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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


涙盗の魔



 冷めている、と言われた。
 冷たい人間だとも。
 ただ、涙を流すことができないというだけで。



 異変は幼少時の事故に端を発する。
 一家の乗った車がガードレールを破って海に落ちた。
 原因は不明。救助されたのは、当時5歳だった娘のみ。
 両親の遺体は、未だに見つからない。

 親を失った娘が涙のひとつも流さないのを見て、親族の誰かが言った。
 この子はまだ死を理解するには幼すぎる。だから泣かないのだと。

 それが間違いであることは、誰よりも少女自身がよく知っていた。
 事故の傷跡はとうに癒えたのに、外すことのできない包帯。
 そこに刻まれた文字。『契約ハ成就セリ』
 見るたびに少女は思う。自分の命は、両親の命と己の涙を引き換えに、何者かとの契約で得たものなのだと。
 


「両親を取り戻せるとは思っていません」
 草間興信所のソファに座った依頼人は、顔を伏せたままそう言った。
「でもせめて、涙だけでも返してもらわないと」
 生きている実感がわかないのだ、と言う少女の面は、まるで人形のように白かった。



 はらりと白い包帯が落ちた。陽を避けた肌はいっそう白く、そこに刻まれた赤い文字の禍々しさが際立つ。
 それが善きモノとの契約でないことが、陸玖翠には一目瞭然だったようだ。翠は、彼女をよく知る人間にしか判別できない程度に柳眉を寄せた。
 翠の助力を得て、草間武彦は事故現場に臨む。海の風は冷たく、それでいてべたべたと肌にまとわりついてくる。その感触が忌まわしい。
「どう見る?」
 短い問いに、簡潔な返答。
「タチの悪い魔だ。叩くより他にない」
 翠は何かを投げて寄越した。翡翠をくり抜いて作った指輪だ。透かし彫りの内側に何やら文字が刻まれているようだが、草間には判読不可能だった。
「それを指にはめろ」
「……プロポーズなら、もっとこう色気をだな」
「武彦、寒中水泳は好きか?」
 そこでにっこりと笑うのが恐ろしい。妙なタイミングでうかつな冗談を言うものではない。草間は黙って翠の言葉に従った。
「身の危険を感じたらこう言え。急々如律令」
「キュウキュウニョリツリョウ?」
「そう。舌を噛むなよ」
 言ってまた笑い、翠はふと真顔になる。
「相手はおそらく手強い。私に、おまえの身まで守りきる余裕はないかもしれない。だからそれを手放すな」
 いつになく真摯な表情に、草間は深くうなずき返した。
 二人は岬に立ち、曇った空の下に広がる灰色の海を眺める。そこには船の一つも見えない。それなのに、何かの気配を感じる。
「……来るぞ」
 翠の合図に身構える。轟音とともに水柱が立ち、それはやがて人型を成した。
 あどけない表情の、美しい着物をまとった娘が海面にふわりと浮かぶ。
「海の藻屑と消えるが望みか。それともわたくしを楽しませに来やったか」
 傲慢さに満ちた物言いで、娘は翠と草間を冷たく見下ろした。
「そこな陰陽師、見ればお主はかなりの上玉。その精気を喰らえばわたくしの生は更に延びる。そちらの男は水底で眠るがよい。気が向けば、時には玩具にしてやろうぞ」
「12年前、この海に車を転落させたのはおまえか」
 気圧されることもなく草間が問う。その度胸が気に入ったのか、娘はころころと笑った。
「いちいち憶えてはおらぬ。が、しからば何とする? このわたくしを罰するとでも? ──人間風情が」
 語尾が低くなった。波がざわりと岸に這い上がってくる。
「思い上がりは死を招こうぞ。海の底で己の不遜さを呪うがよい」
 娘は指の一本も動かさぬのに、波はその意志で動いているかのように二人に襲い掛かる。翠が黄色の符をかざしてそれを押し留めた。
 怒濤は今にも二人を飲み込まんとする。符の端が破れる音がした。
 娘の耳障りな哄笑が響く。草間は思わず舌打ちしていた。
「勝てるのか? こんな相手に……」
「さて、どうだか」
 あっさりと翠が答えるのに、草間は呆然とする。それを振り返って小さく笑う余裕を見せ、彼女は言った。
