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<東京怪談ノベル(シングル)>


よくばりなノアール



 その軽さ、まさに鴉の羽根一枚の如く。
 その漆黒もまた、鴉の羽根のものなれば。
 光のもとにさらしても、その漆黒は揺るがない。ビロードが浮かべる艶めかしい光沢も、そこにはない。あるのはただ、うねる黒。黒色の中に、黒色の艶。
 レイリー・クロウはうっとりと目を細め、漆黒に舐めるような視線を這わせている。その視線と仕種は、まるで女を愛でているかのよう。だが彼が見つめながら撫でているのは、毛皮にすぎなかった。
 毛皮である――アンゴラでもない、ミンクでもない。この毛皮がまとう匂いは、ありきたりな獣臭ではない。血、死、腐敗、背徳の香り。ねっとりと鼻腔や思考に絡みつくこの匂いもまた、レイリー・クロウのお気に入りだ。
 これにひとめ惚れして、金と宝石を積み、レイリーは毛皮を手に入れた。
 毛皮は一体、これまでにいくつの命を奪ってきたのだろう。レイリーが息を呑むほどの美しさは、欲望と快楽に溺れた人間の命と引き換えに手に入れたもの。彼にはわかるのだ。彼の目をごまかすことはできない。
 彼は毛皮を大事に抱えて自宅に戻った。どことも知れぬ郊外に建つ、廃屋と見まがいそうな屋敷だ。
「――戻りましたよ、皆々様」
 レイリー・クロウは大仰な扉を開け、大仰な挨拶を呟いた。彼は大勢に挨拶をしたようだったが、この屋敷にはメイドがいるわけでもなく、彼の家族がいるわけでもない。ひんやりとした沈黙の中、声のないざわめきが床を這い、虚空をただよっているのは確かだった。まるで、気配を持たない無数の観客が、幕が上がる瞬間を待っているかのような――さざめき、ざわめき。
「おや、貴方も胸が高鳴りますか」
 抱えてきた『新入り』の毛皮に、レイリーはくすりと笑いかける。毛皮は答えない。
 館の主人は、毛皮を撫でながら二階に上がり、奥の一室に入った。
 アンティークランプの灯が、ぼんやりとレイリーのコレクションを照らしだす。ランプの中の火は、ひとりでに生まれていた。火はまるで情熱の視線のようだ。じっと主を見つめている。
 レイリーは雑然と置かれている品々に、笑みながら声をかけていった。彼に声をかけられた光り物や骨董品は、喜びに打ち震えているようにも見える。そして、羨望と訝しげな眼差しを、彼の手中の『新入り』に向けているのだった。
「おお。皆さん、この方が気になりますか。失礼しました――今日から皆さんと同じ、私の所有物となる、曰くつきの毛皮ですよ。……仲良くしてください、と言うのは、無理難題でしょうかねぇ」
 古参のコレクションに流し目をくれながら、レイリーは毛皮を首に巻いた。しっとりとした感触が、彼の首を包みこむ。しかし、それは少しも温かくはなく、相変わらずの背徳的な香りを放っていた。
 レイリーは口を閉ざし、首を傾げ、片眉をはね上げた。
 獣の唸り声が聞こえたような気がする。


 それから、レイリー・クロウはまたいつもの日常に戻っていった。屋敷にはあまり戻らず、紳士と鴉の姿と生活をつづけた。屋敷から連れだしてきた宝飾品や骨董品をマントや羽根の中にしのばせ、人の欲望を辿り、喰らいつづけた。それが彼の日常というもの。彼が屋敷に戻るのは、本当に気が向いたときだけだ。1年以上戻らなかったこともある。
 しかし彼は気づいていた。たまに戻るたび、屋敷の中の様子が少しずつ変わっているのだ。誰かが盗みに入ったわけではなさそうだが、何かが――消えて、なくなっていっている。聞こえてくるのは、獣じみた声と息吹。
 レイリーはその奇妙な変化をも楽しんだ。だからこそ、いつもどおりに、あまり屋敷には戻らずにいたのかもしれない。
 今度帰ったときには、屋敷がどう変わっているのか。帰ることが楽しみになるのは、久しぶりだった。


