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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


涙盗の魔



 冷めている、と言われた。
 冷たい人間だとも。
 ただ、涙を流すことができないというだけで。



 異変は幼少時の事故に端を発する。
 一家の乗った車がガードレールを破って海に落ちた。
 原因は不明。救助されたのは、当時5歳だった娘のみ。
 両親の遺体は、未だに見つからない。

 親を失った娘が涙のひとつも流さないのを見て、親族の誰かが言った。
 この子はまだ死を理解するには幼すぎる。だから泣かないのだと。

 それが間違いであることは、誰よりも少女自身がよく知っていた。
 事故の傷跡はとうに癒えたのに、外すことのできない包帯。
 そこに刻まれた文字。『契約ハ成就セリ』
 見るたびに少女は思う。自分の命は、両親の命と己の涙を引き換えに、何者かとの契約で得たものなのだと。
 


「両親を取り戻せるとは思っていません」
 草間興信所のソファに座った依頼人は、顔を伏せたままそう言った。
「でもせめて、涙だけでも返してもらわないと」
 生きている実感がわかないのだ、と言う少女の面は、まるで人形のように白かった。



 草間武彦は、氷室浩介に呪符を巻いた水中銃とナイフを手渡す。
「行ってこい。若いの」
 ニヤリと笑って彼は言う。氷室はそれを呆然と眺めながらも、反射的に受け取ってしまっていた。そこへ更にマスクと足ひれ、シュノーケルまでもが積まれる。
「え? 草間さんが行くんじゃねえのかよ」
「何の為におまえを連れて来たと思ってる。こういう仕事は体力勝負の若者の担当だろう?」
 氷室はぽかんと口を開けた。海の上で、船はのんびりと波に揺られている。助っ人が要ると言われてついて来たのだから、てっきり操舵やサポートを任されるのだとばかり思っていたのに。
「俺、ダイビングなんかやったことないぜ!?」
 慌てて受け取ったものを返そうとするが、草間は頑として手を出さない。
「万が一の時、息は俺よりも続くと見た。体力もある。どう考えてもおまえの方が適任だ」
 言いながら、さっさと氷室の腰にロープを巻きだす。一瞬遅れて抗おうとした時には既に、鵜飼の鵜のように繋がれていた。
「調査では、この海域に棲む魔物が依頼人の両親を殺害し、涙を奪った可能性が高い」
 草間は言う。殺害という言葉に身の引き締まる思いがした。
 そう。それはあの可憐な少女から、両親はおろか涙までも奪った許されざる魔。氷室は拳を握りしめた。
「彼女が失くしたのは涙だけじゃねえ……。笑顔もだろ。ぼったくりもいいとこじゃねえかよ……!」
 氷室には妹がいる。これがかなり表情豊かなのだが、もしも妹が涙や笑顔をなくしてしまったら、氷室はきっと心配のあまり、いても立ってもいられなくなるだろう。
 だからなのだろうか。涙を奪われた、人形のような少女のことが他人事とは思えない。歳若い割に古い考えなのかもしれないけれど、女の子はやっぱり笑顔が一番だと思うから。
「許せねえよ。……ぶん殴ってでも、絶対涙を取り戻してやるからな」
「その意気だ」
 草間は笑った。心なしか、その笑みに頼もしそうな気持ちが含まれているように見える。
 気のせいだよな、と心の中で呟きながらも、氷室は自分の胸をドンと叩いた。
「任せとけ! 船のことは頼んだぜ。行ってくる!」
「何かあればロープを引け。すぐに引き上げる」
 うなずいて装備を整える。シュノーケルだけは置いていくことにした。潜水は得意中の得意なので自分には必要ない。
 経験なしのぶっつけ本番。それでも臆することなく、氷室は猛然と海の中に飛び込んだ。


 海の中は意外と透明度が高い。氷室は果敢に底に向かって潜っていく。
 水は不思議なほど氷室の体に馴染む。高校時代、無謀にもチキンレースに挑んで海に転落し、九死に一生を得るという経験をしたにも関らず、氷室は水が怖いとは全く思わないのだ。
 とんでもない馬鹿をやったにも関らず助かった自分と、何も悪い事などしていないのに亡くなってしまった彼女の両親。その落差がちくりと胸に刺さる。

