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二度目の邂逅 〜梢、再び〜
【1】
なだらかな動きで、晴天の空を白い雲が動いていく―――
(……うむ、見事)
……この、人の身では知覚することの出来ない山の奥でも、空の雄大は変わらない。
そんな当然の事実を確認して、彼、梢はゆっくりと首を縦に振った。
手元には上等の清酒。空と山の美しさと相俟って、現在は悪く無い時間と言えたが……
「梢殿?」
「む」
呆れたような高い声で、彼の意識は空から大地。
すなわち自分の対面に座っている、百年来の友人である「天狗」へと戻ってしまった。
「おお、すまん。聞いていなかった」
「……相も変わらず、一つの事象に心を寄せるのがお好きなようですな」
ふぅ、と、苦笑と共に息が吐き出される。
「ともあれ、巴殿が我等の里を訪れて下さるなど久し振りですな」
「ああ。四十年振りか?美味い酒が手に入ったのでな……童の姿をして、貴様も好きだろう?」
「ええ……」
次いで、嬉しそうな――――苦笑。
梢のくだけた様子に、その少年天狗も寛いでいた。
……此処は、山の奥に在る天狗の隠れ里。
常人の住む世界とは一線を画する、一種の「異界」である。
ふとした思い付きで、友人であるこの里の長に会いに来た梢であった。
「最近は……如何ですかな?弟子も取られていないとか」
「人の子と戯れて居るよ。永き時を生きるには、諧謔の心を忘れてはならん」
「貴方が天狗を育てないのは、甚だ惜しい話ですがね…」
「よせ。年寄りを苛めるな」
ふ、と笑い合う。
……そのように雑談を続けていると、ああそういえば、などと、少年天狗が思い出したように呟いた。
「ん?」
「……実は、梢殿にお願いしたいことがあります」
「言ってみろ。己とお前の仲だろうが?」
酒の酔いも手伝って気安く手を振る梢に、では、と少年天狗は畏まる。
「最近、ようやく一人前となった若い者が居りましてな」
「ふむ」
「つまり、最低限の実力は我等も認める程に備えた者なのですが……ちと問題が多過ぎまして」
「……良くあることだ。故に我等、強者なれど、その時期に命を落す者が多い」
「然り」
ふ、と目を伏せる巴に、同意の呟きを少年天狗。
里の長も大変だな、と思いつつ梢が視線を送る――――それで、どうなのだ、と。
「才気はあります。鍛えれば、或いはこの里でも上位の天狗に成りましょう」
「……辛口のお前にしては、珍しく褒めるな」
「は。という訳で、梢殿、どうか―――」
「分かった」
お願いします、と頭を下げる彼に、ぞんざいに梢が手を振った。
「本当ですか!」
「お前の頼みだからな」
「では、早速此処に呼びつけましょう………おい、奴は!奴は何処へ行った!?」
こうも簡単に許諾されるとも思わなかったのか、嬉しそうに少年が叫ぶ。
方々で待機していた天狗に、件の「問題のある天狗」を連れてくるように言い回っていた。
そして、数分後。
「お待たせしました、梢殿……おい、入って来い」
「なんすか師父。俺、ここ数日は悪戯もしてないんすけど……」
「良いから入れ!」
「……はぁ」
そんな、存分に若さを感じさせる会話で「彼」が梢と少年天狗の居る部屋へと入ってくる。
……正真正銘、少年の声だ。
「紹介します、梢殿。これは天波・慎霰………今回、貴方に鍛えて頂きたい未熟者に御座います」
「……ああ。そうだな、確かにこれは……」
「梢?梢って、確か……」
そして。
「ええええええええ!?師父、梢さんに山奥で鍛えて貰えってどういう!!!!?」
「―――確かにこれは、鍛える必要もあるだろうな」
驚愕して叫ぶ慎霰を納得した声で迎えながら。
梢は、ついこの間会ったばかりの若い天狗との再会を果たしたのであった。
【2】
「そういう訳で、数日お前を己が預かることになった」
「なんで俺が……」
「心当たりが無いというなら、それはそれで大したものだな?」
「ぐ」
翌朝。
梢は、慎霰を伴って山登りの真っ最中だった。
……涼しい顔の梢とは対照的に、慎霰の顔は晴れない。巨大な荷物を背負うその顔には汗が浮かんでいた。
「これからの修行で、お前に修験の心得を叩き込む」
「人間の術なんて要らねぇのに…」
「そういう物言いをする者に限って、その領域が苦手なのだ」
「う……べ、別に。そんなことないっすよ……っていうかこれ、何が入ってるんで?」
ずばりと本心を言い当ててくる梢に心の中で嘆息しつつ、慎霰が訊く。
