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<東京怪談ノベル(シングル)>


legato



 目を覚ました神崎美桜は痛みに顔をしかめた。
 両手をついて起き上がる。膝からは血が流れているし、身体のあちこちを打ったようだ。頭を打たなかったのは幸いだろう。
(そうか……私、落ちたんだ)
 落ちた崖が見える。高さはかなりある。
 両足の痛みのせいで、治癒力がうまく使えなかった。
 自分は一体なにをしているのだろうか。なんだか惨めで美桜は俯いた。
 和彦の元気がなくて、彼に喜んでもらえたらと蕎麦を買いに出かけたのだ。その買い物の帰り道、誰かに尾行されている気がして森に逃げ込んだのだが、そのまま崖から足を踏み外し、ここに落ちたのだ。もしかしたらあの尾行は勘違いだったのかもしれない。いつも狙われていたから、そう思い込んでしまったのかもしれなった。
 もうすっかり辺りは暗くなっている。
(和彦さん、心配してるでしょうね……)
 また彼に迷惑をかけてしまう。それがたまらなく嫌だった。
 仕事に出かけた彼は、まだ家に帰っていないかもしれない。そうだと願いたかった。
 頬に冷たいものが当たり、美桜は「え」と呟き上空を見上げた。暗い空からしとしとと涙のような雨が落ちてくる。
 雨を凌げる場所はないかと見回すが、屋根になりそうなものは見当たらなかった。それに一歩も動けない。
 美桜は仕方なしに鞄を両腕に抱えた。鞄を雨から庇うようにして座り込んでいた美桜は思う。彼に会いたいと。
 衣服と髪が水を含み、徐々に重くなって肌に貼り付いてくる。
(夢でいいから)
 瞼を閉じる。
 夢でいいから和彦に会いたい。
 その時だ。澄んだ鈴の音が辺りに響いた。
 美桜は幻聴だと思い込んだ。願っていたからそんなものが聞こえるのだと思った。
 自分に当たる雨が遮られた。
 くるぶしまで伸びた闇色のコートの主が、傘を美桜に傾け、雨を防いだのだ。
 美桜は瞼を開けて相手を見上げた。闇の中で薄く輝く桃色の瞳に、彼女は微笑んだ。
 心の中で神様に感謝した美桜は、目の前に無言で佇む彼に、おずおずと言う。
「和彦さん、あの、お蕎麦を買ってきたんです。帰って、一緒に食べましょう?」
「……それを買いに外に出ていたのか?」
「元気がなかったから……」
 申し訳なさそうにする美桜は、鞄を強く腕で抱えた。
「あの、卒業したら私、あの家を出ようと思います。和彦さんのお仕事を手伝いたいんです」
「…………」
 彼は無言で美桜の前に屈んだ。コートを脱いで彼女にかけると、すぐさま負ぶった。そして立ち上がる。
 和彦の背の温かさに、美桜は意識を手放した。