  ──不公平だよな。

 自分が罪悪感を抱く筋合いの話ではないのに、ついそう考えてしまう。だからこそ、せめて残された彼女を救いたかった。
 何となく気の向く方へ進むうち、いきなり視界が悪くなった。水底の泥を誰かが巻き上げたかのように視野が濁る。
 おかしいと思った瞬間、氷室の頭の中に直接、何者かの声が響いた。
(獲物じゃ)
 ごぼっと音を立てて水泡が上がる。それとともに何かが氷室の足首に巻きついた。
 驚いて、ほとんど反射的にナイフを取り出し、氷室はそれを切った。藻のようにぬるぬるした断面から、緑色の液体がどろりと流れる。
 痛い、と叫ぶ声がまたも頭の中に響いてくる。
『こいつが、あの子の両親を殺した魔物か?』
 そう考えた氷室の思考を読んだように、声が答える。
(お前は何者じゃ。獲物のくせに抵抗するとは生意気な)
 理屈はよく分からないが、どうやら相手は声を出さずとも意志の伝達が可能な輩であるらしい。だから、少女の両親とも契約を交わすことができたのだろう。単純な氷室はそう納得した。
『てめえ、12年前に、女の子の両親を殺してその子の涙を奪いやがったな?』
 ゆっくりと泥が沈殿し、視界が明瞭さを取り戻す。
 ようやく声の主の姿が見えた。蛸のような、クラゲのような、緑色の奇妙な生き物だ。体の下でぞろぞろと動く長いものは足か、それとも触手か。
 てらてらと光る表面に、金色の一つ目。それがぎょろりと氷室を睨みつける。
(そんなこともあったかの。それがどうした)
『どうしたもこうしたもあるかよ。死んだ人は戻せないとしても、涙だけでも返しやがれ!』
 水の流れにゆらゆらと歪む視界の中、氷室は水中銃の狙いを魔物の目に定めてトリガーを引く。
『そもそも、何で彼女から涙まで奪いやがった!?』
 パシュッと小気味のいい音を立てて放たれたシャフトが、狙い違わず突き刺さった。
(痛い! 痛い! 何じゃ! 命を助けてやっただけでもありがたいと思え! 人間の涙は海水と一緒で、ワシら海魔にはたくさん必要なんじゃ!)
『……くだらねえ』
 氷室は腹立ちまぎれにラインを引く。シャフトに引っかかった魔物を手近に引き寄せ、水圧をものともせずに痛烈な一撃をお見舞いしてやった。
 相手が軟体のせいか、当たった拳がずるりと滑る。それでも充分に痛かったようで、またも魔物は情けない声を上げた。
(痛い! 何じゃお前人間のくせに! いや、お前、普通の人間じゃなかろ? 普通は泣いて許しを乞いながらワシに食べられるはずじゃ!)
『ふざけんな! あの子の両親も、泣いて許しを乞うのにバリバリ食ってやったって言うのかよ!』
 引き抜いたシャフトを装填し直し、氷室はマズルを魔物に向けた。二度と同じ手は食うかとばかりに、魔物は墨を吐く。
『げえっ! てめえ、このタコ!』
(涙は返さん! あれは小娘の両親との正当な契約でワシがもらったものじゃ! 両親が犠牲になると言ったから、小娘は涙だけで勘弁してやったんじゃ! 感謝しろ!)
 何という傲慢な言い分だろう。聞いていてはらわたが煮えくり返りそうだった。氷室はぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
『どこが正当だ! 欲張りすぎだろ! 何が何でも涙は取り返す!』
(やれるものならやってみろ!)
 ざわりと黒い水の中から触手が現れ、氷室の体を戒めた。その手から水中銃がもぎ取られる。
(お前は泣いて乞うても許してやらん!)
『誰が乞うか!』
 氷室はナイフを握り締め、力任せに水を切り裂いた。



