|
現実 を さがして
ここのところ妙に空気が冴えている――北斗はわけもなく不安になっていた。ただ、守崎家を取り巻く空気と、覆い被さっている天気が優れない、それだけの理由なのかもしれないのに。
北斗は晴れた空が好きだ。低気圧が関東一帯の空に忍びこんだのは、ほんの数日前。湿った空気も曇天も、ほんの2日ばかり続いているだけだ。しかし、もう1ヶ月近く太陽を拝んでいないような、そんな気分になっていた。
調子を崩している北斗と違い、啓斗はいつも通りだ。そもそも啓斗は晴れよりも曇りや雨を好む。雪はもっといい、と思っている。雨と雪は足音を消し、気配を包みこむからだ。そのほうが、彼の稼業には都合がいい。
北斗の目に、平然といつもの生活を続ける啓斗が、まるで他人のように映った。自分と同じ顔をしているのに、まるで自分には関係のない――存在そのものに意味がない、空虚な人間のように思えたのだ。
ほんの一瞬でもそう考えた自分が急に怖くなって、北斗は兄から目をそむける。彼はその朝、学校を特に理由もなしに休むことにして、ひとり縁側に座りこんでいた。
「北斗、おまえ……学校は? 遅れるぞ」
「休む。なんか、気分悪ィ」
「……おまえが?」
「俺だって調子悪ィ日くらいあるっての!」
「なら、俺も休む」
「な、なに言ってんだ! 兄貴のクラス、今日古文のテストあるんだろ」
「……そうだった。行ってくる」
すでに登校の準備を整えていた啓斗は、縁側に北斗を残し、すたすたと歩き去っていった。北斗は学生服の背中を見送った。普段なら、些細な理由で学校を休もうとする北斗を、もっと執拗に詰問するはずだ。おまえが体調を崩すはずはない、ちゃんと学校に行け、そのうち留年するぞ――最後にはケンカになってふたりとも遅刻することも、ままあった。
兄には何も言わずとも気持ちが伝わることがよくある。弟の気分が本当に優れないことを、感じ取ったのか。行ってしまった兄を心中で詮索して、北斗はますます気分が落ちた。髪をくしゃくしゃとかき回して、庭に目を向ける――。
白い石が、じとり、と視界の中で滲んだ光を放っていた。
青い目に焼きつく白。北斗はわけもわからず、息を呑む。兄に対して抱いた奇妙な虚無感、優れない気分、曇天。すべてが、庭の白い石のせいであるように思えたのだ。なぜそう思ったのかもわからず、その謎までもが北斗の心に爪を立てる。
白い庭石は、北斗と啓斗が物心ついたときから――恐らくは双子が生まれる前から、家の庭にあったはずだ。それが、なぜ今になって不気味な異物のように見えるのか。北斗は石を睨みつけた。眼力で砕こうとするかのように。
覚えがある。しかしそれが夢なのか、現実なのか、北斗にはわからないのだ。
その物語の中の自分は幼い。だから、もしかしたら、夢と現実がないまぜになった、歪んだ記憶なのかもしれなかった。往々にして、その類の曖昧な記憶を話してみれば、兄の記憶との食い違いが出てくるのだ。食い違いをめぐってケンカになることもある。
曖昧な、白い石の記憶。
北斗は大人たちが庭に何か埋めているのを黙って見ている。大人たちは丁寧に土をならし、そこに白い石を置く――猫がうずくまっているようにも見える、白い石を。
『何を埋めたか、って? それは掘り返してみればわかるよ』
『おまえが掘り返すのだよ、北斗』
『おまえにとって、要らないものが埋まっているよ』
『いや、要るものだよ』
大人たちは微笑み、にやにやと笑い、北斗の頭を撫でまわす。土に汚れたその手は温かい。しかし、わずらわしいほど撫でまわす。ぐしゃぐしゃだらだらと撫でつづける。
北斗はそこで振り向くのだ。そして、縁側に腰かけている啓斗の姿を見る。
啓斗は、まるで憎むべきものを見るかのような、子供が放つものとは思えない、どす黒い視線を北斗に突き刺していた――。
「そんな目で見ないでくれ」
