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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


『深闇の魔女』

 ††††

 わたしが壊れたのは、もう随分前のことだった。

 気の遠くなるような時間を過ごして来たのに、まだハッキリ覚えている。

 わたしを「化け物」「殺人鬼」と罵る母の言葉を。馬乗りになって泣き叫ぶ彼女の顔を。銀のナイフで刺された時の痛みを。

 そして、母を殺した時の生暖かい肉の感触と――血の味を。

 ††††

 重く、湿気を含んだカビ臭い空気の立ちこめる廃墟。
 僅かな明かりさえ届かない地下。
 冷たい石造りの壁に背中を預けながら、白鋼(しろがね)ユイナは薄く眼を開いた。
(眠って……しまったのね……)
 鮮血を思わせる真紅の瞳で、暗い空間を見つめる。
 常人では見通すことなど到底出来ない深い闇。だが、ユイナの双眸には奥に続く通路が鮮明に映し出されていた。
(もうすぐ、会えるわ……)
 うなじの辺りで切りそろえた、鴉の濡れ羽のような黒髪を掻き上げ、ユイナはゆっくりと立ち上がる。革製のベルトを留め具とした白のロングコートを翻し、ブーツの踵で石の床を確かめるように一歩一歩進んで行った。
(わたしを殺してくれる物に……)
 ようやく楽になれるかも知れない。
 そう思っただけでさっきまでの疲労は霧散し、自然と足早になっていった。

 この廃墟に出会ったのは本当に偶然だった。
 死に安寧を求め、世界中を旅していた時、ユイナは視界が陰るのを覚えた。
 それは初めての体験だった。
 ユイナは生まれた時から暗闇という存在を知らなかった。それは神の加護なのか、悪魔の誘いなのか。いかなる闇をも見通せる紅い眼を持って、ユイナは生まれた。
 そしてその眼が僅かな『闇』を感じた場所が、この廃墟だった。
 主に見放されて久しいのか、建物として形を辛うじて保っているものの、至る所に亀裂が走り、深い緑色の蔦が縦横無尽に走っていた。ほんの少しの振動にすら耐えられそうにない古めかしい建物に一歩踏み入れた時、ユイナは直感した。
 ――ここにわたしを終わらせてくれる物がある、と。
 紅眼の感じ取る『闇』に導かれて地下に下り、ユイナは驚愕した。
 そこは外観からは想像も付かない程の広大な空間だった。所々に染みついた血の跡と、腐敗して異臭を放つ黒い肉の塊が、かつてここで行われていただろう凄惨な何かを想像させる。
 生き物の気配は感じないのに、常に誰かに見張られている感覚。全身にねっとりと絡みつく『闇』の気配。
 緊張と不安と好奇の狭間で疲弊しつつも、ユイナは歩き続けた。
 そして廃墟に足を踏み入れて丸五日が立った頃、ようやく目的の場所にたどり着いた。
(これは……)
 そこは僅かに開けた空間。
 壁と床からは青白い燐光が放たれている。明らかにこれまでとは異質な雰囲気だった。だが部屋と呼ぶにはあまりにぞんざいな造りでもあった。
 無機質な立方体。
 そう称するのが最適だと思われるほど、何の飾り気もない部屋だった。
 その部屋の隅。埋め込まれるようにして、一つの柩(ひつぎ)が身を隠していた。燐光に照らされて、鈍色の光を放つ硬質的な箱。
 『闇』の発生源はそこだった。
 ユイナは注意深く歩み寄り、柩の前で片膝を付く。いつの間にか握りしめていた両手には、じっとりと冷たい汗を掻いていた。
 ――ここにある。わたしを殺してくれる何かが。
 それは物か、人外か、それとも……。
 ユイナはまるで焦燥にかられたように柩の蓋に手を掛け、力を込める。予想していた抵抗は全くなく、柩は音も立てずに口を開いた。
「十字架……?」
 思わず呟いてしまうほど、見事な十字を象った剣が収められていた。
 それは刃渡り十五センチほどの、銀で出来た短剣だった。柄と鍔も同質の金属で出来ているが、そちらには黒い皮がきつく巻かれている。そして剣全体を仄暗い『闇』が覆っていた。
「おやおや、お客さんとは珍しい」
 突然後ろから掛けられた低い声。ユイナは反射的に銀の短剣を取り出し、素早い動きで声の主に向かって構える。
「誰だ、お前は」
「その短剣の所有者、といえば分かっていただけますか?」
 おどけたように肩をすくめた男は、短剣よりもさらに深い『闇』に覆われていた。
 床に届きそうなほど長く黒い髪。カトリックの神父が身に纏う、黒い布地で織られた筒のような服装。両手には黒い手袋がはめられていた。
「いつからそこにいた」
「ついさっき、と言うより、ずっと、と言った方が納得していただけますか? お嬢さん」
 微笑を浮かべながら、男は紳士的な振る舞いで礼をする。
 そのあまりに完璧な仕草に、ユイナは妙な違和感を覚えた。
(なに、コイツ――)
 す、と眼を細め、値踏みでもするかのように男を観察する。
 彫刻のように整った白く美しい顔立ち。全くと言って良いほど無駄のない挙措。不動にして威圧する銀色の双眸。
 彼を見ていると自然に沸き上がってくるある種の感情。
(これは、何?)
 恐怖? 諦観? 慕情? それとも――殺意?
 ユイナの記憶にある数多の表現を当てはめるが、それらのどれとも合致しない。ただ漠然と嫌な予感だけが広がっていく。
「この短剣、返した方がいいかしら?」
 暗い思いに抗うように、ユイナは冷たい声を発した。
「いえ、お持ちいただいて結構ですよ。その剣は少々特殊でね。貴女がその剣を持っていると言うことは、剣が貴女を選んだのでしょう。新しい所有者として」
「そう、有り難う。でもね、わたしはちょっと試したいだけなの。ハズレなら返してあげるから心配しないで」
 自嘲めいた笑みを浮かべて言うと、ユイナは銀の短剣を逆手に持ち、刃先を自分の胸の位置に当てた。
「何を――」
 男が言葉を発し終わる前に、短剣はユイナの胸に吸い込まれていた。

