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迦具夜姫の妄執
「怒ってる……だろーなァ、零……」
ネオンの輝きを浴びながら、草間武彦は小走りに夜の東京を駆けていた。
駅から興信所までは、繁華街を突っ切るのが一番早い。とっぷりと夜も更けて、そろそろ日付も変わろうかという頃、この通りは一日で一番賑やかな時間帯を迎えていた。泥酔してふらつくサラリーマンをかわし、けたたましい声で笑う若者の横を風のように駆け抜け、甘えた猫みたいな声を掛けてくる客引きの女の子をくぐり抜け、武彦はただ、急ぐ。
目に浮かぶようだ。興信所のドアを開けた瞬間、目の前に広がる光景が。
想像してみるがいい。
きちんと片付けられた応接机には、すっかり冷めてしまった二人分の夕食。その向こうのソファの上に、こちらに背を向け、なぜかちょこんと正座している一人の少女。草間零。
おかえりなさいの声もなく、ぷうっと頬を膨らませ、
「……電話くらいしてくれたって」
……本当、目に浮かぶようだ。
はあっ、と武彦は息を吐いた。
そんなこと言ったって、仕事だったんだから仕方がないじゃないか。任務中はプライベートの電話なんて掛けられないし、終わったら終電に直行、電車の中はケータイ使用禁止だろ。晩飯なら先に食べとけば……あ、いや、そういう問題じゃないよな。うん、すまん。そういえばお前、食事しなくても生きていけるんじゃなかったっけ? い、いやその……
いつの間にか頭の中が言い訳のシミュレーションでいっぱいになる武彦であった。
……急ごう。とにかく。
眠らぬ繁華街をようやく抜けて、武彦は裏通りに入り込んだ。濃密な闇の中、ぽつりぽつりと点る電灯が、古びたコンクリート・ビルを照らし出すのみ。せっかくの満月も雲に隠れ、夜は深く、あたりを包む。
走るのに一生懸命になっていた武彦は、全く気付かなかった。
雲間からそっと顔を覗かせた月。
その光を浴びて、武彦の背後の闇が、ざわり、と揺らめいたことに。
武彦の靴音。
静寂の夜に刻まれる規則正しいリズム……
ざわっ……
突如、背後の闇が膨れあがった!
その異様な殺気を感知して、武彦は背後を振り返る。その視界を覆う真っ黒な闇の壁。その一部が槍のように鋭く尖り、武彦目がけて突っ込んでくる。
慌てて武彦は横っ飛び、地面に転がり、身をかわす……だが遅い。闇の槍は武彦の右腕を貫き、その肉を半ばまでえぐり取る。瞬時に電流のような痛みが走り、
「がっ!?」
武彦は呻きながら、アスファルトの上に倒れ伏した。
冷たい夜の感覚。指先から力が抜けていく。武彦は心臓をわしづかみにされたような悪寒を覚えながら、残る左腕だけを頼りに、ずるっ、ずるっ、とアスファルトを這いずった。なんとかビルのそばまで辿り着き、その壁を頼りに辛うじて立ち上がる。
『あな逞し――我が背の君よ』
涼しげな……いや。
氷のような声が、夜に響いた。
痛みに霞む目で、それでも武彦はそいつを睨め付けた。壁や槍の形をしていた闇が、不気味に蠢きながら徐々に一点へ収束していく。満月の光によって夜から削り出されたかのような闇の姿は……
女。
くそっ、と武彦は内心悪態を吐いた。
とんでもない美人だった。細く、丸く、まるで血が通っていないかのように白い顔。黒髪は月の光を照り返し、雅な十二単に妖しく絡まる。着物に肌の殆どを包み隠されてなお、その肢体の柔らかな曲線が、武彦の視線を釘付けにした。
これが人間のはずがない。そう確信するほどの、美。
『そなたは来てくれるであろ――? 我が袖の内へ――』
女は、すっ……と空を指さす。
『月く黄泉の国へ――』
最後の力を振り絞り、武彦はふっと笑みを浮かべ、
「こりゃいいや……あんたみたいな美人と一緒に、天国へ昇るってのも悪くない……」
薄れゆく意識の中に……
「だがあいにくと、門限が厳しいんでね……!」
零の笑顔が浮かんで、消えた。
女の壮絶な微笑。
闇が広がる。闇は無数の槍となり、四方八方から武彦の体を包み込む。自分でも意外なほど静かな気持ちのまま、武彦は固く目を閉じた。
(ごめんな、零。晩飯、食えそうにない……)
いつもと変わらない、雑然とした草間興信所の風景。
いつもと変わらない煙草の臭い。いつもと変わらないブラインド越しの朝日。いつもと変わらない黒電話のけたたましいベル……
「申し訳ありません。草間武彦は今、その……」
きゅっ、と草間零は受話器を握りしめた。
「体調を、崩してしまって……依頼は全てお断りしているんです。本当に申し訳ありません、またの機会に……」
零が受話器を置くと、チン……と澄んだ音が、沈黙の興信所に寂しく響き渡った。
しばらく零は、電話機の前にぼうっと立ち尽くしていた。自分が何をすればいいのか、それどころか自分が何を考えているのか、何を感じているのか、それすら今の零には分からなかった。久々の感覚。意志が全て虚無に帰り、茫然自失という心地よいぬるま湯の中に、存分に沈むことが出来る、この感覚。
たとえて言えば秋の陽の光のような、人をダメにする心地よさ。
武彦の手で永遠の孤独から救い出されて以来、こんな感覚になったことは、一度もなかったのに。
零はそっと振り返り、ソファに横たえられた「兄」、草間武彦の「亡骸」を見下ろした。武彦のそばでは、小柄な少年が跪き、手にした杯を武彦の唇に充てている。杯に満々と満たされた輝く液体が、微動だにしない武彦の喉を伝って、胃へと流れ込んでいく。
いや、落ち着く先は胃ではないのだろうか。少年が手にした杯は、生命の力を象徴する「聖杯」である以上、そこから注がれたのは生命力そのもの。もっと、武彦の本質的な部分に、聖杯のエネルギーは流れ込んでいくはずだ。
「どう……ですか、ブルーノさん」
零に呼ばれても、少年は沈痛な面持ちで首を振った。
「ダメです。聖杯のエネルギーで肉体の傷はなんとかなりますが、魂の傷までは……」
零は眉一つ動かさなかった。
あまりにも帰りが遅い武彦を心配して、零が街に飛び出したのが昨夜半。繁華街の裏通りに倒れている武彦を見つけ、彼の心臓が動いていないことに愕然としたのが、その15分後。慌ててあっちこっちに救援の電話を入れまくったものの、なにぶん夜中のことで連絡もつかず……
長い夜の間に、零は覚悟していた。最悪の事態もありうる、と。もう武彦は助からないかもしれない、と。
再び永遠の孤独に突き落とされる日が来たのかもしれない、と。
じりじりと過ぎていく夜を、胸の張り裂けそうな思いで待ち続け、ようやく駆けつけてくれたブルーノも、今、さじを投げた。
零が怨霊から生み出された破壊兵器なら、ブルーノは聖霊から生み出された癒しの兵器。カトリックが聖人遺骸を傷つける禁忌を犯してまで製造したブルーノ・Mですら、今の武彦を癒すことはできない。
零は眉一つ動かさなかった。呼吸さえ忘れていた。
零の異様な気配を敏感に感じ取ったのだろうか。ブルーノは顔を真っ赤にして、慌てて言いつくろった。
「あっ、で、でも、しばらくは大丈夫ですよ! 武彦さんは何者かに魂を奪われて、仮死状態になってるんです。すぐに魂を取り戻せば、武彦さんは助かります! 大丈夫ですから、ね!」
零を安心させようとしてか、ブルーノは彼女の手を優しく握り、いくつも言葉を連ねる。だが零は冷徹な目でブルーノをじっと見つめ、ただ一言、
「しばらくとは、どのくらい?」
ブルーノは息を詰まらせた。
だが、こう面と向かって尋ねられては、誤魔化すこともできない。視線を逸らし、震える声で、
「保って……一昼夜」
しん、と辺りは再び沈黙に包まれた。
(あああああっ! やっ、ちゃっ、たぁ〜っ!)
