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Water imp's flow in river
日本の怪奇現象に関する知識が不足しているということは、以前から認識しているつもりだった。宇奈月慎一郎は召喚師だ。その知識や技術が西洋寄りに傾いてしまうのも仕方のないことだと思われた。だが、それでは自身のためにはならないと考え、日本に古くからある伝奇や民話を調べてみようと思い立った。
その題材の河童を選んだのは、単なる思い付きでしかなかったのかもしれない。だが、河童というのは日本固有の妖怪である。中国でも猿猴と呼ばれる河童のような妖怪が語り継がれているが、その生態は日本に伝わる河童とは大きく異なっている。
一般的には川や湖の中に住み、泳ぎが得意で頭頂部に皿があるとされているが、一部の地域では皿のない河童も伝承されている。しかし、全国規模でいえば河童の頭には皿があり、それが乾いたり割れたりすると死んでしまうと伝えられる。多くのマスコットとして登場する河童だが、水辺を通りかかった人、あるいは泳いでいる人間を水中に引きずり込み、溺れさせたり、尻子玉を抜いて食べたりなどの悪事を働くとされている。
余談ではあるが、尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で、これを河童に抜かれると腑抜けになると言い伝えられているが、これは溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも玉が抜けたように見えることに由来するようである。また河童は相撲が大好きで、子供と良く相撲を取っていた。義理堅く、魚や薬などを恩返しとして提供する民話も全国に少なくない。
日本全国に数多く残る河童伝承の中で、慎一郎が選んだのは、山梨県北杜市須玉町に残る「淵の端の話」と呼ばれるものであった。
その昔、御門と和田(現在の須玉町下津金区)の中間を流れる釜瀬川に大きな淵があった。淵の周りには木々が青々と生い茂り、水も綺麗に澄んでいた。当時、淵は深さ5メートル以上もあり、そこには1匹の河童が住んでいた。その河童は淵を訪れる子供たちと色々なことをして遊び、時には近くの田んぼや畑に行って仕事の手伝いもしていた。
しかし、河童の本当の目的は仕事を手伝うことではなく、人間の背後に回って尻子玉を取って食べることだった。だが、人間は河童が尻子玉を狙っていることを知っていたため、滅多に取られることはなく、それなりに友好な関係を築いていた。そのまま何年かが過ぎて淵の水も汚れ、河童も住めなくなっていずこかへと行ってしまった。その深かった淵も今では2メートルほどの深さになり、水も汚れてしまった。地元の須玉町では環境汚染の寓話として語られているようだ。
その話に興味を覚えた慎一郎は早速、山梨県へ向かってみることにした。
山梨県北杜市は八ヶ岳の南麓に広がる比較的、新しい市である。西暦2005年に旧北巨摩郡7町村が合併してできた市だ。
東京から車で約2時間。中央自動車道路を須玉インターチェンジで下りた慎一郎は、国道141号線を北上した。途中で141号線を旧道に入り、目的地を目指した。事前に調べていた場所はすぐに見つけることができた。曲がりくねった山道を延々と進み、いくつかの部落と、小さな稲荷を通り過ぎたところに、その淵は今も存在していた。
車から織り、藪の中を分け入って行くと、コンクリートで固められた堰堤の手前に淵があった。河童がいたとされる時代とは大きく様変わりしてしまったのだろうが、慎一郎はそこが伝えられている淵であると確信した。
ピチャン。
その時、水面をなにかが跳ねる音が響いた。最初は魚かなにかだと彼は思った。昔より水が汚れたとはいえ、この辺りの沢や湖沼にはイワナやマスが生息している。音のしたほうへ思わず視線を向け、そのまま慎一郎は動きを止めた。
信じられないものが彼の視界に飛び込んできた。青い頭髪にピンク色の肌。以前、なにかのテレビコマーシャルで見た河童の着ぐるみにそっくりな物を身に着けた1人の人物が、ぷかぷかと仰向けのまま水面に浮かんでいた。
「た、高峰さんッ!?」