 ††††

 堕ちていく。どこまでもどこまでも深く。内臓を持ち上げられたような嫌な浮遊感と、脳髄が麻痺していくような心地よい恍惚感。
 意識が茫漠としたモノになり、目の前が暗転する。
 それが瞼を閉じたのだと知覚した直後、視界が白く開けた。
 またあの夢だ。いつもわたしを苦しめる過去の出来事。
 目の前に映し出されたのは母の顔だった。前屈みになり、こちらを覗き込むように見てきた彼女は、わたしの体を優しく抱きしめてくれていた。
 山奥にある小さな小屋。そこがわたしと母の家だった。
 殆ど自給自足の生活。お腹一杯食べられることは殆どなかった。
 父は死んだと聞かされていた。あの時、まだ二歳だったわたしには死という意味がよく理解できなかったが、もう会えないのだと言うことはなんとなく分かった。
 一度だけ、酒に酔った母がこぼしているのを聞いたことがある。
 父は『殺人鬼』だったらしい。
 母は父の人間離れした美しさに惹かれて結婚した。そしてわたしが生まれた。しかしある夜、人の血をすすって笑い声を上げる父の姿を目撃してしまった。母は父を恐れ、わたしをつれてこの山小屋で逃げて来たのだそうだ。
 以来、わたしは母と二人きりで過ごした。
 それでも、わたしは幸せだった。
 母がいつもそばにいてくれたから。たくさん優しくしてくれたから。寂しいと思ったことは一度もなかった。
 同じベッドで寝て、一緒に起きる。一緒にご飯を食べて、一緒に畑を耕す。一緒にお風呂に入り、そして一緒に寝る。
 子守歌を歌ってくれた時もあったし、絵本を読んでくれた時もあった。悪い魔女が涙を流して改心し、王子様と幸せに暮らしたというお話がわたしは大好きだった。
 けど、その幸せは長くは続かなかった。

 二人だけの生活が始まって五年経ったある日。母は憔悴しきった顔を向けてきた。
 彼女が怯えた表情を向けてくるのはわたし自身。
 七歳になったにもかかわらず二歳の頃と全く変わらないわたしに、母は汚物を見るような視線を向けてきた。
 「あの人の血が流れてるから?」と掠れた声で呟く彼女の瞳は、ありありと恐怖の色に染まっていた。
 ――そして、わたしに対する態度が一変した。
 次の日からろくに口をきいて貰えなくなった。理由を聞いたが教えてくれなかった。何日も会話がなくなり、寂しさに耐えきれなくなってしつこく話しかけると顔を叩かれた。
 熱を帯びて痛む頬を押さえ、わたしは許しを請う視線を母に向けた。彼女に見捨てられたら生きていけないと思ったからだ。
 そんなわたしを見て、母は不気味な笑みを浮かべていた。母はさらにわたしを叩いた。力も徐々に強く、平手から拳へと。
 今思えばこの時、母は理解したのだ。いつ本性を現すのかと怯えていたわたしが、所詮は自分に従順な力無い小娘にすぎないのだということを。
 朝、起きてくるのが遅いと朝食を食べさせて貰えないまま、家の外に昼まで立たされた。何か物を落としたりするとすぐに拳が飛んできた。一人で山に行けと言われ、母が満足するだけの山菜を集めてくるまで家に入れて貰えなかった。テーブルマナーがなっていないと、雑草を生で食べさせられた。
 わたしに対する虐待は日ごとに酷くなり、やがて暴力を振るう理由すら希薄になって行った。
 畑の収穫が悪いと殴られ、夜に森の動物がうるさいと蹴り飛ばされた。頭痛がするからと風呂に沈められ、空の色が気にくわないからとナイフを向けられたこともあった。
 けど、それでもわたしは母に嫌われたくない一心で、文句一つ言わずに耐え続けた。見放されないように、見捨てられないように。この世でたった一人の拠り所を失わないように。
 泣くこともなく、逃げ出すこともなく、下唇をぎゅっと噛み締めて、元の優しい母に戻ってくれる日を待ち続けた。

