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<東京怪談ノベル(シングル)>


又一つ川を越せとやよぶ蛍



 緋玻の父たちは言った、今からほんの数年後に、帝都で大勢が――本当に大勢が死ぬことになる、と。
 だから緋玻の父たちは言った、そのときまでには帰ってくるように、と。
 緋玻は帝都から離れ、きらめく川のほとりを歩いていた。地上にやってきたのは、仕事のためだ。彼女も無難に仕事をこなせるようになり、こうして用事を言いつけられることも珍しくはなくなってきた。緋玻はそれが嬉しかった。地上に出るのが好きだったし、仕事もわりと面白い。何より、仕事を手早く済ませたら、あとは呼び戻されるまで地上を見て回ることができるのだ。
 それが今回は、どういうわけか長居はするなと釘を刺された。緋玻は少しばかり憮然として、しかし素直に、仕事の現場へと向かっていた。
 彼女のような、地獄に仕える高位の鬼の仕事は、おしなべてひとの魂に関わるものだった。魂はときに鬼となり、死なずともよい人間を殺すことがある。そういった下級の鬼を諌めるのも、緋玻たちの仕事だ。
 緋玻は鬼を喰う鬼である。鬼からも恐れられるこの鬼は、苦痛と業火、終わりのない暗黒と凍土の獄からやってくる――。
 初めて緋玻が、牛車に乗って、人の都に来たのはいつの日か。地上のくには様変わりした。都は江戸に移り、武士たちの時代は終わって、江戸は東京や帝都と呼ばれるようになっていた。緋玻も、もう幼い鬼の童ではない。
 大正10年。
 道ばたに落ちていた新聞の切れ端は、現在の日付を刻んでいた。


 緋玻がそのほとりを歩きつづけていた川は、傾いた日差しを浴びて黄金色に輝いていた。帝都の中枢からは十里ほどしか離れていないが、ここには人の手がほとんど加わっていない。周囲には畑すらなく、川は人を知らずに流れているようだった。その流れの中で、メダカが群れを成している。
 さらり、と生温かい風が緋玻の黒髪をなれなれしく撫でていき、着物の裾をわずかにひらめかせた。
 緋玻は、川から目を離す。今の彼女の見つめるものは、川から切り離された池だった。
 池は、違っていた。
 夕暮れは川を黄金色に変えていたが、その池だけは血の色に染めているようだ。名もない草は緋玻の胸の高さまで伸び、ぼうぼうと生い茂っている。美しい花はなかった。黒と見まがうほど色濃い草の中で、緋玻は花が枯れているのを見た。
 生温かい風は、天に逆らって吹いている。そう、あの池から、吹いている。
 ふと、日の光が消えた。緋玻は西の彼方に目を向ける。信じられないほど早く太陽が沈んだのかと思いきや、ただの雲のしわざだった。しかしその雲は、不吉なほど分厚く、黒く、西の空を覆っている。緋玻の目には、西の黒雲の中で蠢く稲妻が見えた。
 池に目を戻した緋玻は、一瞬、その彼方の稲妻が目に焼きついたのかと思った。光が見えたのだ。蒼い目を何度かしばたいて、彼女は光がうつつのものかまぼろしか、確かめた。
光はこの現実に確かに存在し、池の中から発せられているようだった。緋玻から見ても、光は面妖なもの。太陽や月、ひとが灯す明かりとは違う。光の色は、緑であるとも、黄色であるとも、白であるとも言える。ぼんやり、ゆっくり、音もなく明滅している。
 ――ほたる。ほたるに似てる。
 緋玻は光を捕まえようとした。彼女の足は、いつしか水の中に入っていた。密生した水草を足の裏に感じて、緋玻は短く呪文を結ぶ。水の中から引き出した彼女の足は、ぴしゃり、と水面を踏んでいた。
 ――ほたる。ほたるがいるの?
 緋玻は、そう大きくもない池の中央で屈みこんだ。彼女がさきに見つけた光は消えて、川の流れの音が聞こえてくるほどの沈黙が降りている。
池は大きさのわりに、底が深いらしい。いやに暗い深遠が、緋玻の足元で口を開けている。奇妙なことに、池の中には一匹の生物もいないようだった。蛙の子や蛙の親がいてもおかしくはないというのに、ボウフラ一匹すら見いだせない。
 緋玻は屈みこんで深遠を見下ろしながら、小首を傾げた。彼女の長い黒髪は、水に落ちることなく、水面を撫でるようにして広がっていく。
「あ」
 不意に、漆黒の水底から光が浮かんできた。そして光の中から、ごぶぼり、と泡がのぼってきて弾けた。
 弾けた泡からは、光が飛び出す。蛍のように小さな光の球だ。光球はいくつも池の底からのぼってきては、緋玻の周りを飛び回った。羽音は聞こえない。蛍らしき姿もない。ただの光だ。緋玻その光をつかもうと、手を伸ばした。
 光に触れることはできなかった。光球は緋玻の手のひらから手の甲へ、するりとすり抜けてしまったのだ。
 ――なんだろう、これ。不思議。……これが、父さまの言ってた鬼……?
 緋玻が諌めねばならない鬼は、近くにいる。蛍にも似たこの光は、確かに、鬼火にも似ているようだったが――

 がぶぼッ!