「だが、負けることはない。要は、どれだけ持ちこたえられるかと──」
 翠の手の中の符が二つに裂けた。
「相剋、土勝水!」
 符を飲み込み、翠と草間に襲い掛かった濁流が、彼女の言葉に切り裂かれた。翠は素早く代わりの符を取り出し、再び流れを食い止める。
「ほほほ。根競べかえ? 負けはせぬ」
 涼やかな声。娘はたおやかにすら見える仕種で微笑んだ。
「愚かなことよの。わたくしの力が尽きるのを待ってでもいるのかえ? 一介の陰陽師ごときが小賢しい」
「いいえ。違います」
 翠はそれよりも涼しげに笑って見せた。
「私の狙いは──」
 ちらりと翠が視線を逸らす。娘はつられるようにしてそれを追った。
 水面から、するりと黒猫が顔を出す。淡く光る何かをくわえ、それは翠の傍に駆け寄る。
「それが依頼人の両親の御霊か。よくやった、七夜」
 娘が怪訝な表情になる。
「それはわたくしの玩具。そんなものを持ち出して、人間風情が何を──」
「小娘」
 翠をよく知る草間ですら底冷えするような声で、彼女は娘を問い質す。
「答えなさい。何故、あの少女から涙を奪ったのです」
「涙? ああ──」
 翠の声に一瞬だけ怯む様子を見せた娘だったが、すぐに平然と言い放った。
「童の泣き声は耳障りゆえ好かぬ。玩具にもならぬ小さき存在、親がへつらって乞う姿が愉快で命ばかりは見逃してやったが、うるさく泣くから涙を奪ったまでのこと。それが──」
 どうした、という言葉を切り捨てるように、翠は娘めがけて式を打つ。人型の式は娘の腹を食い破って消える。だが、娘の体は血を流すこともなく瞬く間に再生した。
「お主の力はこの程度か? これではわたくしに傷ひとつつけられぬ。これでよくもわたくしを小娘などと」
「小娘は小娘でしょう」
 翠は素っ気なく言い返した。
「私よりも随分と幼い。……たかだか数百年生きた程度の怪魔風情が威張る姿は、なかなかに不愉快なものです」
「な」
 娘が呆気にとられたように口を開ける。嘘のように波が引いた。
「知っていますか?」
 言って、翠が浮かべた不敵な笑み。
「人魚の肉が美味だという話。あれは──嘘です」
「う、そ?」
 娘の顔からは血の気が引き、翠の顔からは一切の表情が消える。
 す、と翠は扇を取り出した。それがひらりと舞うのを、娘は凍ったように見つめている。
 軽やかに、優美に翠は舞う。草間を、そして怪魔をも魅了する妙なる舞。それは天にあっては輔星と呼ばれ、地にあっては泰山府君と呼ばれる神に奉じる神聖なもの。
 秘祭の奉納舞ゆえ、限られた者しか見ることの叶わぬ幻舞。
「主神、泰山府君に申し奉る。彼の魔は冥加尽き果てし──」
 翠の言葉が凛と響き、娘を撃つ。傷ひとつつけられぬとうそぶいた娘は絶叫をあげ、水面をのたうち回った。
 苦悶の表情を浮かべる娘を一顧だにせず、翠は舞い続ける。ひらり、ひらり。
 七夜の落とした光が、扇の閃くのに呼応するように点滅した。まるで脈打つかのように。草間は不思議な心持ちで、友の舞姿と、人の形に育っていく光をただ眺めていた。
 光はやがて、二人の男女の姿になった。依頼人に似たその面差し。
 これは死者を蘇生させる儀式なのだと、草間はその時になって初めて気付いた。
 娘はもはや声を上げる力もなく水面に伏した。ぱちんと音を立てて翠が扇を閉じる。その漆黒の髪は白く変じ、左眼は光を失っていた。
「泰山府君祭には生者の贄が必要。……貴方の寿命は頂きました。そこで朽ちる時を待ちなさい」
 翠はきびすを返し、女性を抱えて歩き出す。草間も男性を肩に担いでその後に続いた。
 二人が完全に娘に背を向けた瞬間、音もなく一筋の水が這い出して草間の足首を捕らえる。その先で、娘が道連れを求める貪欲な瞳を光らせていた。
「急々、如律令!」
 とっさに口走った呪文。翡翠の指輪から何かが抜け出し、娘を襲う。
「……思い上がりは死を招きますよ。海の底で己の不遜さを呪うがいい」
 娘から受けた言葉を、翠はそう返した。泡になった娘に、もうそれは届かない。
 草間は翠を見る。何故か少し、彼女が遠い。
「帰ろう。こんな場所に長居は無用だ」
 舌を噛まずに何より。翠がそう言って笑ってくれたから、ようやく草間はいつもの彼女を取り戻したような気がした。