「兄貴、頼むから、そんな目……」
それから、北斗の憂鬱な日々が始まった。不条理な悪い夢のように、曇天もつづく。白い石は北斗の視界の中で滲みつづけた。白い染みは日増しに鮮明になっていく。
「なあ、兄貴……」
「なんだ、また石のことか」
空が重たい雲に覆われていて、真昼なのか夕暮れなのかもわからない。毎日顔を合わせる啓斗に、北斗は尋ねつづけた。庭の白い石のことを。
しまいには、北斗が啓斗を呼び止めただけで、啓斗はそう切り返してきた。相変わらずの無表情だったが、言葉尻にはうんざりした様子が見え隠れしていた。
「ああ。ほんとに何にも知らないのかよ、あの石のこと」
「知らない。何度も言っただろう」
そう、何度も言った。啓斗は北斗に石のことを聞かれるたび、そう答えてきた。言葉の調子すらも変わらない。同じ答えばかりだ。
「ほんとにほんとか?」
「やけにしつこいな、今回は。……俺が嘘をついてないことくらい、おまえならわかるだろう」
そう言い返されては、北斗もそれ以上食い下がるのがつらくなる。啓斗が北斗の心を汲み取れるのと同様に、北斗も啓斗の心がわかるのだから。啓斗は嘘をついていない。白い石に関して、啓斗も知らないのだ。ぽつんと庭のほぼ中央に置かれていることから、何かの墓なのかもしれない、という憶測は口にしている。根拠はないが、どこか後ろ向きな推測は、ある意味啓斗らしいとも言えた。
「でも兄貴、俺――」
石のことを『覚えている』んだ。そう言おうとして、北斗は言葉を詰まらせた。夢のような記憶の中で、幼い啓斗が自分を見ていたからだ。あの、恐ろしい、暗い、負の視線が、現在の啓斗の緑の目から放たれているような錯覚にとらわれた。
兄は嘘をついているのではないか。
出し抜けに、北斗の心をそんな思いがかすめていった。
兄の心がわからなくなったような気がする。嘘をついていないという言葉が信用できない、そんな経験は初めてだ。
「……知ってるんだろ、兄貴。嘘ついてるんだろ」
「……なに?」
「おかしいと思わないのかよ! ずっとこの家で暮らしてるんだぞ。この家にあるものの中で、在る意味がわかんねェものなんてあったか? あの石だけだ! あれだけが謎なんだよ! おかしいだろ!?」
「……おかしいのはおまえだ。ただの石だぞ。石がそこにある理由なんて知らなくて当然だ。世の中にはべつに知らなくてもいいことが山ほどあるじゃないか。おまえ、そこに草が生えてる理由とか、虫が飛んでる理由まで知っとかないと気がすまないのか?」
啓斗は淡々と、感情的になった北斗に言い返した。明らかにいらついていて、ほとんど怒っていた。それ以上北斗と口論することに嫌気がさしたようで、啓斗はくるりと背を向ける。
立ち尽くす北斗の耳に、やがて、兄が出かけていく音が届いた。古い玄関の引き戸が開いて閉まる、聞き慣れた音だった。
北斗は縁側から庭に飛び出し、忌まわしい白い石をどけた。風の音も、ひとの息吹も聞こえない。雲は今にも落ちてきそうだ。北斗はシャベルを土に突き立てる。上に石が居座っていた土は押し固められているのか、異様に硬い。まるで氷だ。まるで白い石のよう。
無言で、汗を拭うことも忘れ、北斗は土を掘り返す。掘り返す掘り返す。大人たちの言葉がよみがえってくる。要らないものと要るもの。北斗が掘り出さねばならないもの。啓斗が土の下に隠しておきたいもの。それが一体何なのか、北斗にはわからないから掘り返す。
ああ、雨が降ってきた。
とうとう空が地に落ちた。
それでも北斗は土を掘り返していた。シャベルを握る手は、汗と雨水と泥で滑る。掘り返した土はたちまち泥となり、どろりと穴に戻ろうとした。シャベルを放り投げ、北斗は泥を手で掘り始める。啓斗が泥を穴に押し戻しているのだ。啓斗のしわざだ。啓斗が隠している。啓斗が埋めたのだ。何を埋めた?
