼に殺されることを望み、彼はそれに応ずるかのごとく彼女に近付いて来ている。まるでどこかで聞いたような、どこかで経験したようなシチュエーション。詩文は小さく肩をすくめ、響カスミと協力者たちが待つ応接室へと足を向けた。



 途中ですれ違った生徒たちに声をかけ、フィアノの家族構成などを聞き出した詩文が応接室へ入ったのはちょうどカスミが湯飲み茶碗を片付けているところだった。どうやら協力者の二人はすでにここを発ったらしい。ちょっと首をかしげて時間を確認した詩文は小さく苦笑した。約束の時間に少々遅れてしまっている。
 「ねーえ、先生」
 湯飲みを片手に怪訝そうにこちらを見ているカスミに詩文は笑顔を投げる。カスミは「は、はい」と優等生のような返事をしてしゃっちょこばってしまった。
 「遅れてごめんなさいね。この切り抜き、拝見させてもらってもよろしいかしら?」
 詩文はソファの間に配置されたガラステーブルを指して問うた。カスミが資料として用意したのであろう、テーブルの上には狼男のような人物の事件に関する新聞記事の切り抜きが並べられている。カスミは「ど、どうぞ」と返事をしてお茶を汲むために奥に引っ込んでしまった。
 「被害者はなし、ね」
 脚を組んでソファに沈み込み、切り抜きの一枚に目を通した詩文は少々拍子抜けしたように呟いた。その上、人間への暴行・傷害どころか器物の損壊もなく、夜の街をただうろついているとのことである。狼男といえば凶暴かつ残虐と相場が決まっているのに、一体どういうことなのか。
 「お、おとなしいみたいですよ、その狼男みたいな奴って」
 カスミが恐る恐るといった感じで詩文の前にお茶を出しながら言った。「髪を振り乱して唸り声を上げながら徘徊するだけなんですって。何もしないんだったら別にいいじゃないですか、ね? ね?」
 「それなら放っておけばいいんじゃない?」
 「でも、ほら、噂を聞いて怖がる生徒がいるといけないから・・・・・・」
 いちばん怖がっているのは自分のくせに、小さな盆を胸に抱いて懸命に弁解するカスミの姿はとても教師とは思えず、詩文はくすりと笑いを漏らす。
 「例のフィアノさんっていうお嬢ちゃん、半年前に編入してきたそうですね?」
 「ええ、今年の四月半ばに。この学園を選んだのは彼女自身の強い希望だそうです」
 「そう。半年前・・・・・・ね」
 詩文はふと別の記事を手に取った。狼男のような人物が初めて現れたのは今年の五月だという。時期的にはフィアノが編入してきた直後といったところだ。
 「そもそも、サクラダさん一家はどうしておじいさんを置いて日本に来たのかしらね?」
 「それはね」
 と口を開いたのはカスミだった。ようやく教師らしい面を見せられるとでも思って張り切っているらしい。が、彼女の答えの内容は多分に頼りないものであった。
 「よく分からないんです。何せ彼女、あの性格でしょう。友達とお喋りすることも少ないみたいで。彼女自身もかなりの優等生だから周りの子と話が合わないのかも。頭のよさはおじいさん譲りかしら、日本語もペラペラだし」
 「ふうん。それじゃ手がかりにはならないわね」
 「でもね、でもね」
 笑顔を絶やさなずに的確な指摘をする詩文にやや怯みつつもカスミは懸命に言葉を継ぐ。「一度だけ、“おじいちゃんについていけなくなった”ってこぼしてたことはあるんですって」
 「そう。彼女のおじいさん、天才科学者だそうね? 研究分野は何なのかしら」
 「それもはっきりしないんですけど」
 とカスミは声を落とした。「細菌とか病原菌を専門に扱う科学者だって噂です。それに、戦時中はこの学園の敷地に細菌研究所の支部が設置されていたそうなんです。偶然かしらね」
 詩文は「ふーん」と鼻を鳴らしただけだったが、その青い瞳はわずかにすっと細まっていた。