 それからさらに三年がたったある日、母に連れられて山奥へと入って行った。母の手には鞭が握られていた。今朝、スープが不味いと機嫌を損ねた母は、その苛立ちをわたしで解消するつもりだった。
 わたしを荒縄で木に縛り付け、鞭を振り下ろそうとした時だった。
 突然、獣の咆吼が辺りに轟いた。
 母の後ろに、体長三メートルはあろうかと思われる巨大な熊が立っていた。冬眠から覚め、餌を求めて山の下の方まで来ていたのだろう。運が悪いとしか言えなかった。
 悲鳴を上げ、鞭を放り出して逃げようとする母。しかし熊の方が速かった。
 熊が母の背中に凶悪な爪を振り下ろそうとした時、わたしの中で何かが弾けた。
 ――助けなければ。
 その一心だった。
 わたしは素手で荒縄を引きちぎり、一瞬で母と熊の間に割って入ると、左腕一本で爪を受け止めた。そして右腕を熊の腹にめり込ませる。
 血を撒き散らし、絶叫を上げながら熊は後ずさった。わたしは抉り取った熊の臓腑を投げ捨て、大きく跳躍する。そして熊の眼窩に両腕を肘まで突っ込んだ。そのまま強引に真横に裂き、熊の頭部を破壊する。
 噴水のように辺りに飛散する紅い雨。
 その飛沫を浴びながら、わたしは言い知れない昂揚感を覚えた。自然に口が笑みの形に曲がり、喉の奥から自分とは違う声で哄笑が上がる。
 腕に付いた血を綺麗に舐め取り終え、わたしは母の方を向いた。
 ――ママ、悪いヤツはやっつけたよ。
 きっと褒めて貰える。自分は母の命を救ったのだ。頭を撫でて貰えるかも知れない。もしかしたら優しい母に戻ってくれるかも知れない。
 そう思いながら、わたしは母に近づいた。
 だが、母は私を拒絶した。
 涙を流し、涎を垂らし、壮絶な表情で母は甲高い声を上げた。
 あの時のわたしには、どうして母が怯えているのか全く分からなかった。
 わたしが一歩近づくと、母は尻餅をついたままスカートを地面に擦りつけて下がり、震える足で立ち上がった。
 ――いったいどうしてこんなに恐がっているんだろう。さっきの熊はもう動かないのに。
 疑問に思うわたしの前で、母は背中を向けて逃げ出した。
 ――置いてけぼりにされる。寂しいのはイヤ。ママに嫌われるのはもっとイヤ。何が、一体何が悪かったんだろう。
 母を追おうとして、わたしはその原因に気が付いた。
 体が成長していた。
 いつの間にかわたしの体は十歳の少女に相応しい身長と体格になっていた。理由は直感的に分かった。
 さっきの熊の血だ。あの獣の血を舐め取ったから体が大きくなった。
 ――でもソレは嬉しいことなんじゃないの? ママはわたしが変わらないから意地悪になってしまった。ちゃんと変わったんだから喜んでくれても良いのに……。元の優しい母に戻ってくれても……。
 ――あ、そっか。きっと急に変わっちゃったからビックリしてるんだ。もっと、きちんと見て貰えれば褒めてくれるはずなんだ。わたしはママの命を救ったんだから。
 わたしは一人で納得して、母を追って山を下りた。
 体が軽かった。今までの何十倍もの速さで動いた。
 ――今日は良いことだらけだ。
 満面の笑顔で家にたどり着いたわたしを待っていたのは、銀製のナイフを構えている母だった。
 ――どうしたの? ママ。そんなの持ってたら危ないよ。
 私を見て「化け物……」と呟く母の髪の毛はいつの間にか白く染まっていた。
 そして母は大声を上げ、縮れた白髪を振り乱してわたしに覆い被さった。成長したとは言え、まだ母の方が体格は上だ。床に押し倒され、わたしは両腕を足で押さえ付けられた。
 母は銀のナイフを振り上げ、躊躇うことなくわたしの体に突き刺した。
 鋭い痛みと共に、目の前で鮮血が舞う。
 「化け物!」「殺人鬼!」と半狂乱になって叫びながら、母は何度も何度も突き刺さした。
 銀のナイフが体に埋め込まれるたび、痛みとは別に底知れない恐怖がわたしの心を蹂躙した。
 ――嫌われる。見捨てられる。独りになってしまう。
 ――もう笑ってくれない。頭を撫でてくれない。褒めても貰えない。一緒にご飯も食べられない。お風呂にも入れない。同じベッドで寝られない。子守歌も歌って貰えない。お気に入りだった魔女と王子様の絵本も読んで貰えない。
 そんなわたしの気持ちも知らずに母は、「吸血鬼!」「呪われた子!」「地獄に堕ちろ!」と辛辣な言葉を浴びせ続けた。
 馬乗りになった母が、わたしの左胸に突き刺したナイフに体重を掛け、より深く抉ろうとした。
 ――殺される。
 そう感じた次の瞬間、わたしの右腕が母の左胸に埋まっていた。
 意味を為さない短い言葉を何か呟き、母は糸の切れた操り人形のように、力無くわたしに覆い被さってきた。腕が背中に抜け、指先に付いた母の血をわたしは舌先で舐め取った。
 甘美で豊潤な味わい。さっきの獣とは比べ物にならない。
 ――吸血鬼……わたしは吸血鬼……。
 母が残した言葉を反芻するかのように、胸中で何度も何度も繰り返す。
 ――吸血鬼……呪われた子……わたしは存在してはいけない。生きていてはいけない。
 母の胸から腕を抜き、壊れた蛇口のように湧き出る紅い水を口から直接啜る。
 ――美味しい。こんな美味しい物がこの世にあっただろうか。
 自然と笑みが零れる。わたしは貪るように母の血を飲み続けた。
 歯の隙間を流れていく感覚。喉を滑り落ちる感覚。胃にたまる感覚。別の臓器に行き渡る感覚。そして自分の血流と混じって全身に浸透していく感覚。
 母の血がもたらすありとあらゆる感覚を楽しみながら、わたしは笑っていた。
 笑い疲れ、飲み疲れ、母と重なり合って夢に堕ちた。

