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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>
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『あなたは『お受験』賛成派? 反対派?』
◆プロローグ◆
受験。
それは一種の儀式。
自分はあれがしたい、ああなりたいという自発的な気持ちから勉学に励む者は極々少数であり、周囲に流されて取りあえず試験に合格するために勉強するという者が大多数だ。
……とはいえ、そんなことは『合格させる側』にとってはどうでも良い話なのだが。
「ボロ儲けっ、ボロ儲けっ」
『アンティークショップ・レン』の店主、碧摩蓮はカウンターに積み上げられた一万円札を、鼻歌交じりに数えていた。
アップに纏めた炎のような紅髪と、気の強そうな切れ長の目。際どいボディーラインを包むのは、ピッタリフィットしたチャイナドレス。煙管をくゆらせながら、蓮は大量に仕入れた『合格祈願樹』を見つめた。
それは一見、百円ショップにでも売ってそうな小さなポットに入れられた植物。今はまだ双葉が出ているだけだが、コレを大きく育てれば育てるほど合格の確率が上がるという特殊な呪術がかけられている。
この受験シーズン。藁にでもすがりたいと思う人間は沢山いる。例え成績が良くとも、合格率を少しでも上げたいと思うのは人として当然のことだ。誰だって、しなくて良い苦労はしたくない。
その証拠に一つ一万円もする『合格祈願樹』は飛ぶように売れていった。
「いらっしゃい」
ドアに付けられた鈴の音が店内に響き、来客を告げる。
また新しいカモが来たと蓮は札束から顔を上げた。
「おや、まぁ。随分と可愛らしいお客さんだね。お使いかい?」
店の出入り口付近で、おどおどしながら立っていたのは、小学生くらいの男の子だった。
横一直線に切りそろえられた前髪に、クリクリとした丸い瞳。血色の良さそうな頬と、ぷくっとふくらんだ小鼻。百四十あるかないかと言った低い身長に、短い手足。
「あ、あの『合格祈願樹』……下さい……」
少年は消え入りそうなほど小さな声で呟く。
「別にいいけど。お金持ってるのかい?」
「……お年玉」
短く言って少年が差し出したのは、新札の一万円だった。
「っへぇー、最近のガキってのは金持ちだねぇー。って、アンタ、お使いじゃないのかい?」
聞く蓮に、少年は無言で首だけを縦に振る。
「ぼ、僕が、使うの……」
◆PC:加藤忍◆
まぁ、どうしてココに来たのとか聞かれれば、虫の知らせと言うか、研ぎ澄まされた第六感による告知と言うか。
『だからさっきから何度も言ってるだろ! 子供は外で体全部使ってヤンチャしてるくらいで丁度良いんだよ!』
扉越しにこの声を聞いた時点で、偶然は必然へと置き換えられてしまったわけで。
「蓮さん。あまり大声を出すとシワが増えますよ」
誰に向けられたかも分からない怒りの矛先をコッチに向けようとする愚行も、果たして紳士たる者の務めなのだろうか。
『アンティークショップ・レン』
言わずと知れた、曰く付き商品取り扱い専門店。
「誰だい!」
紅い髪の毛を文字通り炎のように逆立て、蓮は加藤忍を睨み付けた。
「まぁまぁ蓮さん。落ち着いて。何があったのかは知りませんが、そんなに怒るとせっかくの美人が台無しですよ?」
「うるさいね! アンタの知ったこっちゃないんだよ!」
好んで茨の道を行くのは自己研鑽の一環なのだろうか、と忍は耳の下で切りそろえたストレートの黒髪を撫でつける。
とにかく一度こうなってしまった蓮をなだめるには言葉だけでは役不足だ。
どうしたものかと思案する忍の足下に、小さな影がすり寄って来た。
「あ、こら! お説教はまだ終わってないんだよ!」
その影に向かって蓮はさらにがなり立てる。
どうやらこの少年が蓮を怒らせた元凶らしい。こんなに小さいのに大したモノだと、妙に感心してしまう。
「ほらほら、蓮さん。怯えてるじゃないですか。怒鳴りつけるだけじゃ、せっかくのありがたい言葉も台無しですよ?」
「アンタには関係ないって言ったろ!」
完全に頭に血が上りきってしまっている。
いったいこの少年は何をしでかしてしまったのだろうか。蓮に『おばさん』とでも言ったのだろうか、それとも実年齢を言い当ててしまったのだろうか。もしかしたら鋭い観察眼で、蓮の僅かなたるみを見抜いたのかも知れない。
「お名前は?」
忍は少年の前にかがんで目線を合わせ、出来るだけ優しい声で訊ねる。
「……ひ、柊……春夜(しゅんや)」
消え入りそうなか細い声で少年は名乗る。可哀想に、目元にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ここに何をしに来たんですか?」
春夜の頭を撫でてやりながら、忍はゆっくりとした口調で聞いた。
舌っ足らずな喋りで呟くように説明する春夜の話を聞き終え、忍は着ていた蒼のジャケットを脱いで肩をすくめた。黒のハイネックセーターの襟元を正し、立ち上がって蓮に振り向く。
「蓮さん。いくら何でも言い過ぎなんじゃないですか?」
カウンターに腰掛けて煙管をくゆらせながら、蓮はふてくされたような表情を向けて来た。
「う、うるさいね。あんまり生意気なこと言うモンだから、ちょっとカッとなっただけさ」
時間が経って少し落ち着いたのか、蓮は顔を紅くしながら言う。
ようやくいつもの蓮に戻ってくれたと胸をなで下ろしながら、忍は髪を掻き上げた。
「こんなに小さな時から自分で何とかしようとするなんて立派なことじゃないですか。ねぇ、柊君」 春夜がココに来た理由は、蓮が販売してる『合格祈願樹』とやらを買うこと。私立の中学にどうしても合格したいらしくて、なけなしのお年玉を差し出すそうだ。
「あーあー、ホント立派なことだよ。アタシがガキの頃には考えられなかったね」
言いながら頭の後ろで両手を組み、拗ねたように顔を逸らす。
確かに蓮の気持ちも分からないではない。
子供は風の子、元気の子。
昔かたぎで江戸っ子気質の蓮にしてみれば、春夜のような子供はただ軟弱なだけに映るのだろう。しかし蓮が子供の頃とでは時代が違う。……その辺りのことを深く聞くと冗談抜きで毒殺されそうだが。