「わ、っ、ば……わぁっ!」
 緋玻の水遁の妖術を破り、何かが光る水の底から現れた。緋玻は姿を見なかった。足と髪をつかまれ、淀んだ水の中に引きずりこまれたからだ。それはあまりに突然で、さすがの緋玻も驚いた。口と鼻の中には泥臭い水が入りこみ、視界はふさがれた。そのうち緋玻は、足首に痛みが走るのを感じ、水の中に自分の血が霧散していくのを感じた。
 池の水は驚くほど冷たい。まるで恐山から流れる冬の川だ。だが、どこか生温かく、ねっとりとしている。地上の水とは思えなかった。
 これは妖気だ。緋玻はかたく目を閉ざしていたが、妖気の色や姿が、見えた。
 ――ほたる。
 蛍だ。

(しってるか、しってるか、おれたちは)
(くえなくなるんだ、しってるか)
(おっとうとおっかあ、しってるか)
(おっとうとおっかあ、くわねんだ)
(しってるか、くえるのはいまのうち)
(うまいもんも、いまのうち)

 緋玻の足と髪をつかみ、水の中に引きずりこんで、牙を立てている。
 呟きながら、肉を求めている。
 蛍の子供たちだ。
 底なしの池の底の泥には、女の白骨が埋まっていた。緋玻が暴れて泥はかき回され、ひとりぶんの骨は池の中を泳いだ。ばらばらになりながら、水草に絡まりながら、舞っていた。
 緋玻には見えた、女の死も見えた。彼女はこの池が底なしだという噂を聞いて、男とともに心中するためにやってきた。けれども、死んだのは彼女だけ。骸を蛍に喰われたのは彼女だけ。どうしてあたしだけ。どうしてどうして。こんなことになるなら、出会わなければよかったのかしら。大人になんて、なるものじゃないのね。ずっと子供のままでいれば、死ぬほどの恋なんて、知らなかったでしょうに。あの人にだって出会わなかった。ずっとであわなければ。そう、おとなになんかなるものじゃない。
 おとなになったら、なんにもくえなくなるからね……。
 ぐぐぼり、ぐぐぼ、ぐ、ぐぐ、ぐ、ぐくく。
 くききき。きししし。
 ししししッッ……!


 未練を抱えた肉を喰い、かれらは味をしめてしまった。そのまま自分たちの時間を止めてしまったのだ。一尺もの大きさになったかれらは、その尻から光を発していた。緑とも黄とも白とも言えない、それは蛍の光であった。
「……!」
 そして緋玻の双眸が、暗い水の中で光を放った。
 その光は、蛍の子供たちの光よりも、ずっと、はるかに、強い光だった。生命のない 池は光り輝き、爆発したように水柱が上がった。緋玻は濡れた黒髪をなびかせて、池から飛び出していた。蛍たちの声なき断末魔が響きわたる。
 池の水は、緋玻が呼んだ業火で、一瞬にして煮え立ったのだ。一尺もの大きさの怪物たちは、あわれに飛び跳ねた。池から逃げるように真上に飛び上がり、また池の中に落ちていく。やがてかれらはすっかり茹で上がり、ぷかりぷかりと屍を水面にさらした。 かれらはもはや光らず、肉を求めることもなかった。
「……けが、しちゃった」
 緋玻はむっつりと頬をふくらませ、濡れた着物の裾から右足を出した。傷はさほど深くない。今夜のうちに治ってしまうだろう。
 緋玻は、湯気が上がる池に目を戻した。ごぼり、とまた大きな音がしたのだ。
 蛍の死骸をかき分けるようにして、白いものが浮いてきていた。
 それは骨骨骨、骨、人間の骨、獣の骨、ねっとりと照りのある骨。骨骨骨……。
 はじめは、愛する男に裏切られた女ひとりだったろう。だがこの池の、かれらの光に誘われたのは――
 ――緋玻で、何人めだったのかな。
 兄や両親は、きっと自分を笑うだろう。蟲ごときにかどわかされる鬼など、と。緋玻は憮然とした面持ちで、ふうっ、と池に息を吹きかけた。
 煮え立っていた池は、たちまち冷えて、そばを流れる川と同じ冷たさを取り戻す。
 だが、骨と蛍は浮いたまま。そして、燐の炎がちろりちろりと顔を出す。
 すうっ、と緋玻は息を吸いこんだ。ぼんやりと光る鬼火たちは、残らず彼女の口の中に吸いこまれ――、
 緋玻はちろりと、緋色の唇を舐めた。
「……でも、帰んなくちゃ」
 ぷいと池に背を向けて、緋玻は川のほとりを歩きだす。その足は、帝都のほうへと向けらけていた。
 いつ、どこで、どのくらいの人が死ぬことになるのか、帝都は知らない。
 いきものには、知るべきこととそうではないことがある――ぼんやりと、大人びたことを考えながら、緋玻は夜の川を下っていった。




〈了〉