 カスミから一通りの話を聞いて校舎を出るとすっかり冷たくなった風がブラウンの髪を乱していく。詩文は乱れた髪を軽く手で流すように梳きながら遠くに視線を投げた。空はすでに薄い茜色に染まりつつある。あと数時間もすればまた夜の帳が下り、月が昇る。月齢十四の月が。そして明日の夜は満月。 明日の夜に何が起こるのか、満月が何をもたらすのか、詩文にはまだ分からない。しかし何が起ころうと止めるつもりはなかった。ただ人狼に寄り添い、彼を見つめることだけを望んでいた。彼の気持ちが痛いほど分かるし、何よりも、詩文自身が彼と同類なのだから。
 「サクラダさん、かなりきつい方のようです。何者をも寄せ付けないという印象を受けました」
 という少年の声で詩文は緩慢に目を上げる。少し前方を背の高い少年と長身の女性が歩いている。女性のほうは普通の人間のようだが、少年のほうは何らかの能力者であることを詩文はその背中から瞬間的に見てとった。この二人が今回の協力者なのだろう。詩文は口許に小さく笑みを浮かべ、声をかけるでもなく無視するでもなく一定の距離を保って二人の後をついて行く。
 「彼女、ガードは固そうね。本人に事情を聞くのは無理そうだから、ご両親から攻めてみるのも一案だけど」
 「反対はしません」
 「どうなの、サクラダさん。彼女も何かの能力者?」
 「いいえ」
 抑揚のない声で言い、少年は小さく首を横に振った。「サクラダさんは正真正銘普通の人間です」
 「そう」
 女性は少々拍子抜けしたらしかった。「意外ね。てっきり彼女は呪術師か、それでなければもしかして人狼かと思っていたけど。まあ、それはともかくとして」
 どちらからともなく二人は足を止めた。そして、
 「あなた、何者ですか?」
 「あんた、何なの?」
 と、背後を振り返った二人の声が期せずして重なった。どうやらとっくに気付かれていたようだと察して詩文は内心で小さく苦笑を漏らす。
 「人に名を尋ねる時は自分から名乗るのがマナーよ」
 しかし慌てて物陰に隠れるような真似などせず、詩文は豊かな髪に手をやりながら何気ない足取りで二人に歩み寄った。
 「遅れてごめんねー。早起きはきついのよ。ほら私、夜の仕事でしょ」
 詩文は形のよい唇を持ち上げてくすりと笑んだ。「私、桜塚詩文。よろしくね、可愛いボクにかっこいいお姉さん」
 少年は榊遠夜と名乗った。艶やかな黒髪に白い肌という容貌は整っているが、その顔はどこか色に乏しい。漆黒の瞳もあまりに透明で、ガラス玉のような印象を受ける。黒髪に青い瞳の女性はシュライン・エマと名乗った。中性的という形容がよく似合うクールな顔立ちの彼女は草間興信所の事務員だという。遠夜もシュラインも詩文の中に封じられているある気配に気付いたのであろうか、じっと詩文を注視している。その視線に気付かぬのか気付かぬふりをしているのか、詩文はさらりと髪を揺らして首を傾け、にこりと微笑んだだけだった。
 「桜塚さん。私たちはこれから――」
 「“詩文”でいいわよ、お姉さん」
 「それでは詩文さん」
 シュラインは眉ひとつ動かさずに応じた。「私たちはこれから二手に分かれ、明日の午後にでも合流してサクラダさんの両親に話を聞きに行こうと思っています。あなたはどうしますか」
 「私? 私は何もしないわ」
 「何ですって」
 シュラインが鋭く聞き返す。詩文は緩慢に首を傾け、後ろで両手を組んでふふっとかすかに笑んでみせた。
 「知ってる? 人狼は愛しい人をその牙で引き裂き、血の涙を流すのよ」
 遠夜がわずかに眉根を寄せた。
 「彼が何を求めているのか分からないけれど、私は見守る。残酷かも知れないけれど、彼女が死を望むのなら止めはしない。もし彼が・・・・・・その人狼が人として死を望むのなら、私の牙で引き裂いてあげる」
 詩文には彼の気持ちがよく分かっていた。詩文もかつて愛しい彼の中で生きることを望み、叶えられなかった女なのだから。昔の自分と重ね合わせて感傷的になっているのは分かっている。しかし、それでも詩文は少女と狼男のような人物を見守り、その望みを叶えてあげたかった。
 「あなたも人狼の類なのね?」
 あまりにも単刀直入なその言葉は半ばはったりであったのかも知れない。しかし、詩文の口許に絶えず湛えられていた笑みが一瞬だけ消え失せた。
 「そうよ」
 だが、詩文の唇はまたすぐに微笑の形に持ち上がった。
 「だからこそ、私は人狼を見守る。万が一あなたたちが二人の邪魔をしようとするなら戦闘も辞さないわ」
 「・・・・・・本意ではありませんが」
 ややうつむき、呻くように言った遠夜の目が低く詩文を捉える。「どうしても避けられないのならば、やむを得ない」
 詩文は遠夜の視線をかわしてにこりと笑った。
 「それじゃあ明日の・・・・・・満月の夜に、この学園の屋上でね」
 そして踵を返し、高いヒールの音を小気味よく響かせて詩文は立ち去った。



  学園の屋上に立ったフィアノは眼鏡を外し、すっと目を上げた。
 月齢十四の月はほぼ完全な円となり、闇の中で静かな輝きを放っている。
 「月の光ですら狂いそうに痛いだろう」
 そしてフィアノは闇の奥に向かって語りかけた。自分からはまだ見えないが、近くに祖父がいると確信しているかのように。首から下げたロケットペンダントを握り締めながら。
 「おいで、おじいちゃん。私が楽にしてあげる」
 それが私の責任だから。私はおじいちゃんが大好きだから・・・・・・。閉じたフィアノの瞼にうっすらと涙がにじむ。
 妙な連中が自分や狼男のことを嗅ぎ回っているのは知っている。無駄なことだとフィアノは内心で嘲笑う。止めることなどできないし、止められる筋合いもない。誰かに危害を及ぼそうというわけではないのだから。
 どうせあの連中は明日ここに来るつもりであろう。どうせなら見届けてもらうのも悪くない。