 ――そして次に目が覚めた時、わたしは壊れていた。

 死にたかった。母の後を追って、今すぐにでも。
 母がしようとしたように銀のナイフで左胸を抉った。母に覆い被さられたまま、彼女の手に銀のナイフを握らせて。何度も何度も。深く、より深く。
 だが死ねなかった。
『そんなに死にたいか』
 死んだはずの母から声がした。いつの間にか母は『闇』で覆われていた。声も野太い物に変わっていた。
『だがそれは無理だな』
 『闇』はわたしの左胸にナイフを入れ、その先に何かを突き刺して取り出した。
 それは蠢く肉の塊。表面に無数の血管を張り付かせ、生を主張するかのように力強い胎動を繰り返している。『闇』はソレを左手に持ち替え、力を込めて握りつぶした。
 しかし、肉の塊は潰された端から再生を始める。
『生き続けろ。そして永劫の苦しみを味わえ』
 ――『呪われた子め!』
『楽になることなど許されない』
 ――『地獄に堕ちろ!』
『真魔の血を受け継ぐ者よ』

 ††††

 ぼやける視界に最初に飛び込んできたのは、例の黒い男だった。
 自分の傍らに座り込み、心配するでもなく、嘲笑するでもなく、思考の読めない乾いた笑みを張り付かせている。
「……やっぱり、死ねなかったのね」
 呟き、上半身だけを起こした。
 すぐ隣りに、血の付いた銀の短剣が置かれている。
「変わったお嬢さんだ」
 男は微笑しながら軽く嘆息した。
「まだいたのね」
「あのまま貴女を放っておく訳にはいかなくてね」
 男の視線は自分の胸元に注がれていた。
 さっき銀の短剣を刺したところだ。服の上から手を当てる。体にぴったりフィットしたレザー製の戦闘スーツ越しに、心臓の鼓動が感じられた。恐らく傷口はまだ残っているだろうが、致命傷にはほど遠い。
「アレを見ても逃げないなんて、貴方も相当変わってるわ」
「よく言われますよ」
 男は目を細め、ユイナの体から視線を逸らす。
「その再生力……貴女、吸血鬼かなにかですか?」
「分かるの?」
 自分の本質を即座に言い当てた男に、ユイナは驚愕の眼差しを向けた。
「まぁ、何となくですが」
「正確には半分人間の血が混ざってるみたいなの」
「ほぅ、ダンピールというやつですね」
 男は顎に手を当て、何かに納得したように軽く頷いて見せた。
「ねぇ、どうやったら私が死ねるか知らない?」
「吸血鬼を殺す方法、ですか。まぁ大体は銀製の刃物で心臓を貫けば、死に至らしめることが出来ると聞きますが……」
「それはさっきやったわ」
 床に置かれた十字の短剣を取り上げる。
 一瞬、本当に死ねるかと思った。だが、結局いつもの悪夢を見せられるだけに留まった。
 新月の夜、決まって見る自分の過去。それは時と共に薄れるどころか、逆に鮮烈さを増していく。
 最初は母親に殺されそうになる場面だけだった。それから徐々に時間軸を遡り、虐待を受けていた頃や、楽しかった時のことまで見るようになった。
 だが、今回はそれだけではなかった。最後に母親を覆い、自分の不死を蔑んだ『闇』。あんな物が現れたのは初めてだった。

 ――『真魔の血を受け継ぐ者よ』

 『闇』の言葉が脳裏に蘇る。同時に全身を襲う名状しがたい嫌悪感。

 ――『生き続けろ。そして永劫の苦しみを味わえ』
 ――『楽になることなど許されない』

(お断りだわ)
 小さく舌打ちして、ユイナは髪を掻き上げた。
 もうこの世にも、自分の命にも、何の未練もない。ただ願うのは死への安息。母親を殺したという事実からの解放。
「……すいません。それ以外の方法となると私では分かりかねますね」
「そぅ」
 しばらく考えた後に発した男に言葉に、ユイナは落胆の息を吐いた。
「ですが、この世の中には『ヴァンパイア・ハンター』という職業があるらしいです。彼らなら貴女を殺す方法を知っているかも知れませんね」
「『ヴァンパイア・ハンター』?」
 聞いたことがない。全くの初耳だ。
「『ナイチンゲール』という組織名だそうです。完全に裏で暗躍しているので、普通の人には全く知られていません」
「じゃあどうして貴方は知ってるの?」
「どうしてでしょうね」
 答えになっていない答えを返し、男は柔和な笑みを浮かべた。
 こんな場所でうろうろしている怪しげな男だ。当然、普通の人間などではないのだろう。
「そぅ、ありがとう。なんとか探してみるわ」
 ユイナはそれ以上言及せず、言葉を切った。
「頑張って下さい」
 短く言い残し、男は立ち上がる。そして部屋から出ようとした彼の背中にユイナは声を掛けた。
「……聞かないのね」
「何をです?」
「どうしてわたしが死にたがってるのか」
 肩越しに振り返った男に、ユイナは自嘲めいた笑みを浮かべて返す。
「謎めいた部分は一つか二つ持っていた方が魅力的ですよ」
「自分は相当魅力的だとでも言いたいわけ?」
「さぁ、どうでしょうか」
 片眉を上げて見せながら、男は小さく鼻を鳴らした。
 まったく、とらえどころのない男だ。どんな質問をしても、のらりくらりとかわされてしまう。
「この銀の短剣は? 貰って行っても良いの?」
「勿論。貴女とここで出会った記念品、ということにしておきましょうか。それに今の所有者は貴女だ。私が口を挟むことではありませんよ」
「そぅ……」
 うっすらと『闇』の掛かった銀の短剣の腹を、ユイナは指先でそっと撫でた。コレを持っていると妙な気分になる。底の知れない不安感と、母胎にいるような安堵感。相反する二つの感情をない交ぜにしたような……。
「ところで、どうして貴女は自分がダンピールだと?」
 部屋の出入り口付近で男はもう一度立ち止まり、思い出したように聞いてきた。
「……わたしの母が、そう言ってたのよ」
 絞り出すような声でユイナは苦しげに言う。
「そうですか」
 短く言って男は、空気に熔け込むように姿を消した。いかなる闇をも見通すユイナの視界にすら何も映らない。気配さえ残らない。
 ユイナは銀の短剣を左手に持ち替えると、右手で床を押して立ち上がった。

