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『鏡の球体・別冊』
ふと、僕はひとりで考えた。僕は結構うまくやっていると思うが、僕がこの店の主になるのは一体いつになるだろう、と。祖父も父も健在だ。僕がこの古書店『書目』を継ぐのは、一体何十年後になるのだろう。考えているうちに、自分が何を考えているのかわからなくなってきた。考えても仕方のないことなのに考えている。答えがわかったところで、僕はどうしたらいいのか。僕が店主になる日時がわかれば、僕はずるずるとその日まで生きることになる。その日まで生きているということが確実だから、茫漠と生き続ける。やはり、考えてみても仕方のないことだ――答えは、知らないほうがいい。
ひとりで古い哲学書を読むものじゃないな、と僕は心の中で苦笑いをした。昭和初期に書かれた無名の哲学者の本を閉じて、僕はもとの棚に戻す。書名は『唯我之心境』。
そして僕は、出入り口のガラス戸を見て少しだけ驚いた。いつの間にか、外が真っ暗になっている。店の時計(これも昭和初期生まれで、ねじを巻くのも毎日の仕事のひとつだ)を見れば、とっくに夕暮れの時間を過ぎて、夜に差し掛かっていた。
時計の音が、やけに大きい。
祖父母は日光まで呑気な旅行に出かけている。父は今朝買い付けた本を運んできたきりで、すぐにまた出かけていった。今日の入荷分はそれほど多くなかったので、僕ひとりで処理と整理にあたっても、昼過ぎには終わった。2冊だけ、『地下』行きの本があった。あとは、ゆっくりと流れる時間を、僕は店番をしながらひとりで過ごした。
カウンターで今朝入ったばかりの古い哲学書を読んでいたが、お客は今日、ひとりも来なかった。……はずだ。もし僕が哲学書に没頭してお客が来たことに気づいていなかったのだとしたら、まだまだ『書目』の主の座は遠い。
でもよくよく考えると、僕はまだ22で、『地下』にお客を案内できるようになったのもつい最近のことだ。どのみち、僕が『書目』を継ぐのはとうぶん先のことだろう。僕には、知らないことが多すぎる。
この店は入り組んだ神田の古書店街でも、とくに寂れた狭い路地に面していて、お世辞にも繁盛しているとは言えない。お客もほとんどが常連だった。もし、見かけない顔が来店したなら、そのお客はこの店に縁があったと言っていいと思う。ただこの店の『地下』には、そんな縁がありそうなお客でも、一見さんを入れることはできない。地下は危険だった。僕はともかく、多くの人は、地下に『閉じ込めた』書物を見れば、ひどい目に遭うだろう。
地下の書物には、人が知らなくてもいいような智識や歴史、術式が詰まっている。その手の知識を充分に備えていなければ、本の内容に頭の中を喰われて、当たり前の毎日に戻ってこられなくなる。祖父も父も、そう言っていた。ものによっては触っただけで危ないのだ、と言う。さらには、人ではないものが書いた本さえある、とも。
だから『地下』に案内できる人は限られてしまう。常連さんの中にも、この店に地下があることを知らない人は多いはずだ。逆に言えば、『書目』の『地下』の存在を知っている人は、本当に、世界でも数えるほどしかいないということになる――。
もっとも僕にとって、この店の『地下』の存在は、『書目』の魅力のひとつだ。古書店という、ただでさえ少しミステリアスな空間に、知る人ぞ知る場所がある……。僕も『地下』に魅入られてしまった愚かな人間かもしれない。
時計が、きりのいい時刻を刻んだ。
日が沈むと、この通りはひと気がなくなる。暗くなってから来店するお客はほとんどいない。来るとしたら、前もって連絡をしてくれるような常連さんくらいだ。僕は店を閉めることにした。この辺りの古書店は、店主の都合や気分で営業時間が変わるのが普通だった。『不定休』も当たり前。
僕はカウンターを出て、本に囲まれた出入り口に向かった。