春夜も最初は親の薦めか何かだったのだろうが、今はこうして自分から勉学に興味を持ち、さらなる向上を志してレベルの高い学舎に行こうとするのは良いことだ。
「柊君はどんな勉強が好き?」
「……え?」
唐突に話をふられて春夜は口ごもる。そして二呼吸ほど考えた後、
「さ、算数、かな……」
躊躇いがちに答えた。
「将来、なりたいものとかはありますか?」
にこやかな笑みを浮かべて問う忍に、春夜は何故かきょろきょろと辺りを見回しながら、
「だ、大学の教授……」
忍からは目をそらして言う。
(やれやれ……)
ふぅ、と軽く溜息をついて忍は別の質問をした。
「柊君。今度の日曜日、暇ですか」
「へ?」
忍の問いかけに、春夜は目を丸くして返す。
「もし私のちょっとしたお遊びに付き合って貰えるなら、この『合格祈願樹』、プレゼントしてあげても良いですよ?」
一瞬目を輝かせた後、すぐに落ち込んだような表情を見せた春夜に、忍はある種の確信を抱いた。
「……別にいいよ。お金、あるし。知らない人から物貰ったり、付いて行ったりしゃいけないって言われてるし」
なるほど。至極もっともな意見だ。
親の教育が行き届いているらしい。
「ではこうしましょう。日曜日は柊君一人で行動していただいて結構です。別に私がそばにいる必要のないお遊びですから。場所は柊君の慣れ親しんだ街中。嫌になったら途中でリタイアしても構いませんし、恐くなったら大声を上げて助けを求めて貰っても問題ありません。もし、柊君が無事ゴールすることが出来たら、景品として『合格祈願樹』を進呈いたしましょう。コレでいかがですか?」
諭すような口調で丁寧に説明する忍に、春夜はありありと戸惑いの色を浮かべる。
「で、でも、やっぱり一回聞いてみないと……」
「ええ、勿論。それで結構ですよ」
親に確認を取るというのは、春夜の性格からして当然のことだ。
そして正直に『合格祈願樹』のことを話せば親がお金を出すと言うか、そんな危ない場所に行ってはいけないと叱るだろう。そうなれば忍の計画しているお遊びはご破算ということになるが、ソレはソレでしょうがない。何も強要する権利は自分にはないのだから。
春夜はしばらく目を泳がせながら悩んでいたが、やがて小さく頷いた。
「じゃ、じゃあ、その……どうすればいいの?」
「今度の日曜日の朝、もう一度ココに来てください。その時に詳しいルールを説明します」
忍の言葉に春夜は無言で首を縦に振ると、サラサラの髪を揺らしながら小走りに店を出て行った。
春夜が姿を消し、扉が完全に閉まりきったのを確認して忍は蓮の方に振り向く。
「どうやら、蓮さんの方が正しかったようですね」
「だから言ったろ」
勝ち誇ったような顔で返しながら、蓮は片手で『合格祈願樹』をもてあそんだ。
最初、好きな教科を聞いた時に春夜は即答出来なかった。好きな物がありすぎて悩んでいる雰囲気でもなかった。
二回目の質問できょろきょろしたのは、無意識に誰か探そうとしたのだろう。恐らく自分の親を。いつも誰かの顔色を窺ってる者が示す典型的な反応だ。
忍が『合格祈願樹』を買ってやると言った時、目を輝かせたことから、本心では他のことにお金を使いたかったはずだ。しかし親の顔が浮かんで消沈した。
普段、勉強ばかりしている割には、足についた筋肉はなかなかのものだった。きっと跳んだり走ったりするのが好きなのだろう。
これらの点から鑑みて、春夜は自発的に勉強しようとしているとは考えにくい。
多分、親に言われて嫌々やっているのか、さもなくば親の期待に応えるために必死に勉強しているかのどちらかだろう。
「見てみなよ、忍」
言いながら蓮は、『合格祈願樹』をカウンターの上に置いた。
小さなポットに盛られた土の上に、可愛らしい双葉が顔を覗かせている。しかし最初に見せられた時よりも双葉が小さく見えるのは気のせいだろうか。
「何かしたんですか?」
「コイツはね、自分の髪の毛を土に植え込んだ時点で契約が成立するんだよ。アンタがあの子の話聞き始めた時に、髪の毛ちょっとくすねて植えてみたのさ。ようやく最初と違って見えるようになったろ?」
(いつの間に……)
自分が一度むきになったことに関しては、普段の何倍もの力を出せるタイプなのだろうか。
「この『合格祈願樹』ってのはね、欲の深いヤツの生気を吸って育つんだよ。早く楽になりたいから、就職に有利だから、可愛い子が沢山いるから。だから合格したい。コイツはそういうヤツらのためにあるのさ。ま、実力で合格したんじゃないから、中入って苦労するんだけどね」
「つまり、動機が不純で私利私欲に満ちたほど良いと?」
春夜が勉強をしているのは十中八九、親のためだ。親がやれというから、あるいは親が自分の力を評価してくれているから。あくまでも親のために合格したいと思っている春夜では、育つどころか枯れて行ってしまうのだろうか。
「ま、ベンキョーが好きだって頭のおかしなヤツのトコでも、自分のためにやってんだから、それはそれで育つんだけどね」
蓮はこの『合格祈願樹』を見て、春夜が好んで勉強しているわけではないことを再確認したのだろう。
「で、忍。アンタあの子に何するつもりなのさ。もっと遊ぶように言うつもりなのかい?」
「まさか」
言われて忍は肩をすくめる。
「理由が何であれ、子供が親の言うことを聞くのは別に悪いことではありませんよ。ただ、もう少し自分と向き合う時間を持っても良いのでは、とは思いますけどね。私がするのはそのお手伝いです」
「ふぅん、まどろっこしいことするんだねぇ。まぁ別にアタシがやるんじゃないから良いけどさ」
煙管をくゆらせながら、蓮は面倒臭そうに言った。
三日後の日曜日、春夜は約束通り『アンティークショップ・レン』に顔を出した。正直に話さなかったのか、それとも親が許可してくれたのか。とにかくこの三日の苦労が水泡と帰さなくてよかったと、忍は胸をなで下ろす。
もう寒くなってきているというのに、春夜の格好は短パンに半袖のTシャツ姿だった。
(若い証拠ですね)
そんなことを考えながら、忍は一枚の封筒を取り出して春夜に渡す。
「なに? これ」
不思議そうな顔をしながら春夜は封筒を揺すった。中から金属同士がぶつかり合うような音がする。
「開けてみてください」
忍に言われたとおり、春夜は中身を手の平にあけた。