『馬鹿な人間だ』

「――!」
 立ち去ろうとしたユイナの耳元で、野太い声が響いた。
 それは聞き間違えるはずもない、夢の中で聞いた『闇』の声。
 周囲を見回すが誰もいない。ただ、冷たく湿気を帯びた空気が澱のように鎮座している。
(ここは現実? それもまだ夢の中なの?)
 それきり聞こえなくなった声に身構えながら、ユイナは廃墟の地下を後にした。

 それからさらに十三年の年月を掛けて、ユイナは男の言っていた『ナイチンゲール』という組織に出会った。
 手法は至って単純。
 自分もヴァンパイア・ハントを続けること。同業者になりすませば、確率は低くともいつかは出会える。何の当てもなく、闇雲に探し回るよりはましだ。
 ユイナには先天的に吸血鬼を探知する力が備わっていた。もしかしたら同種を区別する能力なのかも知れない。恐らくはどの吸血鬼にも備わっているのだろう。
 そして同時に吸血鬼を滅ぼす能力も身に付いていた。それは数え切れないくらい自分の身を死に至らしめようとした成果。皮肉にも、決して成功し得なかったそれらの手法で、他の吸血鬼達はあっさり塵へと還って行った。
 自称『ヴァンパイア・ハンター』となって十三年目の新月の夜。ユイナの願いは、思ったよりも早くかなえられた。
 古い教会を根城にしていた吸血鬼を退治した時だ。銀の短剣で胸を貫かれた女の吸血鬼。彼女の体が崩れ去って行く様子を眺めていたユイナの背後で、誰かの気配が立ち上った。
 振り向いた先にいたのは黒のトレンチコートに身を包んだ、くわえタバコの男。
 圧倒的な威圧感で、コチラを下からねめ上げるように鋭い視線を向けてくる。
「白鋼、ユイナだな?」
 意外にも向こうから声を掛けてきた。
「私はナイチンゲールに所属するハンター。貴女を我が組織に迎え入れたい」
 またとない申し出。まさか『ナイチンゲール』の方から自分を探してくれているとは思わなかった。
 ユイナは二つ返事で了承し、『ナイチンゲール』へと入りこんだ。

「わたしを殺して」
 スカウトに来た男の上司の前に通され、ユイナは単刀直入に切り出した。
 言われた上司は面食らった顔をしたが、咳払い一つで自分を落ち着かせると、銀フレームの眼鏡の位置を直す。
「それは困ったな。そんなことをしては私の顔が丸つぶれだよ」
「貴方の面子なんてどうでも良いわ。色々知ってるんでしょ? 吸血鬼を殺す方法。ソレ全部わたしに試してみて」
 彼の顔を真っ正面から見据え、ユイナは強い口調で言う。
 オールバックにした黒髪を手で撫でつけながら、彼は呆れたように嘆息した。スチール製の机に突いた肘に顎を乗せ、試すような視線を向けてくる。
「どうして、死にたいんだい?」
「生きるのに理由は要らないわ。死ぬのも同じことよ」
「ソレは違う。生きることに理由が要らないのは神の寵愛に反さないからだ。死とは魂の浄化。再び生へと輪廻させるには神の許諾が必要だ。だから安易には下せない。それなりの理由が必要だ」
「そんな下らない持論を聞くためにここに来たんじゃないの。なんだったら、わたしを殺さざるを得ない状況を作ってもいいのよ? 力ずくでね」
 紅い瞳に力を込め、ユイナは銀の短剣を取り出した。
「我々とやり合うつもりか? たった一人で?」
「必要とあらば、ね」
 一瞬にして空気が張りつめる。触れれば引き裂かれそうなほど獰猛で不可視の結界が、二人を中心に展開しているようだ。
 そして先に口を開いたのは男の方だった。
「分かった。君の願いは確かに聞きとげたよ。必ず君を殺すと約束しよう」
 そこで一端言葉を句切り、男は「ただし」と続けた。
「残念ながら私では出来そうにない」
「何故」
「君の噂を聞いて十年間、我々はずっと君を監視していた。何者なのか、性格は、行動理念は、身体能力は、協調性は、そして攻撃力は。それらを総合的に評価した結果、君は我々の組織に必要な存在であると判断された」
「随分と慎重なのね」
「はぐれのヴァンパイア・ハンターというのは聞いたことがなくてね。ソレも吸血鬼の血を引いた」
 男は胸ポケットからタバコを取り出し、火を付けて紫煙をくゆらせた。
「君はすでに優秀なヴァンパイア・ハンターだ。君が自分自身に試した方法で死ねなかったというなら、私ではそれ以上どうしようもない」
「じゃあどうやって殺してくれるつもりだったの?」
 約束する。
 彼は確かにそう言った。
「君がもっと上に行くことだ」
「上?」
「そぅ。私は組織の中の人間だが、知っているのはせいぜい一割程度だろう。殆ど知らないと言っても良いな。だからどのくらい力のあるハンターが何人いるのか、全く把握し切れていない」
「随分と優秀な上司もいたものね」
「そう言うな。これがこの組織の体制なんだよ。秘密を保持するためには、仲間であれ容赦なく切り捨てていく。見捨てた仲間が持っている情報は必要最低限に越したことはない」
「素敵な仲間愛だわ。見直しちゃった」
 揶揄するユイナに男は苦笑した。
「君がこの組織で出世して上に行き、より強い仲間と仕事が出来るようになれば……」
「その人に殺して貰えばいいって訳ね」
 冷笑を浮かべて言い切るユイナに、男は渋い顔で頷く。
「言っとくけど、わたしは貴方達と馴れ合うつもりはないわ。わたしはわたしの好きなようにやらせてもらう。それでいいしら?」
「好きにするといい」
 ユイナとのやり取りで疲れたのか、椅子に座り直した男は最初よりも随分老けて見えた。
(楽には死ねない、か……)
 そんな彼から目をそらし、ユイナは『闇』の言葉を思い出して自嘲した。