がたり、と突然本棚が揺れて、僕は思わず足を止める。本棚といわず、店全体が、一瞬、一度だけ揺れたようだった。僕は視線のやり場に迷って、天井を見る。埃が落ちてきていた――きっと、天井や、手が届かない本棚の天辺から。本当に揺れたらしい。もし地震が来るのなら、僕は慌てなければならない。本棚がひとつでも倒れたら、この店内のすべてが崩壊するだろう。そして僕は、たくさんの本の雨を浴びる。圧死してもおかしくない。
けれども、地震は来なかった。僕は視線を前に戻す。
ガラス扉の向こうに、いつの間にか、人がいた。
僕が莫迦みたいな顔で不安がり、天井を見上げていた姿を、見ていたのだろうか。
扉を開けて入ってきたのは蒼い目の外国人男性で、僕を見ながらうっすらと笑っていた。まるで、僕の心や、僕の過去まで見透かしているかのような、『怖い』目だ。どんなに鈍感な人でも、彼が只者ではないことがひと目でわかるだろう。
がたりと、また店が揺れた。
僕は店員だというのに、彼に声をかけるのをためらってしまった。日本語が通じるかどうか不安だったからかもしれない。僕がそうして戸惑っていたのは一瞬だったけれど、彼に先手を取られてしまった。
「失礼。今日の営業ハ終わっテしまいまシタか?」
日本語だった。少し英語訛りはあるけれど、「日本語が堪能」というレベルに入るだろう。
「……いえ、まだ営業中です」
もう少しで、「今閉めるつもりだった」と答えるところだった。僕は彼をまじまじと見つめる。変わった外国人だ――丈の長い、まるでカソックのような黒装束で、金や銀の宝飾品をこれでもかと言うくらい身につけている。こんな格好で東京を歩いたら、かなり注目を浴びそうだ。けれど、彼にはそれがよく似合っているというか、ごく自然に馴染んでいるように見えた。
「こちらデハ、魔術書を専門ニ扱っておらレルそうですネ」
「専門というわけではありませんよ」
僕は正直に答えて、視線をその辺の本棚に向けた。男性は僕の視線を追って、本の背表紙をざっと検めた。一階の本棚に収めてある売り物は、とてつもなく古い貴重なものもあるけれど、あくまで『一般書籍』だ。
「おお、……そのようデス。これハ失礼を致しまシタ」
いや、彼は謝って、こうして笑っているけれど、初めからそんなことは知っていたのかもしれない。彼は知っているのだ、『地下』のことも。
ようやく僕の背中に、何か、ひんやりとしたものが降りてきた。
記憶も音を立てて戻ってきた。
英語訛りの日本語。蒼い目、微笑。魔術。たくさんのアクセサリー……。
彼はデリク・オーロフだ。大きな魔術教団の一員で、ときどき日本に来ているらしい。
魔術師がこの『書目』に来たということは、『地下』にあるものを望んでいるに決まっている。でも、彼は突然、今夜初めて店に来た。
「……すみません。失礼ですが、紹介のない方はお断りしているのです」
「紹介ハ、していただきまシタ。私も全知全能でハありまセン。世界のどこニどの書物ガ流れ着いたカ……誰からか紹介してもらわねバ、知ることハできナイのデス。確かニ……紹介をしていただイタ方をお連れするのガ筋だったでショウ。しかし、時間がないのデス。後日、紹介者サンを通じて、こちらカラは謝礼を差し上げタイと思っていマス」
まるで目の前に台本でもあるかのように、デリクさんはすらすらと言葉を並べた。
「書目サン。今朝、こちらニ『鏡の球体』トいう書物の一部が入ったハズ。ご存知でショウか――あれハ、『鏡の球体』別冊と呼ばれていマス。英国で保管されてイル『鏡の球体』本編トあわせテ、初めて一冊の魔術書となるものデス。あれハ著者ノ自筆ニよる貴重なものにしテ、タイヘン危険なものでもありマス。私にお譲りいただきタイ」
がたり、と店が揺れた。
今度は、一度だけの揺れではなかった。本棚と壁、天井と床が揺れて、本の山の一部が崩れた。ガラスの扉は揺さぶられている――無数の足と爪に!