ブルーノはとめどなく溢れてくる後悔を、必死に胸の内に押しとどめた。
大失敗である。姉と慕っている零が兄と慕っている武彦の一大事を聞いて、慌てて駆けつけたはいいものの、思ったことがすぐ顔に出る正直な性格が災いして、零をはげますどころか逆効果。
(神様! どうか無力な僕に代わって零さんにもう一度笑顔を!)
という彼の祈りが通じたのだろうか。
どど……
遠い地鳴りが聞こえた気がした。
どどどど……
周囲を満たしていた重苦しい空気を……
どどどどどどどどど!
ばたんっ!!
絶叫の爆弾が薙ぎ払った。
「武彦ちゃぁ〜んッ!!」
ドアを蹴破り興信所に入ってきた一人の女性が、零とブルーノの頭上をひとっ飛び、ソファの上の武彦に弾丸のような勢いで飛びついた!
「イヤよイヤぁ〜っ! 私を残して死んじゃイヤよ武彦ちゃ〜ん!」
ボキッ! ゴギッ!
……抱きしめられた武彦の背骨あたりが、とても嫌な音を立てる。
(こ、殺される……! 武彦さんが……!)
冷や汗だらだら流しつつ見つめるブルーノに気付いてか、くだんの女性ははっと我に返った。滝のように流していた涙を拭い、すっくとその場に立ち上がると、女性はいつもの決め台詞を放った。
「うっふぇっ、えぐっ! あなたのアイドル、詩文しゃん参上よぉん♪ ひっく」
……泣きながら言うな、泣きながら。
「なるほど、そういうこどっ、らったのね、うん」
まだ時々思い出したようにしゃくり上げているが、ひとまず桜塚詩文も落ち着いてくれたようである。
詩文もブルーノと同じく、この興信所に出入りする霊能者の一人だ。そのものずばり、ルーン魔術のエキスパート……いわば魔女である。零からの留守電を聞くと、すぐさま駆けつけてくれたのだ。
武彦の向かいのソファにブルーノと並んで腰掛け、おおよその状況説明を彼の口から聞きながら、詩文は徐々に平静を取り戻していった。
少なくとも、泣きわめいていたところで何も解決しないのは確かだ。
「分かったわん。それなら、武彦ちゃんの魂を奪い返せばいいのね。そーいうの、おねーさんの得意分野よん♪」
「そうですとも! 僕も手伝います、頑張りましょう!」
ブルーノの励ましを聞くと、詩文はお行儀よくソファに座り直し、うんっ、と一人頷いた。こんなときだからこそ冷静になるべきなのだ。冷静に今何をすべきかを考え、そして動けばいい。
二人の前の応接机に、すっ、と湯気を立てる湯飲みが差し出された。差し出したのは、もちろん零。
彼女はいつもと代わらない調子でにっこりと微笑み、
「ありがとうございます。どうか、兄をよろしくお願いします!」
ぺこり、と深く頭を下げた。
詩文とブルーノがぴたり揃って力強く頷くと、零はもう一度はにかみ、お盆をかかえて給湯室のほうに戻っていった。
なんて力強い背中だろう、と詩文は思う。考えてみれば、詩文などが取り乱している場合ではない。今一番取り乱さなければならないのは……そして取り乱す権利があるのは、零に他ならないはずなのだ。
「よかった……零さん、笑ってくれました」
ホッと胸を撫で下ろすブルーノに、詩文は頷く。零が入れてくれた日本茶の湯飲みを、両手で包み込むように口元へ運ぶ。冷えた手のひらに、その温もりが心地よい。
「そうね、いつもの零ちゃんだわ。本当なら、あの子が一番辛いはずなのに……こんなときでも冷静なの、すっごく頼りになるわん♪」
二人はズズッ、とお茶をすすり……
ぶばっ!!
噴水のようにそれを吹き出した。
……日本茶からミルクと砂糖の味がする。
(や……やっぱりダメだ……!)
(あの子が一番動揺しとる……!)