 その頃、すっかり深さを増した闇の中で詩文も同じ月を見上げていた。わずかに欠けただけの月はほぼ満月の形をしているが、やはり違うと詩文は思った。満月はもっと大きく、妖しいまでに赤い。この光にあてられれば誰でもおかしくなるだろうと思ってしまうほどに。
 今までに狼男のような人物が現れた地点を何箇所か回ってみる。目撃証言は十例以上にも及んでいるので全部を回ってはいられない。最初に現れたのは学園から5キロほど離れた公園。そこで唸り声を上げ、ふらふらとさまよう狼男のような人物を見たというカップルがいたそうだ。カップルの男が恐る恐る声をかけると、その人物はひどく怯えた様子で植え込みに身を隠したという。次に現れたのはやはり学園から5キロほど離れた場所で、最初の公園よりも西に寄った地点。住宅街である。その他の地点は駅の裏だったり商店街だったりして、目撃地点には特に共通点や特徴などは見当たらない。ただ、いびつな円を描きながら学園に徐々に近付いているということ以外には。
 (にしても、妙ねえ)
 薄手のコートを着込んだ詩文は内心でそう呟いた。学園の周囲を一回りしても狼男のような人物の気配をまったく感じないのはどういうわけか。詩文と同じ人狼ならば何らかの気配を感じ取れるはずなのに……。
 (本当に人狼はいるのかしら?)
 そんなことを考えながら詩文は暗がりへ暗がりへと進む。人狼がいるとすればきっと暗い場所。人目を避けて、闇の中で孤独に耐えているに違いない。なぜならば、人の多い所に出てゆけば騒ぎを起こしてしまうから。そしてそれはきっと、誰かを苦しめることになるから。そんな気がしていた。
 「ねえ。出ておいでなさいよ」
 詩文は後ろで両手を組み、いるとも知れぬ人狼に呼びかける。「私はあなたをどうこうしようなんて思ってるんじゃないの。ただ見守りたいだけ」
 応答はない。しかし、闇の奥で何かがちらりとうごめくのを確かに感じた。
 「安心して。私はあなたと同じ……あなたの気持ち、よく分かるつもりよ。だから私の前に姿を見せて。お話ししましょ。場合によっては手を貸してあげる、あなたが望むように」
 詩文はそこで言葉を切った。すっと目を閉じ、両手を広げて闇の奥へと歩を進める。敵意も戦意もないことを示すように。
 目を閉じたまま詩文は慎重に相手の気配を探る。近くに誰かがいることは間違いない。しかしそれは人狼の気配ではなかった。が、相手がこちらの出方を伺っているらしいことは読み取れる。
 かたん、と詩文のヒールがマンホールの蓋の上で鳴った。
 それが合図だったかのように不意に空気が緊張した。闇の奥に潜んでいる相手が全身をこわばらせているのが感じられる。同時に伝わる、かすかな、低い唸り声。まるで獣のような。しかしそれは威嚇ではなく、苦悶の声に感じられる。
 詩文はかすかに柳眉を寄せた。
 これは人狼の気配ではない。
 人間だ。
 それも、すでに死んでいる者の。
 「待って!」
 詩文がそう叫ぶのと相手が駆け出すのとは同時だった。ハッ、ハッという息遣いは獣のように荒く、老人のように苦悶に満ちている。足もふらついているようだ。詩文は何なく距離を詰めて相手の背中に追いすがった。が、その手は相手の背を突き抜けていた。まるで空気を掴んだかのように。
 どうやら老いた男らしい。頭を抱え、口角から泡を飛ばしながら唸り声を上げてよろめき回っている。顔にかかる髪をかき上げようともせず、詩文はただその様子を見守っていた。血走った白目。錯乱した瞳。振り乱した白髪。得体の知れない唸り声。こんな人物が闇の中をうろついていれば、確かに狼男に見えるかも知れない。
 これが人狼の正体だったのだ。
 「ねえ。止まって」
 詩文は彼の前に回り込み、両手を広げて立ちはだかった。白髪の老人は足を止める。充血した目が探るように詩文を見つめる。
 「あなた、誰?」
 詩文は軽く息を整えながらじっと老人を見つめ返す。「……もしかして、フィアノちゃんのおじいちゃんなの?」
 老人は答えなかった。だが、その目が決定的に揺らめいたのだけは見てとれた。詩文はそれを肯定とみなして言葉を継いだ。
 「どういう事情かは知らない。あなたとフィアノちゃんに何があったのかもまだ分からない。でもフィアノちゃんはあなたを待ってるわ、神聖都学園の屋上で。分かってるんでしょう? だからこそあなたは段々学園に近付いて来ている――」
 詩文の声は耳が痛いほど澄んだ静寂の中へと吸い上げられていく。
 「フィアノちゃんの所に行ってあげなさい。嫌だと言ったら私が引きずってでも連れて行く」
 老人が叫んだ。それはもはや言葉などではなかった。雄叫びであった。ただ己を失い、大事な者を失い、すべてを失いかけている人間の悲痛の叫びであった。
 「明日は満月よね。ちょうどいいシチュエーションだわ」
 詩文は長い髪を振って月齢十四の月を仰ぐ。それからいつもの笑みを湛えて老人に向き直った。
 「ねえ。絶対に目的を果たしに来てね。フィアノちゃんのために……何より、あなたのために、それがきっと一番いい」
 不快な叫び声が闇を引き裂く。老人の姿は陽炎のように緩慢に揺らめき、不協和音のような残響とともに夜の中に消え入っていた。
 その後で詩文は手近な街路樹に歩み寄った。太い枝を選んで折り、「必要になるかどうかは分からないけれど、念のためね」と呟いてそれをコートのポケットにしまいこんだ。