僕は驚いて、さっとデリクさんの顔に目を戻した。ガラスの向こうを見てはいけない気がしたからだ。僕の視線の先には、デリクさんの微笑がある。僕は、どこにも逃げられない。
店は囲まれている。もしかしたら、『書目』だけがどこか他の次元に引きずりこまれているのかもしれない。そんな現実離れした想像が降って湧いてくるほど、僕が垣間見たものは常識を超えていた。青い目の獣だ、あれは青い涎と青い牙を持っていて、かたちのあるものもないものも、何もかも破壊してしまう。聞こえているのは、本棚と本の悲鳴なのか、店の外にいる獣たちの唸り声なのか、わからない。笑っているのはデリクさんだけだ。
「僕の……」
それでも僕は、『書目』の店員でありたかった。
いずれ『書目』の主を継ぐはずの僕が、ここでこのまま死んでしまうのだとしても、僕は留守を預かる立場として、抵抗しないわけにはいかなかった。
「僕の一存では、判断いたしかねます」
「ご理解いただけまセンか。『鏡の球体』を望んでイルのが、私だけデハないトいうことを……」
それでも、僕は考えた。迷って、息を呑んだ。デリクさんは相変わらず笑っている。
僕の中の僕が、ふと考えた。
この人に本を渡してはならないと考える理由は何だろう、と。
その思いが頭をかすめたのはほんの一瞬だ。
ほんの一瞬の間、何もかも、音や色や重さを失った。
僕は突風に吹き飛ばされた。風が、ガラスの扉を粉々に打ち砕いて、本棚という本棚を倒してしまった。貴重な本がばらばらになって店の中で踊る。物凄い臭いがして、無数の獣の声と息遣いが聞こえた。
僕は殺される。本を渡さなければ殺される。今すぐ鍵を持って、デリクさんを案内するんだ。『地下』への扉を開けて。『鏡の球体』。あった、これだ。ただの古い紙束みたいなものだ。これが本なのか。ちゃんとお代はもらえるんだ、これは売り物なんだ、だから今すぐデリクさんに渡すんだ。そうして僕は生きのびる……だから売ってしまえばいいんだ。デリクさんを案内してしまえばいい。僕は殺される。
僕は……、
僕が見たのは、デリク・オーロフさんのうっすらとした笑顔。
僕はカウンターで目を覚ました。
あろうことか、僕は売り物の上に突っ伏して居眠りをしてしまっていたらしい。店番中に居眠りをしてしまうなんて、まだまだ『書目』の主の座は遠い。涎はこぼれていなかったが、危ないところだった。僕が枕にしてしまったのは『唯我之心境』。昭和初期に書かれた哲学書だった。哲学書なんて、ひとりきりで読むものじゃない。こうして眠ってしまうのがオチというわけだ。
時計を見ると、時刻はすっかり夕飯時。ガラス扉の向こうは真っ暗だ。僕は身体を起こして――息を呑んだ。周りの温度が、急に下がったような気がした。
僕は封筒を握りしめている。羊皮紙の封筒には、名前が記されている。流れるような筆記体で、デリク・オーロフと。中には、小切手とメモが入っていた。
『頭金として』
「……」
僕は夢を見ていたということにしてほしかった。
夢であったなら、僕は、祖父と父に謝ったり、事情を話したりしなくてすむ。
夢であったなら……僕は、……あの異形たちを、見なかったということになる。
ああ。でも僕は見てしまった。そして『地下』からは『鏡の球体・別冊』が消えている。
僕は夢を見た。
僕は夢を見た。
僕は夢を見た。
「よい買い物ガできまシタ。書目皆サン、また、よろしくおねがいしマスよ……」
〈了〉
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