コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


涙盗の魔



 冷めている、と言われた。
 冷たい人間だとも。
 ただ、涙を流すことができないというだけで。



 異変は幼少時の事故に端を発する。
 一家の乗った車がガードレールを破って海に落ちた。
 原因は不明。救助されたのは、当時5歳だった娘のみ。
 両親の遺体は、未だに見つからない。

 親を失った娘が涙のひとつも流さないのを見て、親族の誰かが言った。
 この子はまだ死を理解するには幼すぎる。だから泣かないのだと。

 それが間違いであることは、誰よりも少女自身がよく知っていた。
 事故の傷跡はとうに癒えたのに、外すことのできない包帯。
 そこに刻まれた文字。『契約ハ成就セリ』
 見るたびに少女は思う。自分の命は、両親の命と己の涙を引き換えに、何者かとの契約で得たものなのだと。
 


「両親を取り戻せるとは思っていません」
 草間興信所のソファに座った依頼人は、顔を伏せたままそう言った。
「でもせめて、涙だけでも返してもらわないと」
 生きている実感がわかないのだ、と言う少女の面は、まるで人形のように白かった。



 少女の両親が亡くなって一番得をするのは誰か。
 シュライン・エマの呟きに、草間武彦が腰を上げた。彼の調査で判明したのは、亡くなった父親の妹、少女の養母である女性に多大な遺産が転がり込んだという事実。
 だが少女は言う。叔母は優しい人で、自分のことを実の娘のように可愛がってくれている。叔母が疑われるのは心外だと。
 事故原因を洗い直したが、事件当日が豪雨だったのと、車と遺体が発見されていないのとで、真相の究明は不可能に近い。
 そちらは彼に任せ、シュラインは草間零と共に、現場周辺の調査を引き受けた。
 古い土地柄のせいか、海辺の町には老人が多く、事故を憶えている者も多かった。彼らのほとんどが、少女の救出を「水神様の加護」と呼ぶ。
 水と関わりの深い場所に水神伝説は珍しくない。けれど、信仰が生きている事は珍しい。
 海岸の岩場には洞窟があり、そこには真新しい注連縄がかけられていた。中は薄暗く湿って、到底足を踏み入れようという気にはなれない。
「零ちゃん、何か感じる?」
 シュラインの問いに、零はかすかに頷いた。
「彼女の腕にあった契約の文字……。あれによく似た気配を感じます。……近いです」
「この洞窟の奥?」
 洞窟の入り口は海に面していた。その入り口は満ち潮になれば水没してしまうことが、岩場にこびりついた海草から分かる。
「いえ。今は海の中のようです。でも、ここにも気配が残っているから、潮が満ちれば戻ってくるかもしれません」
 満潮になるのは夜だ。二人はそれまで周辺の聞き込みを続ける事にした。今度は事故の件ではなく、水神に関して。
 水神の話をすると、多くの子供は小馬鹿にするような視線を彼女達に向けた。けれどその中にも時々、「溺れかけたところを水神様に助けてもらった」などという証言が出てくる。
「悪い方ではないのでしょうか……?」
 呟くように零が言う。確かに、水神の存在を信じない者はいても、水神を悪く言う者はなかった。
 では何故、少女は涙を奪われてしまったのだろう。それが解せない。
 命の代償だと言うなら、確かに涙は安いものなのかもしれない。けれど、死ぬ事と、死んだように生きる事のどちらが辛いかと問われても、シュラインには答えられなかった。
「どうにも腑に落ちないのよね……」
「私には、泣けない事の不便さの方が理解できません」
 淡々と、それでいてどこか困ったような表情で零は言う。シュラインは苦笑した。
「そうね……。涙には自浄作用があるから、かしら」
 自浄作用、と零がおうむ返しに呟いた時、携帯電話が鳴り出した。
『今から依頼人を連れてそっちに行く。進捗具合はどうだ?』
 どこか切羽詰った草間の声。シュラインは簡潔に調査結果を報告した。
 契約を交わした相手はおそらく水神。しかも悪しきモノとは考えにくいと告げるなり、草間は「やっぱりか」と苦々しく呟く。
『夜には着く』
 忙しなく通話は切れた。二人はともかく草間の到着を待つことにした。