 月齢十四の夜は明けた。
 フィアノはいつも通り登校し、いつも通り授業を受けていつも通り放課後を迎えた。今宵は満月であるのに心は不思議なほど落ち着いている。昼休みには母親が作ってくれたお弁当もおいしく食べることができた。心に負担があると食欲が減退するというが、自分の場合はそれは当てはまらないようだ。そんなことを考えてフィアノはくすりと苦笑を漏らし、学生カバンにゆっくりと教科書を詰めていく。
 クラスメイト――とは名ばかりの、単に同じ教室にいるだけの連中――はすでに全員教室を出た。屋外で部活動に興じる生徒たちの声もどこか遠い。まるでこの教室だけが、自分だけがこの“学校”という領域から切り離されたかのように。
 「何の用だ?」
 フィアノはカバンの角をとんと机に置いて問うた。「そこの鷲と猫じゃない。背の高い、あなただ」
 答えは一瞬遅れた。
 「やーね、フィアノちゃんたら意地悪。気付いてたんなら最初から言いなさいよ」
 友達の所にでも来たかのような足取りで教室に入って来たのは詩文であった。「日本語、お上手なのね。さすがは天才科学者のお孫さん」
 「どこまで調べたんだ」
 フィアノは詩文に背を向けたまま言った。詩文はにこりと笑ってはぐらかすように答える。
 「どこまでだと思う? 当ててごらん」
 「答えろ」
 「私の質問にも答えてほしいわ。どうしてあなたのおじいちゃんが狼男みたいになってしまったのか――」
 日が落ち始めたようだ。窓から差し込む光はいつしか赤く、斜めに傾いている。
 「マヌケなものね。今までの記事を読み直したわ。どれもみんな、狼男の“ような”人物って書いてあった。髪を振り乱し、唸り声を上げて闇の中をさまよい歩く姿がまるで狼男のようだってね。人狼なんか最初からいなかったのよ」
 「お見事」
 フィアノは顔を半分だけ振り向けて初めて詩文を見た。「――おじいちゃんを狼男のように狂わせたのは私だ」
 「ねえ、フィアノちゃん」
 詩文の口調は相変わらず友達とお喋りでもするかのような何気ないものであった。「事情は変わったけど、私はあなたや狼男に危害を加える気はないの。あなたたちを見守りたいだけ、必要なら手を貸してあげる。そのためにあなたとおじいちゃんの関わりを聞かせてもらえない?」
 眼鏡の奥の瞳がじっと詩文を見つめる。ただ探っているのか、敵意を持っているのかは分からない。詩文は微笑を絶やさなかった。しかし目だけは笑っていない。慎重に、真剣にフィアノを見詰めている。
 「分かった」
 やがてフィアノは唇の端を持ち上げた。「話そう」
 「ありがとう」
 詩文は心から礼を言って微笑んだ。



 「おじいちゃんの名前はゲンジ・サクラダ。桜田源治だ。戦争中……この学園の敷地には軍事細菌研究所があって、おじいちゃんはそこの研究員として働いていた」
 フィアノはひと呼吸置いてから語り始めた。眼鏡を外して丁寧に拭く。その後で再び口を開く。ゆっくりと。少しずつ。
 「おじいちゃんの専門は狂犬病。細菌兵器としての狂犬病ウイルスの開発。戦後、戦争に関わった日本人は戦争を起こした犯罪人として処罰されたそうだが、研究所の人間は研究データと引き換えに見逃されてアメリカに保護され、おばあちゃんと一緒に逃げるように渡米した」
 詩文は青い瞳をすっと細めた。ようやく事件の全体像を垣間見た気がした。
 ――狂犬病。神経組織に異常を来たす病気だ。極端に闇を好み、わずかの光さえも忌み嫌う。満月の光にすら痛みを覚え、苦しみの声を上げながら闇の中を彷徨い歩く・・・・・・。狼男の姿そのものだ。それが今回の騒動の真相だとしたら? 月の明るさに耐え切れずに闇の中をさまよい歩いたのだとすれば満月の夜に現れた理由の説明もつく。
 ただ――通常、この病気は犬や野生動物、家畜から発生する。人間が感染するのはそれらの動物に噛まれた時だけだ。狼男の正体が狂犬病感染者だとしても、その人物はどこからウイルスに感染したのだろうか。それに、狂犬病に感染すると性格が獰猛になり、誰彼構わず猛獣のように襲い掛かるというのが普通である。今回あちこちで目撃されている狼男のような人物の行動とは一致しない。
 「あなたのおじいちゃんもその中にいたのね」
 「そうだ。おじいちゃんは変種のウイルスを発見したから……アメリカはそのデータがほしかったんだろう」
 フィアノはそこで息を吸った。詩文は黙って続きを促した。
 「おじいちゃんが発見した変種は、宿主が仮死状態になるといったん活動を休止して覚醒を待つタイプ。ウイルスは生きた細胞にしか寄生しない。宿主が死ねばウイルスも死ぬ。だから宿主をできるだけ長く生かすためにそういう変種が生まれたんだと思う」
 「そしてまた宿主が仮死状態になると休眠し、覚醒すれば活動する・・・・・・の繰り返しってこと?」
 「動物実験の段階では宿主の蘇生は一回きりだった。――おじいちゃんはアメリカ軍の極秘の援助の下でその変種ウイルスの研究を続けた。私の両親は忙しい人だったから、私はいつもおじいちゃんに面倒を見てもらっていた。小さい頃からおじいちゃんのそばで、おじいちゃんを見て育ったんだ」
 詩文は手近な机に浅く腰掛け、脚と腕を組んだ。フィアノも近くの椅子を引いて腰掛ける。
 「おじいちゃんは日本を憎んでいた。“おくに”のためだと尻を叩いて研究をさせておいたくせに、戦争が終わったとたんに犯罪人扱いされたんだから。いつか日本に復讐する、そのためにこのウイルスを改良すると、いつもそう言っていたよ。おじいちゃんの言うことは分からなかったけど、私はおじいちゃんが大好きだった。おじいちゃんに喜んでほしくて、一生懸命おじいちゃんの手伝いをした」
 フィアノの胸元でロケットが音もなく揺れる。フィアノは胸をぎゅっと掴んだ。ロケット越しに心臓を掴むかのように。
 「私の体には天才のおじいちゃんの血が流れている。おじいちゃんの研究を見ているうちに、自分でも研究ができるまでになった。私は一生懸命研究した。おじいちゃんに喜んでほしくて、必死で……」
 小さな唇の上にぎゅっと歯が当たる。眼鏡の下の目が伏せられた。きつく閉じた瞼がかすかに震える。
 やがてフィアノは語り始めた。震える声で、躊躇いながら語られる真実に詩文はわずかに顔を歪めた。
 「そう」
 フィアノの話が終わった後で詩文はそれだけ言った。それから顔を上げ、優しく微笑みかけた。
 「望むようになさい。私が立会人になってあげる。あの二人に邪魔はさせないから。約束する」
 「ありがとう」
 今度はフィアノがそう言い、ちらりと微笑んだ。
  