 『ナイチンゲール』での生活は思ったより快適だった。
 予想していた束縛は殆どなく、外にも自由に出歩けた。
 事務所に戻れば温かい食事と、安眠できる寝所、そしてささやかな娯楽も与えられた。
 ハンター達は皆、何かしらの職業を斡旋された。勿論ソレは本業へのカモフラージュ。ハンターは力無き者達を吸血鬼から守るため、彼らのそばにいなければならない。だが、その存在を決して知られてはいけない。
 住民にあらぬ恐怖が広がるし、吸血鬼が対抗するために徒党を組む可能性があるからだ。
 ユイナが斡旋された職業はガン・ショップの店長。配属されたのは乾いた空気と黄塵に満ちた、殆どゴーストタウンのような街だった。
「いらっしゃい」
 店の戸口に付けられた鈴が、澄んだ音を立てて客の来訪を告げる。
 入って来た男にユイナは無愛想な視線を向けた。
「相変わらず客入りがないな」
「静かなのは良いことだわ」
 ディスプレイされた銃を磨きながら、ユイナは面倒臭そうに言う。
「仕事だ。今夜の夜十二時。向かえに来る」
「分かったわ」
 木製のカウンターを挟んで座った男が、飾り気のない言葉を短く連ねた。
 彼もハンターだった。一応相棒ではあるが名前など知らない。興味もない。
 ユイナが考えるべきことは他にある。
 ――どうやれば死ねるか。
 最初はその一つだけだった。どうすれば楽になれるか。それだけを糧に生き続けていた。そのために仲間から多くの技を盗み、強力な武器を欲した。
 だが戦いに身を投じるうち、別の欲望が鎌首をもたげ始めた。それは『ナイチンゲール』に所属する前から薄々自覚していたこと。
 初めのうちは小さく燻っていただけの火だったが、やがてハッキリと熱を感じ取れる炎となり、今や全身を焦がす業火にまで成長していた。
――どうすればより沢山の吸血鬼を殺せるか。
 本能的な渇望だったのかも知れない。
 母を殺し、その血をすすって壊れてから、自分は吸血鬼としての本性に目覚めていた。にもかかわらず、例の廃墟で黒い男に出会うまでは一度も血を口にせず、他の吸血鬼を狩ることもなかった。
 抑圧され続けた激情の解放。
 その情欲に身を任せている時の、言い知れない昂奮、快楽。まるで純度の高い麻薬を摂取しているかのように、次々と襲ってくる愉悦の大波にユイナは身を任せていた。
(今夜も、ソレがまた……)
 そう考えるだけで、悦びで全身が奮えた。