自分も天狗、貧弱なつもりは無いが……現在彼が背負う荷物は重すぎる。
梢はそんな質問に、
「ああ。中身は全て石だ。重いだろう?」
あっさりと、答えた。
「な――――!!!!なんでそんなものを俺が!?」
「修行だ」
「納得いかねえええええええ!しかもこの山、無駄に険しいし!?」
「己が納めたのは真言でも羽黒でもないのでな。適所ならば、ある程度山は選ばん。そら、歩け歩け」
「くっそおおおおおおおおお!!」
そんな訳で、彼等は仲良く山登りを楽しんでいるのであった。
……やがて、山の深奥へと辿り着く。
「さて……修験を教えるのは勿論だが、まずは九字を使いこなせる様になることが第一か」
――――ドドドドドドド、と、耳朶を打つ音が、喧しい。
「……九字って、りんへーとーしゃーのアレ?」
「うむ。現在も修行者が魔よけに使う、汎用性の高い護身の法だ」
よくもまぁ平然と話せるものだ、と思いつつ。
巨大な滝が流れ落ちる地で、顔を顰めながら慎霰は梢の言ったことを反芻していた。
「どうせなら、もっとスゲェ術が覚えたいなぁ。孔雀明王の秘法とか覚えられないんすか?」
「……役小角もびっくりな発言だな」
「あだだだだだだ!?」
ぐりぐりとこめかみを握られて悲鳴を上げる慎霰に、梢が話を続ける。
……本当に血気盛んな天狗なのだろう。自分も昔はそうだった。
「とにかく、山とは異界だ。ここで擬似的な死を体験し、精神を改変する……その果てに、異能は在る」
「そりゃ、分からなくは無ぇけど……」
「なら話は早い。修行を開始するぞ」
釈然としない態度で、それでも肯定する慎霰。
それを受け、有無を言わせず、けれど鷹揚に修行の開始を宣言する梢である。
「では、慎霰。服を脱げ」
―――――沈黙。
否、滝の音だけが、再び空間を支配した。
「……う。なに、梢さんって男色―――」
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
「うおおおおおおおお!?危ねぇ!?」
しかる後に、神速で放たれた梢の早九字が慎霰の頬を掠めた!
「……とまぁ、このように早九字であっても使いこなせばかなりの武器に――」
「な、ななななななななな!?」
「それとこの修行の間、己のことは師と呼ぶように。それと、己に男色嗜好は無い」
(冗談を言うにも命懸けかよ……)
青い顔で、血に濡れた己の頬をおそるおそる触る慎霰。
顰め面を絶やさぬ里の先輩よりは与し易いと思っていたが、むしろそれは――――
「では、褌一枚で背後の滝へ直行するように。二時間経つ前に出てきたらもう一度叩き込むぞ」
「理不尽だ……」
「なに、貴様の里の長もこのようにして力をつけたのだぞ。ふふふふふふふふふ」
「……男色って勘違いしたこと、怒ってます?」
「まさか。しかしそれはそれとして、やはり四時間に延長しようか。さっさと行って来い」
「………どうにか逃げられねぇかな、これ……」
ああ、あの里の長も実は苦労してたんだなァなんてしみじみと思いつつ。
慎霰は、渋い顔で目の前の巨滝に向かって歩き出した……
「ああああああああああ、なんだこれすっげぇ冷てェぞおおおおお!!!!!!?」
「黙れ!真言を唱えぬならせめて黙し、精神の統一に努めんか!!」
「んなこと言われても、これは―――あああ、もう冷たいを通り越して痛ぇえぇ!?」
「はっはっは、黙らねば更に一時間延長だぞ?」
「鬼だ、梢さん、アンタは天狗じゃなくて鬼だ――――!!!!!」
……結局、休憩も挟まずに六時間も滝壺に放り込まれた慎霰であった。
【3】
「し、死ぬかと思った……」
「うん?それは惜しい。修行によって死と生を繰り返すのが我等の道だぞ?」
「そうじゃなくて本当に死ぬところだったんすよ!!!」
「ああ……」
そして、日も暮れ始めた山。
電気の恩恵も受けられず、既に視界が悪くなりつつある岩場に二人は居た。
……因みに、これから寒くなろうというのに慎霰の身体は凍え切っている。
「―――それは置いておいて、次の修行だ。走り込みも悪く無いが、この山に来るまでの行程で大分走ってしまったからな……お前には、夜が明けるまでにこの岩壁を登りきって貰う」
「……無視された」
梢があっさりと慎霰の懇願を却下して見上げた先には、聳える岩の壁。
――――広く、高い。
まさしく、ここを登り切れば山の頂に手が届くという事なのだろうが……しかし、高すぎる!