中から出てきたのは数枚の硬貨と紙切れ。硬貨は百八十四円分。紙には『五十円引き』と『二十%引き』と書かれていた。
「柊君にはコレから駅前にある四越デパートでお買い物をして貰います。場所は地下一階にある食料品売り場。その金額で買える液体の品物がたった一つだけあります。ソレを必ず三番レジで購入してください。ちなみにその二枚の割引券を渡すと、先に商品から五十円を引いて二十%オフにしてくれます。いいですか?」
言いながら忍は、今の自分の説明が端的に纏められたメモ用紙を春夜に渡す。
「それでどうすればいいの? お使いするだけでいいの?」
「いいえ。柊君の購入した商品が正解なら、自然と次に行く場所が分かる仕掛けになっています」
顔の前で人差し指を立てながら、忍は優しい口調で説明した。
「ふぅ、ん……。変なの」
春夜はいまいち納得のいかない顔つきで、お金と割引券をポケットにしまう。
「別に制限時間はありませんから、自分のペースでゆっくり考えてみてください」
「……分かった」
小さな声で言うと、春夜は小走りに出入り口へと向かい、店を出て行った。
後はココで春夜が戻ってくるのを待つだけだ。暇な時間、蓮とお喋りでもしていようかと振り向くと、カウンターに両足を投げ出し、明らかに不機嫌な顔で煙管をふかしている彼女がいた。
「どうかしましたか? 蓮さん」
「やっぱ行く」
問う忍に、蓮は三白眼でコチラを睨み付けながら短く言う。手には例の『合格祈願樹』が握られている。ただし、三日前よりもさらに衰弱は進み、双葉は茶色く変色していた。
「行くってどこに?」
「あの子の親のところに決まってんだろ。アタシがガツンと言ってやるよ」
ぶっきらぼうに言いながら蓮は立ち上がり、首周りにファーの付いた濃紺のコートを羽織る。
「ちょ、れ、蓮さん。本気ですか?」
ズカズカと大股で店を出ようとする蓮の肩を掴み、忍は慌てて引き留めた。
「アタシはいつでも本気だよ」
ウソ付け、と胸中でツッコミながら、振り向きもせずに言う蓮の前に回りこむ。
「大体場所も分からないのにどうやって行くんですか」
「場所なら草間に調べさせといた」
(いつの間に……)
こんな行動的な蓮を見るのは初めてかも知れない。よほど春夜の教育が気にくわないようだ。
「で、でも、いきなり行っても門前払いになるだけですよ?」
「急ぎで取り寄せた薬が昨日届いたんだ。コイツを使えばアタシはあの子の親と、あっと言う間に十年来の付き合いさ」
(い、いつの間に……)
香水を入れる小瓶に入った紫色の液体を、忍の目の前で揺らしながら蓮は得意げに言った。何が何でも、春夜の親に一言物申すつもりらしい。
「……分かりました」
こうなったらもう蓮は止められない。
忍は覚悟を決めた。
「その代わり、私も一緒に行かせて貰います」
ならばせめて被害を最小限に食い止めるのが自分の仕事だろう。
蓮は不満そうにコッチを見て来たが、忍を説得するのが面倒臭くなったのか、すぐに「勝手にしな」と言って店を出た。
(やれやれ……。柊君の方がよっぽと大人だな)
まぁそこが良いところでもあるんですが、と付け加えて忍も蓮の後を追った。
◆NPC:柊春夜◆
正直、拍子抜けだった。
一万円もする『合格祈願樹』を賞品にするくらいだから、もっと難しいことを言われるのかと思っていた。
(こんなの、簡単な算数じゃないか……)
四越デパートの地下一階。お菓子、魚、肉、野菜、お酒。無数の食品が並ぶフロアを歩きながら、春夜は忍に渡された紙とお金を取り出した。
(早く終わらせて勉強しなきゃ)
貰った金額は百八十四円。割引券は先に『五十円引き』が適応されるらしいから、逆算するには『二十%引き』から考えなければならない。
(『184』を『0.8』で割って、そこに『50』を足せば……『280』か)
頭の中で暗算を終え、春夜は二百八十円で買える液体の商品を探し始めた。
ジュースやビール、お酒が棚に並べられたコーナーで、春夜は目的の物を探す。品物の種類は非常に豊富だ。すぐに見つかるだろうと思っていたが、一通り見終えても丁度二百八十円の商品は無かった。
見落としたかと思いながら、もう一度同じ場所を一周するが、やはり見つからない。計算を間違えたかと検算してみるが、何度やっても答えは同じだった。
(液体、液体……)
なにも液体の商品は飲料だけではない。油、調味料などもそうだ。
そちらのコーナーに行って探してみるが、それでも見つからなかった。
(ホントは無いんじゃ……)
そんな考えすら浮かんでくる。
だが、あのチャイナドレスの女とは違い、男の方は誠実そうに見えた。
もう少し頑張ってみようと気を取り直し、春夜はフロア中を歩き回った。
二十分ほどウロウロした後、レジのすぐ近くにあった『特別価格』の札に目が留まる。
(あ、そっか……)
普通の棚に並べられている商品の中には、もっと目立つ場所でワゴンに入れられ、特価商品として売られている物もある。そして棚の方は通常の値段が書かれたままのことも多い。
春夜はワゴンに近寄り、中を覗き見た。
スチール製のワゴンの囲いには赤い紙が貼られ、『表示価格よりさらに二十パーセントオフ! 割引券も使えます!』と黄色のマーカーで書かれていた。
(二十パーセントオフだから『280』をもう一回『0.8』で割って……『350』か)
暗算を終え、春夜はワゴンの中から三百五十円の値札シールが貼られた商品を探す。
「あった!」
思わず声を上げてしまった。
慌てて口に手を当て、顔を真っ赤にしながら探し当てた商品を取り出す。
それは『お酢』だった。五百ミリリットルのガラス製の容器に、透明の液体が入れられている。
春夜は嬉しそうにソレを取り出し、忍に言われたとおり三番のレジに持って行った。お酢をカウンターの上に置き、二枚の割引券を差し出す。
「あら一人でお使い? 偉いわねー。割引券使うの? えーっと……百八十四円ね」
髪の毛に白い物の混じったおばさんが愛想良く言ってくる。
(やった。バッチリ)
言われた通りの金額を差し出し、春夜はレジ袋に入れて貰ったお酢と一緒に封筒を手渡された。
「なに、これ?」
「あなたのお父さんに、割引券二枚使って買い物する子が来たら渡してくれって頼まれたのよ。お使いのご褒美かな?」
「お父さん?」
恐らく忍のことを言っているのだろう。親がこの『お遊び』を知っているはずがない。
適当な嘘を付いて家を出て来たのだから。