その着ぐるみで全身を覆った人物は、紛れもなく高峰沙耶であった。普段は肌も露な黒のドレスを身に着け、妖艶な雰囲気を湛えている女性だ。その高峰が河童の着ぐるみを着ているという事実に、慎一郎はめまいにも似た感覚を覚えた。
悪夢か。あるいは河童に化かされているのか。
しかし、残念ながら河童が人を騙したという民話は聞いたことがない。
チャプン。
次の瞬間、水音を響かせて河童姿の高峰が水中に消えた。ただ、堰堤から流れ落ちる滝の音だけが辺りを支配していた。
スッと青い影が現れ、水面から顔だけを覗かせた高峰が慎一郎の姿を捉えた。
「見たわね?」
底冷えするような瞳で慎一郎を見据えつつ、高峰が静かに言った。まるで心臓を鷲づかみにされたかのような、なんともいえない恐怖心にも似た感情が慎一郎の胸中を襲った。
「い、いえ、なにも見てませんよ……」
「見たわね?」
再び高峰が同じ言葉を口にした。
その響きに、得も言われぬ恐怖を感じ取った慎一郎は、思わず後ずさった。
「ぼ、僕は別にいいと思いますよ。高峰さんがどんな趣味を持っていても……」
「見たわね?」
3度、高峰が同じことを発した瞬間、慎一郎は踵を返すと、わき目も振らずに駆け出した。なにか見てはいけないものを見てしまったかのような、触れてはいけないものに触れてしまったかのような、なんとも形容しがたい恐怖があった。
藪を掻き分け、慌てて車に戻った慎一郎は、運転席に乗り込んでエンジンをかけようとする。しかし、何度イグニッションをひねっても、セルモーターが回るだけでエンジンは始動しようとはしない。恐怖と苛立ちが胸中に重くのしかかった。
バダンっ!
その瞬間、車のフロントガラスにピンク色の物体が張り付いた。水に濡れた高峰の顔が目の前にあった。鋭い、殺意すらこもっているのではないか、と思わせる瞳がガラス1枚を挟んで慎一郎に向けられていた。
直後、慎一郎は半狂乱に陥った。普段ではありえないことだが、見知った高峰の、異常ともいえる姿を見せ付けられ、理性が麻痺してしまったのかもしれない。
ようやくエンジンがかかった。もどかしげにサイドブレーキを下ろし、ギアをドライブに切り替えて慎一郎はアクセルを踏み込んだ。発進の勢いで河童姿の高峰が後方へ飛んで行くのが見えたが、構っている余裕はなかった。
「わーはっはっはっは。兄ちゃん、そりゃあ狐に化かされたんだよ」
慎一郎の前で中年男性が爆笑していた。
どこを、どのように走ってきたのか慎一郎は覚えていなかった。ただ気がついたら国道141号線沿いにある公営の温泉施設の前に車を止めていた。そこで施設に入り、事情を説明したところで返された言葉が、先ほどのものであった。
「狐? でも、僕は河童のことを調べにきたんですが……」
「淵の端の河童かい? ありゃあ、何百年も前の話だからな」
「狐に化かされたって、どういうことですか?」
「淵に行く手前に、お稲荷さんがあっただろ?」
「ええ」
「あそこのお稲荷さんは悪戯好きでな。昔っから人を脅かして遊んでいるのさ」
微妙に納得がいかなかったが、そういうものかもしれない、と慎一郎は曖昧にうなずいた。
「そのお稲荷さんは、人の心を読むとも言われていてな。兄ちゃんも、読まれたんじゃねえのかい?」
それならば納得できた。河童のことを調べようという探究心と、心のどこかで高峰に対している畏怖が、ああしたものを慎一郎に見せたのかもしれない。迂闊といえばそれまでだが、不思議と怒りはなかった。
「あら、慎一郎じゃない?」
男性と別れ、施設から出ようとしたところで不意に声がかかった。聞き覚えのある声に思わず振り返ると、そこには黒服を身に着けた高峰が立っていた。その姿を見た瞬間、慎一郎の胸中に恐怖とも焦りともつかない感情が走った。
「た、高峰さんじゃないか。どうしたんです? こんなところで……」
「久しぶりに温泉に入りたくなって、少し足を伸ばしてみたのよ」
「そ、そうですか」
やや顔を引き攣らせながら慎一郎が答えると、高峰は黒猫を伴って彼の脇を通り抜けた。
その瞬間、彼女が持っていたハンドバッグから青い毛のような物が覗いているのを慎一郎は見つけた。
だが、それを高峰自身に確かめることもできず、慎一郎はその場に立ち尽くした。
果たして、あの淵にいたのは狐だったのだろうか。
もしかしたら――?
完
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