 夜の海に月が落とす光は頼りない。
 潮が満ち、すっかり入り口が水没した洞窟を少し離れて、シュラインと零は事故現場で草間を待った。
 彼はすぐに到着した。献花を抱えた少女と、女を連れて。
 淡い月光に照らされた女の顔は青い。紹介されずとも、彼女が少女の養母であることが分かる。少女はどこか心許なさそうな表情で、それでも顔色の悪い叔母を気遣う様子を見せていた。
「来ます」
 短く零が告げる。青い光が海面に立ち上った。風もないのに冷気が頬を刺す。圧倒的な存在感を持つ『何か』がいるのだと、誰もが感じた。
「妙な気配を感じるな。二つ」
 幼いのに厳かな声音が夜の海に響く。姿を現した水神は、少年の姿をしていた。
 水神は面白そうに零を見たあと、少女に視線をやる。
「我と契約を為した者よ、何用だ?」
 怯えたように一歩下がる少女の代わりに、草間が前に出た。
「水神殿とお見受けする。12年前、ここで起こった事故についてお訊ねしたい」
「よかろう。質問を許す」
 草間は一体何を問う気なのだろう。シュラインは固唾を呑む。
「事故の原因がお分かりか」
「……我の関知するところではない」
「では、契約の内容は?」
 水神はちらりと少女を見た。
「その娘の命を、両親の命と引き換えに救う事」
「何故、彼女から涙を奪ったんですか?」
 シュラインは思わずそう訊ねた。水神はそこで、少しだけ憐れむような表情を浮かべた。
「自分達を失って、娘が泣くのは嫌だと親は言った。我はそれを叶えたまで」
「契約の破棄は……」
 草間が問うのを遮るように、水神は首を横に振る。
「娘が死ぬ」
 その言葉に、女が弾かれたように顔を上げた。
「やめて。それだけは……!」
「契約内容の変更は?」
 シュラインが問うのに、水神は淡々と頷く。
「可能だ。だが、正当な理由無き変更に我は応じぬ」
 水神の答えに、草間は何故か深い溜息を落とした。そうして、確信と決意のこもった瞳で水神を見据える。
「水神殿。……海に沈む車から、オイルは漏れただろうか」
「漏れた。棲み処を汚されて辟易した」
「そのオイルは……白く濁ってはいなかったか」
 水神は重く頷く。
 草間の質問の意味を、シュラインは即座に理解した。車のブレーキフルードに水を混入させれば、オイルは乳化する。乳化したオイルの沸点は下がり、ブレーキは加熱を起こして──利かなくなる。
 草間がゆっくりと振り返る。女は完全に顔色を失っていた。
「彼女を本当に愛しているのなら、自首して罪を償うことを勧めます」
 厳しさと優しさのこもった複雑な声音。それに押されるように女がよろけた。
 少女は事態が把握できず、弛んだ腕に花束を提げたまま呆然としている。
「あなたはあの車に、彼女が同乗することを知らなかった。だからブレーキに細工をした。両親を亡き者にすれば、彼女を養女に迎えられる」
 背を向けた草間の表情は窺い知れない。けれどシュラインには、彼の沈痛な面持ちが見える気がした。
「あなたは子供を産めない。だから彼女を手に入れたかった。……違うなら違うと、はっきり否定して下さい」
 女の膝からがくんと力が抜けた。わななく唇で声もなく、どうしてそれを、と呟く。草間は答えない。
「叔母さんが、パパとママを……?」
 大きく見開いた目。信じられぬものを見る目つき。少女の視線に耐えかねたように、女は彼女に取り縋った。
「違うわ! 殺すつもりなんてなかった! ただちょっと怪我をしてくれれば、しばらく貴女を預かれると思ったの!」
「い……や」
「本当よ! 貴女に危害を加えるつもりなんてなかったの! 信じて! 貴女は誰よりも可愛い、私の……!」
「嫌だあっ!!」
 少女は手にした花束で女の横面を殴りつけた。
「叔母さんだけ、私に優しかった。私が泣かなくても気味悪がらずにいてくれたの、叔母さんだけだったのに!」
「お願い、信じて。本当に殺すつもりなんか……」
「今更何を信じろと言うの!」
 叩き付けられ、花びらが無惨に舞う。少女の叫びを吸い込む黒い海は、容赦のない冷たさで満ちていく。
「……正当な理由と認める」
 不意に、水神が厳然と言い放った。
「娘に涙を返し、代わりにその女から涙を奪う」
 女の喉に、罪人の烙印のような赤い文字が浮かぶ。『泣ク事能ズ』。
 少女の双眸から、ぼろぼろと涙が零れた。
「人殺し! パパとママを返してよ! 信じてたのに……。信じてたのに!!」
 分かっていた筈のことを、シュラインは再認識する。──真実は、時に嘘より残酷。
「叔母さんなんか、大ッ嫌いよ!!」
 少女の慟哭は、司直の手よりも厳しく女を裁いた。女は項垂れたが、泣いて詫びることも許されない。
 シュラインはただ黙って、涙を取り戻した代わりに信じるものを失くした少女の背を撫でた。
 撫でることしかできなかった。