 そして彼は、ある夜、一週間ぶりに屋敷に戻ってみた――。
「……」
 また、変わっている。ごろごろ、ぐるぐると……獣が唸っていた。
 虚ろだ。空気さえもなくなっているような気がする。ぽっかりと開いた穴に、無色の樹脂を詰めて、表面のかたちだけは取り繕われているようだが――レイリー・クロウの感覚をごまかすことはできない。何かが奪われ、何かが我が物顔で居座っている。
 凡庸な蒐集家であれば、怒り狂いながらその原因を突きとめようとするだろうか。だが、この屋敷の主はレイリー・クロウ。化け鴉。貪欲の大罪そのもの。彼は薄ら笑いを浮かべて二階に上がる。
 コレクションルームに入っても、アンティークランプの灯はともらなかった。
 レイリーを追う視線もまばらだ。空気は冷め、ある種の生気を失っている。方々から集められた曰くつきの品々は、主が誰であるかを忘れてしまっている。
「……驚きました。ここまで貪欲な方をお連れしたとは。さて……、どなたでしょうかねぇ、私をここまで驚かせ、楽しませてくださったのは? 多くの方々を糧にされたのは?」
 ぐるるるる。
 答えは獣の唸り声。
 レイリー・クロウの笑みが、残酷なほどに大きくなった。彼は犯人を探しているような素振りと台詞回しであれながら、すでに知っているのである。
 そう、初めから知っていた。
 何がこの屋敷の気配を殺していっているのか、何が空気を変えていっているのかを。
 コレクションがもの言う存在であったならば、主を非難していただろうか。変化を楽しむために、蹂躙者を放逐していたレイリー・クロウを!
「貴方ですね。そう……貴方です」
 レイリーは音も立てずに歩き、優雅な仕種で、漆黒の毛皮を手に取った。
「美しい……」
 実に、美しい!
 レイリー・クロウは、ただ一言そう呟くのもやっとだった。毛皮の美しさは、もはや息を呑むほどだ。この唸る毛皮が、レイリーのコレクションから生気や怨念を喰らっていたのである。そうして喰らうたびに、毛皮の黒い光沢は深みや艶を増していった。毛皮ははなからひどく美しかった――レイリー・クロウを魅了したのだから、その美は本物である。しかしその当初の美しささえ、今現在の美貌に比べるべくもない。
 コレクションルームに保管されていたものは、すべてが人を殺すほどの曰くを持っていた。だが、そんな名だたる精鋭も、黒の毛皮にはかなわなかったのである。謎の獣の毛皮は、何もかもを喰らおうとしていた。恐らく人間が身につけたならば、ほとんど一瞬で魂を喰らいつくされてしまうのではないだろうか。
 がるるるる、ぐろろろろ。
 涎を垂らさんばかりの唸り声は、主すらも糧にと欲している。
 それを知りながら、レイリーは微笑んでいる。それどころか、彼は毛皮をまた首に巻いた。寒々とした温もりは氷のようで、いらつく獣は咆哮する。レイリーの首筋に牙を立て、漆黒の欲望や大罪を喰おうとした。
「……素晴らしい」
 天井をあおぐように、獣に喉を差し出すように、レイリー・クロウは顔を真上に向けた。金の瞳はうっとりと閉ざされ、笑む唇の間から、艶めかしいため息が漏れる。
 レイリーは喰われず、かわりに、部屋に詰めこまれた品々が死んでいった。逃げまどうもむなしく捕らえられ、牙にかかって、飲みこまれていく。アンティークランプのガラスが音を立てて割れた。熊のぬいぐるみの目が弾ける。人形は白目を剥き、ダイヤモンドが砕けた。
 しかし、レイリーだけは相変わらず、恍惚とした表情のまま、毛皮とともに立っている。そのうち、獣はあえぎ始めた。どれだけ強く顎に力をこめても、レイリーの首に牙が立たない。疲れ果てた毛皮の漆黒の美貌は、目に見えて色褪せ始めた。
「おや! おやおや、これはいけません。少し調子に乗りすぎました」
 はっと我に返ったレイリーが、くたびれた毛皮を首から剥がす。
「もう終わりですか? フフフ、まだまだその程度なのですねぇ。うっかり私が貴方を喰べてしまうところでした。しかし……主にすら牙を剥く、貴方の本性……実に素晴らしい。もちろん、その美しさも」
 レイリーは喉の奥で笑いながら、毛皮に頬ずりをした。
「これから季節は冬になります。貴方にふさわしい季節です。……私とともに参りましょうか。私とともにあれば、貴方は餓えずにすむでしょう。貴方の糧は、私の糧でもあるのですからねぇ。その美しさは、私とともにあるかぎり、不滅となるのです。いかがでしょう?」
 毛皮は飼い慣らされることに、あまりいい気持ちはしていないようだったが――今は黙って、じっと、主の顔色をうかがっている。
 レイリー・クロウは、その視線も知っていた。彼は微笑みながら再び毛皮を首に巻き、空虚となった部屋を横切っていく。
 抜け殻と化した宝石が床に転がっていたが、レイリー・クロウはそれを踏みつけていった。
 そしてまた、しばらく屋敷には戻らなかった。




〈了〉