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Der Bote der Nacht
その歌声の主は、ある日どこからともなくふらりと現れて、そうしてどこへともなく消えていく、一夜限りの幻なのだという。
どこに現れるのかは誰にも分からない。どこへ消えていくのかもまた誰も知らないのだ。気ままに現れて、一夜の夢を残していく、このおとぎ話のような歌声の主は、花代として観客たちの心を少しだけ盗っていくのだとも言う。
一夜の夢、一夜の愉悦。観客が男ならば美しい乙女が、女ならば麗しい紳士が。心を慰め、見返りにそれを喰っていく。
悦楽を得たその代償は、それを得た当人自身の心なのだ。
明かりひとつない道の上に、数知れない人間たちが累々と転がっている。男女の比は確認しようもないが、いずれもある程度の年を重ねた者であるらしい事は確かなようだ。
ジェームズ・ブラックマンはスーツのポケットに手を引っ掛けたまま、軽々とした足取りでその中を歩き進んでいく。
目指す先には廃屋が一軒建っている。その廃屋に向かって両手を一杯に伸ばし臥している人間たちは、どれも幸福感で満ち足りた、恍惚とした面持ちを浮かべている。息はあるようだ。が、もはやそれは息をしているだけに過ぎない、ほうけた肉の塊と言っても過言ではないものだった。
ジェームズがその噂の存在を知ったのは、案外と最近の事だった。持て余した退屈をやり過ごすために覗き見たゴーストネットOFFに、専用スレッドが出来ていたのだった。
いつ現れるものかもしれない歌の主。夜ごと消えていく人間たち。彼らは無事に発見、保護されるも、いずれもがひどく憔悴している。心身を失い、そのまま廃人と化してしまう者も決して少なくないのだという。
その噂に惹かれた理由は明確ではないものの、ともかく、ジェームズは歌声の主が潜むであろう場所を割り出して見せたのだ。
――――歌声……魅惑のシレーヌ、ねえ
ぽつりと落とし、廃屋の入口と思しきドアノブに手をかける。ドアは小さな軋みをたてて開き、同時、埃の臭いが噴き上げた。
数歩を踏み入り、中の有様を確かめる。
埃と、かびと、腐った水の臭い。それに入り交じり漂う酸いた臭い。
ジェームズはわずかに眉根をしかめ、視線をすがめるようにして奥を見据えた。
踏み入れた場所は、一条の光も射さない、湿った闇で満たされていた。
窺い見えたのは朽ちた木箱だった。白木で造られているらしい木箱は闇の中にあってもなお白々とした光彩を放ち、ほの白い輝きさえもまとっているように見えた。
「……ただし、気分のいい光ではないようですがね」
木箱はちょうど成人がひとり横たわれるほどの大きさで、近付き覗き見ると、その中に収まり眠るひとりの女の顔が窺えた。
ジェームズが覗き込むと、女はふつりと眼を開けてジェームズの視線を見据え、綻びを得た華のような笑みを浮かべた。
夜が持つ静謐たる空気の具現のような貌に、森を舐め回す夜風のような声音。
女はジェームズの目を見つめながらゆっくりと言葉を――否、歌を吐いた。
主は甦り給いぬ。
死すべき者に悦びあれ、
忍びきたる、いと古き、
あまたの罪障を
負える者に。
「……ほう」
女の歌を耳にし、ジェームズは口先だけで笑みを浮かべた。
「ファウストですね」
そう言い継げると、女は華のような笑みをそのままに、躯を手で支える事もせず、カラクリが跳ね上がるような動きで半身を起こした。
「さて、あなたに訊ねたい。おもてに転がされている彼らは、あなたが招いた客人たちですか?」
ジェームズが銀に閃く双眸をゆるりと細めて訊ねかけると、それを受けた女は首から上だけをかくりと動かしてジェームズを見やり、にこりと朗らかな笑みを滲ませた。
主はよみがえり給いぬ。
傷ましくも幸を与うる、
われらを鍛うる試練に
再び歌を始めた女を、ジェームズは首を竦めて見せる事で制した。
「残念ながら、私はファウストではありませんのでね。――『塵にまみれた』と続けて返すわけにもいきませんし、ファウストを己に置換する事にもまるで関心を持てないのですよ」
オオオオ、オオオオ
外界では女の歌に応えるように響く唸り声が空気を震わせている。
ジェームズは、ようやく満面に笑みを浮かべてうなずいた。
「なるほど。……彼らはさながらファウストをあてがわれた役者たちといったところなのですね」
唸り声が夜を震わせている。
女はカラクリのような動きのままで歌い続ける。
「まあ、どんな人間でも、腹の底には罪障の念を抱え持っているものですしね……」
くつりと嗤いながら呟きを落とすジェームズの視界の中で、歌う女の姿は、時に逞しい男のそれへと変容し、そうして再び美しい女のそれへと戻った。
手をかざせば、女は実体を持たない――例えるならば夜霧のようなものである事が知れる。
白木の函は、恐らくは棺桶なのだろう。何者の棺であるのかまでは知れないが。
「……しかし、」
カラクリのように動き歌う女の髪の部分を撫でながら、ジェームズはふつりと呟きを続ける。
「ファウストは悪魔と契約を結ぶのですよ。己の強い意志と勢力を信じ、己の欲を満たさんために。さて、あなたは天使の合唱団であるのか、それともメフィストであるのか」
そう告げた瞬間。
女はひたりと歌を止め、代わりにキャタキャタと壊れた玩具のように笑い出したのだ。
どこへ隠れようと、罪と咎とは隠しおおせぬ。
息がつまるか、眩暈がするか。
ギャ、ギャ、ギャ、ギャ、ギャギャギャギャギャギャギャギャ!
空気の爆ぜる音がした。
夜が大きく震えた。
わずかばかり目を細ませたジェームズの視界が次にとらえ視たのは、からになった函と、それを取り巻く鬱蒼とした暗闇だけだった。
廃屋は消えていた。
見回せば、そこはひどく廃れた西洋墓地の外れであるのが知れた。
残されたジェームズは小さな息を吐き出して「やれやれ」と首を鳴らし、それからきびすを返して振り向いた。
転がっていた人間たちは、未だ醒めぬ夢のただ中にあるようだ。しかし、彼らを導き捕らえていた歌の主の姿は消えている。
「放っておけば気がつくでしょうし……まあ、気を戻さずにいたとしても」
それは私の知ったところではない。
そうごちて笑みを含み、ジェームズは夜の墓地を後にした。
女の正体がはたして何であったのか。何を目的としていたのか。――そもそも、本当に”消えた”のか。
あるいは、こうした人間たちの心が生み出したものであるならば、女は再びあっさりと形を成すのかもしれないが。
「私は、ただたまたま暇だっただけ。暇を潰すためにお邪魔してみただけなのですよ」
笑みを含めた声でそう言い残して、ジェームズは再び夜の内へと身を沈めていった。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2006 October 27
MR
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