二人が真っ青な顔で口を拭っていたその頃。
給湯室の零は、笑みの消えた氷の顔で、淡々と洗い物する手を動かし続けていたのだった……
「要するに、零の『笑いなさいプログラム』は、この期に及んでも有効……ってわけよ」
中古のセダンで国道をかっとばしながら、シュライン・エマは煙草を一本、口にくわえた。
僅かに開けた窓から、心地よい秋風が吹き込んで、エマの長い髪をざあっと吹き上げた。チャイニーズじみた切れ長の目の奥では、青い瞳がらんらんと輝き、ラテンの血を思わせる健康的な白い肌の上には、日本女性の鑑のような黒髪がそっと横たわる。
どこのものとも知れない、妖しい美しさを、エマは全身から放っていた。
「『人と会ったら笑いなさい』というのが、あの子に組み込まれた戦前からのプログラム。忌まわしいコトだけど、武彦さんが傷ついて、混乱して……それしか頼るモノがないのね。見てらんないわよ……」
エマは草間興信所の事務員……というよりは、事実上の探偵助手をやっている。零とは、彼女が草間武彦の「妹」になるきっかけとなった事件の時からの、長い付き合いだ。感情すら持たなかったかつての零も、ようやく人間らしさを手に入れ始めていた今の零も、全て知っているだけに、エマの心中は穏やかではなかった。
エマが片手でライターの石を擦っていると、助手席から伸びてきた長い手が、それを押しとどめた。
「煙草は……やめてくれ……犬……の鼻が……にぶる……」
僅か二言ばかり話す間に、何度となく深呼吸のような長い息継ぎを挟みつつ、助手席の男は低い声を挙げた。
エマも人のことは言えないが、妙な風体の男だった。2m以上もある長身を、折りたたむようにしてセダンの助手席に詰め込み、赤いぼさぼさの長髪に覆われた頭で車の天井をゴツゴツ叩き続けている。あんまり背が高いというのも不便そうである。
名前を五降臨時雨という。こう見えて、闇の世界に生きる暗殺者である。
草間武彦救出チームの一人として、エマが雇い入れた。武彦を襲った敵がどんな力を持っているかも分からない。心霊現象に詳しい専門家も要る。そう思って、その道のプロに声をかけてみたのだが……
彼の膝の上には、ちょこんと座って尻尾を振る、かわいい子犬が一匹。
男の言うことには、この犬は霊の臭いをかぎ分けることの出来る、特異能力を持つ犬なんだそうだが……
「ホントにアテになるの、それ?」
「だいじょ……うぶ……だ……こい……つ……」
いら。
「の鼻……なら……武……彦に……残った……臭い……」
いらいら。
「確実に……追……」
いらいらいら。
「あーもートロいわね! もうちょっとパパッと喋れないの、あんたは!」
ぴたり、と時雨が言葉を止める。
胸一杯に息を吸い込み――
「大丈夫だこいつの鼻なら武彦に残った臭いを確実に追グフッ!!」
呻き声一つ、だらりと時雨の口元から流れ出る鮮血。
……舌噛みやがった。
(大丈夫かこいつ……)
口から血を流してだんだん青くなっていく時雨を横目に見ながら、エマは大きな溜息を吐いたのだった。
……と。
「おん! おんおん!」
さっきまで大人しくしていた子犬が、時雨の膝の上でけたたましく鳴き始めた。時雨は拳で血を拭いつつ、
「何か……見つけた……」
「オーケー、停めるわ」
時雨と子犬を信じて、エマはセダンを路肩に停車させた。くわえたまま火を付けずにいた煙草をつまみ取りながら、エマはすくい上げるような眼差しで、目の前の巨大な建造物を見上げる。
「なるほどね……」
真っ白な、清潔感あふれるビル。一番目立つ正面玄関の上に、大きく描かれた十字のマーク……
病院である。
「ビンゴ、かもよ」
僅かな休憩時間に煙草でも吸おうと、裏口から病院の外へ出た若い医師は、そこで氷のように硬直した。
秋風吹き抜ける日陰の中に、シンプルな黒いスーツに身を包んだ、美しい女性が一人、立ち尽くしていた。ぼんやりとした意識が、水で洗い流されたかのように透き通っていった。女性は目の覚めるような美人だったし、しなやかな体を包む清楚な喪服は――
ぽろり、と医師の指から煙草が転がり落ちる。
「あ、ええと……どちらさまで」
医師がおずおずと問うと、女性は伏し目がちに名刺を差し出し、
「私、こういう者です……」
声まで涼やか。
医師が渡されるままに受けとった名刺は、「江間葬儀社 江間椎子」のものだった。
数十分後、国道沿いのガソリンスタンドに入る、中古のセダンの姿があった。
「リッター142円ん〜!? こないだ140円だったじゃないの! はい灰皿!」
「原油高なんですってば」
「んもう……武彦さんが電車使いたがるのも分かるわ」
窓を開け、吸い殻でいっぱいの灰皿をにゅっと突き出すのは、言うまでもなくエマである。
あのあと。
葬儀屋に変装したエマは、まんまと「臭い」の発生源、霊安室に安置されていた若者の死体と対面したのだった。
所詮日本は名刺と制服の社会。見た目と肩書きさえきちんとしていれば、たいていの人間はコロッと騙される。簡単なもんである。エマも、伊達に興信所勤めが長いわけではない。
「なま……むぎ……なまご……め……なま……」
トロいと言ったことを気にしているのか、助手席の時雨は、眠った犬を膝に抱いて、早口言葉の練習に打ち込んでいる。早口言葉ってちょっと主旨違わないか。と思うエマだったが、まあ、本人は一生懸命やっているのだ。水を差すのはやめておこう。
「助かったわ、時雨くん。おかげで大体絞れてきたわね」
「あ……ああ……」
「武彦さんと同じ原因不明の昏睡によって入院または死亡していたのは、全部で5名。面白いことに、その全員が二十歳代の若い男性よ。分かりやすくっていいわね」
「わか……」
「武彦さんは今年で三十路だけど……ま、あの人は童顔だし。若い男を無差別に狙ったとみて間違いないわ。それから、事件は決まって、毎晩深夜0時前後に発生している。場所は、若い男が集まりそうな、ちょっといかがわしい街が多いわね」
「み……」
「そういうわけだから、ワナを張るのは簡単そうよ。幸いこっちの陣営には色男も何人かいるし。あんたのこと言ってるのよ。ブルーノくんでもいいけど見た目若すぎるかしら。そーだ零ちゃんにも電話したげたほうがいいわね。あんた強いのよねあんなごっつい刀持ってるんだし。いざってときはよろしくね。コーヒー飲んでこようかな。あっ煙草もうないわ……どうしたの?」
「……………」
早口でぺらぺらとまくし立てるエマの前に、一言も喋らせて貰えなかった時雨は、がっくりと肩を落としてうなだれた。
「ま、夜を待って始めるわよ。仕事と書いてビズ、をね!」
夜が……来る。
裏通りは濃密な闇に閉ざされた。ぽつりぽつりと点る電灯が、古びたコンクリート・ビルに、一人歩く少年の影を映し出す。まるでそれは、満月の中に浮かぶ死の影。地上の満月と、夜空の満月とが、雲の中に隠れ去る。
背に冷気を浴びて、少年が小さく震えた。
吐息、凍って、
ざわっ……
少年の背後にわだかまる闇が、大蛇のように鎌首をもたげて膨れあがった。無防備な少年の背中に、闇の大蛇は容赦なく襲いかかり、その巨大なあぎとを広げて少年を丸呑みにする!