 車を一時間ほど走らせた場所にある古びれた教会。いや、教会の跡地と言った方が適切だろう。
 三本の尖塔を真横に並べた造りの教会は、壁の殆どが朽ち果て、屋根は抜け落ち、まるで原形をとどめていなかった。ただ唯一、すでに屋外へと晒され、満月の光で浮かび上がったキリスト像だけが、辛うじて教会だった頃の名残を醸し出していた。
 辺りには家屋らしき物があるが人の気配はない。ここに住んでいた人達はすでに別の地に移住してしまったようだった。
「随分と遠くまで来たのね。ここってわたし達の管轄なの?」
 車から降り、ユイナは不審気な視線を相棒に向けた。
「この教会を、憶えているか?」
 だが相棒はユイナの問いかけには答えず、ハンターの制服である防弾素材の黒いトレンチコートを脱ぎ捨てた。さっきまで茂みから聞こえていた虫の声が一瞬で止む。
「ここを? 貴方の思い出の地だとでも言うの?」
「……まぁ、そんなところさ」
 男は教会の入り口があったであろう場所まで歩み寄ると、大きく両腕を広げた。
「俺の娘は、ここで死んだ」
 すでに声に異質な物が混じり始めていた。
 気配が一瞬で人間の物から、人外のソレへと変わる。
 コレは――吸血鬼の匂いだ。
「意外だわ。生涯独身でハードボイルドを目指すのかと思ってたから」
 ユイナは右手に銀の短剣を持ち、左手でリボルバー式の拳銃を構える。S&W M500の8インチモデルだ。凄まじい威力を誇る拳銃だが、撃った時の反動を吸収するためにかなりの重量がある。常人なら片手で扱えるような代物ではない。
 『ナイチンゲール』からはもっと軽いH&K MK23ソーコムピストルを支給されていたが、ユイナは自分のガン・ショップに置かれていたこのリボルバーを気に入っていた。
「貴様は憶えていないだろうさ。何百と葬ってきた吸血鬼の中の一人などはな!」
 叫んだ男の容貌が見る見る変化していく。
 耳は縦に伸び、目は鋭角的につり上がり、口からは鋭い牙が伸びた。
 背中からは巨大な蝙蝠の羽根が生え、爪は攻撃的な鉤爪となり、体全体が内側から膨らんだ筋肉で一回り大きくなる。
 変身していたのだ。ユイナの相棒だった男に。恐らく本物の彼はすでにこの世にいないだろう。
 吸血鬼に変身能力があるとは聞いていたが、まさかここまでソックリに化けるとは思っていなかった。何より驚嘆すべきは、吸血鬼の匂いを完全に押さえ込んでいたことだ。かなり鋭く磨き上げられたユイナの知覚能力さえ凌駕するほどの、完璧なる力の抑制。
 コレまで出会ってきた吸血鬼では考えられなかった。
「娘に残っていた貴様の匂い……。だが、コレでようやく……。死ねえぇぇぇぇぇぇ!」
 断片的な言葉を言い残し、吸血鬼は大地を蹴った。弾丸のようなスピードで迫り来る吸血鬼を、ユイナは横っ飛びにかわす。空中に身を泳がせたまま、ユイナは銃のトリガーを引いた。
 立て続けに撒き起こる銃声。肩にのし掛かる圧倒的な反動。
 それらを体全体で感じ取りながら、ユイナは集中力を高めていく。より鋭く、細く、強靱に。
「分かるか! 貴様に分かるか! その銀の短剣で! 無惨に引き裂かれた娘の気持ちが!」
 吸血鬼は灼怒に顔を染め、鉤爪で銀の弾丸を弾いた。
 硬質的な音が、闇夜に溶けて消えて行く。
 吸血鬼はまるで怯むことなく、ユイナに殺されたであろう自分の娘の無念を怨嗟のように吐き出しながら、追撃を仕掛けて来た。
(思い出したわ)
 無数に繰り出される爪の連撃をバックステップでかわしながら、ユイナは古い記憶を呼び起こした。
 確か『ナイチンゲール』にスカウトされた教会がここだった気がする。あの時とは随分と風景が変わっていたのですぐには分からなかった。
「はぁぁ!」
 ユイナは裂帛の気合いと共に両足でしっかりと地面を支え、前に突き出した銀の短剣で爪を受け止めた。接触点を支点として体を回転させ、一気に吸血鬼の懐まで潜り込む。
 そして彼の額にリボルバーを押し当てた。
「サヨウナラ」
 無慈悲に言って、ゼロ距離から銀の弾丸を撃ち込む。
 のけ反り、仰向けになって大地へと吸い込まれる吸血鬼。
 彼は恐らく、ユイナの匂いを頼りに追い続けてきたのだろう。自分の娘の敵をとるために。十数年も掛けて。
(もし、わたしが死んだら……)
 吸血鬼が倒れ込んで行くのを見ながらユイナは目を細めた。
(父は、この吸血鬼みたいに悲しんでくれるかしら……)
 母親には父親は死んだと聞かされている。だが、それが嘘だと言うことは何となく分かっていた。父は自分とは違い純粋な吸血鬼だ。そう簡単に死ぬはずがない。
(そう――)
 口の端に酷薄な笑みが浮かぶ。
(そんなに簡単に死んでもらっては、困る――)
 今夜は満月。
 吸血鬼にとって最も力の発揮できる時。だからこの吸血鬼も待ったのだろう。ありったけの力でユイナを殺すために。
「ガゥアアァァァァァァ!」
 獣のような咆吼を上げ、吸血鬼は完全に倒れ込む直前で踏ん張った。
(それでいい)
 そんな彼の姿を満足そうに見つめながら、ユイナは身を低くする。強く息を吐いて地面を蹴り、吸血鬼の眼前で直角に軌道を変えた。銃のトリガーを引き絞り、自分がさっきまでいた場所に撃ち込む。
 単なる威嚇。吸血鬼の注意がコンマ数秒でもそらせれば十分だった。
 その僅かな時間で、ユイナは吸血鬼の背後へと回り込む。そして力任せに銀の短剣を彼の翼に振り下ろした。
 硬い手応え。銀の短剣は、蝙蝠の翼の根元を半分まで切り落としたところで動きを止めた。
「ちっ」
 舌打ちして、銀の短剣を翼に埋め込んだまま後ろに跳躍する。
 直後、紅い光がユイナの足下を通り過ぎた。
「殺す、殺ス、殺シテヤル……」
 顔に壮絶なモノを浮かべ、吸血鬼は殺意で爛々と燃え上がる双眸をユイナに向ける。その目から、先程と同じ緋色の光が解き放たれた。
 ソレを横に転がってかわすユイナ。
 さらに光線は立て続けに迫り来る。ユイナは紙一重でかわしながら距離を取り続けた。
「な……」
 しかし着地した場所が悪かったのか、泥に足を取られた。すぐに体勢を立て直し、後ろに跳ぶが僅かに遅い。
「ぁぐ!」
 左膝から先を灼ききり、紅い光線がユイナの脚を横断した。コレではもう素早い動きは出来ない。
 吸血鬼は勝利を確信したのか、自分の翼から銀の短剣を抜き取って悠然とユイナに歩み寄ってくる。
「楽には殺さん。貴様が泣いて殺してくれと懇願するまで、体中を刻み続けてやる……」
「あまり良い趣味とは言えないわね」
 ここに来て余裕の笑みすら浮かべるユイナに、吸血鬼は目元を振るわせた。
「そんなにわたしを殺したい? いいわよ。出来るものならね。期待してるわ、娘想いのお父さん。お願いだからわたしを失望させないで」
 地面に尻餅をついたまま、ユイナは口の端をつり上げる。
 ユイナの挑発に吸血鬼の目の色が変わった。
 彼の姿が一瞬ブレたかと思うと、何の前触れもなく目の前に現れた。そして太い腕がユイナの体へと吸い込まれていく。
「……ぁ」
 吃音のような声を発して、ユイナは自分の心臓が抉り取られたのだということを認識した。
「この……殺人鬼め! 娘が何をした! 生きるため人の血を吸うくらい、貴様らがやっていることに比べたら他愛もないことだろう!」
 吸血鬼は悲嘆の声を上げ、ユイナの背中を貫通させて取り出した心臓を握りつぶす。
 だが、それだけだった――
「……がっかり、だわ……」
 けぽっ、と口から吐血し、ユイナは掠れた声を紡ぐ。
「な――」
 驚嘆の声を上げ、吸血鬼の両目が大きく見開かれる。その目にユイナはリボルバーを当て、至近距離から銀の弾丸を撃ち込んだ。
 絶叫を上げながらユイナを放り出し、激痛にのたうち回る吸血鬼。
 彼の腕から解放されたユイナは緩慢な動きで立ち上がり、足下に落ちていた銀の短剣を拾い上げた。
「死なないのよ……わたし……」
 抑揚のない口調で言い、ユイナは生気を感じさせない顔を上げる。
「こんなに痛いのに……死ねないの、わたし……。おかしいと思わない……?」
 誰に話しかけるでもなく、まるで独り言のように呟きながら、ユイナはリボルバーに銀の弾丸を詰め直す。そして地面に這いつくばる吸血鬼に向けて、人形のように機械的に打ち込んだ。
「貴方は……同じことされると、死ぬのかしら?」
 不気味な笑みを浮かべながら、ユイナは脚を引きずるように吸血鬼へと近寄る。そしておもむろに銀の短剣を、彼の心臓めがけて突き刺した。
 耳をつんざく怪音。
 周囲の木々や茂み、藁ぶきの屋根を激震させて、吸血鬼の悲鳴が夜の廃村に響き渡った。
「あはっ、あはは……! あははははは! アハハハハハハハ!」
 ユイナは哄笑を上げながら吸血鬼に馬乗りになり、同じ位置を何度も抉る。何度も、何度も、何度も、何度も。
 楽しい。愉しい。どうしてこんなにも快感なのだろう。どうしてこんなにも昂奮するんだろう。どうしてこんなにも……。
「そっか……分かった……」
 突然、憑き物が落ちたかのように、ユイナの顔は無表情になった。
 どうして吸血鬼を殺したくなったのか。どうして吸血鬼を殺すことに愉悦を覚えるようになったのか。
 本能的なものだと思っていた。自分の中に流れる吸血鬼の血がそう駆り立てているのだと思っていた。
 ――だが違う。