 草間は船の上で注意深く海面を眺めていた。
 かれこれ5分は経つというのに、氷室は一回も顔を出さない。ここまで来ると常人離れしていると言うより人間業ではない。
「……あいつの前世は魚か何かか?」
 そんなことを呟いた時、水底からじわじわと黒いものが浮かんできた。イカ墨のようだなと思いながら草間はロープを見る。それは一向に強く引かれる気配がなかった。
 7分。そろそろ限界か。なかなか見込みのありそうな青年だからとここまで引っ張ってきたが、助っ人の身に何かあっては大変だ。自分も飛び込もうと、草間は上着を脱ごうとする。
 その時、傷だらけになった氷室が、力なくうつ伏せになってゆらりと浮かび上がってきた。
 草間は急いで彼を船上に引き上げる。だらりと弛緩した体を横たえ、名前を呼びながら頬を軽く叩くと、氷室はうっすらと目を開けた。
「へへ……。草間さん、やったぜ、俺」
 言って、彼は草間の手の中に一粒の真珠を落とした。おそらくはこれが、魔物が奪った少女の涙の結晶なのだろう。
 氷室はそのまま、かくんと気を失ってしまった。
「……よくやった」
 草間は笑って、くしゃりとその頭を撫でた。



「それを飲んで下さい」
 草間に手渡された真珠を見つめ、少女は素直に従う。ごくりと飲み下すが、特に変わったふうには見えない。
 氷室は草間にうながされるまま、事の顛末を少女に語って聞かせた。
「私の両親は……魔物に食べられてしまったんですね」
 そう呟いた少女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。それに不思議そうに視線を落としてから、彼女は肩を揺らして、声を押し殺して泣いた。
「仇は……討ったから」
 氷室の言葉に少女はうなずき、また泣いた。細い肩がしゃくり上げるたびに上下するのを眺めていると、ひどく痛々しい気持ちになる。
 なぐさめの言葉をかけたいのに、何も思い浮かばなかった。それどころかもらい泣きをしてしまいそうになり、氷室は慌てて席を立つ。
 事務所を出ようとして、ふと足を止める。彼女に背を向けたまま、氷室は言った。
「……好きなだけ泣いたらよ、いつか……笑えよ」
 言うだけ言って急いでドアを閉めようとしたら、うっかり指を挟んでしまった。思わず声まで上げてしまう。まったく、しまらないといったらない。
「……はい」
 ドアの隙間から、少女の小さな返事と、泣き笑いの表情。
 氷室は少しだけ安心して外へ出た。



 建物の陰でぼんやりしていたら、少女が帰っていく後ろ姿が見えた。うつむいてはいたけれど、その足取りが重いものではなかったのが救いだ。
「……あそこでちゃんときまってたら、一人前と認めてやらんこともないんだがな」
 唐突に、草間の声が降ってくる。見上げると、彼は事務所の窓から顔を出してニヤニヤと笑っていた。
「悪かったな。どうせ俺はしまらねえよ」
「そうふてくされるな。時間はあるか?」
「へ?」
 氷室の頬に貼られた大きな絆創膏。頭と手足の包帯。それを眺めて草間は言う。
「名誉の負傷に敬意を表して、一杯おごってやる。ついて来るか?」
「行く!」
 子供のように即答してしまった。氷室が慌てて口をつぐむのにまた笑い、草間はひらりと手を振る。
「今降りていくから、待ってろ」
 音を立てて窓が閉まる。ちぇ、と呟いてはみたものの、氷室の頬はすっかりゆるんでいた。出てきた草間の姿を見るなり急いで引き締めたが、多分ちょっと間に合わなかったと思う。
「俺の行きつけの店で構わないか? 狭くて汚いが、酒と肴はうまい」
「いいぜ。でも、おごりって一杯だけ? シケてんなぁ」
「……そういうことを言う奴にはおごってやらん」
「あ! 嘘だよ嘘! 今のナシ!」
 あたふたと取りすがる氷室に、またも草間はニヤニヤと笑う。彼のてのひらの上で転がされているような気持ちになったが、意外にも不快ではなかった。
「刺身もつけてやる。何が好きだ?」
「……タコとイカとクラゲ以外なら何でもいい」
 氷室が真顔で答えるのに、草間は大いに笑った。それがやけに楽しげに見えて、つられて氷室も腹の底から笑った。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【6725 / 氷室・浩介 (ひむろ・こうすけ) / 男性 / 20歳 / 何でも屋】