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<東京怪談ノベル(シングル)>


今と昔の無力



「こっちのほうは片づいたわ。……最近は個人情報のガードが固くて、ちょっとてこずってけど。……ええ、今から帰るから。報告をお楽しみに。……え? マルボロ? うん、ひとつね。ひとつでいいの? ……うん、……はい、はーい、じゃ」
 シュラインは携帯をたたみ、バッグに入れた。
 草間興信所に 『帰る』と言ったことに、彼女は何の違和感もない。シュラインの家は別にあるし、仕事も興信所の事務員だけではない。しかし彼女はこれから、調査を終えて、帰るのだ。草間武彦が今日もくすぶる、煙草くさい草間興信所に。
 興信所には今朝急ぎの依頼が来て、シュラインはすぐに調査に出かけた。まだ街が目覚めて間もない時間に始めた今日の仕事は、夕暮れになってようやく終わったのだった。シュラインは昼もろくに食べていない。移動中、たまたまバッグの中に入っていたのど飴を口に入れたくらいだ。
 情報を求めて奔走している間は、ほとんど覚えなかった空腹感。それは今になってシュラインを襲ってきた。実に中途半端な時間だ。今食べるとしたら、それは遅い昼食とも早い夕食とも言えない食事になってしまう。
 急に空腹感がやってきたのは、この時間帯とこの環境がなせる業のようなものだろう。昭和後期に建てられたと思しき住宅が建ち並び、どこからか学校のチャイムと、列車がレールを渡る音が聞こえてくる。
 そして、アスファルトもブロック塀も、公園のブランコと滑り台も、何もかもがオレンジ色と赤に染まっているのだ。もう1時間もすると、この辺りはサンマや野菜が焼ける匂いや、炊き上がった米や、豆腐が入った味噌汁の匂いを含んだ風に蹂躙される。
 ――そうなったら、気が狂っちゃうわね。……早く帰りましょ。
 コンクリートジャングル、或いは東京砂漠。草間興信所がある都心へ向かえば、この美しいオレンジとも、悩ましい香りともおさらばだ。無機質な灰色も、たまには誰かを助けられるということか。
 シュラインは空腹を抱えて、駅までの道を急いだ。タクシーを使うという選択肢は、彼女の頭の中にない。
 傾き、沈みかけた夕陽の炎は、ますます強くなっていった。

 燃えている、燃えている。
 炎の色は赤くない。オレンジ色。黄色。
 まちが燃えている。

「おまえ、きのうの『笑い道』みたかー?」
「あれ11じからじゃん。ぼくんち、よふかしきんしなの」
「だっせ!」
「ださくないよ! えらいんだよ!」
 シュラインの横を、ばこばこぼくぼくと音を立てて、小学生たちが早足で通り過ぎていく。小学一年生か、二年生だ。ランドセルがひどく大きく見える。大きすぎるランドセルが、揺れるたびに独特の音を奏でるのだ。甲高い彼らの話し声が、夕焼けの向こう側から響いてくる。そして、彼らの声よりもさらに遠くから、サイレンがやってくる。
「きゅうきゅうしゃだ!」
「おやゆびかくせ!」
 ――あら、その都市伝説、まだあるのね。
 シュラインは歩きながら、ほんのわずかに苦笑いした。
 どこかで誰かがケガをしている。どこかで誰かが発作を起こした。どこかで誰かが――病院に行く。救急車のサイレンに重なるようにして、パトカーの威圧的なサイレンが響いていた。警察が出張るというなら、もしかして、傷害や殺人だろうか。
 シュラインの耳にかかれば、サイレンというものは、パトカーと救急車がどの辺りを走っているか、どの方角に向かっているかを伝えてくれる情報になる。今はその情報を得る必要もなかった。仕事は終わっているのだから。

 びぃん――

 シュラインの聴覚を、不愉快な音が刺激した。耳のそばを虫がかすめていったのだ。サイレンや子供の甲高い声よりも、ずっと不快で、ずっと力強かったような気がする。自分がいつの間にか耳をそばだてながら歩いていたことに、シュラインはそのとき初めて気がついた。
 飛んでいったのは、蠅らしい。外で蠅に出くわすのは意外とめずらしいことだ。まして町の中では、めったにすれ違うこともない。
 サイレン、声、蠅。
 立ち止まり、倒れる、這いずり、砂を食う。
「……!?」