 日は完全に落ち、ビロードのような闇が徐々に天球を侵食しつつある。
 「そろそろね」
 ビル群の間から音もなく昇り始めた月を見詰めながら詩文が呟く。もちろん傍らに着替えを準備しておくことも忘れない。
 「満月って不思議だと思わない? どうしてあんなに大きくて赤いのかしら」
 フィアノは答えない。ただ、祖父の写真を収めたロケットペンダントを握り締めながら屋上から月を見据えているだけだ。
 「安心して。私が見届けてあげる」
 詩文は夜風に乱れる髪を直そうともせぬままかすかに笑む。「大好きなおじいちゃんだものね。あなたの親代わりだったんだものね。約束を守ってあげたいわよね。おじいちゃんは死んでからも約束を忘れずに日本までやって来たんだから」
 満月がビルの谷間を離れた。雲ひとつない夜空に無言で輝く完全な円形の月。その色はややオレンジがかった暖色系であるのに、地上に投げかける光はどこか冴え冴えと冷たい。
 「おじいちゃんは来るんだろうか」
 フィアノはぽつりと呟いた。
 「来るわ、絶対。来るように言ったもの」
 詩文が柔らかく微笑んだのと、背後に獣のような荒ぶる気配を感じるのとは同時だった。それはひどく粗く、苦しげな、悲しい気配だった。
 闇が陽炎のように揺らめく。その場からわずかな燐光が発せられた。やがてそれは緩慢に渦を巻き、人の形へと変貌を遂げる。涎を垂れ流しながら老いた犬歯をむき出しにし、白髪を振り乱して、目を血走らせた哀れな老人の姿へと。これが人狼。哀しき狼男の正体なのだ。
 「行きなさい」
 詩文がぽんとフィアノの背中を押した。「見守ってあげる。誰にも邪魔はさせない」
 フィアノは詩文を振り返って小さく微笑んだ。その唇がわずかに動く。目の前の老人の唸り声にかき消されて声は聞こえなかったが、どうやら「ありがとう」と言ったらしかった。
 「待ちなさい!」
 しかし次の瞬間、闇の中に凛とした女性の声が響いた。同時に宙を舞う幾枚もの札。結界符だと気付いた時には、闇に撒かれた符が屋上をドーム状に囲んで結界を形成していた。
 「結界を張らせてもらいました。どのような理由であれ、騒ぎを大きくするのは本意ではないはず」
 校舎につながるドアから出て来たのは、シュライン・エマと陰陽師の正装に身を固めた榊遠夜であった。



 「全部聞かせてもらったわ。狼男の正体も、彼が現れた理由も」
 目の前の状況に動じた気配も見せずにシュラインが口を開く。「その狼男は源治さんね。いえ……狼男なんかじゃない。源治さんはれっきとした人間。しかももう死んでいる。霊体ってとこかしら」
 「霊体ならば僕の力で救える。サクラダさんが死ぬ必要はない」
 遠夜の瞳がまっすぐにフィアノを、詩文を見据える。フィアノは遠夜の視線に動じた様子はない。ただ眼鏡の奥の瞳がすうと細まっただけであった。
 「分かってないのね、ボク」
 くすりと笑ったのは詩文であった。「それじゃこの子は救えないのよ」
 そして結界の張り巡らされた夜空を仰ぎ見る。
 「騒ぎは外に漏れないのね」
 ざわざわ、と風が鳴り、詩文の髪が乱れた。「――好都合だわ」
 その瞬間、ごうっと一陣の竜巻が起こった。
 渦を巻く突風の中で詩文の髪が音を立てて逆立つ。笑みを形作った唇が大きく裂け、青い瞳が吊り上がる。骨が軋むような音。白い指を突き破るようにして現れた強靭な鉤爪。服が裂け、露わになった肌の上を硬質の獣毛が覆っていく。
 そして、風がおさまった後にそこに立っていたのは艶やかな亜麻色の毛に覆われた人狼であった。
 「言ったでしょ。二人の邪魔をするなら戦闘も辞さないって」
 人狼に変じた詩文は薄く笑った。耳まで裂けた口にずらりと並ぶ研ぎ澄まされた牙が冷たい月光を受けて無機質に光る。遠夜が激しく舌打ちした。敵ではない者を傷つけるのは遠夜の本意ではないらしい。
 「こっちだって人が殺されるのを黙って見ているわけにはいかないのよ」
 ぎりっと歯噛みするのはシュラインである。「どきなさい、詩文さん。あんたもすべて聞いたんでしょう。どうしてサクラダさんを殺させようとするの?」
 「簡単よ。この二人がそれを望むから。そうすることでしか救えないからよ、この子もおじいちゃんも」
 「その通りだ」
 フィアノの眼鏡には月光が当たり、その奥の瞳の動きは二人には読み取れない。「おじいちゃんをこんなふうにしたのは私の責任。全部私のせいだ。私があのウイルスを開発したから!」
 震えるフィアノの語尾は激しく炸裂し、闇の帳の中に消えていった。
 「本当に偶然だったんだ。私は小さい頃から祖父の研究を間近に見て育った。祖父の真似事をして変種ウイルスに改良を加えているうちに、あのウイルスを――」
 早口でまくし立てるフィアノの脳裏に三年前のあの日の光景が甦った。