大蛇の額に青白い人の顔が浮かび上がり、悪意に満ちた笑みを浮かべた。武彦を襲ったのと同じ、あの美しい女の顔。壮絶で、絶対的で、なにより異様な美女の。
……と。
「目標……補足」
闇が、
「攻撃開始」
夜の街に弾け飛ぶ!
『ぎあああああああああああああっ!?』
闇は女の声で絶叫しながら、慌てて空中に収束し、再び一つの塊となる。だがその闇が人の形を取るより早く、その目前に白銀が突きつけられた。
太刀!
ざんっ!
今度は悲鳴を挙げる暇すらない。音速衝撃波を纏った斬撃に、闇の体は両断されて、そのままの勢いで地面に叩きつけられた。苦しげな呻き声を漏らし、自分の半身を求めて地を蠢く闇の塊……だが、斬撃の主はその時間すら与えない。
両腕を高く天に掲げ、
「出でよ……」
その喚び声に応え、彼女の背後に出現する……
「戦艦大和之霊」
巨大な影。
『な――!』
闇の驚愕に応えるかのように、巨大戦艦の全砲門が、一斉にその向きを転換する。
無数の砲口が闇を捉え、
「撃て!」
瞬時。
きゅごごごごごごごっ!!
凄まじい爆音と共に、夜の東京に炎が花開く!
止むことのない砲撃の雨が、街並みを、人々を、そして闇を薙ぎ払う。悲鳴は砂埃の中に掻き消え、遠く聞こえるサイレンは陽炎の揺らぎに融けていく。街の平穏は黒いアスファルトと共に砕け散り、荒野と化した街の真ん中に、ただ一人立つ人の影。
あれほどの砲火を浴びてなお、闇はまだそこにあった。苦しげに蠢きながらも、次第に人の形を取り、あの美しい……異様に美しい、女の姿に変わっていく。しかしその顔に、昨夜の微笑はない。憎しみに、痛みに震える、般若の形相があるばかり。
だがその女を正面から睨み、彼女はすっと太刀を掲げた。
そう、彼女。敵をおびき寄せるための、少年の姿は既に剥ぎ取られ、そこにあるのは……
『何やつじゃ――』
静寂の中に、闇の声が響く。
「私は……」
彼女は、言い淀んだ。
私は何者なんだろうか?
草間武彦の妹? 血の繋がりなど皆無だというのに。彼は人間で、自分は人間ですらないというのに。違う。私は、そんなものではない。
「私は……」
怨霊を呼び寄せ、具現し、己の力とするもの。
「私は、大日本帝国軍決戦兵器」
人の造りだしたもの。
「初期型霊鬼兵……零!」
零は太刀を両手に構え、憎しみの目で闇を睨みつけた。
そうだ。私は草間零などではない。そうである資格などない。人間ですらなく、生きてさえおらず、忌まわしい怨霊どもを力としながら、その僅かな力さえ「兄」を救うために使えなかった。こんな自分が草間零であっていいはずがない。壊せ。内にあるもの。かつての自分。空虚の心。委ねろ。憎しみ。恨み。怒り。妄執。それに小さな体を預け、衝動の赴くままに、ただ、
(壊せ!!)
『この迦具夜を――殺そうとか? ほほ――ほ――』
闇が浮かべていた怒りの形相が、すっ、と冷たく凍り付いた。意味のない、心のない、氷のようなあの微笑を、再び闇の女は浮かべる。
『良かろう、参れ――時には乙女同士というのも――悪しくなかろう――!』
「もぉーっあの子は! どうして一人で先走るの! バカなんだからっ」
「きゃい〜ん!」
中古のセダンを飛ばしながら、エマは荒っぽくハンドルを切った。タイヤを鳴らしながらの乱暴なコーナリングに、助手席の詩文が目をクルクル回している。顔が少し青ざめてきているのは、乗り物酔いでもしているのか。
カーラジオからは、街の惨状を伝える報道が聞こえてくる。幸い、焼け野原になったのは寂れた区画だったらしく、今のところ辛うじて死者は出ていない。だが……このまま零を放っておけば、一区画どころか東京全てを焦土と化してしまいかねないのだ。
これでは、敵よりも零のほうが、よっぽど脅威ではないか。
「で、でもエマちゃん、あの子を責めちゃだめよ〜ん」
詩文がシートベルトにしがみつきながら、エマを横目に見やる。まるでエマの心を読んだかのように。
「零ちゃんは今……辛くて、苦しくて、悔しくて……そんな気持ち、すっごく伝わってくるわん」
「……………」
きゅっ、とエマは固くハンドルを握る。
「だからって、街を壊し、無関係な人を傷つけていいという法はないわ。衝動の爆発の方法を間違えてる。それじゃ敵と変わりはないもの」
そこで渋滞に巻き込まれ、エマは車を止めた。恐らく、さっきの砲撃で大混乱が起きて、慌てて非難しようとする車の群れが、交通を麻痺させているのだろう。見れば、けたたましいサイレンを鳴らす消防車も、渋滞した道の真ん中で立ち往生している。
戦う零の姿を見られれば、厄介なことにもなる。その前になんとか零を止めなければ……
「……私、零ちゃんが好きよ」
エマは呟くように言った。
「あの子を島にいた頃に戻すつもりは毛頭無い。零は私が止める。そして……武彦さんも私が助け出す」
「うっふっふ〜ん♪」
にた、と助手席の詩文が笑みを浮かべた。綺麗な爪に彩られた手のひらが、そっとエマの肩に触れる。
「お姉さんも同じキ・モ・チ♪ じゃ、私先に行ってるわねん♪」
「走っていくの?」
詩文はかぶりを振ると、
「幽体離脱して、幽界からアタックしてみるわん。何か掴めるかもしれないし、上手くいけば武彦ちゃんの魂を引っ張り出せるかも。しばらく体はカラになるから、よろしくね〜ん♪」
エマが静かに頷くと、詩文は助手席のシートに深く体を埋め、小さく呪文を唱え始めた。世界中の言語に精通しているエマでさえ、聞いたことのない謎の言語。やがて詩文は両目を閉じ、眠りよりもさらに深い、死と紙一重の眠りにつく。
ふうっ、とエマは溜息を吐いた。
いつまでも渋滞の中でじっとしているわけにはいかない。少しだけ丁寧になった運転で、エマのセダンは脇道に入り込む。
脇道を風のように駆け抜けながら、エマはコンソールの上から無線機を取り上げ、
「時雨くん! ブルーノくん! 聞こえる?」
《はいっ!》
無線機から聞こえてきたのは、元気のいいブルーノの声。彼らは車で移動するより、自分で走った方が速い。そこで、連絡用の無線機を持たせ、一足先に零のもとへ向かわせていたのだ。
「いい? 着いたら最初に零ちゃんを止めること! 手段は問わないわ。手足の一本や二本、あの子ならすぐ再生できるから!」
《ら、乱暴ですね》
「状況が状況だもの。それから敵をその場から引き離し、時間を稼いで! 急いでねっ」
静寂の夜空に、流れ星。一つ……二つ。
潰え、消えて、風切りの音。そして星が、
三つ!