結局、本当のことなど言えなかった。言えば心配するに決まってるから。そんなに無理して受験なんてしなくても良いよと言ってくれるに決まっているから。
「あ、そうそう。その瓶の高さ大体二十五センチだから」
唐突にそんなことを言ったおばさんに、春夜は首を傾げた。
「ちゃんとお酢買えたら教えて上げてくれって言われたのよ。おばさんもよく分からないんだけど」
「そぅ……」
春夜にもサッパリだが取りあえず記憶しておく。恐らく封筒の内容に関係しているのだろう。
一体何が書かれているのか。春夜は少しワクワクしながらレジを出て、封筒から手紙を取り出した。
◆PC:加藤忍◆
暖房の良く聞いたリビングに通され、忍は材質の良いクッションに身を沈めながら紅茶をすすった。
床暖房の内蔵された十二畳の広い部屋。床には起毛の立った白い絨毯が敷かれている。二メートル以上ある大きな窓からは温かい陽光が差し込み、中二階ほどにある高い天井が室内をさらに広く見せていた。隣にはカウンター付きのシステムキッチンが完備され、所々に配置された観葉植物の緑が目を和ませてくれる。
全体的に落ち着いた雰囲気のリビングだった。
「いやー、久しぶりだなー。十年ぶりくらいか? 二人とも昔の面影全然ないからビックリしたよ」
それはそうだろう。初対面なんだから。
自分の正面に座った春夜の父親の言葉を聞きながら、忍はティーカップをガラステーブルの上に置いた。
蓮が急いで取り寄せたという薬の効果は絶大だった。
宅配を装い、ハンコを持って出てきたところにシュッと一噴き。後は「さぁさぁ自分の家だと遠慮なく思ってくつろいで下さい」のVIP対応。
罪悪感が忍の心をこれでもかと締め付けるが、隣で本当に遠慮なく煙管をふかしている蓮を見ると、何だかソレもバカらしく思えてくる。
「蓮。今何してるの? ちゃんといい人見つけた? もういい年なんだから、いい加減落ち着きなさいよ」
蓮の正面に座った母親が、上品に笑いながら言った。
遠慮がないのは向こうも同じらしい。
「今日来たのは別に昔話するためじゃないんだよ。春夜のことさ」
こめかみをヒクつかせながら蓮は声を低くする。思わぬ挑発もあってか、いきなり本題だ。忍はいつでも押さえ込めるように体を緊張させた。
「あの子がどうかしたのか? 問題を起こすような子じゃないがな」
父親が自信たっぷりに言ってくる。
「問題があるのはアンタ達の方さ。なんであの子をもっと遊ばせてあげないんだい。今しか出来ない遊びなんて掃いて捨てるほどあるんだ。どつかれて殴り返して、はたかれて蹴り飛ばし返して、それでも次の日には仲直りなんてガキの特権みたいなモンなんだよ」
ほとんどケンカ腰で言う蓮。
蓮の子供時代など全く知らないのに、当時の映像が鮮明に描かれるのは何故だろう。
「いきなりおかしなこと言う奴だな。俺達は別に遊ぶななんて言った覚えはないぞ」
「じゃあなんであの子は受験なんかするんだい。どーせアンタ達が勉強勉強って言ってるからだろ。言っとくけどね、一日一時間程度じゃ遊びなんて言わないんだよ?」
冷ややかに言う蓮を、忍はハラハラしながら見守る。
「受験はあの子から言い出したことだ。俺達は別に普通の公立でも……なぁ?」
同意を求めて通りの母親に顔を向けた。
「蓮、何勘違いしてるか知らないけど、私達はあの子のしたいようにさせてるだけなのよ」
少し困った顔で母親が言ってくる。
蓮と違って二人とも懐が広いのか、はたまた春夜を信頼しきっているのか、少しも嫌そうな素振りを見せない。
「自分からぁ? 勉強をぉ? そんなのあるわけないじゃないか」
蓮は鼻で笑い飛ばしながら煙管に口を付けた。
(何でも自分の物差しで測るのはあまり良くないですよ。蓮さん)
一応静かにツッコんでみるが、春夜が嫌々勉強をやっているのは事実だ。それはこの前の春夜の態度と、『合格祈願樹』の枯れ方が証明している。
「では、お二人の教育方針としては春夜君の自由にさせていると言うことで違いないんですね?」
もう一度確かめるように言って忍は両親の顔をじっと見た。
職業柄、相手が嘘を付いているのかそうでないのかは挙動を見ていればすぐに分かる。
微妙な目の動き、瞳孔の収縮、鼻や口での仕草、手の置き場所、足の組み替え方など、普段と違う動きを見せる箇所が多ければ多いほど黒の可能性が高くなる。
「勿論だ」
だが父親は不自然な部分など全く感じさせることなく鷹揚に頷いた。
「じゃあコレはどう説明するんだい!」
いい加減痺れを切らしたのか、蓮は声を荒げながら何かをガラステーブルに叩き付けるようにして置く。それは枯れた『合格祈願樹』だった。
「それは……?」
「『合格祈願樹』って言ってね、大きくできれば受かりやすくなる便利な木さ。けど自分のために勉強してるようなヤツじゃないと育たないんだよ。コイツは春夜と契約した『合格祈願樹』さ。見てみな、枯れちまってるだろ。あの子がアンタ達のために勉強してる証拠さ」
蓮の端的すぎる説明に忍が少し捕捉して、両親はようやく理解を示す。
「まぁお二人のためと決まった訳ではないのですが、少なくとも春夜君が自分のためにしてないことだけは事実のようです。あの世代の子が自分のため以外に勉強となると、普通は親のためかと思いまして」
「あの子がこんな物を……」
父親は『合格祈願樹』を片手に持ち、悲しげな瞳で見つめた。
「あの、ところでその樹に関して春夜君からは何も聞いていないのですか?」
父親の反応に違和感を覚えて忍は聞き返す。
「ええ、全く何も」
「では、今日出かけているのは何と言って?」
「ただ友達の家に遊びに行くと」
コレは少し驚きだ。
あの素直で真面目そうな春夜が全く話していないこともそうだが、親が友達の家に遊びに行くことを簡単に許可したことも驚嘆に値する。
今は受験間際の大切な時期。子供に受験勉強を強要している親が、休日どこかに遊びに行くことを許すはずがない。
(……どうやら、もう少し突っ込んで話を聞く必要があるな)
目を細め、忍は枯れた『合格祈願樹』を見つめた。
◆NPC:柊春夜◆
『スタートは四越デパート第一出入り口の目の前にあるポスト。
ソコから@メートル北の方角に行き、そこでAに乗って、東にBの答えの数だけ歩いた場所を掘ってください。
○各場所に入る数字のヒント
@トビウオは水面に出てどの位の距離を飛びますか?