 <やった。よくやったフィアノ! さすがは私の孫だ!>
 ガラス越しにのた打ち回る実験動物の姿を狂喜乱舞しながら見守る祖父。その脇で表情を凍りつかせるフィアノ。ウイルスを打たれた犬が苦しみ、仮死状態に陥り、そして何度となく蘇生してまた苦しむ姿が恐ろしいのではない。それを踊り上がらんばかりの喜色を湛えて見つめる祖父が、ただ怖かった。忙しい両親に代わって自分を育ててくれた祖父に対して、初めて恐怖を覚えた。
 <次は人体実験だ。このウイルスさえあればあの国に復讐できる。苦しんで苦しんで苦しませて殺してくれるわ!>
 白苔の浮いた口角から泡を飛ばしてまくし立てる祖父をフィアノは色のない顔でただ見守る。
 <狂犬病は事前にワクチンを打たない限り助からない。そして……そのウイルスに対するワクチンはまだできていない。下手なことをしたらおじいちゃんにも感染する>
 <構うものか。そうなった時はこの私があの国の首脳の喉元を食いちぎってくれる!>
 <そう。ならばもう何も言わない>
 フィアノは栗色の髪をさらりと揺らして祖父に微笑みかけた。その頬を一筋の涙が伝っていた。
 <そのウイルスに感染したら簡単には死ねない。だから、感染したら真っ先に私を噛み殺して。そうしたら私がおじいちゃんと刺し違えてあげる。私が楽にしてあげるから……>
 消え入るようなフィアノの声は奇声を上げて喜ぶ祖父の耳に届いたのかどうか。フィアノは涙を拭って祖父の研究室を後にした。ぱたんと閉じたドアの向こうからは相変わらず狂った祖父の笑い声が響き、フィアノは己の腕をきつく抱いてずるずると座り込んだ。そしてただただ嗚咽し続けた。大好きな祖父がこんなふうになってしまったことが、身を切られるように痛かった。