ずっ!
低い振動を響かせて、白銀が夜を薙ぎ払う。零が放った一撃は、笑みを崩さぬ迦具夜の胴を、背後のビルごと両断した。
瞬時に安定を失い崩れ落ちるビル……しかし肝心の迦具夜の姿は、再び闇へと融け消える。
怨霊を練り固めたこの太刀でさえ、迦具夜は斬れない。零は奥歯を噛みしめながら、迦具夜の姿を探そうと周囲の霊波を探り……
『よいぞぉ――』
背後!
『更に怒れよ! そなたは――』
振り返る暇すらない。零の背後に出現した迦具夜が、長く伸びた魔性の爪で零の背中を深々と抉る。体中を駆け抜ける電流のような痛み。それに表情を歪めたその隙に、
『美しい――!』
どんっ!
爆発が追い打ちを掛ける。抉られたばかりの傷口を、炎と衝撃に舐め尽くされ、零は夜空の下を吹き飛ばされた。自分が切り崩したビルの瓦礫の中へ、為す術もなく叩きつけられる。
かっ……はっ……
声にすらならない呻き。
うつぶせに倒れたまま、零は鼻を伝う血の臭いを嗅いでいた。再生能力が働かない。額が痛い。崩れたコンクリートに打ち付けたらしい。左腕が動かない。折れた鉄骨に神経を貫かれたか。背中が凍り付く。熱気と冷気の区別さえ、もはや零にはつかない……
(それでも……)
「せ……」
動く右腕だけを頼りに、零は震えながら身を起こそうとした。しかし、辛うじて四つんばいにまでなったところを、いつの間にか近寄っていた迦具夜の冷酷な蹴りが襲う。鋼の棍棒のような足が腹に食い込み、零はまた大きく蹴り飛ばされて、アスファルトの上に転がった。
(太刀……)
武器を探す。だが、侍の怨霊から造りだした太刀は、どこか遠くへ……死者のたゆたう場所へと消え失せていた。怨霊を形にする力さえ、もはや零からは失われていた。
(ならいい。それなら、それで……)
ざっ。
迦具夜が足音を立て、こちらにゆっくりと近づいてくる。
零は右腕を杖代わりに、なんとか身を起こし、震える足で立ち上がる。
「せ……んとう……けい……ぞく……かのう……」
『ほ――ほほ――!』
迦具夜が嘲笑った。
必死に、素手でも戦おうとする零を。一体何のために必死になっているのか、自分ですら分かっていない零を。
『そなたは妾と一緒じゃ。憎かろう? 口惜しかろう? ――辛かろう?
そのこころ――愛おしき、憎悪のきもち――それに体を預けてしまえばよい。
さ――参ろうぞ! 妾と共に――』
迦具夜の両手が、満月の下に広げられた。舞を舞うかのように。何かに祈りを捧げるかのように。夜空の下に、我が身を誇示するかのように。
『月く黄泉の国へ!!』
ぶわっ!
十二単の裾から、袖から、胸元から、無数の闇の触手が吹き出した。武彦の魂を吸い取ったのと同じ、槍のように鋭い迦具夜の腕。身構えようにも、体に力を込めることすら叶わない零を、闇の槍が包み込んでいく。
その時。
「……魔人」
囁くような重低音が、夜を……
「舞!」
切り裂いた!
巨大な真空の刃に空間ごと薙ぎ払われ、闇の槍が夜空に飛び散る。超高速の斬撃によるソニックブーム! こんな技を使うのは……
しゅたっ、と、頭上から飛来した影が零を庇うように地面に降り立った。漆黒のコートに身を包み、巨大な太刀を手に携えた、見上げるほどの長身の男。
「時雨……さん……」
惚けたように零が名を呼ぶと、時雨は優しい視線を零に送った。その瞳は血に濡れ、全身が赤く染め上げられ、まるで血化粧を纏っているかのよう。
真紅の紋様は、彼が全ての能力リミッターを解除した証。余りにも強すぎる時雨は、普段はその力の殆どを封印している。それを解除した今、剣の一振りで時空を切り裂くことも、光速特異点を越えた斬撃で一瞬にして敵を素粒子レベルに分解することも、容易い。
今の時雨は、スピード、パワー、全てにおいて通常時の10倍以上に達するのである!
「なまむぎ……なまごめ……なまたまご!」
言うと、時雨は満足そうに、一人で頷いた。
だがその一方で……
『ち――!』
振りを悟った迦具夜は、身を翻し夜空の中へ逃げ去っていったのだった。
「うっふっふ〜ん♪ ナイスよん、時雨ちゃん♪ これでまずは、零ちゃんの安全は確保ね〜」
肉体を離れ、霊体の姿となって、詩文は迦具夜の後を追っていた。とりあえず、零のことは時雨に任せておけば問題あるまい。すぐにエマも駆けつけるだろう。
今詩文がするべき事は、この迦具夜を逃がさないこと。どこまでも追いすがり、彼にこの位置を知らせることである。
幸い迦具夜は、霊体の詩文がすぐそばを併走していることに、全く気付いていない。
「さぁ〜てっ! ブルーノくん、おねーさんこっこよ〜ん♪ ヤッホー! いぇーい♪
……あれ?」
ブルーノに電波を送りつつ、詩文はふとあることに気付いた。
必死になって逃げる迦具夜の胸元に、首飾りにされた六つの勾玉が見て取れる。ただ事ではない魔力を放つ勾玉……そしてその数は、六つ。丁度、被害者の数と一致する。
「こーれーはー……ひょっとしてひょっとする?」
下唇に手を当てて、詩文はこくっ、と首を傾げた。
『おのれ――あと僅かという所を――』
悪態を垂れながら、迦具夜はビルの屋上を飛び石のように渡っていった。せっかく手に入れ掛けた新たな側女……零の魂を奪い損ねたのは残念ではある。が、
『まあよい――孰れ別の機会もあろう――』
呟きながら迦具夜が、一際高いビルの屋上に着地した……
その時。
「いいえ」
背後から声。
「機会は二度と、ありません!」
どんっ!