 不意に、シュラインの周囲が燃え上がった。夕陽が町を炎で包んだかのようだった。音も立てずに、その映像と臭いと音はシュラインのそばに、中に、やってくる。
 シュラインは青い目を見開いたまま、動けなかった。歩こうとしても足は地面に根を下ろし、指の一本も動かせず、まばたきすらできない。
 声が出ない。
 びぃん、ぶぃぃぃん、ぶうん、うんうんうんうん――
 蠅だ、蠅がいる。蠅が自分にたかっている。爪先からすねへ、指先から肘へ、無数の静物が這い上がってきている。何が己の身体の上を這いまわっているのか、シュラインは見ることもできない。真正面を凝視させられたまま、眼球を動かすこともできないからだ。
 町が、町が燃えている。だがここは、どこの町だろう。
 いつ、自分は東京を出て、日本を出ていたのだろうか。
 シュライン・エマが立ち尽くしているのは、遠い海の向こうの、異国だった。
 ――げ、幻覚……? ……ち、違うわ……、……知ってる……、行ったことがある国……! こ、これは……、

 フラッシュバック!

 わずかに開いた唇。乾いていく口の中。シュラインは炎とサイレンと悲鳴の中で倒れている。辺りには異様な臭いがたちこめ、黒い地面を黒い虫や白い虫が這いずりまわり、蠅が飛び交っていた。だがそのおぞましい光景も、視界に割りこんできた黒煙によってさえぎられる。
 シュラインは咳きこんだ。口の中はひりひりと乾いていて、咳きこむと、喉の粘膜に焼けるような痛みが走った。
 ――た……すけて……。
 声が出ない。喉が焼けてしまったのだ、口の中に灰と砂が入り込んでいるのだ、声が出ない。誰も助けには来てくれない。誰も気づいてくれないのだ。
 子供がどこかで泣いている。うらやましい。あれくらいの大声で泣き叫べたら、誰かがいずれ気がついてくれるはずだ。
「……、……! ……!」
 たすけて、た す け て。
 身体も動かない。この黒い煙と虫から逃れることもできない。なぜ身体が動かないのかもわからない。周りには炎があるのだが、皮膚は少しも熱を感じなかった。恐ろしい寒さの中、腕や足や頬を這う虫たちの脚の感触だけが伝わってくる。
 と、
 身動きが取れないシュラインの目の前に、どさん、と何かが落ちてきた。
 鼻をくすぐるのは生臭さ。
 落ちてきたものに虫たちは逃げ、潰され、また戻ってくる。ぴくりとも動けないシュラインは、目の前に落ちたものを見つめるより他なかった。恐ろしい、大いなる存在が、「それを見ろ」とシュラインに命じているのか――。
 シュラインが見ているのは……、
 見てい……、
 み……




 シュラインは、よろめいた。




 我に返ったとき、シュラインは夕暮れの町の中でつんのめり、慌てて体勢をととのえているところだった。身体が無意識のうちに対応してくれたらしい。シュラインの身体は、ちゃんと動いた。
 そして、町はありふれた夕暮れの中にあった。シュラインの中に空腹感と少しの疲労感が戻ってくる。肌はそよ風を感じとり、耳は遠ざかるサイレンと子供たちの声を聞きとった。
 ――なんだったの、今のは。
 シュラインはこわごわと視線を前に向けた。鼓動は心臓を破らんばかりだ。
 ――知ってる。私は小さい頃、事故に遭った……。
 視線を巡らせたときのように恐る恐る、シュラインは記憶を辿る。3歳か4歳か、物心つく前に、シュラインは自分が海外で事故に遭ったということだけは知っていた。知っていた、というよりも、そう聞かされていた。それほど昔のことなのだ。シュラインは自分が巻き込まれた事故のことを、伝聞でしか認識することができない。何も覚えていないのだ。
 ――でも、覚えてるのね。当たり前よ。人間の脳の容量って相当なものなんだから。……事故は、私に何をしたのかしら。私を……変えたのかしら?
 あのフラッシュバックは、閉じこめられた記憶そのものなのか。あの地獄は、ただの夢や幻覚ではないというのか。あれほど恐ろしく、おぞましい光景が、現実に存在したことがあるのか。
 夕暮れのオレンジ、子供の声、重なったサイレンの歪み。些細なもの、ごくありふれたものが、記憶のフォルダをクリックするのだとしたら。
 ――怖い。でも……、きっと誰にでもあるものよ。『スイッチ』、っていうものは。
「……気にしないのが、いちばんよ」
 声に出してそう呟き、シュラインは歩きだした。
 渇いた喉から声が滑り出たことに、ほんの少しほっとしながら。




〈了〉