A室町時代、すでにあった遊具です。
B昔、江戸から京都まで歩いた場合、何日くらい掛かったでしょうか』
レジのおばさんに渡された忍からの手紙には、そう書かれていた。
春夜は一つ目の答えを知っている。昔、社会科の資料集か何かで読んだことがあった。
言われた通りポストの場所に立ち、北の方角を向いて二百メートル進む。正確な距離は、さっき買ったお酢のビンを使って測った。高さが二十五センチという値を使うのだとすぐに分かった。
人通りの少ない狭い裏路地に向かって、お酢のビンを何回も置き直しながら進んでいくのは恥ずかしかったが、ほんの少しだけ楽しくもあった。
そして行き着いた先は、粗大ゴミがうずたかく盛られた公園の前だった。今日が月に一度の収集日なのだろう。体の小さな春夜にとっては、小さな山のようにさえ見えた。
(室町時代にあった遊具、か……)
テレビなどの電化製品は当然ない。それに手紙の文面からすると乗り物のようだ。
段ボールを引き剥がし、古くなった鍋やヤカンを押しのけ、割れたガラスに気を付けながら山を掘り進んでいく。
「あ……」
コレだと直感できる物があった。
それは鉄製のケースに入っていた。フタの表面に紙が貼られ、黒い大きな文字で『竹馬』と書かれている。
昔からあって乗り物と言えば、見回したところコレくらいしか見つからない。
春夜はケースを引きずって広い場所に持ち出し、フタを開けようと力を込めた。しかし軋んだ音がするだけで、なかなか思うようにフタは動いてくれない。
ちょうつがいの部分を見ると、茶色く錆び付いてた。大人の力なら強引にでも開けられるだろうが、春夜では出来そうになかった。
(きっと、頭を使って何とかするんだ)
難関に突き当たり、それでも春夜はどこか楽しそうに顔を緩めながら思案する。とりあえず使える物が辺りにないかと探した。
粗大ゴミの中から鉄パイプが見つかり、てこの原理で開けようとしたが、パイプが太すぎてフタの隙間に入らない。釘とハンマーが合ったので、ちょうつがいごと壊そうとしたが、思ったより頑丈で壊れてくれなかった。
しばらく悪戦苦闘を続けていたが、三十分もすると疲れて腕が上がらなくなってきたので、公園内のベンチで休憩した。
ゴミの収集場所になるような小さな公園だからか、休日だというのに誰もいない。
遊具も滑り台と砂場、小さなシーソーくらいの物だ。
冷たい風の中、噴き出す汗を拭い息を整えていると、春夜は喉の渇きを覚えた。辺りを見回して水道を探す。生水は飲んではいけないと言われていたが、どうしても我慢できなくなってた。しかしそう都合良くは見つからない。
近くに自動販売機はある。だがお金がない。
頭の片隅に、さっき買ったお酢が思い浮かぶ。こんな物を飲んだら余計喉が渇きそうだが、試してみようかとお酢のフタを開けた時、春夜の中で閃く物があった。
(もしかしたら……)
いつの間にか、体の疲れも喉の渇きも忘れていた。
ただ自分の思い付きを早く試したいという気持ちが、春夜を力強く動かしていく。
竹馬の入った鉄製のケースの前にしゃがみ込み、ちょうつがいの部分お酢を垂らす。染み込んだ後フタを少し動かし、またちょうつがいにお酢を垂らしてフタを動かした。
その作業を何度も繰り返している内に、だんだんフタの開く範囲が大きくなっていく。
錆び取りはクエン酸で出来るという話を、理科の教科書に書かれていたのを思い出した。お酢は酢酸だが、同じ酸で代用できてもおかしくはない。
そして春夜の考えは見事に的中した。
フタが見る見る軽くなっていくことに、妙な喜びと感動を覚える。
三十回程繰り返したところで、フタは完全に開ききった。そして中にはまだ新しい竹馬が収納されている。忍がわざわざ入れたのだろう。
自分の身長にあつらえたような高さの竹馬を立て、春夜はそれに飛び乗る。竹馬に乗ったのは初めてだったが、こけることもヨロけることもなく、しっかり立つことが出来た。
そして最後のヒントを思い出す。
(東京から京都まで歩くと……)
これは完全に知識の問題だ。社会科の授業で学んだ江戸時代の雑学を、頭の中から引き出す。
(ここから東に十三歩、と……)
器用に手足を動かして竹馬を操り、春夜はゴミ置き場から十三歩東に進んだ。着いた場所は公園内の砂場の真ん中。
春夜は竹馬を投げ捨てるように放り出し、爪の間に砂が入るのもお構いなしに掘り始めた。そしてすぐ、指先に固い感触が伝わってくる。
周りをさらに掘り下げ、出てきたのはプラスチック製の小箱だった。
さっきの鉄製の箱とは違い、アッサリ開く。
中に入っていたのは恐らく次の場所が書かれているであろう手紙と、数本のカラーチョークだった。
◆PC:加藤忍◆
「小学四年の時だったかな。あの子の方から塾に行きたいと言い出したんだ」
春夜がどういう経緯で受験をすると言い出したのか聞いた忍に、父親は目線を上げて昔を思い返しながら答えた。
「ホントかねぇ。どーせアンタ達がテストの点がどーのこーの言ったんじゃないのかい?」
「違うわ。春夜は別に成績の悪い子じゃなかったし、私達の方からまだ早いんじゃない? って言ったくらいだもの」
半眼になって言う蓮に、母親が早口で返す。『合格祈願樹』のことに関して、少なからずショックを受けたようだ。
「どーだかねー。無言のプレッシャーとか掛けてたんじゃないのかい?」
蓮はあくまでも両親が春夜に勉強を強要したと決めつけて喋る。
だが、さっきの母親の言葉は本当だろう。それにココに来てまで嘘を付く必要性がない。勿論、演技もだ。そこまでして忍と蓮を納得させようとするのは、逆に不自然というもの。いくら十年ぶりに会ったことになっているとは言え、ココまで問いつめられれば『そうよ、悪い?』と開き直ってもおかしくはない。
ソレをしないのは正直に喋ってるからだろうし、何より春夜のことを本当に心配しているからだろう。
「……確かに、あの子の負担になっていたかもしれんな」
俯き、父親が気落ちした顔で呟いた。
「ほーらご覧よ」
勝ち誇ったように、蓮が眉を上げながら高い声で言う。
「あの子が……我が儘も全く言わないから、俺達はきっと楽しんで勉強してるんだろうと思ってた。塾のテストの点が良かったらいろいろ買ってやったりもしたが、それが裏目に出てたとしたら蓮……お前の言うとおりかもしれん」
人は報酬を貰えれば、期待されているのだと思う。そして報酬がつり上がれば上がるほど、より大きく期待されていると思うのは当然だ。春夜は加速する両親の期待に応えようとした。それが春夜の負担になっていたかも知れない。
彼はそう言ったのだろう。
だがもしそうだとしても、それはあくまでも結果論であり、意図的に春夜を追いつめたわけではない。やはり春夜の両親は勉強を強要したりはしていない。彼らの言うとおり、春夜のやりたいようにやらせていただけなのだろう。
――しかし、一つだけ引っかかることがある。