迦具夜の背を襲う衝撃。突然のことに、闇に身を融かすことすら忘れ、至近距離から放たれた大砲の一撃をまともに浴びる。吹き飛んだ迦具夜は空中で辛うじて身を翻し、両手両足を地に擦りつけ、なんとかビルの端ギリギリに踏みとどまる。
『またか!』
叫び、迦具夜が睨んだ先には、白い衣装に身を纏い、純白の翼を背に抱いた少年の姿があった。巨大な十字架型の大砲、聖霊砲を、まるで墓標のように地に突き立てて、少年は……ブルーノは迦具夜を睨め付ける。
「逃がしはしません! 武彦さん……そしてあなたが奪った全ての魂、返して貰います! 従うならば悪いようには……」
『いやじゃ――いやじゃ! あな憎し――悪いようにはせぬじゃと? 男はいつも――』
迦具夜は顔に憎しみを浮かべ、
『口先ばかりよ!』
高く夜空へ飛び上がる。
ブルーノは翼を翻し、聖霊タービン全開でその後に追いすがった。満月の照らす夜空の中を、稲妻のような軌道を描き、舞い踊る二つの光。散発的に迦具夜が放つ闇の刃を、ブルーノはいともたやすく回避していく。
(いける! 速さなら僕が上だ!)
しかし同時に、ブルーノの方からも手が出せない。聖霊砲で反撃するのは容易いが、この高機動戦では、街に被害を出さず確実にピンポイント攻撃する自信がない。
『憎し! 憎し! 憎憎し! 男ども! そなたも妾を傷つけんとする! 男など――全て妾の僕となればよい!』
「何故ですか!? 何故、それほどの妄執を!」
ブルーノの問いかけに応えるかのように、迦具夜は数十の闇の槍を一斉に解き放った。生き物のようにブルーノに追いすがる槍の中を、ブルーノは針の穴を通す正確さでくぐり抜ける。
『聞きたいか――?』
迦具夜の声色が変わった。甘い、誘うような女の声。
『ならば聞かせて進ぜよう――男どもが妾にした仕打ち!』
憎悪が……膨らんでいく。
『惨く――』
宙を舞う迦具夜を中心にして、巨大な黒い月のように、その憎悪は膨らんでいく。夜も、月や星の光も、街も、人も……
『浅ましく――冷たき――』
全てのものを、純粋な憎悪の塊は飲み込んでいく!
『暴虐の全てを!!』
「あ。やっぱりいいです。」
『何故じゃ――っ!?』
思わず絶叫する迦具夜に、ブルーノはぽりぽりと後ろ頭を掻いた。
「聞いても仕方ないかな、と思いまして……」
『おのれ、なんとゆ――奴じゃ! 許さぬぞ――!』
怒りにまかせ、再び迦具夜が闇の槍を放つ。だがそんなものがブルーノに通じないのは実証済み。空を華麗に舞いながら、ブルーノは槍を軽くあしらう。
それを見た迦具夜の顔が醜く歪む。動揺している。自分のペースに相手を引き込めないことで、迦具夜は明らかにバランスを崩している。
狙うなら、今!
「結構ですよ! しかし……こんな事を繰り返して!」
聖霊タービン全開、全ての力を翼に込めて、ブルーノは剣のように迦具夜に突撃する!
「貴女は幸せになれたのですか!?」
至近距離に肉薄し、ブルーノは聖霊砲を迦具夜の腹に押し当てた。慌てて迦具夜は体を闇色に染め、夜空の中に溶け込もうとする。だがそれを許すほど、ブルーノを突き動かす聖霊は遅くない。
どんっ!
二度目の衝撃。
聖霊砲の直撃を間近に浴びて、迦具夜は呻きながら吹き飛んだ。
しかし……まだ。まだ滅びてはいない。闇を練り固め、空中に足場を造ると、迦具夜は荒い息を吐きながらそこに着地する。きっ、と迦具夜が見上げる先には、聖霊砲を抱え白く輝く、眩しいブルーノの姿。
「貴女は僕には勝てません。僕は皆さんの幸せのために頑張っているのです!」
『く――』
迦具夜は、震え……
『おのれぇぇぇぇ――!』
キキィッ!
タイヤから白煙を立ち上らせて、中古のセダンが急停車した。ドアを蹴り開け降りてくる女性が一人。言うまでもなく、エマである。
「零ちゃん!!」
時雨に付き添われ、死んだように倒れ伏していた零に、エマは転がるように駆けよった。体中ボロボロだ。額から流れた血が顔の半分以上を染め上げ、服が焼け落ちて剥き出しになった背中は、半分炭になりかけている。左腕など、いつ千切れてもおかしくない……
「生きて……いる……」
時雨がぼそりと言った。その一言でもエマにとっては大きな支えだ。
「うん……再生能力が働いてないだけか。霊能力が使えない……精神のバランスが崩れてるのね……」
普段滅多に泣かない……涙を見せないように努力しているエマが、ぼろっ、と大粒の涙を零した。
涙は零の頬を伝い、血の汚れを一条、ぬぐい取っていく。
それがきっかけだった。零がゆっくりと、目を開く。
「エマ……さん……」
「もう大丈夫よ、零ちゃん。バカねっ! こんなになるまで……無茶してぇ……」
「なぜ……ですか……?」
消え入りそうな声で、零は、
「なぜ、泣いて……?」
ちょっとムカっときた。エマは拳を握り、こつん、と零の頭をちょっとだけ叩く。
「そんなこと言わせないの! ほんとにもう……」
零は……分からなくなっていた。
何が正しいんだろう。
自分は兵器だ。あの島にいたころ、永遠の孤独の中にいた頃と同じ。感情のない、心のない、ただの兵器だ。そう思っていた。自分は草間武彦の妹である資格なんてない。そう結論づけたはずだった。
なのに、なんだろう?
胸の中に、何かある?
あたたかい?