 本当は、吸血鬼に自分自身を重ね合わせていたから。

 吸血鬼を殺しながら、何度も自分を殺していた。そして彼らを殺すたびに嫉妬していた。自分と違い、あっさり楽になれる彼らに。その嫉妬を晴らすたびにまた別の吸血鬼を狩る。そしてまた嫉妬する。コレの繰り返し。
 視線を下にやる。自分が馬乗りになっていた吸血鬼はすでに事切れていた。
 銀の短剣で心臓を貫かれれば吸血鬼は死ぬ。だが自分は死なない。死ぬことが出来ない。
 もしかしたら自分は吸血鬼ではないのかも知れない。

 ――『真魔の血を受け継ぐ者よ』

 泣きたい。
 泣きじゃくって、疲れ果てて、二度と覚めない深い眠りにつきたい。
 でも、泣けない。これまで涙という物を流したことがない。
 母親が口をきいてくれなくなった時も、虐待を受けた時も、銀のナイフで刺された時も、そしてこの手で母親を殺した時も――
 どんな辛いことがあっても、ユイナは涙を流したことがなかった。
 ただ一人で耐えて、耐えて。辛いのをずっと我慢し続けて。
 でも……もしかしたら、泣かなかったのではなく、泣けなかった?
 昔、母親が聞かせてくれたおとぎ話。
 魔女と王子様の物語。ユイナのお気に入り。
 悪い魔女が涙を流して改心し、王子様と幸せに暮らしたお話。
 あれは確か、魔女が涙を流すことで魔力を失ったから。だから邪悪な心も無くなった。そんなお話だった。
 魔女は涙を流すと力を失う? だから簡単に泣けない?
(魔女、ね……。わたしにはそっちの方がピッタリかもしれないわ……)
 満月が雲に隠れる。
 だが、ユイナの視界に映る明るさは変わらない。自分はまだ本当の『闇』を知らない。本物の恐怖を知らない。
 真の『闇』を知った時が、自分の死ねる時かも知れない。
 ならば踏み込まねば。より深い闇に、我が身を堕として。
 ユイナはただの肉の塊と化した吸血鬼を睥睨しながら、邪悪な笑みを浮かべた。
 それはまるで夢に出てきた『闇』が笑ったようで――
「まぁ、いいわ」
 冷淡な口調で言ってユイナは銀の短剣に付いた血を舐め取った。そして唾液と混ぜ合わせてゆっくりと嚥下する。
 自分が自分でなくなる感覚。同時に本来の自分へと戻って行く感覚。
 ユイナはより深い『闇』を求めて、夜の廃村を後にした。

 -Dark End-