 後味の悪い結果だったと思う。あの日以来、シュラインは密かに塞ぎ込んでいた。
 自分達の仕事は真実を明らかにすること。しかし、今回に限っては明かされるべきではなかったのかもしれないと思う。
 水神は黙して語らなかったが、上がらなかった車のことを考えれば簡単に想像がつく。被害者は、加害者を庇って死んだ。それも契約のひとつだったのだろう。
 生来、シュラインは涙脆い性質だ。仕事の最中は職務だと割り切っているので泣いたりはしないが、少女の涙を思い出すとやり切れない。
 草間と零の不在をいいことに、こっそり台所にこもって泣いた。
 涙が、自分の胸の内にわだかまったものを洗い流してくれることを祈りながら。
 それなのに。
「戻ったぞ。シュライン、悪いが茶を……」
 間の悪い事に草間が帰ってきた。シュラインは慌てて薬缶に飛びつく。
「お帰りなさい。すぐに用意するわ」
 泣いていたことを気取られないよう、声が震えるのを必死に抑えて答える。そこに、ばふっと何かが被せられた。
 草間のジャケットだった。
「いい。自分でやる」
 遮る事も去る事もできず、シュラインはその場に立ち尽くす。やがて珈琲の香りが漂ってきた。
「両親の遺体が上がった」
 シュラインの手に温かいカップを握らせて草間は言う。
「女も自供を始めた。依頼人は骨になった親を見て、泣くだけ泣いてようやく少し吹っ切れたそうだ」
「そう……」
 それで少しだけ安堵した。手の中の温もりが嬉しい。
「おまえは気丈だがその分、情が深い」
 溜息混じりに言って、草間はシュラインに背中を合わせて立った。
「泣くのは構わん。だが、一人で泣くのはやめてくれ。男ってのは女の涙に弱いから、目の前でわあわあ泣かれても困るが、隠れて泣かれるのはもっと困る」
「……ごめんなさい」
「謝るな。……こっちは、口説き落とすにはいいタイミングだとか思ってるんだから」
 どこまでが冗談なのか分からない口調で草間は言う。シュラインは思わず笑っていた。
「嫌ね。本気にしたらどうするの?」
「弱ってるのをいいことに畳み掛けるさ」
「嘘ばっかり。武彦さんはそんなことのできる人じゃないわよ」
「……何なら試してみるか?」
 声から冗談めかした雰囲気が消えた。シュラインは俯く。暗い視界の中、カップの水面がゆらゆら揺れる。
「……お願い」
 もはや押し殺す必要もない。嗚咽混じりの声で、囁くようにシュラインは言った。
「もう少しだけ、このままでいて」
 了解、と答える声も、煙草の匂いが染み付いたジャケットも、掌と背中で感じる熱も、全てが優しくあたたかく、いとおしい。
 自分を包んでくれるやわらかなものに甘えて、シュラインは少しの間だけ、子供のように力なく泣いた。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 / シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】