と。
その時だった。
【怒ってる……だろーなァ、零……】
声が聞こえた。
「兄さん!? ……あ」
思わず痛みも忘れて飛び起きて、それからようやく、零は気付いた。
兄さん、だなんて。
【そんなこと言ったって、仕事だったんだから仕方がないじゃないか。任務中はプライベートの電話なんて掛けられないし……】
エマも時雨も、不思議そうに辺りを見回している。彼女たちにも聞こえているのだ。
草間武彦の声が。
【……あ、いや、そういう問題じゃないよな。うん、すまん。そういえば……】
「なんなの、これ?」
『うっふっふ〜ん♪』
不思議がるエマたちの前に、突如淡い光が現れ、人の形を取った。眩しくてあまりよく見えないが、どうやら全裸の女性らしいその姿は……詩文の霊体である。
「詩文さん! どうしたの?」
『アイツの勾玉に、みんなの魂が封じられてたのよ〜ん♪ だ・か・らぁ〜、貰ってきちゃった! えへ♪』
「あっきれた。それ、盗むっていうのよ?」
エマが腰に手を当て、悪戯っぽい笑みを浮かべると、詩文は口元に手を当てプププッを笑いを漏らす。
そして詩文の霊体は、倒れた零に寄っていくと、
『聞いてごらんなさい、零ちゃん。これが……武彦ちゃんが最後に想っていたこと。彼の心の声……なのよん』
言われて零は、耳を澄ます。
【あいにくと、門限が厳しいんでね……】
なぜだろう。
何なんだろう。
【ごめんな、零……】
この、気持ち。
【晩飯、食えそうにない……】
うれしい?
そう。
うれしい……
『……ね、零ちゃん』
詩文の霊体が、零の肩にそっと手を触れた。
『あの人は、最後の最後まで……あなたのことばっかり考えてたのよ……だから、ヤケになっちゃ……だめ!』
零は静かに目を閉じ……
そして、開いた。
体が熱い。全身の傷が、みるみるうちに回復していく。千切れかけていた腕が再生し、背中の火傷が消え失せ美しい肌が覗き、拳が顔の血をぬぐい取ると、額の傷は跡形もない。
「力が戻った!」
飛び上がりながらエマが叫んだ。
と、その時。
猛烈な重圧感が、波動となって一同を襲った。時雨は眉をひそめて天を見上げ、霊感のないエマは何が何だか分からず辺りをキョロキョロと見回し、詩文は「きゃい〜ん♪」などと叫びながらセダンの中の肉体に戻る。
そして零は……
すっくと立ち上がり、空のある一点を睨みつけた。
月を。
「なに、どうしたの?」
「……月です。何かとてつもない力で……」
ばたん、とセダンのドアが開かれて、肉体に戻った詩文が飛び出す。
「引き寄せられてるわん! このままじゃ墜落……地球滅亡よぉーん!」
「な……なんて事を……!」
迦具夜と対峙しながら、ブルーノは呆然と呟いた。
月を背負うように宙に浮かび、迦具夜は狂ったように哄笑し続けていた。
『ほほほ――ほほほほほ! 滅びよ、世界――散れ、桜花!
妾の思い通りにならぬなら――この世など、全て消え去ってしまえ――!』
狂気の叫びをこぼしながら、迦具夜は闇の中に融け……消えた。
「行って……来る……」
ぼそっ、と呟いて、時雨は夜空に飛び上がり、ビルの中に消えていった。何をしに行くつもりかは知らないが。
「私も行きます」
零は毅然とした声で言い、侍の霊を呼び寄せた。彼女の右手に、大太刀が具現化するのを見ながら、エマはおずおずと問いかける。
「行って……どうするの?」
問われて、零は……
笑った。
温かい、心からの、笑顔。
「月を押し戻して来ます」
「そんなこと!?」
ぶわっ!
呼び出された鳥の霊が、零の背中に純白の翼を形作った。
「大丈夫。私は、草間武彦の妹……草間零です!!」
体中の力が抜けていく。
ブルーノはビルの屋上に、吸い込まれるように落ちていった。もはや空を飛ぶだけの気力さえ、彼には残されていなかった。
ただ、力なく、摩天楼の上に膝を突き、頽れる。
「こんな……ことって……」
月が落ちる。万が一にも地球は助かるまい。月が地表に落ちるよりはるかに早い段階で、お互いの潮汐力によって月と地球は粉々に砕け散る。
「だめなのか……もうっ……!」
「諦めてはいけません!」
凛とした声が、夜に響いた。
ブルーノは弾かれたように顔を上げ、声の主を見上げる。手に太刀を、背には翼を、目には狂った月の姿を焼き付けて、まるで一本の剣のように、そこに屹立する少女の姿。触れれば火傷しそうなほどの、熱気を全身から迸らせる。
「零さん!」
「申し訳ありません、ブルーノさん。ご迷惑をおかけしました」
零は優しく微笑み浮かべ、
「行きましょう! 私たちの力で、月を止めるんです!」
《んもーバカねっ!》
突如、耳を劈く金切り声。ブルーノが腰にぶら下げた無線機……それが、エマの声で叫びながらぴょんぴょん飛び跳ねている。
《減速してどーすんのっ! 加速するのよ、もっと速く落とすの! そうすれば月は再び周回軌道に乗るわ!》
おずおずとブルーノは腰の無線機を取り上げ、
「あのー……よく分からないんですが」
《いいから言うとおりにしなさい。あんたたちも少しはSF読みなさいよ》
ぱちぱちと目を瞬かせ、ブルーノと零は顔を見合わせた。カガクだのスーガクだのに関しては大した知識を持たない二人である。なぜ、「止める」んじゃなく「落とす」なのかは理解できなかったが、まあ、エマの言うことだ。間違いはあるまい。
「行きましょう」
もう一度、零が言う。
「私たち二人なら……」
それだけで、力が湧いてくる。
ブルーノはすっくと立ち上がり、零に力強く頷きかけた。
そうだ。一人なら何も出来なくても、二人なら出来るかもしれない。守りたい人、一緒に歩んでくれる人、怨霊を刃とする零は、聖霊を盾とするブルーノは、そんな人々との絆を糧にすれば、何だって成し遂げられる。
「行きましょう、零さんっ!」
二人揃って空を見上げると、二対の翼を大きく広げ、そのまま天高く飛び上がる。
興信所に向けてセダンを飛ばしながら、エマは窓の外を見上げた。助手席の詩文に預けた無線機は、もう雑音しか吐き出さない。遠くまで行ってしまったのだ、二人は。まるで、流星が空へさかのぼっていくかのように、二つの光は大気圏を越え、衛星軌道を越え、月軌道へと一直線に昇っていく……
「ほんと」
フロントガラスに視線を戻しながら、エマは呟く。
「手間ばっかり掛かるんだから。兄妹そろって」
ぷぷっ。
隣で詩文が吹き出している。顔をしかめてそちらを見ると、詩文は笑いを必死に堪えながら、
「でも〜、好きなのよね〜」
「むーっ……」
唸りながら、エマはアクセルに八つ当たりのキックをぶちかました。
「急ぐわよ! 早く魂を返さないと武彦さんが死んじゃうわ」
「りょ〜おかぁ〜い♪」
ひゅんっ……
風を切り、迦具夜は夜の街を飛び歩いていた。
さっきから、脇目もふらず全速力で逃げてきた。もう、あの妙な子供も、追っては来れないだろう。
『絶望するがよいわ――』
迦具夜は壮絶な笑みを浮かべ、ビルの頂上で、ただ一人含み笑いを浮かべていた。自分を幸せにしてくれなかった。胸の中のこの気持ちを、聞いてさえくれなかった。そんな世界など、全て凍り付き、粉々に砕け、滅び去ってしまえばいい……
『愉快――愉快じゃ――ほほほほほ――』
しかし、なんだろう?
