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神性の威を借るヒトビト
彼のその日は、白い壁の病院にいる夢から始まった。この白い奇妙な夢を、宇奈月慎一郎はたびたび見るのだ。しかし最近はその夢を心待ちにしている節もあった。彼にとってその夢はお告げのようなものだ。白い壁の病院の夢から始まる一日は、どこか異様で、どこか楽しく、充実したものになるからだ。
夢で、壁の中から湧き出た極彩色の泡が、ふつふつと慎一郎にささやきかけた。
泡が何を言っていたのか、よく覚えていない――
「ザイウェソ ウェカト・ケオソ クスネウェ=ルロム・クセウェラトル」
おや、覚えていた。
慎一郎は上機嫌で、謎の呪文を口ずさみながら、神田の古書店めぐりをしていた。ぶつぶつと夢のお告げを垂れ流す慎一郎にも、古書店の主人たちはさして警戒しない。いつもの客のいつもの行動だからだ。店主の中には、「今日は宇奈月さんはとても機嫌がいいらしい」と目を細める者もいた。
機嫌のいい慎一郎は払いがいい。
しかしいささか調子に乗りすぎた。非力なのにも関わらず、妖しい分厚い古い書物を3冊も買ってしまったのだ。彼が容易に持ち運べる本の冊数は2冊までである。
「ハ、ハガトウォス・ヤキロス……ガ、ガバ・シュブ=ニグラス。い、いあいあいいい」
3冊もの古書(たった3冊の古書とも言う)をよろよろと持ち運ぶうち、日は傾き、すっかり沈んだ。宇奈月慎一郎は、暗くなってもまだ帰路の途中だった。長い髪は朝の見る影もないほどに乱れ、眼鏡は曇り、息は火のようだった。しかしそれでも、夢のお告げ(謎の呪文とも言う)を口ずさむのは忘れない。
「おおおおお……、お、おおお、おでん!」
だがそのとき風に乗ってきただしの匂いを嗅いで、慎一郎の顔はぱっと子供のように輝いた。一瞬で髪はつやつやストレートに戻り、眼鏡の曇りはとれ、息もさわやかリフレッシュ! 3冊の分厚い本を軽々と振り回しながら、慎一郎は駅前のおでん屋台まで猛ダッシュしていた。
「おでん・デンデンデンデデンデン!」
「うッ!」
脇目も振らず盲目の衝動のままに走りつづけた慎一郎は、たまたま通りがかった灰色の男と激突した。紳士は二歩ほどよろめき、慎一郎は二メートルほど吹っ飛んだ。
「ああわわわ、すみません! ごめんなさい、失礼しました!」
「いえ、こちらこそ」
わずかな英語訛りの返事に、慎一郎は尻餅をついた体勢のまま、ぶつかってしまった人物を見上げた。
灰の髪、灰の目、灰のスーツ。アメリカ人かもしれないがヨーロッパ人かもしれない。ともかく日本人ではない。見たかぎりでは不健康そうで、いかにも引き篭もりっぽくて、根暗そうで体格は慎一郎よりも痩せぎすだ。しかし、慎一郎のダッシュアタックを食らってもあまりダメージを受けていないようだった。この灰色紳士は何者だろう。そもそも紳士は立ち去ろうとせず、慎一郎の顔を見てぎょっとしているようだった。
そのとき、白い壁から沸いて出てきた泡が、慎一郎に耳打ちしたかもしれなかった。
「あなたはウナズキ・シンイチロウさんですね」
「そういうあなたはパ=ド=ドゥ=ララ」
慎一郎に名乗りの先を越された紳士は、うっと言葉を詰まらせ、慌てたように目をそらした。
「……いえ、わたしはそのような名前では――」
「いえ、あなたはパ=ドゥさん。そう言えとささやくのですよ、僕の中の泡のようなものが。ここでこうして激突したのも何かの縁です。袖すり合うも多少の縁です。おでんでもご一緒に」
「……袖振り合うも他生の縁、ですね」
「いやあ、苗字を先にしてくれたりことわざを知ってたり、さすがは稀代のうっかり魔術師さんです! 僕がおごりますから、さあさあさあ」
灰色紳士はまだ自分の名はパ=ド=ドゥ=ララではないととても迷惑そうな顔で言い張っていたが、慎一郎には聞こえなかった。ただ聞こえてくるのは、夢の中の泡がささやく言葉。
この男は魔術師。魂を失ったイギリス人の身体に入り込んでいる。ドジで浅はかな魔術師の名簿とも言うべき、『黒の目録』に名を連ねるうっかり魔術師。大昔はかなりの実力者であったものの、今ではそのうっかりに拍車がかかっていて、さらには魔力も失ってしまい、ただのマニアックな知識人に成り下がってしまったのだ。
「大根ください。はんぺんください。ちくわください。さえずりください。玉子ください。がんもどきください。イモください。大根ください。ビールください」