「あ、ああ……? ……あ、あ……!」
兄の小太刀だ! 兄そのものだ。血と泥にまみれた手で小太刀に触れた瞬間、北斗の中に意味と理由が流れこんできた。これがあれば自分でも、あの『門』を開くことができる。自分にはもともと、『門』を閉じる力がある。これさえ手に入れてしまえば、もう兄は、啓斗は、必要ない。要らないもの。なくてもいいもの。影になってしまえ!
「ふたりでひとつ。それって、わずらわしいだろう? もともとひとつだったんだ。だから、そろそろ、もとにもどってしまえばいいのさ」
小太刀を抱えて、北斗は振り向く。そこには幼い啓斗がいた。
ちがう!
「……!!」
否! 目が、青い! 青いぞ!
そこで暗い目をして立っているのは、北斗ではないか!
――じゃあ俺は? 俺は誰なんだ!?
小太刀を鞘から抜いて、彼はその刃に、自分の顔を映す。瞳の色を確かめるために。それがいちばん、わかりやすい双子の相違点だからだ。大人たちはいつも、目の色でふたりを区別した。何色? おまえの目は何色だ? おまえは誰だ? 暗い。空が暗すぎて見えやしない。
「……どけ! おまえら、どけよ! 見えないだろ! 光をくれよ! 俺はどっちなんだよ!!」
彼は空に向かって、そう吼えた。雨が顔に飛びこんでくる――しかし、口の中は、からからだ。なぜか彼は、泣き出していた。嬉しいのか悲しいのか、恐ろしいのか、わからない。
『門』が音を立てて開いていく。
開いた北斗の視界には、見慣れた木の天井が広がっていた。
「……あれ?」
「あ。起きたか」
北斗は布団の中にいた。傍らには、彼と同じ顔をした兄、啓斗。彼は少し呆れた表情で、北斗を見下ろしていた。一見、啓斗はいつもどおりの無表情だが、ずっと一緒に暮らしてきた北斗にはわかる。彼は呆れているし、不思議がってもいる。そして少し心配していた。
「おまえはカッパか?」
「な、何だよそのツッコミ」
「大雨が降ってるのに庭で大の字になって昼寝してた。雨を浴びてるみたいだったぞ。そんな趣味、あったのか」
「……庭? 庭で……寝てた?」
髪が確かに少し湿っている。北斗はふすまを開け、自分が寝ていたという庭を見る。降っていたという雨はやんでいた。
石がない。
白い石が、いつもの場所からなくなっている。
「……兄貴」
「ああ、石か? おまえが異常に気にしてたから、移したよ。これですっきりしただろう」
啓斗はうっすらと笑ってみせた。
その顔に、光が当たっている。
「……久し振りに出たな、太陽」
曇天は消え去り、啓斗が思わずといったふうに呟く。啓斗に感慨をもたらすほど、本当に久し振りに太陽は出てきた。西の空に、今にも沈もうとしている太陽だ。
「な、なあ。俺が掘った穴は?」
「……穴?」
啓斗は首を傾げる。その顔はきょとんとしていて、北斗が何を言っているのかわからないといった様子だった。
北斗は、自分の爪の間に泥が詰まっているのを見たのだ、ふすまを開けたその瞬間に。自分は石をどけて土を掘り返した。それはきっと現実なのだ。だが――庭にどけた石はなく、掘り返した穴もない。
「……どこからが夢だったのかな……?」
「そんなこと、おまえにしかわからない」
ぽつりと自分に問いかけた北斗に、思いがけず啓斗が答える。ぎくりとして、北斗は振り返った。啓斗はすでに北斗に背を向けて、部屋を出て行こうとしていた。
――おかしいのは、やっぱり俺か。どうかしてたのか。
きれいに拭われたかのように、乾いている北斗の手。
爪には土が詰まり、あちこちに細かい傷がある。彼の傷は、治りが早い。この手は、雨が降り止む前まで、血まみれだったのではないか。はっきりとしない謎は、ずるずるとまだつづいている。曇天は終わったのではなかったか。
顔を上げると、空に虹がかかっていた。
まるで、その美しさで、何かをごまかそうとしているように――北斗には、見えたのだった。
〈了〉
|
|
|