この気持ち。
やるせない……満ち足りない……この気持ち。
怒りを、憎しみを、ありのままにぶつけてやったというのに、この空しさは?
『愉快――なのじゃ――』
と。
その時、迦具夜ははっと顔を上げ、夜空の月を見上げた。目を見張るような美しい満月。彼女の魔力によって、天から堕ちようとしていた巨大な岩の塊。しかし、
感じる。
何かの力が、月の落下を阻んでいる。
強烈な光を放つ、二つの影が。
『莫迦なっ! 月を押し戻しおるじゃと――おのれっ――!』
顔に再び憎悪の表情を浮かべ、迦具夜は両手を高々と掲げた。押し戻すというのなら、もう一度引き寄せるまで。何度でもやってやる。世界が考えを変えるまで、自分を温かく迎えようとするまで、何度でも何度でも破滅をこの地に……
どっ。
鈍い衝撃が、迦具夜を貫いた。
『あ――? か――』
十二単の腹を貫き生えた、血に染まった剛刀を、信じられないものでも見つめるように、迦具夜はじっと見下ろした。震えるその手が、刃をなぞる。冷たい血が、彼女の指を彩る。冷たい……なんと冷たい……
『お――のれ――』
その目に涙を浮かべ、迦具夜は肩越しに振り返り……
ざんっ!
それより一瞬速く、彼女を貫く刃は真横に薙ぎ払われた。
『ぎああああああああああああっ!!』
ばしゃあっ!
絶叫だけを響かせて、迦具夜の体はまるで飛び散る水しぶきのように、あっけなく弾け飛んだのだった。
「ふうっ……」
無音で背後に忍び寄り、迦具夜を暗殺したその男……時雨は、剛刀を振るって血糊を落とすと、小さく溜息を吐いた。
「任務……完了……」
その頭上に輝く月は、いつもと同じように、慈悲の光を地上に降らせていた――
……ちゅんっ。
雀の可愛い声で、草間武彦は気が付いた。ブラインドの隙間から飛び込んでくる、瞼を刺すようなキツい朝日。
(そうかあ、もう朝か)
なんとなく、頭がぼうっとする。何しろ、夢も見ず、死んだように眠っていたものだから……寝ぼけた頭が完全に目覚めるには、少々時間が掛かりそうだった。それはともかく、煙草煙草。薄い毛の生えた長い指で、体の上に架けられたジャケットをまさぐる……
「なんだ……俺のジャケット……毛羽だってんな……」
……ん?
よくよく触ってみると、ジャケットではない。毛布だ。毛布? ああなんだ、寝てる間に零が掛けてくれてたのか。いや、よく気が付くいい妹だ。どこに出しても恥ずかしくないね。器量もいいし、掃除は行き届いてるし、料理も上手いし……
(料……理?)
「はッ!?」
がばっ!
毛布をはね除け、武彦はバネでも仕込まれてるかのような勢いで飛び起きた。その衝撃でソファから転げ落ち、応接机の角に頭をぶつけて床に転がる。
「いっ……づ……!?」
「何してるんです、兄さん?」
頭の上から聞こえてくる、無邪気な問いかけ。
恐る恐る、武彦は自分の上に覆い被さった影を、見上げた。
零。
「す、すまん零ーっ!!」
がたばたどがん! とソファやら机やらにぶつかりながら、武彦は床を舐めるかのように土下座した。一方の零は掃除機のノズルを片手に、エプロン、三角頭巾のお掃除スタイルのまま、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「し、仕方なかったんだ! 晩飯食えなかったのはその……仕事でどーしよーもなくてっ! ほんっっっとーにすまんっ! そ、そうだ、この埋め合わせにな、なんか旨いもの食いに行こう! な! なんでも好きなもの!」
武彦の言葉を聞くと、零は目をキラキラと輝かせ、小さな両手を胸の前に叩き合わせた。
「本当ですか? やったあ! 良かったですね、みなさん!」
……みなさん?
「うっふっふ〜ん♪ 今日は武彦ちゃんのオゴリねぇ〜ん♪」
「どこ連れてって貰おうかしら? あ、ブルーノくん。そこの電話帳」
「はい、どうぞ!」
お、おーい。
パタパタ手を振る武彦の声は届かない。
「そんじゃこっちから順番に食べたい物言ってって〜」
「詩文さん、中華〜♪」
「僕はイタリア料理がいいです」
「あ……」
「零ちゃんは?」
「私、和食が……」
「うーんバラバラね。仕方がない!」
「どうするんですか?」
「全部食べましょ。」
「それナ〜イス♪」
ちょ、ちょっと待てよ。
抗議したって誰も聞いてない。
「よーし、そうと決まれば出発よ!」
「うっふっふ〜ん♪ レストランの冷蔵庫からっぽにしちゃうわよ〜ん♪」
「お……」
「ところでセダンにみんな乗れますかね?」
おーい、あのー……
ガヤガヤと楽しそうにやりながら、さっさと興信所を出て行く四人組。エマはいいとして、他の連中は朝っぱらから何しに来てたんだろうか。訳も分からぬ展開に、武彦はただ呆然と、後頭部を指でひっかく。
「何がどうなってんだ?」
「うふふっ。……ねえ、兄さん」
「あ?」
きゅっ。
零の指が、少しだけ……でも、二度と放したくないと言わんばかりに強く、武彦のシャツの裾を、握っていた。
「……………」
「なんだよ」
零はちょっとだけ俯いて――
「なんでもないですっ」
ぴょん、と飛び跳ねるように、武彦の前に躍り出た。
「私、兄さんの妹になれて、よかったです!」
それだけ言い残して連中の後を追う零の背中を見つめながら、武彦は……
「変なやつ」
口の端に、ほっとしたような笑みを浮かべたのだった。
(終)
◆登場人物◆
6625 桜塚・詩文 (さくらづか・しふみ)
0086 シュライン・エマ (しゅらいん・えま)
1564 五降臨・時雨 (ごこうりん・しぐれ)
3948 ブルーノ・M (ぶるーの・えむ)
(敬称略、受注順)
◆ライター通信◆
ごめんなさい……締め切り……二日……オーバー……。
ぐふっ。
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