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もの言う供物
四位いづるにとって、その出会いはある意味、人生の転機であった。しかし人生に、転機というものは大小取り混ぜると無数にあるもの。ひとの一生と運命は、変化によって織り成されていく。いづるはその転機が、訪れるべくして訪れたものだとはあまり考えたくなかった。
それは、漆黒の盲導犬を連れた盲目の少女だ。
「まさか、ここまでひとりで?」
「この子がいますから」
いづるの問診に、少女は黒い犬を撫でながら、か細い声で答えた。彼女は、数年前に突然光を失ったのだという。あちこちの眼科にかかってみても、病名はおろか、原因さえもわからないらしい。
いづるはカルテからおとなしく「伏せ」をしている盲導犬に目を移した。
失明してから家族が少女に与えたという黒犬。盲導犬と言えばラブラドル・レトリーバーが一般的だ。この黒犬は違った。あまり美しい犬ではなく、むしろ不気味で、爛々と輝く青い目は、まるでいづるの心の底を見透かしているかのようだ。
「いろんな病院をまわられたんでしょう? 最終的にうちみたいな小さな病院を選んだのはどうしてです? 紹介状もお持ちではないようだし」
「噂を……」
少女はうつむき加減の顔に、うっすらと笑みを浮かべた。
「四位先生なら、どんな病気でも治してくれるって……」
まるで少女の目のかわりを務めるかのように、犬はじっといづるを見据えていた。
結論から言うと、少女の目は、病や先天的な理由によって光を失ったわけではなかった。都内の専門医が原因を突き止められなかったのも無理はない。
いづるは何でも治せる名医というわけではなかった。だが、大概の病の正体を見抜く力があるのは確かで、人が持つ『生きようとする力』の方向を変えるという力を持っていることも確かだ。彼女はその目と力で、これまでに多くの人間を救ってきた。
――でも、私は神さんやない。
古いすりガラスの向こうの光にぼんやりと目を向けて、いづるは小さくため息をついた。
彼女は、自分を頼ってきた人間をすべて救えたわけではなかったし、件の少女を救える自信もなかったのだ。
少女の身体の状態を、いづるは『見た』。どこにも異常がないように見えたのが異常である。彼女は健康で、そのあたりを杖や盲導犬なしで歩いている人間と何も変わりないように『見えた』のだ。
いづるは知っている。あの少女のように、健康であるにもかかわらず、身体に異常をきたす人間がまれにいることを。そして、そんな不可解な不調には、往々にして超自然的な要素が絡んでいるということも――。
次に四位いづるを訪れた転機は、リチャード・レイという男だった。
彼は患者としてではなく、助言者、そして協力者としていづるを訪ねてきた。灰の髪に灰の目、灰のスーツの白人で、少しばかりいづるは面食らった。外国人を初めて見たわけではない。――ただ、彼のような身体を持つ人間は、初めて見た。
――死人やわ。身体が死んどる。なのに……。
リチャード・レイの心臓は動き、脳は目覚めていて、体温もある。奇妙で、異常な人間だ。立て続けに不可解なものに出くわして、いづるは面食らってしまった。
「先日こちらにいらした若い女性について、僭越ながら、ご忠告がございます」
「はあ」
「医師に課せられた守秘義務については重々承知しております。ですから、私は質問はいたしません。ドクター・シイ、私が一方的にあなたに忠告をするのです」
レイは耳に快い声で淡々と話し、手にしていたファイルから資料を1枚抜き取って、いづるに渡した。
それは引き伸ばされた写真だった。そこに焼きつけられているのは、異様な祭壇だ。いくつもある彫像は生物や人型を模してはおらず、ねじ曲がったガスの塊や、触手の集合体にしか見えなかった。壁には黒ずんだ文字がびっしりと書き込まれている。
「その祭壇と同じものが、女性の実家で確認されました。彼女の家には異常な風習があります。恐らくご存知ではないでしょうが――それは、ナイアーラトテップという邪神を祀った祭壇です。ナイアーラトテップは、盲目にして白痴の神アザトースに仕えています」
盲目。
ぎくりとして、いづるは写真からレイに目を移す。
「彼女に深入りなさらないほうがよろしいでしょう。危険です」
「私に言わせたら、あなたも危険ですよ、レイさん」
「そうでしょうね。確かに」
いづるの皮肉を受けても、レイは真顔だった。
「……どうして私に、こんなことを?」
「失礼ですが、あなたの情報を持っています。……あなたなら、深入りしそうだと思いましてね」
本当に失礼な客だ。自覚しているだけましなのか、自覚しているから逆にたちが悪いのか。いづるの口元には、思わず薄い苦笑いが浮かんだ。
「彼女は私の患者です。私を頼ってきてくれたのだから、助けなければ」
「そうですか――」
レイは落胆したような、しかし覚悟はしていたような、複雑なため息をつく。伏せられたその目は、ふと何かを注視した。