「いや、こんなの無理だって!?出来る訳無ェ!」
「そうか?」
「当たり前だ!そもそもこんなことして何になるってんだよ!」
それは、言うまでも無くかなりの難題である。了見も分からぬ内からこなすのは至難である。
……ついに、慎霰の堪忍袋の緒が切れる。
「やってられねぇ、俺は帰るぜ―――」
ばさりと翼を広げ、一刻も早く梢を忘れたいといわんばかりに、岩場を飛び立とうとする。
――――だが。
「オーン」
短く低く呟いた梢の呟きが発せられると同時、彼の翼が拘束され、失墜した。
「なっ……」
「どうした。逃げないのか?」
「このっ……ならアンタを倒してから、ゆっくり山を降りてやらぁ!」
薄く笑う梢が、癇に障る。
自分を束縛する権利をこの男が有している筈が無いのだ、と―――慎霰は怒った。
「この間みたいにはいかねぇぞ!」
彼は素早い動きで、術を使わせまいと梢の懐に潜り込む……!
「喰らえ!」
「――――ふん?一度死ぬか、餓鬼」
だが、非情にも勝負なし。
悠然と慎霰の拳をかわし、足払いと共に片手で慎霰の頭を掴んで梢が地面に叩き付けた。
「!?」
……重い、攻撃だ。
久し振りに、死が。得体の知れぬ嫌な感じが慎霰の背中に奔る。
「……確かにこの修行は理不尽だな。だが、これより先には此度を越える理不尽もあろうよ」
ぽつりと呟く梢の声に、いつもの軽い雰囲気は無かった。
……或いは、こちらの非人間的な態度が彼の本質なのだと言わんばかりに。
「今回音を上げるなら、近い将来、貴様は確実に死ぬぞ?」
「知った……ことかよ!」
「その心根は大したものだ……選べ、若き天狗よ」
ゆっくりと、梢の手が離れて自由が戻ってくる。
「己に殺されるか?もしくは、死ぬ気で岩の壁に立ち向うか?」
「……修行で強くなった後に、アンタを張り倒してやる」
「ほぅ」
「いいか!今はまだアンタの方が強ぇけど、そんなのすぐに引っ繰り返してやるからな!?」
「ほほぅ」
「別にアンタのいう事に一理あるなー、とか、そんなことは少しも思ってねぇんだぞ!?本当だぞ!?」
「ほほほぅ」
選択肢がその二つなら、自分はその選択肢を利用した後に我を通してやろう、と。
何処までも自分を崩さないまま、慎霰がのしのしと石壁へと進んでいく。
「……若いな」
梢の薄い笑みは、勿論彼に気取られることは無かった。
「くっそ…」
意気揚々と昇り始めた岩壁は、存外に手強かった。
なにしろ、取っ掛かりが予想以上に少ない。加えて慎霰は岩登りの経験など殆ど無い。
そして―――
「ほれ、雑念が見えるな」
集中の切れたことが分かるや否や、すぐさまこちらを蹴りつけてくる梢が居た。
こちらに翼を使うなと言っておきながら、自分は黒く巨大な羽で身を浮かせている―――
「くっそおおおおおお…!」
「集中しろ。雑事を忘れろ。それが肝要だ。己の存在、その全てを先鋭化させるのだ」
「なら集中の邪魔をするのはおかしいんじゃ無いですかねぇ!?」
「雑念を自覚する手伝いだ」
「嘘ばっかり……」
「ほら、まただ」
げし、と蹴られて。
「あ」
更に、足場が崩れるというのは、いっそ喜劇だろうか?
「ああああああああああ!?」
「因みに、これからもずっとこの修行は続けるからなー」
「冗談だろおおおおおおおおお!?」
……こうした苦行だけで、実に二週間の時が経過した。
【4】
「うむ、若造よ、良く頑張った!少しだけ感動した!」
「少しだけっすか!」
「当然だ!」
「うはははははは、殺してやるクソ師匠」
「ふはははははは、既に二十五回ほど半殺しにしてやったのにまだ歌うかクソ餓鬼」
つまるところ、二週間程度では反骨精神が収まることも無いのだろう。
身体中に擦り傷・打撲・イジメの跡を増やしつつ、慎霰は梢と相対していた。
「では、岩壁登りも日付が変わる前に終わるようになったので相撲でも行うか」
「応!」
「では来い――――」
相撲をする、と。
宣言をした途端に、目を輝かせて慎霰は梢へ突撃して来る!