「……大根2個でいいんだな。お客さん、いちいち『ください』つけなくていいよ。それにさえずりなんてェ高級品、うちにはねぇよ。で、そこのガイジンさんは?」
「同じもので結構です」
「さえずりはねぇぞ」
どでん、とふたりの魔術師の前におでんの定番が置かれた。
「ところでパさん、どうして僕の名前をご存知だったんですか?」
「ある意味有名ですから」
「無理しなくてもいいんですよ、パさん。あなた自身の言葉でどうぞ。ほんとはもっと魔術師らしい話し方するんでしょう?」
「その『パ』をやめんか」
「あ、認めてくれました。やっぱりあなたはうっかり魔術師のパ=ドゥさん!」
「『うっかり』もやめろ」
悪気のない慎一郎の言葉はかえって残酷だ。灰色の魔術師はむっつりとおでんを口に運んでいる。正しい箸の使い方だが、割り箸の割り方は失敗していた。
「でも仕方ないじゃないですか、事実ですし。召喚呪文の文句をうっかり間違えるなんて! その点僕はパソコンに一字一句あやまたず入力してますから失敗もほとんどありません。僕に言わせたら、世の中の召喚師はみんなうっかりさんなんですけどねぇ」
「からくりを使うなど邪道だ」
「仕える道具を駆使しているだけですよ。パ=ドゥさんも儀式に道具を使うでしょう? 円月刀とかお香とか」
「呪文を唱えるのはこの口だ。――それ以上儂を侮るならば呪いをかけるぞ!」
「ああ……、どうぞご自由に」
灰色魔術師の目は、ぎらりと紫色に輝いた。彼が呪文を唱えたような気がする。だが慎一郎はマイペースに、おでんを楽しんでいた。
うっかり魔術師が、ぱちんと指を鳴らす。
「べふ!」
慎一郎は次の瞬間、激しくむせて大根を吐き出した。大根のかけらは屋台のおでん鍋の中に飛び込んだ。
「おい、あんた!」
屋台のおやじが一瞬で恐ろしい形相で変わり、雷鳴のような怒鳴り声を上げ、慎一郎は万札をばらまきながらほうほうのていで逃げ出した。なぜか灰色の魔術師も便乗して逃げてきた。慎一郎の後ろで、パ=ド=ドゥ=ララは不敵に笑っている。
「な、なんて非人道的な呪いをかけるんですかぁ! おでんの大根のアクを通常の20倍にするなんて!」
「クククククク」
「これだから魔術師とか召喚師はイヤなんですよ、陰険でぇ!」
説明しよう! おでんの大根のアクを通常の○倍にする呪いは非常に初歩的なもので、魔力が底をついていてもそれなりの効果が期待できるのだ。熟練の魔術師ならば通常の6万倍までアクを強くすることができるという。この呪いは丹念にアク抜きをした大根にもかけることができるのだ。(おでん好きにとっては)実に恐ろしい呪詛である! なお、日本発祥のこの呪いをなぜルーマニアの魔術師が知っているかは聞かないでほしい。
「どうした、格下のうっかり者にここまでされても報復せぬのか! 腰抜けめ、それでも陰険な召喚師か!」
「僕はけっして陰険じゃないです、サワヤカ召喚師ですぅ!」
「何か喚んでみせるがいい! 貴様のはらわたの中にある大根にも呪いをかけてやる。サワヤカに喚んで助けを求めるがいい、この(ピーーー)めがッ!」
「あわわわ、ええとええとええとええと――」
仕方なく慎一郎は携えていたノートブックを取り出し、適当に召喚呪文を開いた。魔術合戦などに興味はない。どうしてケンカしなければなせないのか、慎一郎にはわからない。それにしても灰色の魔術師が執拗に追いかけてきている理由は相変わらず謎である。
ザイウェソ ウェカト・ケオソ クスネウェ=ルロム・クセウェラトル――
その圧縮された詠唱が、魔術師には聞こえたらしい。ざうっ、と砂埃を上げながら、パ=ドゥは足を止めた。
ハガトウォス・ヤキロス ガバ・シュブ=ニグラス!
「……何ということを! 貴様『鍵』を……、『門』を!」
泡。
白い壁から泡が噴き出す。ごぶごぶごぼげぼ、泡が世界を破壊する。虹色の泡。宇奈月慎一郎にささやく虹色の泡。あわあわあわ、泡は増えて大きくなって、地球などすっぽり飲み込んでしまった。たぶん勝負は慎一郎の勝ち!
「おでん」
古い3冊の分厚い書物――今日の戦利品を抱えて、宇奈月慎一郎はにこにこしながら寝言を言った。
白い壁が彼を取り囲んでいる。
〈了〉
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