いづるはその視線につられた。レイが見ているものは、足跡だ。件の少女が連れてきた、黒い盲導犬の――。
いづるははっと息を呑み、レイの顔を見た。彼女が見た足跡、レイが見ている足跡は、犬のものではなかったのだ。見慣れた肉球の姿ではなく、歪んだ、未知の獣の足跡だ。
「……彼女は、盲導犬や、て……」
思わずレイにもたらしたいづるの言葉は、関西の言葉になってしまっていた。
レイは張り詰めた表情で、足跡から目を離すと、さっと踵を返した。彼は挨拶もなしに行ってしまう気だ。つくづく失礼な男である。
「待って。あの子んとこに行かはる気ですね」
「まだ間に合うかもしれません」
「あなた、人には『危険だから手を引け』言うて、自分だけ危のう橋渡るんですか。私も行きます」
「……それでは、私が忠告しに来た意味が――」
「あなたは私に頼みに来はった、そう言うことにしといて下さい。『協力してほしい』、て。どうです? それなら、意味あるでしょう?」
いづるは白衣を脱ぎ、白いコートを羽織った。レイは最早何も言わない。ふたりは四之宮医院を出た。犬らしき怪物の足跡は、まるで道にこびりついているようだった――それを辿れば、迷わず彼女のもとに行き着けそうだ。
「彼女の血族には、十数年に一度、10代で突然失明する方が現れるそうです。……医学的観点から、彼女の失明の原因に見当はつきますか」
「いいえ、残念ながら」
「……報告によれば彼女のような失明者は、アザトースに見立てられ、生贄として捧げられるそうです」
「この平成の時代に生贄の儀式ですか」
「昭和の時代にも行っていたでしょう」
「……レイさん、日本に詳しいですねえ」
「はあ?」
「平成だとか昭和というのが何なのか、知ってる外国人さんはそういませんよ」
「……ああ、そうかもしれませんね」
レイが初めて、うっすらと笑った。
笑っている場合ではないことはわかっていたが、いづるも小さく笑みを返した。
犬!
突然だった。本当に突然、そう、閑静な郊外にぽつんと佇む家の門にさしかかったときだ、犬が、あの黒い犬のようなものが、突進してきた。レイはまともにその突進を受けた。いや、しづるをかばったのかもしれない。だがともかく、レイはしづるの後方まで吹っ飛んで倒れた。
犬によく似た異形は、鈍色の涎と唸り声をこぼしながらいづるを睨みつけた。その目は、相変わらず不気味な青だ。
この犬は番犬である。レイの言うことが正しいのなら、この犬は、少女を供物にするために少女を守っているのだ。少女を儀式の日まで守りぬくために、あらゆるところへ彼女を連れて行く。彼女を奪おうとするものを退ける。一見、盲導犬よりも尊い忠犬だ。だがかれはちがう。かれは彼女を死に追いやるためにここにいる。そしてそもそも、『犬』ではない。
レイが落としたファイルの中から、1枚の写真がはみ出していた。いづるには見せなかった写真だ。それはどす黒い血に染まった例の祭壇だった。祭りのあと――そう、儀式のあとを写したもの。血だけではない、そこには臓物もあったし、恐怖もあった。おおよそ正気の人間がやることではない。それに、血や死を望む神がいてたまるものか。
「……!!」
『見えた』!
この犬は神ではない。死に至る急所がある。
「レイさん、あの子を!」
レイが無事であることもいづるには見えている。彼女はコートの袖に仕込んでいた針を持った。犬らしきものは向かってきていた。いづるは自分の目を信じ、針を突く。怪物の急所が、針によって貫かれるところも、彼女はしっかり見届けた。
盲目の少女は保護された。リチャード・レイは、ある組織をバックにしているらしい。理不尽な神や怪物から人類を護ろうと、ささやかに努力している秘密結社だ。少女はその組織の世話になることになった。本当に安全になったわけではないし、これで彼女の目に光が戻るわけでもない。だが、最初の危機はまぬがれたはずだと、いづるは前向きに考えようとした。
彼女を護りたい。彼女のような存在がまだこの世界にいるのだとしたら、その人々もまとめて護りたい。
「……」
――私ひとりで、護りきれるわけない。私は、神さんやない……。
「ドクター・シイ」
うつむくいづるのそばに、リチャード・レイが歩み寄ってきた。彼は大した怪我もなかったようだ――相変わらず、その身体は死んでいるのだが。
「ご協力、ありがとうございました」
「いづる、でええですよ、レイさん。……その、またこういうお手伝いできたらええな、って思てます。気軽に声かけてください。喜んでまた協力します」
「……そうですか。……助かります」
はじめは、いづるに危険をしらせに来たはずの彼だった。レイはいま、いづるの申し出に、ほっとしたようにして微笑んでいる。彼の手がそっと差し出され、いづるはそれを握り返した。
彼の手は、死んでいるのに、温かかった。
〈了〉
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