「すいません。春夜君が我が儘を全く言わなくなったのはいつ頃からですか?」
「いや、俺が言うのも何なんだが、あの子はホントに良くできた子でね。実は我が儘を言ったり、ゴネたりするのを見たことがないんだ」
「ええ。私達には勿体ないくらい良い子よ」
忍の問いに、二人は口を揃えて春夜を絶賛する。
「それは、逆におかしくないですか?」
違和感が殆ど確信へと変わり、忍は声を低くして言った。
「子供は普通、もっと手間が掛かるものですよ。特に今くらいの時期には。アレが嫌いコレも嫌い、ああしたいこうしたい。程度の差は人それぞれでしょうが、もっと自分の思い通りにしたいって感情は少なからずあるはずですよ。ねぇ、蓮さん」
「ああ、その通りさ」
深く何度も頷く蓮。
少なくとも忍にとってはそれだけで説得力十分だった。
「……け、けど。素直な子がいてもおかしくないんじゃないか?」
「あの子は素直なんじゃなくて、素直すぎるのさ。何でも度を過ぎるとおかしくなっちまうもんなんだよ。自分の身になって考えてみなよ。アンタ達は親の言うことハイハイ聞いて育って来たのかい? そんな訳ないだろ。親なんていなかったらって思ったことないのかい? もっとやりたいことさせてくれって思ったことないのかい?」
一息でまくし立てる蓮の気迫に押されてか、二人とも何も返せずに黙り込む。
そして下を向いたまま、何かを思い出すように目を閉じた。
「そ、そうか……」
「全然気付かなかったわ……」
しばらくして目を開け、二人は何かに悔いるように渋面を浮かべる。
「別にあなた方が悪いわけではありませんよ。ただちょっと、春夜君に甘えていただけです」
「甘え……私達が?」
母親が意外そうに返して来た。
「そうです。春夜君は良い子です。でも蓮さんが言ったように良い子過ぎるんです。その辺りのことを理解した上で、もう一度話し合ってみればすぐに解決すると思いますよ」
◆NPC:柊春夜◆
楽しい。本当に楽しい。
こんな純粋に楽しいと思えたのは久しぶりだ。
お酢の入った袋を左手に、カラーチョークの入った箱を右手に持って、春夜は跳びはねるように次の場所へと向かっていた。
何かをやり遂げた後の充実感は、これまでもそれなりに感じ取れていた。だがそんな物とは質が違う。
これまでの充実感――それは親の喜ぶ顔を見ること。親を安心させ、笑顔で居続けさせるために、春夜は少しくらいの無理は我慢して来た。
そうしなければならないと思ったのは、春夜が小学四年に上がってすぐのことだった。
給食の時間、一緒に食べていた生徒が、本当に不愉快そうな顔で親の文句を言っていた。
『親ウゼーんだよ、ベンキョーベンキョーって』
『ホントホント、マジむかつよな。お前は出来んのかって話だよ』
『絶対、昔自分が出来なかったから、それ子供にやらせてるだけよ。サイテーじゃない?』
『柊、お前んトコはどうなんだよ』
その時、春夜はただ曖昧な笑みを返すだけで何も答えなかった。ソレを他の友達は肯定と取ったのか、春夜に同情の意を示しながら親の悪口を言い続けた。
――可哀想だと思った。
友達がではない。友達の親がだ。
自分の子供にまさかこんなことを言われているなんて、親の方は夢にも思っていないだろう。もし、今友達が楽しそうに喋ってる言葉を聞いたら、親はきっと悲しむ。
少なくとも自分の父親と母親なら、もの凄く悲しむと思う。
そんな親の顔は見たくない。いつも仲良くしていたい。
そのためには――
(僕が、『良い子』でいれば……)
もともと気が弱く、言いたいことをハッキリ言えない性格だったということもある。自分よりも相手の気持ちを優先させて、常に周りへの気配りを忘れなかった。それはせめて自分がいさかいの種になるようなことはしないでおこうという思いから。
友達に対しても、親に対しても。
勉強しろと言われたくないなら、言われる前に自分からすればいい。そうすれば親は何も言わないし、自分だって不快な思いをしなくてすむ。
ただ、ほんの少しの我慢が必要なだけ。それさえ乗り切れれば、全ては上手く行く。自分さえ耐えきることが出来れば。
そのことがキッカケで、春夜は勉強以外でも自分を押し殺すようになった。必要以上に。
新しいゲームソフトが欲しくても買ってくれとは言わなかったし、体がだるくて学校を休みたくても無理して行った。嫌いなおかずが出ても残さずに食べたし、見たいアニメがあっても親と一緒にニュースを見ていた。
とにかく親に合わせ、周りに合わせ、みんなが笑顔でいられるように努めた。
テストで良い点を取れば親は喜んでくれた、クラスで一番になればもっと喜んでくれた。
難しい私立に合格すれば、きっともっともっと喜んでくれる。
そう思って春夜は勉強に打ち込んだ。
自分のためではない。親に笑って貰うために。
――だが、今は少し違う。
『三つ葉商店街の中にある花屋さんに行き、元気良く自分の名前を言ってください』
忍からの三通目の手紙。
次はどんな問題なんだろうとかと思うと心が弾む。自然と駆け足になっていた。
走るのは好きだ。体を動かすのは大好きだ。これまで勉強を優先させてきたから、体育の授業くらいしか運動する機会がなかった。けど、こんなに気分が良いならもっとやりたい。さっきの竹馬もコレが終わったら取りに帰ろう。もう一度やってみたい。
これまで、こんな風に感じたことはなかった。頭と体を同時に使うことなどなかった。
凄く、新鮮な体験だった。
「すいませーんっ」
赤や白や紫、色とりどりの花が店先に並べられた花屋の前で、春夜は少し大きな声で言った。「はーい」と若い女性の声がして、大学生くらいの女の人が現れる。
「どのお花にしましょうか?」
「あ、あの……」
春夜は少し恥ずかしそうに口ごもりながらも、大きく息を吸い込み、意を決して言った。
「柊春夜です!」
女性店員は少し面食らったように目を丸くしていたが、すぐに何か思い出したように「ああ」と頷くと、
「ええ、話は聞いてるわ。ちょっと待ってね」
言いながら店員は店の奥に下がり、何かを持って出てきた。
渡されたのは白い厚紙のボード。片手でも持てるくらいの大きさだ。ただし何も書かれていない。
「何か『絶対に乾燥させないで下さい』とか言ってたよ。まぁウチ水いっぱい使ってるから、大丈夫だと思うんだけど……。けどキミのお父さん若いねー。結構カッコイイし。やっぱりお母さんも美人なの?」
「あ、うん。まぁ……」
適当な返事を返しながら、春夜はボードを見つめる。
(乾燥させないで、か……)
つまり乾燥させてしまうと問題が成立しないと言うことなのだろうか、それとも春夜自身が乾燥させないと意味がないと言うことなのだろうか。
ボードを傾けたりしながら見ていると、白い紙が妙な光を反射した。光った場所をよく見てみると、僅かに立体的に盛り上がっている。触れてみると、粘着質な物が指先にくっついた。
(ノリ……?)