 「そして半年前、祖父の態度が危険だと気付いた両親は私を連れて日本へ渡った」
 フィアノは胸元のロケットを壊れんばかりに握り締めて喉を震わせる。
 「私が開発したウイルスは、おじいちゃんが発見した変種ウイルスをバージョンアップさせたもの。あの変種は宿主を一度だけ蘇生させたが、私が改良したウイルスは何度でも休眠して宿主を何度でも蘇生させる。宿主の体力が続く限り……」
 「宿主は苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、死ぬほどの苦しみを幾度も幾度も味わってから死ぬわけね」
 シュラインの言葉にフィアノは唇を噛んで肯いた。そして言葉を継ぐ。
 「米軍は表に出しては言わなかったが、おじいちゃんにさりげなく目をつけていたんだろう。おじいちゃんが開発したウイルスが日本に向けてのみ使われるとは限らない。私たちが日本に渡った少し後、おじいちゃんは米軍に拘束された。そして殺された」
 フィアノの声には不思議と抑揚がない。
 「その最新ウイルスの実験台にされたそうですね」
 フィアノが再び口を開く前に遠夜が言葉をかぶせた。フィアノの口からその事実を語らせたくなかったようだった。「米軍によってそのウイルスを打たれ、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて……」
 遠夜の斜め前方で狼男と化した源治が唸り声を上げる。むき出しになった歯の間からは細かい泡が溢れ、今にも唇を突き破ってしまいそうなほどきつく噛み締められていた。
 「だからおじいちゃんは、死んでまでわざわざ私を殺しに来た」
 フィアノは顔を上げた。整ったその顔は血の気が失せ、紙のように白かった。「あんなウイルスを開発した私に復讐するために」
 フィアノは両手を広げ、一歩一歩源治に近付く。源治は動かない。ただフィアノが近付いてくるのを待つように。
 遠夜が激しく舌打ちした。左手で足元の木片を素早く拾い、右手に持った符をその上にかぶせて印を切る。小さな木片が瞬間的に、爆発的に巨大化して符を破った。そして瞬く間に鋭利な槍を構えた式神へと姿を変じ、一直線に源治に向かって突進する。しかし次の瞬間、びゅうっという音とともに亜麻色の風が跳躍した。コンクリートを蹴って闇に身を躍らせた詩文が式神を真っ二つに噛み砕いたのだ。
 しかし、同時に詩文の耳朶を打ったのは遠夜の鋭い命令と羽ばたく猛禽類の羽音であった。
 すべて計算だったのだ。式神は詩文の視界を覆う目くらまし。源治を狙ったのも詩文が動くだろうと見越してのこと。遠夜は詩文が式神を狙って跳んだ瞬間に鋭い声を飛ばし、いつも傍らに控えている鷲に攻撃を命じていた。遠夜の忠実な使い魔は獲物を狙う猛禽類の威嚇音を発して闇に舞う。研ぎ澄まされたその鉤爪は詩文の青い眼を精確に狙っていた。同時に遠夜もコンクリートを蹴って跳躍する。先程の木片を拾う傍ら、素早く式服の袖に滑り込ませておいた石ころを鋼より鋭い幾本もの白刃へと変えて。
 しかし次の瞬間、闇を切り裂いたのは狼の咆哮と鉤状の閃光、そして鷲の悲鳴であった。刃を投じた遠夜の瞳が大きく見開かれる。漆黒の帳を引き裂くように繰り出された狼の爪を間一髪でかわし、遠夜はくるりとひとつ回転して膝から着地した。同時にからぁんと乾いた音を立てて傍らに落下するのは強靭な前肢に叩き落された石の刃。頬の皮膚がぴっと音を立てて切れ、口許に向かって生暖かいものがすうっと伝っていく。
 「いい加減にしなさい、ボク」
 美しい体毛を揺らして着地した詩文の歯には鷲の綿毛が付着し、その隙間から粘り気のある唾液がゆっくりと滴る。「お姉さん、怒ると怖いわよ」
 「……どうして」
 遠夜は激しく唇を噛んだ。詩文が意外そうに軽く目を開く。
 感情というものをあまり見せない遠夜の頬の上を、透き通った涙が伝っていた。
 「どうして邪魔をするんですか! 僕はただ……誰かを傷つけたくないだけなのに! 誰かの目の前でその人の大事な誰かが死ぬのはもうまっぴらなんだ!」
 遠夜の叫びに詩文の瞳が小さく揺らめいた。
 「やっぱり分かってないわね」
 しかし詩文はすぐに反論した。だがその声はかすかに震えている。「ひとりで生きることだけが幸せとは限らないのよ。大事な人の牙で引き裂かれ、その人の中で生きることのほうが大切なこともある」
 「それはあなたの理屈。サクラダさんも源治さんもあなたではない。大事な孫を殺した源治さんが苦しまないで済むとでも思うの?」
 シュラインの青い瞳に激しく力がこもり、きつく詩文を見据える。「考えてもみなさい。源治さんは狂犬病に感染したのよ。ただでさえ感染すれば錯乱する病気、死ぬほどの苦痛を幾度も味わわされた源治さんが正気なんか保っていられるわけがない」
 シュラインの言わんとすることを察しかねて詩文はぎゅっと目を細める。
 「狂犬病っていうのは読んで字の如くよ。狂った犬のように獰猛になり、誰彼構わず襲い掛かる。でも源治さんはどう? 一度でも誰かを襲ったりした? 恐らく源治さんにはまだ――」
 「もういい!」
 フィアノの甲高い声がシュラインの言葉を遮った。あまりの迫力にシュラインは一瞬口をつぐむ。
 「あなたの言う通りだ。おじいちゃんにはまだほんの少しだけ正気が残っている。だからわざわざここまで……かつて自分が働いていた研究所まで私を殺しに戻って来てくれたんだ。誰かを殺したら私が余計自分を責めると知っていたから」
 源治が牙をむいた。唸り声がいっそう低く、大きくなる。それは威嚇や錯乱のためではなかった。ただ苦しみと、そして悲しみのためであった。
 「だからこそ、私はおじいちゃんを殺す」
 フィアノは胸元のロケットを引き千切って右手に握り締めた。「おじいちゃんが完全に錯乱して自分を失う前に、私の手でこの世から消さなければならない。それが私の責任。私の償い――」
 詩文はかすかに眉を寄せた。愛する者の牙に引き裂かれることと、愛する者を自分のせいで失ってひとりで生きることと、どちらがつらいというのだろう。どちらが意味のあることだというのだろう?
 「――貸してあげる」
 やがて詩文は長い髪の毛に手を差し込み、何やら見慣れぬ文字を刻んだ木彫りの懐剣を取り出した。昨夜、源治と接触した後に折っておいた木を加工したものである。
 「私の故郷に伝わる呪術を刻んだ剣よ。普通の人間の武器では霊体に傷をつけることはできないわ」
 フィアノは肯き、ロケットのチェーンを巻きつけて大事そうに剣を握り締めた。その刀から発せられるある気配に気付いて遠夜は顔を上げる。
 「手を出さないでね」
 それから三人を振り返って初めてにこりと微笑んだ。それは女子高生らしいあどけなさを留めた笑みだった。
 「おじいちゃんはウイルスに感染している。狂犬病は体液での感染。ゴーストがウイルスを持っているかどうかなんて分からないけど、もしウイルスを持っていたらおじいちゃんに引っかかれただけであなたたちも感染してしまう」
 ローファーを履いたフィアノの足がコンクリートを蹴る。制服のスカートの裾が翻るのと源治が狂った雄叫びを上げるのとは同時だった。血走った源治の目はもはや限界に達していた。



 二人とも、悲鳴は上げなかった。ただ、赤い月光に照らされた闇の中で無言の赤い花が鮮烈に弾けただけだった。
 木彫りの剣が源治の胸を貫く。源治がフィアノの喉笛を噛み切った。詩文は目をそむけなかった。これから起こる一瞬一瞬をしっかり瞼に刻みつけようと、ただ二人を注視していた。
 「ごめんね」
 切断された気管からひゅーひゅーと空気を漏らしながらフィアノは微笑んだ。それは至福に満ちた、とびきり魅力的な微笑であった。
 「私、おじいちゃんを喜ばせたいだけだった。そのために一生懸命研究した。でも私のしたことは間違いだったんだね。おじいちゃんがこの国に盲従したのと同じように――」
 源治の瞳からは赤い涙が流れていた。それは血の涙であった。愛する孫の体を引き裂いて、源治は血の涙をとめどなく溢れさせていた。
 「安心して。おじいちゃんはこれで解放される。もう苦しまなくていい。永久に……」
 フィアノは祖父の胸から剣と手を引き抜いた。そして血まみれの手でいとおしそうに祖父の顔を撫で、頬に優しくキスした。
 源治の目から涙が溢れた。爪の伸びた手がフィアノの体をかき抱く。そして源治はそのまま嗚咽した。最愛の孫を抱いて、源治はただただ嗚咽し続けた。
 そして――源治の姿はいつしか闇の中に溶け入るように消え、フィアノの体が血の海の中に崩れ落ちた。