(少しはマシになったか)
目を細めて、梢は正面から受け止める。
「っ……あああああああ!」
「まだ甘い。基礎体力と腕力の底上げには課題が残るな」
「っと……!?」
投げ返されても、すぐさま慎霰は立ち上がる。
彼なりの矜持はある。そして、また―――
(動きが―――見える!)
―――生命の息づく異界で、己の生命をより露出させる。
―――幾度と無く行われる擬似的な死と生が、己の存在をより一層自覚させる。
―――修験者からすれば。最近の森林浴ブームなど遅過ぎる。
山に篭る意味は、結果が出るなら無為でも無いのだろう。
少しずつ。本当に遅々たる速度で、けれど確実に効果は慎霰の身に起こっていた。
「まだまだぁ!」
「甘い。次!」
「これでどうだ!?」
「速いのは良いが、手数と攻撃方法が少ない。次!」
「こいつで終わりだぁぁぁあぁぁ!」
「どうした。滝の水は、岩壁の手触りは、貴様に何を残した?」
「だああああ、やってられねぇ!!俺ァ山を降りる!!」
「ええい、結局それか!」
いつも通り癇癪を起こす慎霰に、嘆息して梢が諌める。
「成果は出てんだから良いだろ!?この―――」
やれやれと息を吐いた隙に、
「―――喰らえ!」
渾身の、手剣による慎霰の九字護法が梢の身体を揺さ振った。
「む―――」
「もらった!」
「……良かろう。これなら、妖怪の類にも十分通用する」
だが、目の前に在るは永き時を生きた天狗の最高峰の一。
……吐息を洩らすも、同時に掴みかかってきた慎霰を地面に叩き付けた。
「ぐ、ぐぐぐぐぐぐぐ………」
がばっ、と身体を起こし、慎霰は不貞腐れたように空を仰ぐ。
「だああああ、全然効か無ぇじゃねぇか!?くそっ、山を降りる!今度こそ帰るぞ俺は!!」
「……はっはっは、褒めた途端にそれか貴様」
「痛ぇ!痛ぇよ巴さん!?鬼!悪魔!山から落ちて死んじまえ―――!!」
「たわけ。俺は天狗だ」
「ふざけてるぞ、こんな………嫌だああああ!!厳しい!帰る!最悪だぁぁぁ!!」
………こうして、更に一ヶ月の時を以って取り敢えずの修行が終了した。
―――――因みに。
「というわけで、俺は一足先に帰るぞ。羽を使わず、三日で里に帰って来い」
「はあああああ!?なんだそりゃ!?」
「逃げたければ逃げても構わんが、三日を超えたら里への出入りを禁止するよう長に言っておく」
「……羽を使ったかどうかの判断は?」
「俺がその場の気分………んんっ、いや、ちゃんと術を使って監視しておく」
「嘘だ!?ちょっと梢さん、アンタ今なんて言いました―――」
「さて、それでは三日後に会おうか。さらばだ慎霰」
「くっそ、信じられねぇえぇえぇぇぇぇええ!!」
修行の終了時、そんな会話が行われたりもしたのだが。
慎霰自身の精神的疲労の度合いは別として、きっかり三日後に彼が里に帰還したことを考えると―――
「お、帰ったか。まさか本当に三日で帰るとは思わなかったぞ」
「ふむ。これも梢殿の御蔭と言うわけですな?」
「……こ、この……最低な大人達め……」
…………繰り返すが、慎霰自身の疲労と、彼がこの結果をどう思っているかは別として―――
一応、成功したと言えるのでは無いだろうか?
――――ともあれ、天狗の里は今日も平和であった。
<END>
<ライター通信>
ご指名どうもありがとうございました、緋翊です。
前回の「諧謔の中の一日」に続いて二回目の発注、大変驚きましたし、ありがたいことに思います。慎霰さんと梢の掛け合いを始めとする描写は気に入って頂けただろうかと、戦々恐々としておりましたので……。
この間以上に苛めて構わない、とのことでしたので、どのような感じで修行を進めようかと色々考えた末に、文字数とも相談してこのような仕上がりとなりました。既に面識があるので、前回以上に梢と慎霰さんの間に会話を盛り込んでみましたが……如何でしたでしょうか?
梢と慎霰さんの掛け合いをはじめ、今回の作品、楽しんで頂ければこれほど嬉しいことはありません。
……それでは、物語を気に入って頂けることを切に願いつつ。
また縁がありましたら、宜しくお願い致します。
緋翊
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