光ったのはノリで描かれた線だった。よく見るとボードのそこかしこに引かれているようだが、殆ど完全な透明なので何が書いてあるのか分からない。
(そういうことか)
しかし春夜はすぐに閃いた。今回はヒントが露骨すぎたので考えるまでもない。
春夜はさっき砂場から掘り出した小箱を取り出し、中からピンクのチョークを一本つまみ上げる。そしてしゃがみ込み、チョークをアスファルトに擦り付け始めた。
「何してるの?」
店員が興味深げに覗き込んでくる。
「いいからいいから」
春夜は得意げになりながら、チョーク一本全てを使い切った。
擦り付けていた場所には濃いピンクの丸が描かれ、その上に同色の粉が出来ていた。
春夜はソレをつまみ上げてボードの上に撒く。まんべんなく全体に撒き終えたところでボードを傾け、余分な粉を下に落とした。
「ほら。字が出てきたでしょ」
「ホントだ」
ノリにくっついた粉だけは落ちることなくボードに留まり、文字を浮かび上がらせていた。
『次の漢字と同じ花の写真を選びなさい。
杜若 柳 竜胆 石楠花 蒲公英』
ボードにはピンクの文字でそう書かれていた。
「写真って?」
「あ、そーそー。こんなのも渡されてたのよねー。キミがソレ読めたら渡してくれって」
言いながら店員は、カウンターの下に置かれていたバケツを持ってくる。
中には様々な形をしたガラスプレートに、花の写真が貼り付けられていた。ガラスは丸い形の物から三角、四角、五角形や六角形もある。中には湾曲して、瓦のように反っている物もあった。
「ね、お姉ちゃん手伝ってあげよっか。漢字は『柳』くらいしか分かんないけど、他の花も名前言ってくれたらどれか教えてあげるよ?」
「い、いいよ、全部分かると思うから。……多分」
出来れば一人でやりたい。そちらの方が達成感がある。
漢字は全部読める。けど、花の方までは少し自信がない。
(『かきつばた』……『やなぎ』、『りんどう』『しゃくなげ』……『たんぽぽ』)
順番に読み終え、春夜はバケツの中をあさった。
『やなぎ』と『たんぽぽ』はすぐに分かった。しかし残りの三つがいまいち自信がない。選択肢が多すぎて消去法でも進められない。
しばらく悩んでいたが、コレばかりは考えてもどうにもならないので仕方なく諦めた。
「えっへへー、最初から言えばいいのに。こーの生意気なガキンチョめ」
女性の店員は嬉しそうに言いながらしゃがみ込み、バケツの中から残りの三つの花を探し始める。
(『生意気なガキンチョ』、か……)
そんなこと初めて言われた。
決して褒め言葉ではない。褒め言葉ではないのだが、妙に嬉しいのはどうしてだろう。
それにこれまでは周りに迷惑掛けないように、出来るだけ一人でやってきた。出来そうにないことがあっても、頑張って何とかやってきた。
だから誰かに教えて貰うだとか、力を借りるという経験をあまりしたことがなかった。
恐らく、いつもの自分なら本屋で図鑑を調べるか、最悪諦めていただろう。
だが今は違う。竹馬に乗った辺りからずっと昂奮しっぱなしだ。この『お遊び』を意地でもやり遂げたいと思っている。それも出来るだけ早く。次の問題が待ち遠しくてしょうがない。
頭と体を動かしたい。片方だけではダメだ。両方使いたい。
「はい、この三つだよ」
店員は残りを探し終えて、春夜に手渡してくれる。三つのガラスプレートを受け取り、春夜は照れたように頭を掻いた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。それと、はいコレ」
店員はポケットから封筒を取り出して春夜に渡す。
もはやお馴染みになってしまった忍からの手紙だ。
「キミのお父さんって凝り性なんだね。カッコ良くなかったらここまで付き合わなかったんだけど。あ、お礼はいつでも良いからって言っといて」
ちゃっかりお礼を要求してくる店員に軽く頭を下げると、春夜は商店街を後にした。
最後に指定された場所は『アンティークショップ・レン』だった。
しかし中には誰もいない。鍵も掛けずに不用心だなと思いながら、春夜は店内を見回す。目的の物はカウンターの上に置かれていた。
『蝋燭の炎を消してください』
それが忍の問題だった。
『ただしその蝋燭は特殊で、息を吹きかけたり触れたりしても消えません。ヒントはコレまでの全てを出し切ること。最後の問題です。頑張って下さい』
最後、という言葉に少し寂しさを覚えるが、同時に達成感もある。
コレをやり遂げればきっと最高の気分になれるだろう。
ココに来るまで走ってきたので息が切れているが、殆ど気にならない。疲れてもいない。それどころかやる気に満ちあふれている。
春夜は椅子に座ってカウンターの上に顔を出し、用意された物を見つめた。
それはどこにでもありそうな平凡な蝋燭だった。銀のトレイに立てられ、紅い体のてっぺんで煌々と小さな炎を燃やしているというのに、背を低くする気配はない。
手紙にあった通り、何か特別な蝋燭なのだろう。
試しに息を吹きかけてみるが揺れるだけで消えることはなかった。
(コレまでの全て、か……)
今までの傾向からすると、一つ前の問題で得た物が次の問題を解く鍵になっていた。さっき手に入れたのは五枚のガラスプレートだ。
丸い形が一つ。平板を九十度湾曲させた形が四つ。
単純にこれらを組み合わせるとすると、フタのない筒になる。
息を吹きかけずに蝋燭の火を消す方法と言えば、まず一つ思い浮かぶ。
春夜はガラスプレートを組み合わせ、蝋燭を筒でスッポリと覆った。これで中の酸素を消費しきれば火は消えるはずだ。
――普通の蝋燭ならば。
蝋燭の火は僅かに弱まったものの完全に消える様子はない。
しばらく火をじっと見ていたが、やがて春夜は持っていたお酢を取り出した。理科の教科書ではこうやって火を消す場合、下に水を引いていたことを思い出したのだ。
ガラスの筒を少し上げ、銀のトレイにお酢を注いでから置き直した。
「あ……」
火の勢いは更に弱まり、一瞬消えかける。
しかし今一歩と言うところで勢いを持ち直し、再び明るく燃え始めた。
(まさかとは思うけど……)
単純に酢だけを蝋燭に垂らしてみる。
「ぉわ!」
しかし炎は小さくなるどころか、逆に最初よりも激しく熱を放ち始めた。ガラスで炎を押しつぶそうとしたが、更に油を注ぐ結果となる。
どうやら正解から外れるほど、蝋燭の火は大きくなる仕組みらしい。
(コレまでの全て……じゃあ、後残ってるのは……)
カラーチョークだけだ。
コレを粉にして振り掛けるとでも言うのだろうか。
ガラス。チョーク。お酢。
この三つで出来ること。蝋燭の火を消すために……。
「うぅ……」
まるで視線で炎を消そうとするかのように、春夜は蝋燭を睨み付けた。
(これだけじゃ足りないのかも……)
店の中を見回して何か使えそうな物がないか探しながら、頭の中で色んな組み合わせを仕上げていく。
そうやって様々な可能性を検討していく時間は、春夜にとって至福だった。
(楽しい……凄く楽しい……)
コレまでどんな難問を解けた時にも、こんなに楽しいと思ったことはなかった。どんなに親に褒められても、今ほどの充実感は得られなかった。
理由は簡単だ。もう分かっている。
春夜は今、自分のために問題を解いている。誰のためでもない。自発的にそうしたいと思うからしている。忍が用意してくれた『お遊び』を心の底から楽しんでいる。
多分、忍は見抜いていたんだろう。自分が嫌々勉強していることを。
だから同じ頭を使うのでも、こんなに楽しい使い方があることを教えてくれた。体も一緒に使えば、もっと楽しくなると言うことを教えてくれた。