 元凶が取り除かれ、少女は己の命と両親と涙、全てを手にした。
 それなのに、めでたしめでたしという気分にならないのはおそらく、少女や親達の視線のせいだと草間は思う。
 翠に対する畏怖。彼女自身、顔に出さずともそれを疎ましく思っていたようなのが気にかかる。
 礼と詫びも兼ねて、草間は翠の好きな日本酒を餌に彼女を事務所に呼び寄せた。髪も瞳もすっかり元に戻っていて、それに少しばかり安堵する。
 酒が進むと、翠は珍しくぶつぶつとぼやき始めた。
「涙が出ないだけで冷たいとは……。それより感情表現のひどい私はどうなのだろうな? 武彦」
 真顔で言うのが妙におかしい。気にしてたのか、とは言わず、草間は微笑ましい気持ちを噛み殺しながら答えた。
「確かにおまえは鉄面皮に見えるが、それはおまえをよく知らない人間の話だろう」
 慰めではなく本心だ。それでも翠は何だか不満げだ。──そう。無表情に見えて、彼女は意外に表情豊かなのだ。ただその差異が、真顔とそう変わらないから分かりにくいだけで。
 まあ飲め、と注いだ酒は、ぐいっとあおられて一瞬にして消える。鯨飲家の友人を持つとどうにも懐が痛い。それでも草間は黙って五本目の瓶を開けた。
 彼女は窓にもたれて月を眺めている。こうして改めて見ると、男女の別を超えた美貌こそ神秘的だが、とても人でないとは思えない。死者の蘇生儀式という有り得ないものを見せられたにもかかわらず。
 ──草間は翠の半生を知らない。ただ、彼女が人としてはあまりにも長すぎる生を受けた身であることは知っている。
 長く生き、それでいて人の心を失わない翠は強いと草間は思う。普通なら、あの怪魔と似たり寄ったりの存在に堕ちていてもおかしくはない。それほどに、人の正しい意志というものは脆い。
 負の誘惑はいつでも、誰の足元にでも口を開いている。それに捕らわれてしまわない彼女に、草間は敬意を感じていた。
 そして翠は、草間が求めれば助力を惜しまない。面倒だの何だのと言いながら、結局手を貸してくれる。
 優しさと呼ぶなら、それは強さを併せ持ったものであるに違いなかった。
「冷たい人間は、そもそも他人の心配なんかしない」
 言って、草間は返しそこねていた翡翠の指輪を翠の前に置いた。
「助かった。ありがとう」
 草間の言葉に、翠はようやく満たされたように笑んだ。注げ、と杯を突き出されたのに苦笑しながら、草間は酒瓶を傾ける。
 やがて翠はすうすうと眠ってしまった。警戒心の欠片もない女だ。いつもならこんなことはないのに、やはり強大な呪術を使ったせいで疲弊しているのだろうか。
 草間は毛布を取り出してきてその肩にかけた。寝顔が安らかなのに、何だかホッとする。
「……おまえはいい奴だ」
 そう囁きかけて部屋を出ようとしたら、おまえもな、という呟きが返ってきた。
 食えない奴めと草間は笑った。笑ってから何となく、彼女との邂逅を誰かに感謝したいような気持ちになった。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【6118 / 陸玖・翠 (リク・ミドリ) / 女性 / 23歳 / (表)ゲームセンター店員(裏)陰陽師 】