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Cirque d'une ombre
開幕を告げる無機質な音が劇場の中一面に響き渡る。
灯は、特別料金を払ったわけでもないのに、客席の一番真ん中に位置する特等席に着いていた。
緋色の幕が静かに開かれ、視界が暗色に覆われる。客席には灯の他にも人が頭を並べていたが、それも総て闇に呑まれた。
耳が鳴るような、痛い程の静謐。
やがて、銀幕がぼうやりと白みだし、音響が風の唸りを吐き出した。
ざざあざざあ
唸るのは暗い森だ。
軟体生物の手足に似た動きを見せるのは刃の切っ先のような樹海の枝葉だ。
森は海原のような顔で唸り続けている。
白じらと照る銀幕には観客達の影ばかりが映されている。
映写機がカタカタカタと鳴る。
影達は身じろぎもせずにただじっと俯いているだけだ。
ポップコーンも飲み物もなく、灯はただひっそりと座っている。
ざざあざざあと唸るその音が、幼い頃に憶えた恐怖に重なり、灯はそっと身を竦ませた。
怖い。
席を立てばいいだけの話なのだろう。席を立って劇場を後にし、街中へと踏み出して、カフェにでも逃げ込めばいい。あるいはCDを物色しに行くのもいいだろう。部屋に戻り、テレビをつけてのんびりと過ごすのでもいい。
しかし、灯はなぜかその場を立つ事が出来ずにいた。
まるで身体に根が生えたかのように、ろくに身じろぐ事さえも出来ず、ただひっそりと座っている事だけしか出来ないのだ。
ざざあざざあと唸るばかりの音と、影ばかりが映る灰色のスクリーン。
と、そのスクリーンの中の影のひとつが、ようやく小さな動きを見せた。
目鼻の判別もつかない影が、とてもゆっくりとした動きで灯の方に顔を向ける。
灯は目を逸らす事も出来ずに、自身の意思とは裏腹に、むしろ食い入るように影の動きを見つめた。
影の顔の半分が灯の方へと向けられた。と同時に、その他の影――すなわち劇場内にいる総ての影の顔までもが、ゆるゆると灯の方へと向けられる。
灯はそこで初めて目を瞑り、喉が引き裂けんばかりの恐怖を吐き出した。
ざざあざざあざざあ
森が嗤っている。軟体生物のようにうねる枝葉が一杯に腕を伸ばしている。
目を瞑る直前、灯の視界の端が、影たちの姿を捉えていた。
泥の底から沸き出して来たかのような、ぬらぬらとした皮膚。目も鼻も口もないその顔の中で、しかし、どうしてか彼らは全員が嗤っていた。森と共に嗤っていた。
ざざあざざあと鳴るその音は深い水底に潜む太古の息吹のものであり、おぞましい禁忌の森のものであり、嗤いさざめく枝葉と影共の声だった。
ふと、弾かれるようにして、灯はベッドの上で飛び上がる。
初めに目についた天井には点けられたままの電気があり、煌々とした明かりをもって部屋の隅々までを照らしていた。
つけっ放しだったテレビには、放送時間を過ぎたためなのか、砂嵐が映されている。
ざざあざざあと鳴り続けているその音は、テレビが放つ、砂嵐によるものだった。
灯は音の正体を知り、そこが自分の部屋の中であったのを確めて、ようやく安堵の息を吐く。
バイトから帰り、ベッドの上に寝転がってテレビを見ている内に、いつの間にか眠りに落ちてしまっていたようだ。
安堵の息で心を落ち着かせ、額に染み出た汗を拭う。
ベッド脇の時計に目をやる。時刻は三時を回っていた。
起き出して、着替えもそこそこに寝入ってしまっていたのを思い出す。それと同時に、忘れていた空腹をも思い出した。
テーブルに放りやっていたリモコンを無造作に拾い上げ、なにはともなくテレビを消した。
画面が落ちる瞬間、砂嵐の中に、ぼうやりと浮かび上がっていた影の群れがあったのは――灯の視界におさまってはいなかった。
コンビニまでは、マンションからさほど離れてはいない。ゆっくりと歩いてもせいぜいが五分といったところだ。
灯はコンビニを目指して部屋を出、持ってきた上着をはおって、未だ暗い夜の中に沈んだままの街をひたひたと歩く。
街灯が風に合わせて小さく揺らぐ。
不定期に点滅を繰り返す街灯の下、新聞配達と思しき人間がこちらへと向かって来た。
カブの音が闇を揺らし、空気を震わせる。
すれ違う瞬間、灯は、ふと、そのカブに跨っている男の姿を目にとめた。
真黒な、影ばかりの人間。
ふと、ざざあざざあと唸る唸り声が聴こえたような気がして、灯はひたりと足を止めた。肩越しに振り向いて男の姿を追うが、男は既に夜の中へと消え入っていた。カブの音も遠く離れていったようだ。
気のせいだったと自分を宥め、しかし心もち小走り気味に、灯はコンビニの明かりを目指して夜を行く。
カタカタカタと廻る映写機の音がする。
その音に背を押されるようにして、灯はコンビニの中へと立ち入った。
未だ明けぬ夜の内にあるコンビニは、灯の他には客の姿も無く、ただひたすらに静謐の中にあった。
有線が流行りの歌を流している。その音すらもなぜか遠くにあるように感じられて、灯は再び肩を抱いた。
夢は夢だ。
潰えた夢に囚われ続けていたところで、仕様の無い話なのだ。
それに、
新製品のチョコ菓子をいくつかカゴの中に放り込みながら、灯はふるりと身を震わせる。
それに、悪夢は口にすると真実になってしまうという。
いいや、違う。
恐怖の名残りなど、夜が明ければたちどころに融けて消えてしまうに違いない。
カゴの中にチョコ菓子とペットボトル、それに朝ご飯に良さそうなサンドイッチやレトルトの粥を放り込んで、灯はレジへと向かった。
店員は店の奥から出て来ない。
ひとまず店の中を一望してから、灯は店員を呼ぶために声を張り上げた。
店の奥で、誰かが灯の声に反応した。
カタリと小さな音がする。
有線が流していた歌が、その時ひたりと静まった。そして、それに代わり、違う音を吐き出し始めたのだ。
ざざあざざあざざあ
覚えのあるその音を耳にして、灯は小さな恐怖を洩らした。
森が唸っている。
枝葉が、影ばかりの人間たちが、水底に潜む得体の知れない何者かの息吹が。
灯の名を呼び、そうして嗤いさざめきあっている。
カタリ
再び小さな音が響き、押し開かれたドアの向こうから、店員らしい男がうっそりと顔を覗かせた。
現れたのはぬらぬらとした皮膚をもった漆黒の影だった。
目も鼻もないその顔が、灯を見とめてゲラゲラゲラと嗤う。
禁忌の森の枝葉が灯の手足を絡め取り、灯の名前を唸り続ける。
ざざあ、ざざあ、ざざあ
辛うじて喉をついて絞り出された恐怖が夜の空気を震わせる。
灯は、確かに見た。
コンビニのガラス戸に張り付くいくつもの影を。
どれも、どれもがゲラゲラと嗤っているのを。
ざざあざざあ
ざざあ
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2006 November 7
MR
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