 源治の姿が消えたことを確認したシュラインが無言でフィアノに歩み寄った。詩文も変身を解き、あらかじめ準備しておいた予備の服を素早くまとう。
 「やっぱり」
 乾いたコンクリートの上に倒れた傷ひとつないフィアノの姿を確認し、彼女の手の中の汚れひとつない木彫りの刀を見てシュラインが額に手を当てる。遠夜はひとつ息をついてフィアノの手首を取った。皮膚の下の脈は弱いが、充分に規則的であった。
 「これ、ルーン文字でしょう」
 語学に長けたシュラインはそう言って詩文を振り返った。「読みはシヨンフヴェルヴィング。意味は――」
 「西洋の幻術の類ですか。二人が望んだ光景を、二人だけではなく僕たちにまで見せた。痛覚、視覚、触覚、嗅覚……すべてが幻。高等な呪術のようですね」
 すっかり落ち着きを取り戻した遠夜がシュラインの言葉を引き継いだ。詩文は小さく肩をすくめる。
 「賭けだったわ。剣がおじいちゃんに触れると同時に幻術が発動するように仕込んであったの。だから、フィアノちゃんより早くおじいちゃんが攻撃していたらこうはならなかった」
 そして詩文は倒れたフィアノを静かに抱き上げ、天を仰いだ。空へと昇った源治の姿を闇の中に求めるかのように。
 「フィアノちゃんのほうが一瞬だけ速かった。おじいちゃんの良心か、単にお年寄りが若い子の動きについていけなかっただけなのかは分からないけど」
 「気が変わったのですか? 二人が死を望むなら邪魔をしないと言っていたのに」
 「ちょっとね」
 詩文はちらりと微笑んだ。「フィアノちゃんにはおじいちゃんの思い出を抱いて生きてほしいと思った。苦しみながら、ね。そっちのほうが償いになるでしょ?」
 なぜ気が変わったのか、詩文にもよく分からなかった。詩文は二人が殺し合うことを止めるつもりはなかった。二人と同じように、あの時、あの場で、詩文は愛する彼の牙で死にたいと本気で考えていたのだから。しかし、時折彼のことを思い出しながら静かに生きていく今の暮らしも思ったほど悪くはないと感じている詩文がいることもまた事実なのだった。
 「ありがとう」
 なぜその言葉を選んだのかは分からない。しかし遠夜は詩文にそう言わずにはいられなかったようだった。詩文は「どういたしまして」と微笑を返した。
 「サクラダさんが源治さんを剣で貫いたのも幻、でしょう? 孫に殺されたという錯覚で源治さんは満たされ、行くべき場所へと旅立った。サクラダさんも自分が源治さんを刺したと思っている……」
 「ワーオ、お姉さんってばあったまいいー。美人で頭も切れて、まるで私みたいじゃない」
 「真面目に答えて」
 とシュラインは腰に手を当てたが、青い瞳には笑みが浮かんでいる。「最初からここまで計算していたの?」
 「ご想像にお任せするわ」
 詩文はぱちんとウインクをして立ち上がり、踵を返した。
 「サクラダさんは日本が憎くなかったんだろうか」
 詩文の背中を見送りながら遠夜がぽつりと呟いた。「大好きなおじいさんをあそこまで狂わせたこの国が」
 「まったく憎まなかったわけじゃないと思うわ。でも、日本は大好きなおじいさんの生まれた国だもの。かつて軍事最近研究所があったこの学園に編入したのだって、一度おじいさんの故郷を見ておきたかったからじゃないかしら」 
 シュラインはその言葉をもって遠夜の問いの答えとした。
 詩文の腕の中のフィアノの手にはペンダントがしっかりと握られている。先程の衝撃で蓋が緩んだのであろう、開いたロケットの中に写真が見えた。
 それは幼き頃のフィアノと、かつての源治の姿であった。冴え冴えとした満月の光を受けて小さな写真の中で微笑む二人の表情は、幸福そうという形容しか思いつかないほどしあわせに満ちたものであった。(了)
 



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 6625/桜塚・詩文(さくらづか・しふみ)/女性/348歳/不動産王(ヤクザ)の愛人
 0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
 0642/榊・遠夜(さかき・とおや)/男性/16歳/高校生・陰陽師



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■         ライター通信          ■
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桜塚詩文さま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
ご注文まことにありがとうございました。

他のお二人とはプレイングの方向性が違っていたため、桜塚さまのみ個別作成に近い形となりました。
結局、狼男は狼男ではなかったわけですが、「互いをいとおしく思っている者どうし」という部分は桜塚さまのシチュエーションともある程度共通していると感じましたので…。
桜塚さまを書かせていただくのは初めてですが、書いていて妙にしっくり来たのはどうしてでしょう。。

今後の活動予定は未定ですが、またどこかでお会いできる日が来れば嬉しいです。
ここまでご覧くださってありがとうございました。


宮本ぽち 拝