 目を覚ましたそこは自分の部屋のベッドの上だった。
 全身が痛みを訴えた。足に青痣があるのを見遣って顔をしかめる。痛いに決まっていた。
 美桜は思い出して慌てて鞄を探す。ベッドのすぐ横に鞄があった。
 軽くノックの音がして、ドアが開く。
「目が覚めたみたいだな」
 そう言うと和彦が入ってきた。彼は薬箱を持っている。
 崖から落ちたことは夢ではなかったのだ。美桜は自分の言いたいことを全部告げたことを思い出し、彼の様子をうかがう。
 ベッド脇に膝をつくと、薬箱を床に置いて彼は消毒薬を取り出す。
「足を出せ」
「は、はい」
 素直に従って向きを変え、和彦のほうへ足を出した。彼は無表情で消毒薬を傷につけていく。美桜が痛がっても容赦しない。
「美桜」
 彼は手当てをしながら言った。なんでもないことのように。
「おまえは俺を必要としていない。だから……出て行こうと思う」
 あまりの衝撃に美桜は目を見開き、彼を凝視した。何を言われた? 出て行く!?
「必要としてます!」
「必要とされていたら……俺はこんなに悩んでない」
 てきぱきと包帯を巻きながら彼は言った。いつもの会話のようだが、内容は違う。
 どうして、と美桜は思った。高校を卒業したら一緒に出て行くと、仕事を手伝いたいと伝えたのに。
「家を出るかどうかではなく……俺を選ぶか、という問題だったはずだ」
 順番が違う、と彼が指摘する。
 そうだ。家を出る前に彼を選択しなければならない。彼を選ぶということは、そんな中途半端な選び方ではだめなのだ。
 何もかもを捨てて彼を選ぶ覚悟。それは、高校を卒業してからだとか、何かを終えてからだとか、そういうものではない。
 全部だ。今まで作り上げてきたそれら全てを捨てて彼だけを選ぶ。だからこそ彼は自分を選ばなくていい、と警告したのに。
 美桜は恥じた。彼の意図を自分はまったく理解していなかったのだ。
「俺がいなくても、美桜は大丈夫だ。この間、そう思った」
「そんなことありません! 和彦さんがいないと私は……!」
「俺が傍に居ても役に立たない。俺が傍に居ても、おまえは俺の言葉を聞かない」
 身体が熱くなった。羞恥で美桜は顔を俯かせる。
 あの時だ。知人に酷いことを言われて落ち込んだあの時。
 彼の慰めの言葉に自分は耳を傾けなかった。ただの一度も。自分が辛くて。辛くてどうしようもなくて。
 本来なら和彦にすがりつき、辛い辛いと言うところなのに、美桜はそれをしなかった。それをした相手は、和彦ではなく――!
「……あんなに惨めな気分になったことはない」
 ここには自分の居場所がない、と和彦は暗に言う。
 あの時、あの場所に、彼の居場所は存在していなかった。美桜はそれに気づきもせず、彼のことに気を向けることもなかった。だって自分が辛くて、どうしようもなくて。
「俺がいなくても慰めてくれる人はいる。傍に居て、守ってくれる」
「ま、待って! 待ってください、和彦さん! 勝手に『答え』を出さないでっ!」
「……もう最初から答えは出ていた。俺は気づかないふりをしていただけだ」
 どうしようもなかった。和彦をここまで追いつめていたのは他ならない自分なのだ。
 彼の好意に甘えてきた結果がこれだ。
「いや……嫌です!」
「どちらにせよ……もうここには居られない。俺には辛い」
「そんな……」
「ああやって、また見せ付けられるかもしれないと考えると、駄目だ。わかって欲しい。俺の我侭だ」
 辛そうに言う和彦。彼は何も悪くないのに、悪いと感じているようだ。
 美桜は落ち込んだ。彼はもう、何を言っても留まってくれそうにない。
 彼は手当てを終えると顔をあげて微笑む。
「おまえを嫌ったわけじゃない。だから落ち込むな」
 それは無理な注文だった。美桜は青ざめ、反応できなかった。
 彼は眉間に皺を寄せる。
「そうやって落ち込むのは簡単だ。やめろ」
「だ、だって……」
「前から言おうと思っていたが、おまえの悪いところだ。自分だけが辛いと思い込むな」
 そう言われてハッとする。目の前の彼だって、悩んだ末に出した答えなのだ。
 こういう自分の態度が彼を知らずに傷つけていたのかもしれない。
「もう、無理ですか? 私と一緒に居たくないんですか?」
 彼は少しだけ苦笑する。
「じゃあ、今すぐ俺と一緒にここを出るか?」
「…………」
 即答できない自分の駄目さ加減に美桜は悲しくなる。
 彼はふ、と笑う。
「コレが覚悟というものだ。わかったか?」
「…………はい」
 無条件に和彦が高校卒業まで待ってくれるというのは、甘い考えだったのだ。
「……私を、嫌いになりました?」
 おずおずと尋ねると、彼は薬箱を閉じながら応える。
「嫌われるようなところがあると、自分で思っているからそう訊くのか?」
 その通りだ。
 和彦は尋ねた。
「俺のことが嫌いになったか?」
 美桜は首を横に振る。
 彼は薄く微笑んだ。優しい笑みだ。
「ありがとう。それだけで、嬉しいよ」
 彼を留めるのではなく、彼に相応しい人になりたい。それに気づいていれば、別の道があったはずなのに。
 今の自分に彼を合わせるのではなく、彼の横に並べる自分になりたい。
 美桜は涙を流した。胸が痛い。けれども、それは第一歩への涙だ。
「和彦さん、後でお蕎麦、一緒に食べましょう」
「ああ」