多分、言葉で言っても分からないから、忍は春夜に体感させてくれたのだ。
「あぁ!」
色んな組み合わせをしている内に、ついに蝋燭の炎が消えてしまった。
それは本当に偶然だった。
蝋燭の火に振りかけたチョークの粉。下に落ちて溜まった分を払うのが面倒臭くて、そのまま銀のトレイに酢を入れた。そしてガラスの筒を被せると、あれだけしぶとかった火はアッサリ消えてしまった。
「なんで……」
呟いた一瞬後に閃く。
化学反応だ。
チョークの成分は炭酸カルシウム。そこに酸を加えると二酸化炭素が発生する。この不燃性のガスがガラスの筒の中で充満し、蝋燭の炎を消した。
コレが答え。
下から順番に積み上げて結果を求めるだけが勉強ではない。時には先に結果を知って、その理由を考えるのも立派な勉強だ。
そんなことは学校や塾にいただけでは到底体験できない。
「おわっちゃった……」
この上ない満足感に満たされながら春夜は呟いた。そしてガラスの筒を取る。
燃え尽きた蝋燭から立ち上る黒い煙。ソレが春夜の目の前で意思を持ったかのように動き、文字を形作って行った。
『貴方が今、本当にしたいことは何ですか?』
それは忍からの最後のメッセージ。
もう春夜の心は決まっている。今のこの熱い思いを無駄にしたくない。
昂奮覚めやらぬ顔つきで春夜は店を飛び出し、全速力で家へと向かった。
家に戻ると何故か忍と蓮までいた。
だが今はそんなことどうでも良い。そりよりも今言わなければ一生伝えられないことがある。
「父さん! 母さん!」
ソファーに座って面食らった表情をしている二人の手を握り、春夜は大きな声で言った。
「僕! 歌って踊れる科学者になる!」
開いた口が塞がらない顔とは、多分こういうことを言うんだろうなと思う。だが春夜はかまわずに続けた。
「それで志望校変えるよ! いっぱい勉強できて、いっぱい体動かせるところ行くの! ねぇお願い! コレまで通り良い子でいるからいいでしょ!」
二人の腕をぶんぶん振りながら、春夜は叫ぶように言う。
両親はしばらく硬直していたが、やがて含み笑いと同時に解け、満面の笑顔で春夜の頭を撫でてくれた。
「春夜、別に良い子でいる必要はないぞ。良い子よりも、言いたいことはハッキリ言える子になれ。そっちの方が勉強も運動もきっと上手く行く」
「そうよ、春夜。別に親の言うことだからって絶対に聞かないといけない訳じゃないんだから。ちゃんと、しっかり自分の意思を持ちなさい」
二人の言葉に春夜が破顔する。
「ホント!? アリガト! 僕ぜったい頑張るよ!」
まさかこんなにすんなり認めて貰えるとは思わなかった。
何ヶ月かかっても説得するくらいの覚悟でいたのに。
「よかったじゃないか春夜。これからもその調子で我が儘いっぱい言ってやりな。そっちの方が、この親バカ共の勉強になるんだからさ」
「うん!」
後ろから掛けてくれた蓮の言葉に、親になってもまだ勉強することがあるんだと思いながら元気良く返す。
「どうやら、私の『お遊び』は楽しんでいただけたようですね」
忍の声に、春夜は親から手を離して体ごと振り向いた。
そうだ。この人だけには。この人だけにはちゃんとお礼を言わなければならない。
「あの、ホントにどうも有り難う! 今日凄く楽しかったです! 貴重な時間を僕なんかに割いて貰って本当に感謝してます!」
心からのお礼を言って、春夜は深々と頭を下げた。
「い、いやいや。そんなに喜んで貰えるなんて……はは。こちらとしても嬉しいですよ。けどホントにしっかりした――」
「ちょーっと春夜。アンタが最初に頼ってきたのはこのアタシだろー? なーんで忍にそんな熱いお礼かますのさ。相手が違うんじゃないのかい?」
忍の言葉を遮って、蓮が春夜に詰め寄る。
「え? あ、うん。勿論おばさんにも感謝してるよ」
「お、ば……」
蓮の顔が赤く、その後ろで忍の顔が青くなっていくのが分かった。
何かまずいことでも言っただろうか?
「このガキ調子に乗るんじゃないよ! まだ毛も生えそろってないクセに、一人前の……!」
「す、すいませーん! それじゃ私達はコレで失礼しますー!」
蓮を後ろから押さえつけ、忍は逃げるように玄関に向かう。
「あ、お兄ちゃん! これアリガト! ずっと大切にするよ!」
視界から消えそうになった忍に向かって、春夜は『柳』の写真が貼られたガラスプレートを振った。忍はソレを見て優しく微笑むと、暴れる蓮を強引に外へと連れ出して行く。バタン! と大きな音と共に玄関の扉が閉まり、リビングには元の静けさが戻った。
「何か、台風が過ぎた後みたいね」
母親が苦笑しながら言う。
「ま、何はともあれ元気が一番だな。お前もしっかり体動かして頑丈に育てよ」
「うん」
父親の言葉に春夜は笑顔で頷く。
その視界の隅で、『合格祈願樹』が新しい芽を覗かせていた。
◆エピローグ◆
忍は自室で鏡を見ながら傷の手当てをしていた。
さっきは本当に酷い目にあった。
元々この件に協力したのは、春夜の本心を見誤ったことに対する自分への戒めと、蓮へのお詫びの意味を込めてだったのだが、まさか最後の最後でこんな酷い目にあうとは。
(やはり、素直なのは今風ではないのかもな……)
綿棒に消毒液を付け、蓮に引っかかれた傷跡に沿わせて塗っていく。
治療の痛みに顔を歪めながらも、忍は最後に春夜が見せた写真を追い出して笑みを浮かべた。
忍は春夜に頭と体を同時に動かすことの楽しさを知って貰うために手間を掛けた。そのことを感じて貰えれば、取りあえず十分だった。しかし、春夜はさらに隠していた忍の自己満足とも言うべき意味にも気付いてくれた。
漢字問題で読みの難しい花の中に『柳』を入れたのはわざとだ。それだけ印象に残りやすいように、わざと易しい文字を配置しておいた。
柳の花言葉。それは――『率直、自由、思いのまま』
少し前の春夜には致命的に欠如し、今の春夜には有り余っている精神。
(ま、そこまで感じ取ってくれたなら、手間を掛けたかいがあると言うもの……)
コレなら何の心配もない。
最後、言葉で伝えようかと思ったがその必要はなかった。
(春夜君。貴方の楽しそうな姿こそが、ご両親にとっては一番の喜びですよ)
言葉では伝わらない想いがある。
何も言わないからこそ伝わる想いもある。
一見遠回しに見えて、実は最も効果のある手法。それを巧みに行うのが、義賊・加藤忍の仕事スタイル。
(紳士を続けるのも楽じゃない)
そんなことを思いながら、蓮の機嫌の直すために地下のワインセラーへと下りる忍だった。
【終】
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【5745/加藤・忍(かとう・しのぶ)/男/25歳/泥棒】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、加藤様。『あなたは『お受験』賛成派? 反対派?』を納品させていただきます。
加藤様のプレイングに『遺跡発掘』とあったので最初どこに行こうかと考えていたのですが、なかなか受験勉強を楽しくするという方向に結びつかず、結局今回のような問題出題の形を取らせていただきました。ご注文通り各問題には役割やメッセージ性を持たせてみたのですが、いかがでしたでしょうか。
さて、この作品を最後にしばらく窓を凍結いたします。
また戻ってくる機会があればお会いしましょう。ではでは。
飛乃剣弥 2006年11月12日
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